ピアノの音
それを言わずにいるには、どれほど強く在らねばならないのだろう。
真冬の小雨降りしきる寒い日だった。
隆一さんと偶然に外で会ったのは。
◻︎◻︎◻︎メトロノーム◻︎ ◻︎ ◻︎
仕事の帰り。
スタジオで今日の作業を終えて、マネージャーの車で帰路につく。
途中でちょっと買い物したいからと、夕方の街角で降ろしてもらってマネージャーとはそこで別れた。
「…小雨だ」
冷えるはず。
広げた折りたたみ傘の表面はすぐにしっとり濡れて雫を落とす。
朝はそこそこ晴れていたからスウェードの靴を履いてきてしまった。
早々に用事を終えて家に帰ろう。
傘をさしていると俯きがちになるのが良くないなと、横断歩道の赤信号で止まったのを機に顔を上げる。
午後になって降り出した雨。
傘をさしている人、いない人。
まだ本降りではないから今のうちに帰宅をと道を急ぐ人。
僕はそんな人々をぼんやり眺めながら信号が変わるのを待った。
「ーーーーーぇ、?」
そんな僕の視界を横切った人影。
車道を挟んだ向こう側の歩道。
白く烟る雨空の下で、そこだけ色彩がのったみたいに鮮やかに見えて、僕の目はその姿を捉えて追いかけた。
見た事がある…。じゃなくて、知っている横顔。
立ち止まっている僕の前を、横顔を見せながら。そして斜め後ろ…やがて背を向けて進んでゆくその姿は人波に混じって消えた。
「…っ」
パッと、信号が青に変わる。
僕は今か今かと急く気持ちのまま駆け出した。
「すみません、」
傘をさしながら人波をわけて進む。
すれ違う度に傘同士がぶつかって、互いに挨拶しながら通りを急ぐ。
見えなくなった後ろ姿。
…そのひとは傘を持っていただろうか?
雨足が少し強まった気がする。
早く。
何故だろう?
ひどく焦燥感に駆られる。
一秒でも早くそこへ辿り着かなければと思う。
何故だろう?
僕の知っているあのひとは、とても強いひとなのに。
どんな困難だってひとりで昇華してしまえるひとだと思うのに。
優雅な物腰で、優しい微笑みで。
〝あれ?どうしたの?葉山っち!ーーーすごい偶然だね〟
今日だって、今だって。
きっといつもと同じはず……ーーーーーー
「ーーーーーっ…り…」
「…隆一さん、!」
ようやくその後ろ姿に声をかけられたのは、大通りから少し逸れた道に差し掛かった頃だった。
僕が外で誰かに声を掛けるにしては随分大きな声で。
人違いだったらかなり恥ずかしいけれど。
…でも、間違うはずないんだ。
だってもうずっと、見てきたから。
ステージで、スタジオで、プライベートで。
きらきら光を振り撒くような、あなたの姿を。
「ーーー…隆一さん」
「…は…ゃ…?」
もう一度呼ぶと、隆一さんはゆっくり振り向いてくれた。
あぁ、雨に濡れている。
やっぱり傘を持っていなかったんだ。
白っぽいコートを着る彼は、その明るい色彩で遠目にはふんわりあたたかそうに見えるけれど。
こうして側に来ると、黒髪も肌も濡れて。肩の辺りも雨をかぶって。
僕の突然の登場に目を丸くする様子も…
ーーーーー様子も…?
「…ぇ、」
見間違いかと思った。
それか、雨の雫なのかとも思った。
だって見開かれた隆一さんの目は潤んでいて。
涙のあとが…頬に残って。
一度瞬いたあとに滴がぽつんと落ちて。
僕は知らない。
こんなに綺麗な涙、見たことがない。
「ーーーーー…はや…ま…っ…ち…」
「ーーーりゅ…」
僕の名前を呼んでくれた声は。
聞いたことがないほどに頼り無かった。
ざあああ。
彼は今あたたかい雨にうたれている。
…あたたかい雨って、つまりはシャワーを浴びてる最中で。
街で出会った隆一さんはぼんやりしていて、濡れて冷えている事にも頓着していない風で。
極めつけに涙を溢していて。
そんな隆一さんに僕の方が心配になってしまって。
タクシー呼びますよって言ったら、こんななりじゃ乗れないって緩く首を振るばかり。
じゃあ僕の傘を貸しますって言ったら、それじゃ葉山っちが濡れちゃうって頑として受け取らない。
これから帰るところですか?と聞くと、多分…。なんて言う。
やっぱり、いつもと様子が違う。
こんなゆらゆら弱々しくてめそめそ頼りなさげな隆一さんは初めてだ。
ここに置いて帰るわけにいかない。
そう思った僕は半ば強引に隆一さんの腕を掴んで、ぐいぐい引っ張って自分の部屋に連れ帰ったんだ。
「…って。ほんとによかったのかな…」
リビングで独り言。
隆一さんをこんな風に連れて来て。
もちろん心配だったからで、風邪もひいたら困るし…っていうのもあったけれど。
もっと良い選択もあったんじゃないかと、今更ぐるぐる悩み出す。
ーーーそう、もっと良い選択。
なんといっても泣いていたんだ。
滅多に泣かないひとが泣くというのは、どうにも側にいる人間は狼狽えてしまう。
こんな時に隆一さんの側にいるべきは僕じゃなく、彼だろう。
彼…イノランさんのところへ行った方がいいんじゃないか…
だってふたりは…繋がれているから。
直接聞いた訳じゃないけれど、一緒にいればわかる。
隆一さんを見つめるイノランさんの優しい眼差しと。
イノランさんを呼ぶ隆一さんの甘い声音で。
ふたりは深い想いで結ばれていると、僕は知っていた。
(隆一さんがシャワーから出たら何か軽食でも出してあげて…。食べてもらっている間に隆一さんのコートも乾くだろうから傘も用意して。ひと心地ついた頃イノランさんに連絡して…って)
こんな感じが今からできる最適な対応じゃないだろうか。
もし仮にイノランさんがすぐに来られない時は、それまでここで隆一さんに滞在してもらえばいい。
迎えに来たイノランさんに、隆一さんを託せばいい。
「ーーーーー…」
ツキン。
不意に胸の奥が痛んだ。
針が刺さったみたいな。
…でも僕は、その原因に心当たりがある。
自分じゃないのが、もどかしい。
こんな時、隆一さんの側にいていいのは僕じゃない。
守って、癒やして、慰さめて。
そうしたい気持ちに蓋をして。
隆一さんを愛する彼に託す。
わかってる。
言葉で言われなくても、そんなこと。
太刀打ちなんてできない。
でももし、勇気を出せたら?
自分が隆一さんの側にいる、そう堂々と言えたら。
僕はもっと、強くなれるだろうか。
「ーーーーーー……っち…」
「え?」
「…葉山っち、あの…ごめん」
しまった。
バスルームから隆一さんの声。
考え事にはまり込んでいて気づかなかったけれど、その声が少々困惑してる…?
「隆一さん?どうしました?」
「…タオル…貸してもらって…いい?」
…二度目の、しまった。
シャワーを浴びている相手にバスタオルも何も全く渡してあげていなかったんだ。
「…すみません、すごい柄で」
「いいよ、貸していただいているんだから。それに綺麗な模様じゃない?」
リビングのソファーに腰掛ける隆一さんの手にあるのは、おろしたてのタオルだ。
脱衣場にタオルを置き忘れた僕は慌てて寝室のクローゼットを漁り、確か使っていないタオルセットがあった筈と記憶を引っ張り出して探しあて。
しかしいざ取り出すとそれらは様々な花が描かれた、えらくボタニカルな模様のタオルだった。
タオルの機能としては問題なかろうが、もっとシンプルな物を手渡せたら良かったと、少し申し訳ない気持ちになるけれど。
当の隆一さんは全然気にしていないようでタオルを纏って微笑んでくれる。
涙のあとはもう消えていた。
「ありがとう、急にお邪魔してシャワーまで貸していただいて」
「そんなのいいんですよ」
「…葉山っちも仕事の帰りだったんでしょう?寄り道とか、平気だった?」
「平気です。ほんとに僕の方は気にしなくて大丈夫ですから」
「そっか」
「はい」
「ーーーそっか」
「…はい」
いくぶん、元気さみたいなのは取り戻したように感じるけれど。
やっぱり違う。
心ここに在らず…な様子だ。
僕といても、気持ちは他所へ。
「ーーー」
さっきはイノランさんに迎えに来てもらえばいいと考えたけれど。
もしも例えば…だ。
隆一さんの今のこの様子が、イノランさんに関わっている事によるものだとしたら?
ーーーもしそうなら、かえって連絡はしない方がいいのだろうか。
(ーーー有り得なくはない…の、かも…しれない)
…が、憶測で判断するのも良くないし…。
そう悶々とまた考え込んでいると。
隆一さんが恐縮したような顔で言った。
「ごめんね」
「え?」
「…変なところ見せちゃって。きっと葉山っち、困って色々気を遣ってくれてるでしょう」
「そんな…」
「葉山っち見ればわかるよ。…ほんと、ごめん。あれは雨粒だったんだよって上手く誤魔化せるかと思ったんだけど」
「あ…。ゃ、誤魔化せてない…です」
「ん、そうだよね。ーーーでも、」
「はい」
「もう大丈夫だから」
「ーーー」
「葉山っちの顔見たら落ち着いた。シャワーであったまれたし、」
「ーーー」
「ほんとにありがとう。お邪魔しました」
「ーーー…あの」
「…ん?」
「ーーーーーーイノラン…さん、を」
呼びましょうか?
「…ぅうん」
「ーーーーー」
「いいの。…ありがとう」
ふるふると首を振った後ぺこりと頭を下げて、もう一度顔を上げた隆一さんはいつもの朗らかな微笑みで。
帰り支度を始める隆一さんを目で追いながら…
ここでさような…と別れたら。
隆一さんはまたひとりで俯くのだろうか?
雨降りの中を解決しきれていないだろう思いを抱えて。
僕は隆一さんの〝特別〟ではないし、イノランさんのような存在ではない。
プライベートにおいてイノランさんに太刀打ちできないのは理解している。
だから正直今の隆一さんにどこまで踏み込んでいいのかはわからない。
わからないけれど…だからと言って。
放っておけない。
偶然にしろ何にしろ、あんな隆一さんを目の当たりにしてしまったら。
雨に溶けて消えてしまいそうに儚げに、透明な涙を溢す姿を見てしまったら。
それに、それだけじゃなく。
想いを抱えることが自由なら、僕もそうなんだ。
「待ってください」
「ぇ、」
「隆一さん、嘘ついてます」
「ーーー葉…」
びくん、と隆一さんは肩を揺らした。
僕が手を掴んで…引き止めたから。
そして〝嘘〟という僕の言葉に、隆一さんの表情が強張った。
一歩、踏み込めた気がした。
「何があったかを僕に話したくないなら無理には聞きませんし、かと言って拒みもしません。隆一さんがとても強いひとだって事は僕も知っていますし、ひとりで物事を乗り越えてしまえるひとだとわかっています。でも、」
「ーーーーー」
「今の隆一さん、大丈夫そうだとは思えないです。あんな風に泣いてた隆一さんを放っておけないです」
「っ…」
「僕じゃ頼りないかもしれないし、そもそも隆一さんにとって僕は頼りにする存在ですらないのかもしれない。ーーーイノランさんに到底及ばないことはわかっていますが、」
「…そん、な…こ……と…」
「僕ではだめですか?」
「ーーーーー」
「今の隆一さんの側にいてはだめですか?」
そうだ。違う。
強いだけのひとなんていない。
凛としなやかな強さを備えていられるその側には。
いつだって彼の存在があったからだ。
彼…イノランさんの存在が。
しかしきっと今はそうではないのだろう。
ケンカしたのか、それとも別の理由なのか。
理由はわからないけれど。
「…っ」
掴んでいた隆一さんの手が指先からジン…と熱を帯びた。
それに気付いたのは、思い切って言いたい事を告げたあと。
さらさらした隆一さんの手のひらが、もっとあつくなって。
ぎゅっと指先に力がこもって、僕の手に縋って。
ぽた、ぽろ…
「ーーーーー」
「…っ……ぅ、」
息をのんだ。
瞬きも忘れた。
隆一さんの頬を滴が伝う。
小さな嗚咽も混じって、頬を染めて。
伏せた睫毛の隙間から覗く瞳は、あの雨空の時と同じに綺麗で。
僕はずっと、繋いだその手を離さなかった。
イノちゃんとケンカじゃないよって、しばらくして落ち着いた頃、隆一さんは教えてくれた。
「ーーーーーきっとね、」
「ーーー」
「イノちゃんにはこの先ずっと…言わないと思う事」
「ーーー」
「イノちゃんにも…メンバーにも」
「ーーーーーそれは…」
「歌うことは大好きだし、俺の生命だと思うし。…でもね」
ーーー歌うことが怖くて仕方ない時があるんだよ。
「…りゅ、」
「それは俺が乗り越えなきゃならない事だから」
「ーーーーー」
「内緒だよ?」
「!」
「俺と葉山っちだけの」
涙のあとを残したまま、隆一さんはまた微笑んでくれた。ちょっとだけ悪戯っぽく。
その微笑みは「これ以上は今は葉山っちにも内緒」って柔らかく牽制されているようで。
僕はぐぅっと言葉をのむ。
僕には何故教えてくれるんですか?
という、聞きたいと思った問いかけを。
先手を打たれて制されて苦笑するしかないから。
だったら僕もこの際だ。
「乾いて良かったです」
濡れた服はすっかり乾いていた。
コートを羽織った隆一さんを見送りに玄関まで。
「葉山っちありがとう。俺帰るね」
「はい、気をつけて。あ、傘貸しますよ」
「何から何まで…」
「いいえ、力になれて嬉しいです」
「お世話になりました」
「いいんですって。ーーーあの」
「ぅん?」
「隆一さん、またどうしようもなくなった時は」
「ーーー葉山っち」
しー…。
人差し指を口元に添えて〝内緒だよ〟と瞳が語る。
「はい、わかってます。隆一さんと僕の。僕は口堅いから安心してください」
「ほんとに口堅いひとは自分で言わないんじゃないの?」
「〜〜隆一さん…」
「ふふっ」
朗らかに笑うあなたに、いま僕はひとつ想いを伝える。
「ーーー僕もひとつ内緒を、いいですか?」
「ぇ、?」
「僕と隆一さんだけの秘密です」
「ーーー…っ…」
頬に触れて、顎先を包んで。
こんなに間近で見つめる隆一さんに惹き込まれながら。
そっと、唇を重ねる。
柔らかくて、気持ちよくて、めまいがしそうで。
啄むようなキスは、一瞬重なった隆一さんの瞳を見た途端…
ちゅ…っ…くちゅ、
「…んっ……はゃ…」
ぴちゅ…っ
「……ん…んっ…」
「ーーー…は…ぁ」
とん。
脚が縺れた隆一さんを、抱き留める。
何か言いたげな視線を向けられたけれど、隆一さんは大人しく僕の腕の中に捕まっていた。
濡れた瞳に堪らなくなって、思わず告げてしまいそうになった言葉はのみこんで、代わりに抱きしめる腕に力を込めた。
「ーーーーー……ゃ…ま…っち…」
「ーーーはい」
何も聞かなくていい。
あなたが僕に問いかけを牽制したように、僕もそうだ。
無理に語る事はしない。
このキスの理由も、望まないならば知らなくていい。
「内緒です。僕とあなたの」
告げないままでも、この先ずっと…
end
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