CAT!CAT!
ザアアア
「ーーーすごい雨だな…」
今日の夕方頃から降り出した雨は、夜になるとますますその勢いを増してきた。
ザアザア、ザアザア。
窓ガラスは雨水の筋が何本も出来ている。
〝ーーーーー…地方にかかる低気圧は、今夜から明日いっぱいにかけて雨を降らせるでしょう。山寄りの地域では雷、突風を伴いますので、ご注意下さい。…それでは明日の全国の…ーーー〟
「あらあら…」
夕飯の後片付けをしながら天気予報を見ていたおばあさんが、困ったような声をあげる。
エプロンで手を拭きながら、窓辺に立つ俺を手招きして。よいしょと抱え上げてテレビの前に座った。
「明日も雨なのね。…困ったわネェ。」
「にゃーぁ」
「明日は出掛ける用事があるんだよ。…別の日にしたいけど、できないから…」
「にゃー」
そっか。そういえば、先週おばあさんが嬉しそうに言ってたな。昔からの古い仲良しの友達がこっちに来るって。それなら久しぶりに顔を合わせたいから会いましょう!って事になったって。
せっかくだから近くの温泉旅館に一泊して…って、喜んでたから。
「ーーーにゃあ」
おばあさんの友達も、ずっとこっちにいられるわけじゃないもんな。
…多少無理してでも会いに行きたいんだろうな。
「ーーー明日になれば、もう少しやわらいでるかも知れないしね。移動もタクシーや電車だし、何とかなるかしらね」
俺の頭をひと撫でして、俺を椅子の上に下ろしたおばあさん。
ちょっと心配そうな顔はしてるけど、きっと明日は予定通り行くんだな。
リビングの端に置いてある旅行鞄を持って、奥の部屋へと引っ込んで行った。
ザアアア、ザアアア。
「ーーー…」
ガラスに流れる雨水をじっと眺める。
テレビの音も掻き消えそうな雨音。
…今までだったら、こんな夜はもう早く寝てしまおうって。早々に自分の寝床に潜り込んでたと思う。
ーーーけど。
ザアアア、ザアアア。
「ーーー」
ザアアア…
「平気かな。…隆ちゃん」
気もそぞろなのは、今は離れたあの林にいる彼を想って。
だってさ。
この家の中だって、こんなに雨音が響くのに。
隆の住む。
あの野原の向こうの林の中は。
もっともっと、雨音も大きくて。
もっともっと暗くて。
きっと、寒くて。
「ーーー…」
チラッと。
猫用の出入り口に目をやって。
ひたひたとその前まで行って、そっと。
外を窺った。
ザアアア…ザアアア…。
顔を出すと、更にすごい音。
でも、気になって。
頭にバチバチと雨粒が落ちたけど、ぐっと外に身を乗り出した。
「イノラン!…だめよ、今夜はもう」
「にゃあっ」
戻って来たおばあさんに、ガシッと抱えられて逆戻り。
「こんな大雨の夜に外なんてダメよ。風邪ひいちゃうよ?」
ーーー風邪。
…そうだ。風邪だってひいてしまうかもしれない。
〝明日いっぱいにかけて雨を降らせるでしょう〟
「ーーーみゃーあ」
明日もずっと雨なんだ。
…それなら。
「明日」
今夜はとにかく、隆が寝床にしてるって言う木蓮の木を信じて。
ホントなら今すぐ隆のところに行きたいけど。…多分、おばあさんが心配するから。
だから明日。
朝起きたらすぐに。
隆のところに行きたいと思う。
「もう寝なさい、イノラン」
ーーー明日だったら、夜になっても翌朝までおばあさんはいない。
明日は帰らなくても大丈夫。
ずっと隆の側にいてあげられる。
ザアアア…ザアアア…。
暗い雨降りの夜の外を、もう一度猫用出入り口の隙間から。
そっと覗いた。
「隆、待っててな」
明日。
会いに行くよ。
翌朝の雨脚は更に強くなっていた。
「じゃあね?イノラン。行ってくるわ」
「にゃーん」
おばあさんは一日分の旅行鞄と、友達にあげるって用意してたお土産の袋を持って。それからレインコートを着込んで、玄関で俺に言った。
「明日の夕方には帰るからね。待っててね」
「みゃあ」
おばあさん、嬉しそうだ。
そうだよな。
だって友達と会えるんだから。
バッと傘を広げて外に出るおばあさんを見送った。
よし。
それじゃあ俺も、今から隆の所に行こう。
キッチンを見たら、いつもより多めのご飯。痛まないようにって、今日は日持ちするドライフードがメイン。
カラカラに乾いた小魚と、鰹節の削り終わりの小さな芯があったから。それだけは持って行けないかと、あれこれ苦心して。
結局俺の寝床に敷いてある、青い布に何とか包んで。その端を咥えて、外に出た。
ザアアアアアア。
容赦ねえ。
昨夜まではあんまり風は吹いてなかったのに、今朝になったら大雨に加えて横からの風。
ゴロゴロゴロ…
…に加えて。
どうやら雷も鳴り出したみたいだ。
雷雨。突風。
ーーーなんだよ。
昨夜の天気予報当たってんじゃん。
パシャパシャ。
大きな水溜りを幾つも飛び越えて。
隆の所に続く、濡れて艶々したアスファルトの道を進む。
「ーーー…」
誰もいないなぁ…。
いつも塀の上に寝そべってるあの猫も。
あそこのベランダで、いつも外を見てるあの猫も。
こんな雨降りの日は、誰もいない。
「みゅー…」
ーーー急ごう。
早く行こう。
こんな人の街の中ですら、なんだか寂しい雨降りの朝。
隆の林は。
隆の野原は。
一体どれだけ静まり返っているだろう。
「ーーー」
それを想像したら。
堪らなく隆に会いたくなって。
俺は残りの道程を、急いで駆けた。
ザアアア…ザアアア…
ゴロゴロゴロゴロ…
ゴオオオオオ…
ザワザワザワ…
青い花の野原に着いた途端。
俺は情け無いことに、足を竦ませてしまった。
ザアアア…
ザワザワザワ…
風雨に煽られる、青い花の群れが。
まるで海の大波みたいに、揺れて音を立てて。
そこに足を踏み入れたら、飲み込まれて溺れてしまいそうに思えて。
コク。
俺は一度、息をのむ。
…かと言って。ここで引き下がるつもりなんて、さらさら無い。
この花の海の向こう側に、隆がいるんだ。
たったひとりで大雨の夜を越えた隆が、今もきっと震えているはず。
「隆」
今行くよ‼
ザアアア…ザアアア…
パシャ。
「ーーー」
ーーーーーすげえ。
この木…か?
隆の言ってた。
真っ白な花が咲く、木蓮の木。
まわりの木よりも、ちょっと雰囲気の違う木。黒っぽくて、隆の言ってた通り。面白い形に伸びている。
今は花は咲いて無いけど。
この木いっぱいに白い花が咲いたら…綺麗だろうなぁって思う。
覆い茂る木の枝の下に入り込んで、ここでやっと。濡れた身体をブルブル振るって、水滴を落とす。
ーーー隆。
木の根の隙間に寝床があるって言ってた。どこだろう⁇
太い木の根元をぐるりと巡ると、ちょうど裏側のところにポッカリ開いた隙間。
ここか?
ちょっとドキドキしながら、その隙間に向かって呼んでみた。
「ーーー隆?」
「…みゃあ」
「あ、」
「みゃう…ーーーイノちゃん?」
「隆ちゃん!」
小さな反応の後に聞こえてきたのは、サクサクとこれまた小さな足音。まるで枯れ草を踏みしめてるみたいな、乾いた音だ。
「ーーーイノちゃん?」
木の根元の隙間から琥珀色の二つの光りが見えたと思った瞬間、しなやかな黒い身体が現れて。パッチリ開いた猫の目が、俺を捕らえてにっこり笑った。
「イノちゃん、来てくれたの?」
わぁ、すごい…ずぶ濡れだよ?
そう言って。
ぺろぺろと、俺の身体の水滴を。
丁寧に丁寧に舐めてくれた。
「イノちゃん、こんなお天気なのに来てくれたんだ?しかもこんな朝早くに」
「ん…。昨夜もすげえ雨だったじゃん?今日もこんなだし…ーーー」
「ね。ゴオゴオ…って、大きな音がずっと聞こえてた」
「だろ?…隆ちゃんここでひとりで…って。心細いんじゃないかなぁ…って、思って」
「っ…!」
「だって雷も鳴ってるし、風も雨も強いしさ。…心配で」
「イノちゃん…」
「けど、隆ちゃん元気そうで良かった。カオ見たら安心した。…でも、来て、やっぱり良かったよ」
「え?」
「この木も見られたし。隆に会いたかったし。…こんな天気だからこそ、なんか良くない?」
「?」
「ーーーひっそり。一緒にいる感じがさ?」
「‼」
ほわっ…
隆の頬が、色付いた…ように見えた。
…いや。実際は黒い毛並みに覆われているんだから、そんな風に見える筈ないんだけどさ。
でも、なんか。
なんかさ。
嬉しいって、言ってくれてるように見えたんだ。
「隆ちゃん朝ご飯食べた?」
「ううん。今日はこんなだし、動いてないから食べなくてもいいかなぁ…って」
「え…腹減らない?」
「ーーーいつも雨降りの時はあんまり動かないの。この木の中でジッと眠って。だからご飯も、狩りにでられるようになるまで待つ事が多いんだ」
「ーーーそっか」
「イノちゃんは?」
「ん?」
「朝ご飯。もう食べた?」
「や。…実はまだ。俺の飼い主が明日まで出掛けるから、日持ちする食事を置いて行ってくれて。…だから隆ちゃんと食べたいなって、持って来たんだ」
「え⁉ご飯?」
「うん。鰹節と小魚」
「わぁ!」
「ーーー食べる?」
「うん!いいの⁇」
「もちろん」
咥えて来た青い布の包みを開く。
初めは乾いていたそれらも、この雨の湿気を含んで、程よく柔らかくなっていた。
木蓮の木の下で、隆と朝ご飯。
「いただきます!」
「いただきます!」
ペロリと舌舐めずり。
隆はちょっと控えめに鼻を寄せたけど、ひとつ咥えて口元に差し出したら。
パクッと食べて、にっこり笑った。
「美味しい!」
「うん。隆ちゃんと食べられて良かった」
「一緒にだから、もっと美味しいんだよね?」
「!…ーーーそうだな」
ーーーホント、そうだ。
いつもの朝ご飯も、場所を変えて、隆と一緒に食べられて。それが最高のスパイスになって。
何倍も、何百倍も美味しいし、嬉しい。
好きな子といられる事って、すごいんだなぁ。
「そうだ、あのさ?隆ちゃん」
「ん?」
「今夜ね?…もし隆ちゃんがOKって言ってくれたら、俺ここに一泊したいなぁって、思ってるんだけど」
「ーーーえ、?」
「今夜は帰らなくてもいいし。…この天気だろ?隆といられたら、この夜も怖くないかなって」
「っ…」
「ーーー今夜は一緒にいたいって思ってるんだけど。…ーーーいい?」
パアッと、隆の目が輝いた。…ように見えた。
いや、今回のは確信できる。
口に咥えてた小魚をぽろっと落として、まんまるな目で俺を見てるんだから。
その目がきらきらしてる。
俺を真正面から見てくれる。
「イノちゃんといられるの?」
「…隆が、良いなら。なんだけど」
「いいよ!当たり前でしょ?」
「ホント⁇」
「うん!やったあ!イノちゃんがお泊まり!」
ーーーああ。
やっぱり良かった。
今日、ここへ来て。
だってこんなに喜んでくれる。
俺も嬉しいよ。
二人でご馳走様をしたら。
隆は木蓮の木の寝床に、俺を招き入れてくれた。
ーーーうわ、すごい。
「広いね!」
「そうなんだ。奥行きあるでしょ」
「うん。しかも…」
「濡れてないでしょ?」
「雨、入ってこないんだ」
「木の根っこと上の枝がうまく守ってくれてるみたいなんだ。そこにほら、乾いた枯れ草を敷いてるから…なかなか居心地よさそうでしょ」
「なかなかどころじゃ無いよ。すげえ良いじゃん」
「へへ!良かった。イノちゃんも気に入ってくれて。今夜はここで、一緒に寝ようね!」
「ん!楽しそう」
ひっそりとした林の中の。
白い花が咲くという、木蓮の木の下に。
まさかこんな…素敵な場所があったなんて。
…そうか。だから隆は、どんな風雨の夜でも、ひとりで越えられるのかもしれないな。
ゴロゴロゴロゴロ…
ザアアア…
夜になった。
初めて過ごす、林での夜。
外は相変わらずの、雷雨と風。
俺と隆は。
木の根元の中の、隆の寝床の中。
ふかふかした、あったかい枯れ草の上に転がって、仲良く毛繕い。
「ーーー林の夜って、もっと寂しい感じがすると思ってた」
「ーーー寂しい?」
俺に背中を舐められて毛繕いされる隆が、気持ち良さそうに目を細めてこっちを向いた。
「…ん。誤解しないで欲しいんだけど。…こんな悪天候の夜の林にひとりきりって。…どんなに寒くて、怖くて、寂しいんだろうな…って、思ってたんだ」
「ーーーん」
「でも、そうじゃないのかも…って。だってこんな居心地のいい寝場所があるんだもんな」
「…」
「ーーーっても、ごめん。…寂しく無いわけ、ないよな?」
「…」
隆が黙ってしまった。
…だめだ。なんか上手く言えない。
どの言葉も、全部ありきたりな感想に聞こえる。
実際、ここで幾つもの夜を過ごしてきた隆に。お世辞にも、ちゃんと寄り添えてるって言葉が上手く出てこない。
「ーーー隆」
「…みゃあ」
「…ごめん」
「…」
「ーーーごめんな?」
目元をペロっと舐めたら、隆はフルフルと首を振って。
それから擦り寄って、ぴたりと俺にくっ付いた。
ーーーどきん。
あったかい。
隆の身体が、あったかい。
それからやっぱり、いい匂い。
「イノちゃん?」
「ん?」
「ーーーそれでもね?今夜をイノちゃんと過ごせたら、もうこれから先も…大丈夫なんだ」
「え?」
「これから先、どんな怖い夜がきても。今夜の事を思いだせば、怖くなんかないの」
「…隆」
「イノちゃんと一緒。楽しいし、あったかいし、気持ちいい。…これ以上のいい事ってないよね?」
擦り寄る隆が、ますますあったかい。
…もう眠いのかもな。
声もだんだん、甘く…緩く…。
「ーーーあのね?イノちゃん」
「…ん?」
「明日…ーーー朝、晴れたら…」
「うん?」
「小川の…先…の、大きな岩の…上で」
「ーーーりゅー?」
「イノちゃん…と。見たいな…ーーー」
「ーーーなに、を?」
「虹」
こてん。
かろうじて起きていた隆の頭が、俺の胸の中に落ちた。
その後は、くーくー…。
穏やかな寝息。
「ーーー虹…か」
綺麗だろうな。
明日はきっと、晴れるだろう。
二日続いた大雨で、林の空気は洗われて。
目覚めたら、眩しい程に。
澄んだ木々が、空気が。
俺たちを迎えてくれるんだ。
ちゅ。
眠る隆の口元に、小さな内緒のキス。
まだ言わない。
まだ、隆にも秘密だ。
隆と会う度に大きくなる、好きって気持ち。
一緒にいたいって願い。
それを明日。
虹に向かって祈ろう。
怖い夜ほど、一緒にいたいと思う君と。
怖い夜も、怖くなくなるくらい、大好きな君と。
どうかこれから先も。
ずっと、ずっと…
end
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