8
⚫︎オレンジ
琥珀色のトロリとした、甘い甘い…
「うわぁ!美味しい」
「…」
「ん…こっちはレンゲの花?今食べたオレンジの花のすっごく美味しかった!」
「よかったな?」
「うん!イノちゃんは食べないの?」
「…や、俺はいいよ」
「ふぅん?ーーーあ!見て見て!これは蜂の巣そのままだって。ハニーコーム?このまま食べられるの?」
「…」
やれやれ…。
今や俺は隆の眼中になんて入ってないんだろうなぁ…
隆が一体何に夢中かって?
それはね、ハチミツです。
蜂蜜!honey!
デート先でたまたま見つけたハチミツ専門店。ドライフラワーが飾られたいかにもって風情の明るい店構えで、可愛いハチのディスプレイがお出迎えの、入り口付近からすでに甘い香りが漂っている、そんな店。
もちろん隆が素通りなんてするわけないよな。
立ち止まって、店をじっと見つめる視線をそのまま俺に移して。
ーーー寄りたいの。行ってみたいよ。イノちゃんいい?
…そんな風に恋人に目で訴えられて無視出来るヤツはいないでしょ。
「ーーー寄るか?」
「うん!わぁい!」
くっそ…可愛い。
ーーーで。まあ、そんなわけで寄ったハチミツ専門店。
隆は早速店員と仲良くなって、色々説明を聞いたり試食させてもらったり忙しい。
それにしても…よくもまあ、あんな次々とハチミツを舐めて甘ったるくならないな…と感心する。花の種類によって微妙に色合いの違うハチミツを、スプーンにひとすくいづつ美味そうに舐める。
「…」
でもまあ…隆が楽しそうだからいいか。
結局はそこに尽きるんだよな。
隆は今店員とお喋りに夢中だから、この間に俺は店内を見学。
ーーーへぇ…。
ずらりと並んだ瓶の中身は全部ハチミツだけど。ホントに花の種類によって全然色が違う。
アカシア…クローバー…桜…薔薇…ワイルドフラワー?…あ、野原の色んな花って事か?こんなのもあるんだな。
まあ、そうか。ミツバチが飛び回った先に花があれば、それが巣に持ち帰られる訳だもんな…。
そっか…。で、次は…えっと、ミツバチの生息分布図?ーーーへぇ…。
思いの外、俺も熱中していたみたいだ。
いつの間にか隣に来ていた隆に気付かなくて、横からイノちゃんって呼ばれて初めてハッとした。
「ーーー熱心だね?」
「え?…や、なんかおもしろいなぁ…って」
「ハチミツ?」
「ん…それもそうだし、ミツバチとかさ。ガキの頃はよく虫捕りもしてたなぁ…って」
「うんうん!」
「まさか今日、こんな理科の授業みたいな事ができると思ってなかったから…ーーーって。隆ちゃんは?ハチミツ堪能した?」
「うん!色々味見させてもらったの。すごく美味しいなって思ったのがあったよ」
「よかったじゃん。…どれ?」
「ん、えっとね。これ、このハチミツ。オレンジの花のハチミツだよ?」
「へぇ…美味いんだ?」
「すっごく!なんかねぇ、どことなーくオレンジの香りがするんだよ」
隆は棚に並んだ内のひとつを指差してにこにこ。
六角形の瓶に満たされた明るい色の琥珀色。そこにオレンジのイラストのラベルが貼られている。
ひょい…と。
俺はその瓶を掴んでレジへと向かう。
隆は慌ててついてきた。
「イノちゃん。…それ」
「気に入ったんだろ?プレゼントするよ」
「え…?」
「今日ここに来た記念。俺も思いの外楽しかったし」
「イノちゃん…ーーーありがとう!」
「どういたしまして。…と、それから」
実はさっきから気になってた、レジ横に並んだハチミツのキャンドル。
これまた色々あるなぁ…。
どれにしようか迷ったけど、せっかくだから隆とお揃いで。オレンジの花のハチミツで作られたキャンドルを手に取った。可愛く包まれた紙袋と一緒に隆に手渡したら超、嬉しそう。
店を出て再び歩きだす。
「イノちゃん、ホントにありがとう」
「ん?隆が喜んでくれるなら良かったよ」
「ーーーいいお店だったね。寄れて良かった」
「だな。…つか、隆ちゃん。あんなにハチミツ食って甘ったるくなんなかったの?」
…正直見てるだけで胸焼けしそうだったよ…。
でも当の隆はきょとんとしてる。
全然ヘイキだよ?って顔で微笑んでる。
…ああ、くそ!やっぱ可愛い。
直視すると照れくさくて不自然になりそうで。隆から僅かに視線をずらしていたら…
「っ…」
気付いてしまった。
朗らかに笑いながら話してくる隆。
その唇が。
おそらくハチミツだよな。そりゃそうだ、あんなに試食してたんだから。
艶々して、太陽を浴びて光って見える。
(っ…ーーー勘弁してくれ…)
まるで〝奪って〟〝味見して?〟って言ってるみたいだ。
…や、言ってはいないと思うけど…。
「…」
ーーー仕方ない。隆との会話に集中して気を紛らわそう…。あんまり口元を見なければいいんだ。
「ーーーイノちゃん?」
「え…あ?」
「どうしたの?」
「ーーー…いや」
変なイノちゃん。ってくすくす笑う隆。
にっこり弓形になる唇が、艶やかにこっちを誘う。
「ーーー隆…」
「ん?」
「…こっち見ないで」
「え?」
「っ…あ、いや…」
「⁇ーーーーーーホント…どうしたの?イノちゃん変だよ?」
心配そうに近づいて、真正面から俺を窺う隆。
真正面…。
真正面はやめてくれ。
しかも極め付け。なんだかハチミツの匂いもしてくるみたいだ。
隆から甘い匂い。あったかい国のオレンジの雰囲気まで纏っている気がして、隆が明るくて。朗らか、可愛い、いい匂い…
「ーーー…」
ぎゅっ。
隆の手を握って、ずんずんと街を横切って歩く。
唐突の事に隆は面食らって、俺に引かれるままに付いてくる。
「…イノちゃん?どこ行くの⁇」
ーーーどこに行こうとしてるのか自分でもわからない。…けど。
足は行き先を知ってるみたいに迷い無く進む。
「ね、イノちゃんってば」
「ーーー」
隆の問い掛けに何も言わず、ひたすら進む。その内隆も何も言わなくなって、俺の手を握り返して大人しく付いて歩いた。
人通りの多い街を横切って、オフィス街を横切って、たどり着いたのは運動公園。広い芝生の広場や、アスレチック広場、ボート乗り場や遊歩道なんかがある広大な公園だ。
天気の良い今日。
人はそれなりにいるけど、広い公園だから程良くバラけてる。
「…公園?」
隆が俺をチラッと見て呟いた。
何でここへ?って思ったんだろう。
ーーー俺も自分で何故ここへ?って思ったけど。
ああ、そうかって。すぐに理解した。
「ーーー隆ちゃんと二人きりになりたかったんだ」
「っ…え」
ーーー声に出てたらしい…。
隆はホワっ…と頬っぺたを赤らめて、恥ずかしそうに俺を見る。
そうだよ。だって今日はデートなんだから。
好きな店でのショッピングも、美味いレストランでの食事ももちろん楽しいけど。
隆となら、何処へ行っても嬉しいけど。
ーーーでもさ。
誰にも邪魔されない場所で、二人きりで。どきどきするのがデートの醍醐味だよな?
公園の中央に広がる大きな池。そこのボート乗り場へ隆と進む。隆とボートって乗った事ないなって。一度くらい乗るのもいいなと思う。
ーーーそれに。
ボートなんて、究極に二人きりだと思うから。
隆に乗ってみない?って言ったら、はにかんで頷いてくれた。
「アヒルボートもあるけど…」
「自転車漕ぐみたいなのでしょ?」
「それよりは手漕ぎのがいいよな」
「うん」
色んな色のがあるけど、隆が選んだのはオレンジ色のボート。今日はオレンジがよく出てくる日だ。
不安定なボートに二人で乗り込んで、向かい合わせで…
そんな度々乗るもんじゃないから、最初はぎこちなくオールを動かす。
「これ…進んでる?」
「大丈夫。進んでる」
俺、必死な顔してたのかも。
隆は向かいで、またもやニコニコして楽しそう。イノちゃん頑張れって、言ってくれる。
キイ…キイ…
割とペースを掴めば速く進むもんだ。
船着場は、遙か遠くに見える。
季節遅れの赤い紅葉が池にせり出して、そこの水面に赤い葉が浮かんで綺麗だ。
「ーーー」
ーーー隆は。
空を見上げてる。
俺もオールを漕ぐ手を止めて、流れに任せて。空を見る。
冬の青空。
薄い雲。
…静かだなぁ
遠くで犬の声が聞こえるだけで、本当に静かだ。
ここが都内だなんて、忘れそうになる。
空を見上げていると思っていた隆が、いつの間にか真正面を見てた。
ーーー真正面の、俺を。
微かな風に隆の髪がそよいでる。
紅葉からの木漏れ日を浴びて、それを受けて。
隆の唇は、やっぱり艶やかで。
それを見て思うのは。
触りたいな…って事で。
隆は俺から目を離さないし。
俺も隆から目が離せないから。
俺はオールから手を離すと、不安定なボートの上で。
ゆっくり、手を伸ばして。
隆の髪に触れて。
もっと触れて。
隆の後頭部を引き寄せると。
ちょうど、ボートの真ん中。
そこで隆を、そっと抱きしめた。
ふわっ…
ハチミツの匂い。
甘い匂い。
今日一日の事が、一瞬で思い返されて。
楽しかった事も。
美味かった事も。
いいなって思った事も。
それから…
隆が可愛いって。
愛おしいってずっと思っている事も。
この瞬間に、全部集まっているんだって。
そう思えて。
「ーーー隆」
「…ん。」
「こっち、向いて?」
ほのかに赤い隆の頬に手を添えて。
ゆっくり目を閉じる隆を、大切に見つめて。
俺は隆に、キスをした。
「ーーーっふ……ぁ…」
「隆…ーーー甘い」
「ん…っ」
「ーーー美味い…」
ボートの上で交わしたキスは。
甘い甘い…オレンジの花の。
ハチミツの匂いがした。
end
・