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●合鍵











俺のポケットには、赤いリボンが結え付いた鍵が入ってる。
それは合鍵。
イノちゃんにもらった、大事な合鍵だ。





イノちゃんと恋人同士になって、ちょっとした頃。
多忙な日々を送る俺たちだから、思うように会えないのは想定してた事。
だけども会いたい気持ちは高まって、高まった気持ちはどうにもならなくて。それならばって。
最初に渡してくれたのはイノちゃんだった。






「もらってくれる?」

「ーーー嬉しい。でも、ホントにいいの?」




合鍵をもらえるくらいに信頼してくれるのが嬉しい。いつでも会いたいって思ってくれるのが嬉しい。
ーーーでも、大事なイノちゃんのひとり時間を奪う事にならない?

…そんな事も考えてしまって、ちょっとだけ手を伸ばすのに躊躇った。
そしたら。




「俺はもっと隆ちゃんとの時間が欲しい。俺があげたいって思ったんだから、いいんだよ」



そう言って、イノちゃんは優しく笑ってくれた。
それを見て、躊躇いは照れくささに変わって。俺は手を伸ばして、小さな鍵をそっと受け取った。
イノちゃんの温もりがほんのり。
温もりだけじゃなくて、イノちゃんの気持ちもこもってるから。

大事にしようって。
思った。




「ーーーあ。キーケース…」



いつも持ち歩くキーケース。そこに仕事でよく使う鍵を入れているけど。今日はイノちゃん家に来るだけの予定だったから。コートの胸ポケットに家の鍵ひとつだけ入れて持って来ただけだった。




「イノちゃんの鍵。家に帰ったらキーケースに入れるね?」



それまでは無くさないようにポケットに仕舞っておこうと思った。
するとイノちゃんはニンマリして。
テーブルに乗っていた、ワインボトルに付いているベルベットの真紅のリボンをくるくると外して。
俺の手から鍵を取ると、器用にリボンを結え付けた。





「はい。これでどう?」

「っ…イノちゃん」

「赤いリボンで、可愛くない?取り敢えずこれでも、家に帰るまでは無くさないでしょ?」

「うん!」




リボンが付いているこのワインを選んだのは、多分偶然。俺が今日イノちゃん家へ来る時に、手土産にワインショップで買った物。ーーーそうだ。白ワインなのに赤いリボンが付いてて目についたんだったと思う。それからラベルも可愛くて。

そんな、偶然この家にやってきたワインのリボンだけど。
まるでこの鍵に付けられる運命だったみたいに似合ってて。
俺は思わず、ほー…と。感嘆のため息がでた。





ーーーそんなイノちゃん家の合鍵。
結局リボンを解くのが惜しくて、ずっとそのままにしてある。






「ちょっと遅くなっちゃった。イノちゃんもう帰ってるよね」




見上げれば、丸い月。
今夜は確か満月だ。

お互い今日は仕事があって。それでも夜からでも会いたいねって昨日電話で話してた。
終わったらイノちゃんの家に行くねって言ったら。じゃあカレー作って待ってるよってイノちゃんは言った。




「ーーーカレーの事思い出したらお腹空いちゃった」



急ごう。
きっとイノちゃんもお腹空かせて待ってるはず。ポケットの中の鍵を服の上からポンとたたいて。

急いで急いで…

…って。月明かりがふわっと道を照らして、イノちゃん家までの道筋を作ってる。

急いで急いで…

俺は嬉しくなって。
その道を軽い足取りで進んで行った。





玄関口について。俺はチャイムに手を伸ばそうとして…手を止めた。
せっかくもらった合鍵だもん。
ーーー鍵を開けて入ろうと。
俺は着ていたコートのポケットに手を入れた。




「ーーーーーえ?」



…嘘?
ーーー無い?鍵が…

一瞬でサァ…と背筋が凍える感じがして、指先が震えた。
反対のポケットも手で探る。それからジーンズのポケットも、全部。



「ーーーなんで⁇」




さっきまでは確かにあったはず。
あの月夜の道でだって…



「あ…」



ーーーもしかして…その時に落とした?
何かの具合でポケットから落ちて…?

そんな…
こんな事になるなんて…




「見つけなきゃ」



目前のドアの向こうにイノちゃんがいるのに。今すぐに会いたいのに。
…でもこのままじゃ会えない。
どうしようって狼狽てる場合じゃない。
とにかく今は…



「探しに行こう」



クルッと踵を返して、また夜道を引き返す。
せっかく会う時間を増やす為にイノちゃんがくれた合鍵なのに!
貴重な時間を減らしたばかりか、鍵を失くすなんて…




「ごめんなさいっ…イノちゃん」




身を切られる思い。
イノちゃんに申し訳なくって。
だから絶対に見つけなきゃ。




「あ…イノちゃんに」



行くよって伝えた時間に遅れてしまう。
この上心配まで掛けたくないから、イノちゃんにメールを送る。


〝仕事が長引いてる。ごめんなさい、少し遅くなります。ご飯は先に食べててね。〟



…嘘つく心苦しさ。
せっかくカレーも作って待っててくれてるのに…。
さっきから、ごめんなさい。しか出てこないよ。
駆ける脚も、もつれそう。
来る時の軽やかな足取りは何処へ行ったんだろう?



「とにかく探さなきゃ。それで早くイノちゃんの家へ」

















満月は。
相変わらず、暗い夜道を照らしてる。


あれからどのくらいの時間が経ったんだろう。



「ーーー見つからない」



タクシーを降りた所から、イノちゃんの家までの道のり。ずっと探しながら歩いたけれど、鍵は見つからなくて。
ーーー暗くて見つけられないだけ?
それともそもそも。ちゃんとポケットに入れていたのか?ってところから疑わしく感じる。



「ーーー落としたとしたら…タクシーの中、途中寄った店、スタジオ、家からスタジオまでのタクシー…」



一日の行動に思いを馳せて。その範囲に愕然として。もう無力感で足が竦みそうになる。



「ーーーイノちゃん…」



久しぶりにスマホを見ると。
あれから二時間は経過していて。
それから。
イノちゃんからのメールや着信や留守電の数々…。
それを見ただけで、結局心配させてるって。不甲斐なくて悲しくなった。




「ーーーもう…今日は見つけられない…。これ以上イノちゃんを待たせるのも嫌だ」



ーーー謝ろう。さっきから心の中で繰り返してる謝罪の言葉を、ちゃんと本人に伝えよう。

見上げた月が滲んで見える。
泣きそうな潤みだした目元をぐいっと拭いて。
まだ泣いてる場合じゃ無いと。
自分を奮い立たせて、イノちゃんの家に再び向かった。











ピンポーン。


チャイムを鳴らしたら。
バタバタッ…と賑やかな音がして。
施錠を解く音の後、勢いよくドアが開いた。



「隆ちゃんっ!」


「っ…わ」



玄関先で。
開けっ放しのドアの前で、イノちゃんに抱きしめられる。
ぎゅうぎゅうと力いっぱいで、ちょっと苦しい程だけど。
今はこの抱擁が、ひどく心安らいで。反面、辛くもあって。
俺はイノちゃんの胸に手をつくと、そっと身体を離して。
じっと、イノちゃんを見つめた。
案の定。
イノちゃんの瞳には不安の色がいっぱいだった。




「隆ちゃん」

「ーーーっ…」

「どした?こんな遅くなって…」

「っ…」

「今日は隆ちゃん、葉山君も一緒って言ってたから。あんまり隆ちゃんと連絡取れないから、心配で…。さっき葉山君に電話したんだ。ーーーそしたら、もうずいぶん前に帰ってる筈だって」

「ーーーっ…イノちゃん…」

「なんかあったのか?」



そんな心配に満ちた眼で見ないでよ。
心配掛けたのは俺だけど。
ますます苦しくなるよ…





「ごめんなさい。…イノちゃん」

「え…?」

「ーーー俺…鍵を」

「鍵?」

「イノちゃんにもらった…合鍵…を」

「ーーー」

「ごめんなさいっ…何処かで…落としてしまった」









項垂れる俺を。
イノちゃんは、無言で部屋の中へと連れて行ってくれて。
ソファーに俺を座らせると。
キッチンへ消えて、しばらくするとマグカップ片手に戻って来た。



「ほら、ココアだ。まず飲んで、あったまりな」

「ーーー…」



湯気の立つ、温かいココア。
受け取ってひと口飲むと。
甘味が広がって、ホッとする。

そんな俺を見て、きっとイノちゃんもホッとしたんだ。心配の色のイノちゃんの瞳が、やっと緩んで弓形に微笑んだ。




「ーーーそんな様子だから。血相変えて探し回ったんだろ」


こんな寒空の下でさ…。って。
イノちゃんはため息を含ませて。
もう一度俺を抱き寄せて、俺の髪に顔を埋めた。




「ーーーだって、大事な鍵だよ。せっかくイノちゃんがくれた…俺だけにくれた…」

「そりゃ…そうだけどさ…。ーーーでもさ?隆…」

「え…?」

「よく考えてみろよ。鍵か、隆か…なんて天秤に乗っかったら。それは間違いなく、俺は隆を取るってわかるだろ?」

「っ…ーーーーーーーわかんないよ」

「ええ⁇…ーーーそれは…」

「ーーーん…?」

「ーーー反省。俺の愛情不足だ」

「…へ?」

「まだまだ全然足りないって事だよな?」

「え…ううん、違…」

「もっと愛し合える余地ありって事だ」

「っ…ーーー」

「な?」

「あ…ーーーぅ…。ーーーはい」

「ん。…それじゃ、隆ちゃん」

「…うん?」




不足分。こっからまた取り返せばいいよな?って。髪から、こめかみから、頬へとイノちゃんの唇が降ってくる。



「んっ…イノちゃ…」

「くすぐったい?可愛い…隆」

「ーーーん、っぁ…」


頬から、耳朶を甘噛みされて。
思わずゾクっ…と快感が走る。
それを受けながら。鍵を探していた時の絶望的な気持ちがとけていくのを感じて。
鍵から愛情の話に流れたのは、イノちゃんの心遣いなんだろうな…

いつの間にか唇を重ねてきた、イノちゃんのキスを受けて。
俺はそんなイノちゃんが愛しくて。
潤む目元を、今度はそのままに目を閉じた。












昨夜はカレーを食べた後。
宣言通り、一晩中。イノちゃんに愛されて。これでもまだまだ愛せる自信あるよ?って、にっこり笑うイノちゃん。
そんな彼を見たら、やっぱり鍵は見つけたいって。心密かに思った。


そして、その鍵は。
実はあの後見つかったんだ。
ポケットに仕舞ったと思っていたのは…勘違いで。
見つかったのは、スタジオ。
スタジオで使う色んな鍵を仕舞ってある、収納ボックスに。

赤いリボンの鍵がひとつ。





end




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