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●水槽の魚
「あっつ…」
残暑厳しい初秋のある日。
俺とイノちゃんは、水族館に来ていた。
「火傷しそう」
俺の目の前は海だ。
海を臨むチケット売り場の周りは、ぐるりと手摺りが巡らせてある。
日中の、まだまだ強い陽射しを受けた手摺りは熱を充分に吸収して。
俺の手のひらにジリジリと熱を伝えた。
「隆、お待たせ」
平日のせいか、人が疎らのチケット売り場に並んでいたイノちゃんは。
折り畳まれた案内図と、チケットを二枚手に持って。熱々の手摺りから身を乗り出して海を眺めていた俺の元に戻ってきた。
「隆、熱くないの?そこ」
「すっごく熱い」
「火傷すんなよ?」
「大丈夫!」
「そ?ーーーじゃ、ホラ。チケット」
「イノちゃんありがとう。ーーーホントに俺、払わなくていいの?」
「いいんだよ」
いつもいつも。デートに出ると、イノちゃんは俺も出すって言ってもダメって言う。ーーー俺、女の子じゃないからいいのに。って言っても、首を縦に振らない。
「女の子じゃなくても、隆は俺の恋人。ーーー格好つけさせてよ」
ーーーだって。
そんな事言われたら、ぐっと言葉が詰まる。だから俺は、ありがとうってお礼を言って微笑むんだ。
「空いてていいね」
「平日だしな。ーーー暑いし」
「暑いね、今日。でも中はきっと涼しいよ」
「だな。ーーー行こうか」
「うん」
他愛もない会話をしながら、ゲートを通って、早速水族館へ。
大きなサメの歯が入り口に飾ってあって、思わずじっと眺めつつ館内にはいった。
そしたら、思った通り。
「涼しい~」
「ホント。出たくなくなる」
「照明も薄暗いから、余計に涼しく思うんだよね」
「ーーー薄暗いっていいよな」
「え?」
「例えばさ?」
「…うん?」
ぬっと伸びたイノちゃんの左手が、俺の右手を捕まえた。
「!」
「手、繋いでも目立たないし」
「っ…イノちゃん」
「水族館、お化け屋敷、映画館」
「え…?」
「恋人と手を繋ぎたくなる場所」
「っ…~~」
「せっかくの水族館デートなんだから堪能しようぜ?」
半ば丸め込まれた感じだけど…。
イノちゃんと手を繋いで通路を進む。
初めはちょっと恥ずかしかったけど…ーーーでも俺もこうしたかったのは事実だ。
ぎゅっと指先を絡ませて、気持ちはもうふわふわしてる。
「ーーー人、いないね」
「ちょうどショーが始まるんだ。皆んなそっちに行ってんだろ」
「そっか」
「…隆も観たい?」
「ん?ーーーん…俺はいいや」
「…ん?」
「せっかく館内空いてるんだから。イノちゃんとゆっくり周れる方がいいや」
「ーーー」
「ね?二人占めみたいだね」
薄暗いけど、イノちゃんの方を窺ったら。イノちゃん、ため息。
ーーーイノちゃん、時々ため息多いよ。
なんなの?って聞いたら、いい加減わかれ。だって。
「ーーー可愛い」
「…イノちゃん、そればっかり」
「可愛いから可愛いって言うの」
「っ…~~~じゃあいいよ、俺も言う!」
「?」
「イノちゃんカッコいいカッコいいカッコいい‼」
「ーーーどうも」
「カッコいい!!!!!」
「はいはい」
ーーー丸め込まれた。
いつもこうだ。
そんな事をコントみたいに言い合いしてたら、目の前の空間がぱあっと華やいだ。
「わ…」
「熱帯魚か」
大きな丸い水槽に、小さな色とりどりの魚。
青、ピンク、黄色、紫、白…
すごく、すごく綺麗だ。
細かな気泡の隙間を、ゆらゆらゆらゆら。
「ーーー…」
ーーーなんか、惹き込まれてしまって。
水槽の前で足を止めて。
じっと。揺らめく魚達を見つめる。
「ーーーーー綺麗」
ポツリ呟いたせいかな。隣にいたイノちゃんの気配が、俺の背後に移動したみたいだ。
ーーーでも俺は、水槽から目が離せない。
だってすごく、綺麗だから。
「ーーーイノちゃん」
「…ん?」
「ーーー」
「ーーー隆?」
「…どうしてこんなに、綺麗なのかな」
「え?」
「ーーー水槽の魚達。…毎日たくさんの人に見られて。…疲れないのかな?ーーーどうしてこんなに…」
「ーーー」
「ーーー綺麗なのかな…?」
硝子の中に閉じ込められた魚達。
それでも彼らから感じるのは。
何ものにも囚われない果てしない自由さと、美しさだった。
「ーーーきっとね。欲望に忠実なんだ」
「え?」
「ーーー〝生きたい〟って、欲望」
「ーーー」
「環境はどうあれ〝生きたい〟って強く思ってる。ーーーだから綺麗なんだ。潔くて、美しい」
「ーーーそ…なの、かな」
「そうだよ。…きっとね?」
「ーーーそっか」
「隆も綺麗だよ?」
「え?」
「歌う隆を見る度に、そう思う」
「ーーーっ…」
「隆、綺麗だなって」
「イノちゃん」
「潔いくらい自由で、隆がどっか行きそうで」
「ーーー」
「手、離せなくなる」
俺の後ろにいたイノちゃんは。
後ろから、俺を抱きしめた。
その瞬間。
水槽の硝子にぼんやり映った俺の顔が、切なく揺れる。
硝子越しに、イノちゃんの視線が絡む。
ーーーここ、水族館だよ?
空いてるって言っても、無人じゃないんだから。
でも…
後ろを振り向いてイノちゃんと直接視線を合わせたら。
躊躇なく、イノちゃんの唇が触れてきた。
「ね、イノちゃん?」
「ん?」
「ーーー手」
「…手?」
「手、離さないで」
ひとりの自由より、ふたりの自由がいい。
end
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