7
●悪夢
夢を見る。
冷たい水に裸足を浸した。
踵が隠れるくらいの浅い透明な水。
凪いでいる滑らかな水面に幾重にも輪を描いて。
その波紋は俺から遠くへ。
遠く遠くへ流れて行って。
いつしかその輪は、消えて無くなった。
お前に届く前に。
お前はどこかへ去ってしまった。
ある日のスタジオで、スギちゃんが言った。
「隆、最近どう?」
「え?ーーーどうって…どう?」
「元気?」
「うん!元気だよ?ーーー何で?」
「そっか。…だったらいいんだけど」
「うん?」
「ーーー元気ならいいんだ」
ーーー変なスギちゃん。どうしたんだろ?いいんだって言ったくせに、スギちゃんは曖昧な顔で微笑んでる。
でも、まぁ。この時はここでこの話はお終いって思ったのに。
帰りがけに、スギちゃんはもう一度俺を呼び止めた。
「最近イノと会ってる?」
「イノちゃん?ーーーうん、最近お互い忙しくてゆっくり会えないけど…顔は見てるよ?」
何で?って、俺ももう一度聞いた。
ーーーそうしたら。
「今朝ここ来る前に、用事があってイノに電話したんだけど」
「うん」
「ーーー元気無かった気がして」
「え?」
「いや…気のせいかもしんないけどね?なんかちょっと…って思って」
多分気のせいだと思うけど。
スギちゃんはそう言って、俺に微笑みかけて。お疲れ様って、帰って行った。
多分、スギちゃんの言った事が気になったんだと思う。
今日は会う予定は無かったんだけど、このまま会いに行くことにした。
途中で美味しい物を買って、イノちゃんと食べようと思って。
驚くかな?
いきなり行ったりしたら。
ーーーでも合鍵を渡し合ってる俺たちだ。驚きはしないか。
そんな事を思いつつ、イノちゃんの家に到着。インターフォンを鳴らしたけど出なくて、合鍵を使って中に入った。
「お邪魔しまーす」
いつものイノちゃんの家の中。
シン…としてて。ーーー留守なのかな?
買い込んだ荷物を持ったまま、リビングへ。棚に荷物を置いて、ソファーの方へ目線を移したら。
「イノちゃん」
イノちゃんはいた。
ソファーに横になって、静かな寝息を立てていた。
「ーーー」
そっと近付いて、ソファーの下の床にぺたんと座る。座って、イノちゃんの顔を覗きこんだ。
茶色の髪が目元を隠してる。隙間から見える睫毛は長くて、いつもより柔らかな印象だ。唇も…薄っすら開いた唇を。その感触を俺は知ってる。度々されるキスを、その時の甘い声を。俺はいつだって待ってる。
( どうしよう… )
( ーーードキドキしてきちゃった )
( でも、イノちゃんよく寝てる )
スギちゃんの話をちょっと心配してたから、とりあえずホッとする。
このまま寝かせてあげよう。
そして目が覚めたら、それとなく様子を窺ってみよう。
床に座ったままソファーに背を預けて、ちょうどそこにあるイノちゃんの手に触れる。柔らかくぎゅっと握ったら、すぐ側で声がした。
「ーーー隆?」
ーーーびっくりした。思わず肩を揺らしてしまった。
え?って横を見ると、横たわったままのイノちゃんが、じっと俺の方を見てた。
起こしちゃったと思って、慌ててごめんねって謝ると。イノちゃんはいいよって微笑んでくれた。
「隆、来てくれてたんだ?」
「ん?うん、ちょっと会いたくなって」
「会いたくて?」
「ーーーん、そうだよ。会いたいか会いたくないかって言われたら、俺はいつだってイノちゃんに会いたいの」
「ーーーーーありがと、隆」
「ん?」
「すげ…嬉しい」
「うん、ふふっ」
そうしたらイノちゃんは、はーあぁ…って大きなため息をついて、ゴロンと上向になって。
それで。
ーーーポツリポツリと、話してくれた。
「最近、夢見悪くって」
「え?」
「変な夢ばっかでさ。寝ても疲れんの」
「ーーー」
「途中の具体的な内容は覚えてないんだけど。まぁ、散々疲れる内容ってのは同じなんだけど」
「ーーーうん」
「最後が最悪なんだ。毎回毎回決まって」
「っ…ーーーどんななの?」
「ん…ーーーーーーー」
「ーーーーーイノちゃん」
「ん。ーーー隆がさ」
「ーーー」
「俺の前から去っていく夢」
「え…」
「去ってって、大声で隆のこと呼んで。でも俺の声は隆に届かなくて。大抵そこで目が覚める」
「ーーー」
「ーーー最悪でしょ?」
「ーーー」
「ーーーだから今は、隆が途中で起こしてくれて、良かった」
「っ…」
「ありがとな」
ぎゅっと胸が痛んだ。
イノちゃんの、無理してる微笑みを見たら。
ーーーだから。
「何言ってんのっ‼」
「っーーー」
「良かったじゃないよ!ありがとじゃないでしょ⁉何無理して笑ってんの‼」
「隆ーーーー」
「何で俺に言わないの⁉無理してひとりで夜を過ごして…俺に言えばいいじゃん!来てって!一緒に寝てよって!」
「ーーー」
「ーーーーーー俺今日は帰んないから。明日もその次も。イノちゃんがひとりでも安眠できるまでここにいるからね!」
「隆…」
だって悲しいよ。イノちゃんが我慢して、ひとりで怖い夢を耐えてるなんて。
それに気付けなかった俺が腹立たしい。
言わないでいたイノちゃんも頭にくる。
一緒にいるって、そうじゃないよね?
こんな時に支えてあげられるのが恋人だよね?
しばらくイノちゃんは黙ってたけど。
そっと手が伸びたと思ったら、俺の髪を撫でて、そのままイノちゃんの胸に抱き寄せられた。
「ーーーーー悪りい」
「…ホントだよ」
「多分、一番即効性のある解決法は、隆に会って触れることだって、わかってた」
「ん?」
「ーーーでも、今忙しいの知ってるから。ーーーごめん、変な遠慮だった」
「…ばか」
「うん、ホント。これって情け無い欲求不満だよな」
「そうだよ。ーーー触ればいいのに」
「ーーー隆は、触って欲しかった?」
「え?」
「俺に。抱いて欲しかった?」
「っ…」
「ん?」
「っ…ーーー言ったじゃん。俺はいつだってイノちゃんに会いたいの」
「ーーーうん」
「忙しい時ほど、会いたくなるよ」
抱き寄せられていた身体が、もっとイノちゃんに引き寄せられる。
隆おいで。って、頬に指先が触れて、その先にすることは、もう…
「ン…っ」
「はじめからこうすれば良かった」
「はぁっ …ア」
「そしたら満たされて、見なかったよな?ーーーあんな夢」
「ぁん…ン、イノちゃん」
「ん?」
「ーーーね、ここにいるよ?」
「!」
「イノちゃんの側に、ちゃんといるから」
「ーーーうん。…うん、ありがと」
「も…あんな夢…見ないでよ?」
「ーーー見ないさ」
「っ…ん」
「夢じゃない、本物の隆がいてくれるんだから」
いつだってダイレクトに、声が届くんだから。
end
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