round and round (みっつめの連載)
イノランとおやすみの挨拶を交わして別れた後。
隆一は夜の空をふわふわと風に乗って、また岬の突端を目指していた。
「ーーー」
飛んでいる…というより、風に身を任せているような隆一。
どこかぼんやり、心ここに在らず…といった表情だ。
「ーーー…俺…」
隆一はそっと。指先で自身の唇に触れた。
ーーーキス。
「っ…」
この夜に初めてイノランと交わしたキス。その時に、向けられた言葉。初めて見る、熱のこもった視線。
壁との間に閉じ込められて。目の前にはイノランしかいなくて。
恥ずかしくて、まともに顔も見られなかったのに。
一瞬の触れ合いの後にイノランが向けてくれた。
優しい優しい…蕩けるような眼差し。
それを間近で見てしまったから、もっと…って、思ってしまった。
自然と目を閉じて、自然と唇を薄く開けて、彼を受け入れた。
掠るだけの初めのキスとは全然違って。柔らかくて、気持ちよくて。
まるで自分のものじゃないみたいな、甘い声が溢れ出た。
〝ーーーホントに隆ちゃんの事が、好きなんだよーーー〟
「ーーー…っ俺…」
こんなドキドキする鼓動も、熱くなって冷めない顔の火照りも。
隆一は、初めてだった。
(っ…どうしよう )
自分を取り巻く風が歪な流れで消えていくのを見て、隆一は苦笑を溢す。
ーーー心の中は大騒ぎなのだ。
ーーー風の使いは。
自身の感情でもその風は生まれてしまう。
だからこそ、心乱さず。常に冷静で、平静であれと。
そう、代替わり代替わり…教えられてきた。その為、風の使いはひとりで過ごす。他者との触れ合いを極力避けて生きる。歴代の風使いの中には、完全に感情を消す事で、普通の社会生活を送っていた者もいたようだが。
ーーー隆一は。それは自分には到底無理だと…。感情を殺してまで、ひととの暮らしは望まないと。子供の頃から好きだった、あの岬の灯台の側に。
小さな家を構えたのだ。
「ーーー…」
頭の中ではわかってる。
自分は、風の使い。
世界中に風を届ける役目がある。
それを誇りに思って、今日まで日々風を送っていた。
ーーーけれど。
新しく生まれた感情がある。
イノランと出会って、音楽や、ひとの暮らしのもっと広い事。
イノランの話を聴いて、自分が知っていると思っていた世界の小ささに。
奥行きのある世界の広さに。
隆一は、目が醒めるような衝撃を受けたのだ。
とりわけ、隆一も大好きな音楽の世界に。
一緒に音楽がやりたいと。
隆一は、イノランに告げていた。
「りゅーう!」
ふわふわふわふわ空を漂っていた隆一に声を掛ける者がいた。
その声を聴いた途端、隆一はパッと顔を上げて。星がいっぱいに散らばる夜空に向かって、ある人物の名を呼んだ。
「スギちゃん」
〝スギちゃん〟と呼ばれた人物の姿はどこにもない…けれど。無数の星明かりと、にっこり微笑んだような月の光が急にピカリと一層輝くと。
光を集めて作られた浮き雲に乗って、ひとりの青年が隆一の元まで降りて来た。
「お疲れ。隆、元気?」
「うん、スギちゃんもお疲れ様」
「ーーー夜の見回りか?」
「ん?…ーーーうん、まあね?」
隆一の返事に、〝スギちゃん〟はニカっと笑った。
〝スギちゃん〟…スギゾーは隆一の…言うなれば仕事仲間だった。風を司る隆一に対し、スギゾーは光の使いだ。
月や星。太陽や虹やはたまた水面に映る輝き等々…。自然の光を発するものを全て管理しているのがスギゾーだった。
季節や時間に合わせた微妙な光の変化や、時として自然の光の手助け。日々少しずつずれていく光の加減を、スギゾーは器用に調整しているのだった。
余談だが。
隆一には他にも仲間がいて。
彼らともよく余暇の合間に談笑したり、情報交換をしたりしている。
雷鳴の真矢と。
雲職人のJだ。
彼らは追々。登場の際に詳しく紹介しようと思うが。スギゾー、真矢、J。三人に共通するところはあった。
それは皆、隆一を放っておけないところ。優しくて、どこかほわほわした隆一を。皆、好きだった。
ーーーそんなスギゾー。
光の使いというわりに、全身黒い服でキメているスギゾーは。隆一を光の雲の上に招き寄せると、片膝をついて隆一の顔を覗き込んだ。
「ーーー隆?」
「え?」
「なんか…あったの?」
「っ…!」
「ーーー…あったんだ?」
「う…ーーーーーなんで」
「バレバレ」
「っ…~~」
「変な風作ってたしさ?」
「…別に」
「嘘。こないだJも言ってたぜ?なんか隆が、何の前触れも無くすげえ大風起こしてたって」
「‼」
「作ったばっかの綿雲飛ばされたって、ブツブツ言ってたぜ?」
隆一にはわかった。
あの時の、びっくりして起こした大風の事だと。
スギゾーがじっと見てくる。
興味深そうに。でも心配をちらつかせて。
隆一は吐き出しそうになった大きなため息を、ぐっと飲みこんで。
しばらく自分の中で逡巡した後。
スギゾーに、ここ数日…数週間。イノランと出会った事を、話聞かせたのだった。
〝ーーー風の使いと、ひと、と。正直何が違うのか?って、俺には解らないーーー〟
話しながら隆一は、イノランの言った言葉を思い出していた。
( ーーー違い…。あるんだよ、イノちゃん。まだ言ってないだけ。ーーー俺が言えてないだけ… 。いつかちゃんと、言わなきゃいけない )
月の位置が変わっていた。
随分話していたんだと、月を見て気がついた。
じっと隆一の話を聴いていたスギゾーは。怒ったりなんかはしなくて。
ーーーそっか…。
そう一言呟いた。
「ーーー好きなんだよな?隆は」
「っ…」
「そいつの事」
「ーーーうんっ」
「隆の事、知ってるんだよな?」
「ーーー…まだ、全てじゃないけど」
「ーーーそっか」
「ちゃんと全部を話さなきゃって、思ってる」
「…ん」
「ーーー俺、一緒に音楽もやりたい。誰かと一緒に…誰かの音色に合わせて歌うのが、あんなに気持ちいいものだなんて…知らなかった」
「ーーー」
「誰かに好きって想われて、自分も好きって想うのが…こんなにドキドキするなんて知らなかった」
「ーーー」
「ーーーその気持ちがね?全部…風に出るんだ。イノちゃんに告白されてびっくりして、大風を起こした」
「ーーー」
「イノちゃんと夕陽を見たり。…抱きしめられたり。心地良くて、気持ちよくて、幸せで。自分でも信じられないくらい、良い風が生まれた」
「隆…」
スギゾーは隆一を見て、正直驚いていた。
代々口伝いで教えられる、風使いの心得。それは聞く分にはごくシンプルな事柄かもしれないが。
それを実行するとなると、自身に課せる覚悟は計り知れない。
他者との触れ合い。交流。自身を律し、感情を抑える事がかなわないならば、それを禁じる。
ーーー隆一は。スギゾーの目から見ても、時折切なくなる程一生懸命だった。
課せられた風使いの責務を果たす為。
風を起こし、世界中の空を飛び回ってきた。
…ひととの接し方も、色々苦労しているのを知っていた。隆一は誰にも言わないけれど。密やかにあの小さな家で、涙を流しているのを星空越しに見てしまった事があった。
そしてそれ以来、ひととの距離をあけてしまった事も。
ーーーそれが。
その隆一が、変わった。
スギゾーは純粋に、そう思った。
( ーーー隆、きらきらしてんじゃん )
( そいつ。…イノランってヤツ )
( ーーー隆を、変えてくれたんだな )
隆一の歌声が素晴らしい事は、もはや仕事仲間皆んな周知の事実だった。
しかしそれも、いつだってひとりきりの歌。どこまでも届く歌声は、やはり切なさが込められていたように思えた。
隆一が決めた事なら。
隆一が望む事なら。
応援して、背中を押してやりたいとスギゾーは思った。
ーーーただ…
「隆?」
「ーーーうん」
「俺は良いと思うよ?隆が全部、全部ひっくるめても、やりたいって思ったんならさ」
「ーーースギちゃん」
「隆の歌声がすげえって知ってる。真矢やJも知ってる。隆が決めた事なら、アイツらだって応援してくれるさ」
「ーーーっ…うん」
「ーーーーー……でも」
「ーーーえ?」
「ーーーでもさ、隆?」
「なに?」
「ーーー〝あの事〟は、どうすんだ?さっき隆、話すつもりって言ってたけど…結論は出たって事?」
「ーーーーー」
「これからホントに音楽始めて、仮に例えばライブとか…さ?そしたら…お前…」
「ーーーちゃんと決める」
「ーーー」
「多分…だけど。もしかしたらもう、心は決まってるのかもしれない」
「隆…」
「あの崖の上でイノちゃんと出会った時から…。ーーーイノちゃんを、好きになった時から」
「ーーー隆…お前。…そんなに」
そんなに好きなのか?…と言おうとして、スギゾーは思わず息を飲んだ。
目の前の隆一が、潔い佇まいで。
真っ直ぐな視線で、微笑みを浮かべていたから。
「おはようございます」
週末明けて、月曜日。
イノランはいつものようにスタジオのドアを開けた。
そこにはすでに葉山がいて、ちょうど到着したばかりなのか、鞄をしまいながら挨拶をした。
「おはよう、葉山君」
イノランも荷物を置きながら、葉山に挨拶を返す。
だいぶ進んだ曲のアレンジ。
ここまでくれば、ヴォーカルレコーディングも間も無くだ。
「ーーー」
週末のイノランの様子が気になったのか、手を動かしながらも葉山がチラチラ視線を向けてくるのを感じて。イノランは苦笑を浮かべて、葉山に言った。
「今日は平気だよ?」
「あ、そうですか?」
「ーーー悪りい。ごめんね?最近色々心配かけて」
「いえいえ、どんなになってもイノランさんは這い上がるひとだって知ってますから」
「ははっ!なんだよそれ」
「そのまんまです。ーーーでも良かったです。イノランさん、今朝は元気そうで」
「いやいや…ホントごめんね。もう平気だから。もう無様に揺らいだりしないから」
「はい。レコーディング頑張りましょう」
「うん」
イノランの力強い頷きを見て、葉山は微笑んで機材の方へ向かうーーーその背中に。イノランはもう一度、葉山を呼んだ。
「葉山君」
「?ーーーはい」
「作業の前に、ちょっといいかな」
「はい」
「ーーー」
「ーーー?…イノランさん?」
「ん。ーーーーーあのね。紹介したいひとがいるんだ」
「っ…ーーーはい」
「すげえ…歌の上手いひとで。俺は、そのひととも一緒に音楽やりたいって、思ってる。葉山君と三人で」
「ーーー」
「そのひと…俺と同じくらいの歳のヤツなんだけど。…彼に、一緒にやらない?って聞いたら…一緒に音楽やりたいです。って、言ってくれた」
「ーーー」
「ーーー俺と。それからまだ会った事ないけど、葉山君とも一緒にって、言ってくれたんだ」
「ーーー」
「葉山君になんの相談もしない内に進めちゃって、それは申し訳ないって思う。ーーー思うけど…でも」
「それはーーー」
「え?」
「イノランさんが前に言っていた、初恋のひとですか?」
「!」
「最近ずっと心乱されていた原因の…そのひとですか?」
「や、違うんだよ。俺が勝手に浮き沈んでただけだから。彼は何も悪くない。ーーーっても、葉山君には迷惑かけたけど…」
「とんでもないです!」
「ーーーえ?」
「僕はずっと気になっていたんです。あのイノランさんをここまで変えることが出来るひとってどんな方だろうって。きっとすごく素敵なひとで、このイノランさん相手でも構えないで接するひとなんだろうなぁって」
「ーーー」
「イノランさんの初恋のひと。もし会えるなら会いたいと思っていました。そしたらお礼を言いたいと」
「ーーーお礼?」
「今までひた隠しにしていたイノランさんの新しい一面を引き出してくれてありがとうございます。って言いたい」
「…新しい一面?」
「照れたり、落ち込んだり、舞い上がったり。今まで以上に表情豊かなイノランさんです」
「ーーー俺…そんな?」
「前にも言ったでしょう?そんなイノランさんの変化は、音楽にも絶対反映されますよね!それがパートナーとして楽しみです。ーーーそのひとの歌声も、早く聴いてみたいです」
「っ…ーーー葉山君…じゃあ」
「いついらっしゃれるんですか?すごく楽しみです」
葉山のにこやかな笑顔を見て。イノランは、葉山が隆一の来訪を待ってくれているのだとわかって。
自分でも単純だと思うけれど、込み上がる嬉しさの笑みが抑えられない。
ーーー隆ちゃんと、本当に一緒に音楽ができるんだ。
自分達の創った曲を、隆一が歌うのだ。…と思うと。ちょっとまだ、想像がつかないくらいに嬉しい。
初めて聴いた隆一の歌声に心奪われた。
二度目に聴いた時には、心底惚れこんだ。
ーーー歌声だけじゃなくて、隆一の全てに…
「ーーーイノランさん?」
「ん?…え?」
「カオ。ーーーニヤケてますけど」
「ーーーマジで?」
「マジです」
「ーーーうー~ごめん!でれでれしないように気を付ける」
「ははっ、でも良いじゃないですか」
「そうかぁ?」
「生き生きしてて」
「…なんか今までの俺が萎れてたみたいだな」
「そうゆう意味じゃないです!」
「うん?」
「イノランさんがますます輝き出したって事です」
「!」
「ヴォーカルレコーディング、待ち遠しいですね!」
葉山の後押しに、イノランは再び感謝した。どんなに自分が良いと思っても、ずっと一緒にやってきた葉山が迎えてくれなければ、意味がない。音楽をやる上で葉山も、イノランにとってはとても大切な存在だから。
だから、嬉しかった。
( 隆ちゃんに教えてあげよう )
( 葉山君も楽しみにしてくれてるよって )
隆一の事については、どこまで葉山に話していいのか。それは隆一と相談しながら決めようと思う。
ーーーでも葉山ならきっと、隆一を気に入るだろうと思う。
隆一の人柄も、歌声も。
「ーーー」
風の使いと、ひと、と。
隆一に想いを馳せても、やはり大きな違いは空を飛べるか否か。
それ以外は、同じ気がした。
だってこんなに、心惹かれるのだから。
.