round and round (みっつめの連載)
えっ…ぇ…
…えー…ん…
ザザ…ン…
ザー…ザン…
ーーーっ…ぇ、え…ん…
泣き声が聴こえる。
波音に混じる、子供の泣く声が。
啜り泣く事をしない子供は、波音に負けない程に声をあげて。
ザザザ…ン、
えっ…ぇ…ん…
ザッ…ザー……
止まる事を知らない波音と泣き声と。
その最中に聞こえた言葉があった。
「ーーーごめん…ね…」
時間を少し戻そう。
隆一がまだ子供だった頃の事。
風使いの事も、まだまだ清明の仕事の一端を任され始めたばかりの頃。
夏の荒風が過ぎ去ったばかりの、抜けるように澄んだ空。
穏やかさを取り戻し始めた海面も、きらきらと太陽の光を照り返す。
夕べの雨風が嘘だったかのように、ゆったりした夏の一日が始まる中で。
煉瓦造りの灯台の頭上だけは、何故だか乱れた風が渦を巻いていた。
側を通りかかるカモメ達は、巻き込まれてはかなわないとばかりに、不思議そうにそこを避けて通り過ぎて行く。
誰かが泣いている。
煉瓦造りの灯台の側の、夏草と白い花が茂る岩場の上で。
それは幼い頃の隆一。
ぺたりと座り込んだ草の上で。
その腕に抱えたのは大きな白い鳥だ。
夕べの雨風で傷ついた海鳥。
白い羽を汚す血の色は見えないけれど。
羽を傷付けてしまったのか、それとも岩肌にぶつかってしまったのか。
その白い海鳥は、隆一の腕の中で息絶えていた。
ぽたん、ぽたんと。
白い羽に落ちてはコロンと小さな球になって転がるのは隆一の涙だ。
俯いて、白い鳥に灰青色の影を落とすのは隆一。
その頬は涙に濡れて、真っ赤になって。
泣き過ぎた瞳も真っ赤になって。
ーーーけれどもぎゅっと胸に抱いた白い鳥を離さない。
恐らくもう、温もりも消え去ってしまっただろうけれど。
この時の隆一には、関係無かった。
祖父である清明との二人での生活。人間の子供達と出会う機会も無く、まだ空の仲間たちと出会う前の隆一は、海や森の動物も大切な仲間であり友達だった。
その中でも鳥達は、同じように空を飛ぶ存在として、隆一はとても身近に感じていた。
それなのに。
大切な存在なのに。
嵐が吹き荒れた夜。
守ってあげられなかった。
それが悔しくて、悲しくて。
嵐が去った後も延々と涙に暮れる隆一を見て、清明は苦笑して弟子を見守った。
ーーー仕方の無い事なのだ。
たとえ嵐であろうと、風使いはその自然現象を無効にする事は禁忌とされる。
自然の成り行きを変えることはしてはならない。
嵐を消す事はできない。
嵐が来る事で自然界が循環している事もあるからだ。
それを無かった事にしてはならない。
それを日々隆一に教え、隆一もそれを受けて真剣に頷いてはきたけれど。
こうしていざ身をもって体験するのとは違うのだろう。
日々の教えよりも、たった一度の体験が隆一の心を抉った。
「もういい加減泣き止んだらどうだ」
「ーーーっ…」
「…隆一」
泣き暮れる隆一の側で語りかけるのは師であり唯一の家族である清明だ。
「隆一」
「っ…ぅ、う…っ…ーーーーーはい」
「その体験を無駄にするな」
「ーーー無…駄、?」
「今の気持ちを忘れるな」
「…っ、ん」
「今の気持ちを知らずしては何も守る事はできない。嵐を前にして慄いてしまってはたったひとつの花すら守る事はできない」
「ーーーーー…はい」
「大切なのは、我々が怖がらないことだ」
「…ぇ、?」
「嵐を怖がらない。どんな風も臆することなく対面すること。それは風使いにしかできないことだ」
「こわ…がらな…い?」
「怖いのは嵐ではないよ。それよりも…その時に失うものが怖いんだ。我々が嵐を怖がって何も手立てもせずに守るべきものを失うことが怖いんだよ」
「!」
「今お前が支配されている悔しさや悲しさは、決して無駄ではないんだ。ーーー教えてくれたんだ」
「…ぇ、」
「お前のその友達が、教えてくれたんだよ。ーーーこれから、」
「!」
「これからますます空を駆けるお前に」
ぎゅっと、再び隆一は白い鳥を抱きしめる。
ーーー昨夜の嵐が来た時、隆一は。
初めて体験する荒ぶれる空を目の前にして身を竦ませていた。
果敢に盾になる師をただ見続けるしかできなかった。
ならば、もうそれがわかったのなら。
いつかまたそんな日が来た時の為に。
力と経験を積む事。
「大切なものを守れるように。隆一にはそれができるんだよ」
いつかそんな日が来た時に。
今度こそは。
守りたい。
「ーーーっ…はい」
「ん。」
「はいっ、おじいさん!」
ぐいっと手の甲で涙を拭った隆一は。
煉瓦造りの灯台の側に、その白い鳥を丁寧に埋めてやった。
墓標は無い。
そのかわりに、白い花を手向けて。
空の祭事というものがある。
それは空の者達が、空の永遠を願って行う十年に一度の祭事。
日頃、それぞれの持ち場を守る者達が一斉に集合して、労い、ますますの絆を確かめ合う行事でもある。
「ーーー隆ちゃん…これ」
「ん?」
「なぁ、これ…。衣装…?」
「ーーーっ…!ああ、」
隆一の家に訪れていたイノラン。
夕方までスタジオに葉山と三人でいて、その後いつものように助手席に隆一を乗せて高速を飛ばした。
隆一の家の白い灯台に着く頃、もう空の向こうは夜の気配が漂っていたけれど。
短いひと時でも一緒に過ごしたいと思うのは二人同じ想い。
「夕飯一緒に食べようよ!それから泊まっていかない?」
そんな風に誘われたら断れる筈が無くて。
そうしたいと思っていたのはイノランも同じだから。
部屋に着くなり、早速仲良くキッチンに立って楽しげに夕飯の支度をするイノランと隆一は、一日の疲れなんて感じ無い程だった。
ーーー新しい手拭き用のタオルが寝室の棚にあるの。
野菜をザクザク切りながら、濡れた手で隣の部屋を指差す隆一。
じゃあ取って来るよって、イノランはリビングの扉をくぐって隣の寝室へ。
ベッドの横の窓から夕暮れの海を眺めながら。
イノランは言われたように寝室の棚から真新しいタオルを取り出す。
ーーーそこで見つけた。
ハッとして、つい見入ってしまう。
それはハンガーに掛けられた、イノランが初めて見る服。
「ーーーすげ…」
「綺麗な…」
触れそうになって、慌てて指先を引っ込めた。
ーーーその、衣装が放つ雰囲気が、神聖で。
「…服、だけど。ーーー普段着っていうより衣装って感じかな」
青。青空の青をそのまま染めたような爽やかな青。
白。真夏の空にくっきり浮かぶ雲のような白。
赤。秋の夕暮れ、夜になる寸前の燃えるような夕焼けの赤。
銀。真冬の空に散らつく結晶のカケラのような銀。
青と白の長く丈をとった異国の民族衣装のような羽織りと、それをぎゅっと結ぶのは蝶のように薄い銀糸で織られた帯。それを引き立てるのは、胸元に掛けられている一粒の真っ赤な透けた石のネックレスだ。
イノランは目が離せないまま、隣の部屋の隆一に問い掛ける。
この衣装はなに?と。
すると朗らかな返事をしながら、パタパタと扉の隙間から隆一が顔を出した。
エプロンで手を拭きながら、イノランの側に立つ。
「ーーーこれね」
「隆の?」
「うん。ーーーおじいさんがまだ風使いをしてた時に、俺の為に仕立ててくれたんだ」
懐かしそうに、ちょんと衣装の裾を引っ張る隆一。
その反動で揺れる帯は、きらきらと銀色に光る。
ーーーきっと特別な物なのだろうと、イノランは思った。
「みんな持ってるんだ。空のひとたちは、みんな」
「ーーーこうゆう服?」
「デザインはみんなそれぞれだけどね?正式な時に着るっていうか…」
「ああ、正装って事か?」
「うん。普段はみんな、雨に濡れたり風に煽られたり、あんまり綺麗な格好して仕事はできないけど」
「まぁ、そうだよな」
「空の祭事っていうのがあるんだ」
「ーーー空の祭事?」
「十年に一度の空の行事。空の永遠を願うお祭り…かな?美味しいお酒が振舞われたり、舞を踊るひともいたり」
「へぇ、」
「その時に着る服なの。もうすぐ、その祭事があるから」
「隆も参加するんだ?」
「ーーーん…。スギちゃんが…」
「…スギちゃん?あ、スギゾー?」
「…うん。せっかくなんだから、隆もおいでよって…」
「全員参加じゃないの?」
「その日空の仕事を休めないひともいるでしょう?だから一応、任意って事にはなってるんだけど…」
「そうなんだ」
「ーーー…スギちゃんに会うのは嬉しい。真ちゃんもJ君も…一緒にいるのは大好きだけど…」
「ーーー」
「…どっちかというと、ちょっと苦手なんだ。ーーー普段あんまり会わない空のひとに会うの…」
「ーーー…」
衣装の裾を握ったまま、ぎゅっと下を向いてしまった隆一。
珍しいと思った。
あまり普段、苦手…などと言わない隆一だから。
そんな様子に、何か理由があるんだな…と気付いたイノランは。
隆一のすぐ隣に立つと、今は少々頼り無く見える肩を抱き寄せた。
「ーーーイノ?」
「ーーーーーん。」
「ぁの…」
「ほら、まぁ。ーーーどの世界でもあるよな?あぁ~行くの気が重いなぁ…とか、面倒だなぁ…とかさ」
「え?」
「誰でもあるよ、そうゆうの。俺でもあるもん」
「イノちゃん、」
元気付けてくれているのだと、隆一にはわかって。
理由も知らずに、それなのにこうして言葉をくれて。
実際にそれで、気持ちがフッと軽くなったのを隆一は感じて。
ーーーこてん。
イノランの肩に、頭を預けた。
「…隆、」
「ーーーありがとう」
「ーーー」
「元気でた」
「ん、そっか」
「うん」
「よかった」
ぎゅっと、イノランはもっと抱き寄せる手を引いて。
肩だけじゃなくて、隆一の身体をすっぽりと抱きしめた。
抱きしめると、今ではすぐに馴染む身体を愛おしく思いながら。
ーーー隆一越しに、美しい衣装が目に映る。
これを着て空を駆ける隆一はきっととても綺麗なのだとイノランは想像するけれど。
隆一はそれが、その場に身を置くことが少しばかり気が進まないと言う。
ーーーきっとスギゾーも、そんな隆一を気遣って誘ったりしているのだろう。
強要なんてできないし、空のことは、イノランも知らない事はまだまだ多いけれど。
(見たいな)
(隆がこの姿で、)
(空を飛ぶところ)
(身勝手かな。
我儘かな。
ーーーでも、こんな事言えるのも。
俺だけなんじゃないかって。
自惚れていいよな?)
「なぁ、隆?」
「ーーーん?」
「例えばこの灯台の陰からさ。ーーーこう、こっそりと俺が見守ってたら…」
「え、?」
「その、空の祭事の日」
「ーーーイノちゃん?」
「なんかあったら俺のとこに逃げてくればいいじゃん?匿ってあげるし。ーーーだからさ」
「ーーー」
「…その、さ」
「ぇ?」
「ーーーーー見たいな、って」
「っ…」
「それ着た、隆」
「!」
「きっと、すげぇ綺麗だと思うから。ーーーそれ着て、空を飛ぶ隆」
「…イノ、」
「見たいよ」
「ーーー」
「ーーーあ!っても、そもそも俺が見てても良いものなのかどうかもわかんないんだけど」
「ーーー」
「空のひとだけの大事な行事なら…」
「ーーー」
「ーーーダメかなぁ…」
隆一の瞳がうるうると潤む。
隆一を抱きしめたまま、バツが悪そうにがしがしと頭を掻く様を、じっと見つめて。
ーーーそれは。
イノランの言葉の陰に、隆一をただただ想う気持ちが溢れていたから。
それを隆一は受け止めたから。
嬉しかったのだ。
「ーーーイノちゃん、」
「ぇ、」
ちゅ。
背伸びして、隆一からキス。
「…りゅ、」
「ン、」
唐突で、目を丸くするイノランに。
隆一は柔らかく微笑んで、彼の胸に頬を擦り寄せた。
「うれしい」
「ーーー隆、」
「ありがとうイノちゃん」
「ーーー」
「ーーー見て欲しい」
「っ…」
「イノちゃんに」
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