round and round (みっつめの連載)
ザザ…
ザ…ザザ…ン
耳馴染んだ波音で、隆一は目を覚ました。
数回瞬きをした視界の先は、早朝の薄水色の空間だ。
「ーーー…」
ゆっくりと起き上がった。
身体を起こすと、自分がいつもの自室のベッドではなく。煉瓦の床に敷かれたシーツの上にいる事に気がついた。
「…あ」
さらには自分が今、裸にシャツを羽織っただけの姿だとわかって。隆一は急速に夜の出来事を思い出した。
(ーーーっ…そうだ。これ、シーツじゃない)
敷かれた白い布をぎゅっと握る。それが昨夜、彼が敷いてくれたカーテンとテーブルクロスだという事も思い出した。
昨夜の出来事。
初めてここで、彼と身体を重ねた事。
イノランと、愛し合った夜。
心の内を曝け出して。
イノランもまた、言わずとしまっていた気持ちを聞かせてくれて。
手と手を取って、もう二人の間に躊躇いは無いと。
心も身体も、結ばれた夜。
「ーーーっ…あ」
寝起きたばかりなのに、熱くなる胸のあたり。火照る頬。そっと手を添えると、隆一の鼓動は忙しなく。
どきどきどきどき…
昨夜の一瞬一瞬が、脳裏に浮かんだ。
「ーーー隆ちゃん」
「!」
背を向けた、テーブルのある方から声がして。隆一は今朝一番の大きな鼓動の音を立てて、ゆっくり振り向いた。
するとそこには、テーブルの椅子に腰掛けて、ゆったりした微笑みで隆一を見つめているイノランがいた。
「おはよ」
「ーーーっ…イノ…ちゃん」
隆一は、そう返事をするのがやっとで。
立ち上がって、ゆっくり隆一の前に来て。気遣わしげに視線を合わせるイノランに、心臓が壊れそうだった。
イノランの手が伸びて。
シャツが滑り落ちて、剥き出しになっていた隆一の片肩に触れた。
ビクリと、隆一は思わず身体を震わせたけれど。
イノランはますます笑みを深めて、触れた肩を引き寄せて。無防備な姿の隆一を、大切そうに、愛おしそうに、抱き寄せた。
「ーーー平気?」
「…え?」
「身体。…痛いとか、ない?」
「っ…」
そんな事を言われると。
昨夜の事がより現実味を増して、隆一を落ち着かなくさせる。
ーーー確かに気怠い感じはあるけれど。
好きなひとと…イノランと。初めて愛し合えた名残だと思えば何て事はなかった。
「…へいき。ーーー痛くないよ」
「ーーーん、そっか。良かった」
「ーーーうん」
ホッとしたような声が、隆一の耳元に聞こえた。
それを聞いただけで、イノランがどれだけ気遣ってくれているかがわかった。
ーーーだから、ちょっと心配もあり…
「ーーーイノちゃん…俺、」
「ん?」
「…その…。上手く…できてなかった…ら、ごめんね?」
「ーーー」
「…いっぱいいっぱいで、初めて…で。ちゃんと…できてたかな」
小さな隆一の声。
恥ずかしそうに呟く声は、イノランにだけ届いて。
そしてそんな隆一の声に、イノランは。
目眩がしそうな愛おしさに襲われて、抱きしめる腕に力を込めた。
「ーーー…んな事気にすんな」
「…だっ…て」
「隆を抱けて、最高以外の何があんの?」
「っ…」
「気持ちよかったし、可愛かったし。めちゃくちゃ幸せで、俺ん中にこんな愛おしい気持ちがあるんだって、初めて知った。ーーー隆を愛してるって、再確認できたんだからな?」
「ーーー…うんっ…」
隆一だって、そうだった。
イノランに触れられて、身体の芯が熱くなる感覚を初めて知った。
止められない甘い声も、堰を切ったように溢れる想いも。
この夜初めて、知れたのだ。
「ーーーうん、俺も」
「…ぅん?」
「イノちゃんと…ーーー嬉しかった」
「隆」
「ーーー俺…も」
「ん?」
イノランの胸に埋めていた身体を、ちょっとだけ離して。
真正面から、イノランを見つめて。
恥ずかしさを噛み締めて。
「幸せだったよ?イノちゃん」
両腕を絡ませて、隆一は自ら唇を重ねる。
イノランは驚きと喜びをもって、それを受け入れた。
以前の自分からは想像もつかなかった。
〝好き〟な気持ちが、隆一の全てを覆って。
〝空〟の事を、一瞬でも忘れる瞬間が訪れた事が。
初めての甘い朝を迎えても、隆一の仕事は代わりなく。
早朝の空の見回りに向かうため、隆一は気怠い身体を起こして身支度を始めた。
この灯台には、そもそも滞在するための物が揃ってい無い。
ベッドはもちろん、キッチン、バスルーム…全てだ。
ここで飲み物を飲む事くらいはあるが、飲み水は持ち込み。湯を沸かすための熱源はアルコールランプだ。
簡単なテーブルセットと、壁に据え付けた棚に。僅かなマグカップと、紅茶葉の缶が置いてあるだけだった。
「イノちゃんも一緒に…来てくれる?」
「…いいの?俺が隆の仕事に付いてって」
「いいよ!…ここには何も無いし。パトロールしながら俺の家の方に向かって、あっちで朝ご飯にしよう?それに朝の空中散歩は…初めてだよね」
「そうだね、朝もきっと綺麗なんだろうな」
「じゃあ、行こ!一緒に」
「ああ!」
早朝の空は、光の塊だった。
薄い水色の夏空に走る、海との境目。水平線に光の筋が現れる。
遠くから見ると極細い線なのに、その光の筋はあまりに眩くて目を細めてしまう。
早朝は、光が生まれる時間だ。
手を繋いで、二人は空にいた。
もう少し陽が高くなると、きっと刺すような夏の陽射しになるのだろうが。
早朝の今は、風を受けると涼しい程だ。
夜の空中散歩の時には、真っ暗でわからなかったけれど。
明るくなりだした今、二人の眼下に広がる海は透けて綺麗な青色だ。
「ーーー気持ちいいなー。…俺なんて朝の空って、だいたい窓辺からしか見ないもんな」
「まぁ、そうだよね」
「それかまだ寝てるか。ーーーだから今朝の体験って、めちゃくちゃ貴重」
「良かった。俺もね?起きた時に眠くて、ぼんやりしたまま空に出る事もあるんだ」
「ははっ、そうなんだ?」
「でもね、目が覚める。この景色を見て、海を見ると」
「ーーーーー綺麗だもんな」
「うん」
ぐんっ…と、隆一は高度を上げる。
もうすぐそこに手を伸ばせば、雲に届きそうなくらい。
七色の柔らかそうな雲に身体を掠めて、隆一は前方を指差して声をあげた。
「イノちゃん、見て!」
「ーーーえ?」
「朝陽‼︎」
「ーーーっ…う…わ、すっげ…」
イノランは目を見開いた。
前方の海上に、まぁるい光の輪郭。
太陽が顔を出す。
一日が始まる。
生まれたての真っ白な光が、二人を包んだ。
空の見回りを終えて、隆一の家のある灯台の側に降り立つ頃。
すでに陽は高くなり始めていた。
「イノちゃん、お腹空いたでしょう?」
「だな。隆も、腹減っただろ?」
「そうだね、簡単な物だけど、朝ご飯作るね」
「っ…隆の手作り⁇」
「ホント、簡単なのだよ⁇あんまり大きな期待しないでね」
「隆の手作りって時点で、期待大!だから。すっげえ楽しみ」
「…もぅ」
にこにこと上機嫌なイノランを見て、隆一は気恥ずかしくなって唇を噛んだ。
ーーーこんなやり取りが、恋人同士みたいで。もう恋人同士な筈なのに、慣れなくて。
でも。
イノランのこんな嬉しそうな様子を見ると、こんなのもいいなって、隆一は思った。
先にシャワー浴びてくる?
キッチンで準備をしながら、隆一がそうイノランに訊ねると。
「まだいいよ。先に隆ちゃんの朝食いただきたいし。ーーーあとでさ」
「ん?」
「ーーーいっしょにしない?シャワー」
「ーーーっえ⁇」
途端に顔を真っ赤にさせる隆一。
手に持った卵を取り落としそうになって、慌てる様が新鮮で。
こんなひと時が、たまらなく愛おしいと。
言葉にはしないけれど。イノランも、隆一も。二人とも、同じ事を考えていた。
朝食は目玉焼き。ベーコンと、トマトとオレンジ。それからトースト、コーヒー、紅茶。
何か手伝うよ?
そうイノランが申し出たら、じゃあテーブルクロスお願いって。隆一に手渡された、白に青のラインの入ったテーブルクロス。何度も洗濯しているのだろう。少し青が色褪せている。
お気に入りなのかも知れない。
並べられる朝食に、イノランは。
ちょっと…感激していた。
「隆の手作り」
「ーーー口に合うといいんだけど」
「美味いに決まってる」
「ぅ…。だと、いい」
いただきます。
向かい合わせで、朝食。
イノランは思った。
思って、噛み締めた。
「美味いし、幸せ」
「ーーーっ…ホン…ト?」
「うん。俺って、最高に幸せな奴だよ」
「…大袈裟」
「だってそうなんだから仕方ない。恋人の作った料理食えるってさ」
「…うん」
「嬉しいよ。ありがとな、隆ちゃん」
美味しそうに食べ進めるイノランを見て。
隆一は胸の内が、じん…と熱くなった。
幼い頃から、一緒にいたのは祖父だけ。
それから、空の仲間達。
彼らもまた、隆一にとって大切なひと達に変わりはないけれど。
イノランは。
ーーーイノランは…。
やっぱり
違うのだ。
〝大切〟の、種類が。
恋して、愛して。
こんな気持ちを抱いたのは、イノランだけだから。
ーーーだから。
これだけは、伝えたかった。
「ね、イノちゃん」
「ん?」
「ーーー昨夜さ?イノちゃん…言ってくれた事。覚えてる?」
〝空を棄てて、俺を選んでよ〟
「ーーーああ」
かちゃ。
イノランは、持っていたフォークを皿の縁に置いて。
そして真剣な眼差しの隆一を、穏やかに受け止めた。
「ーーー空に帰したくない…って。一緒にいて…って。すごく…すごく、嬉しかった」
「ーーーーーうん」
「俺も、イノちゃんと離れたくないから。ずっと一緒にいて、音楽もずっと一緒に…」
「うん、」
「そばに居たい」
凛とした声で、隆一は言い切った。
最後の最後に。
決断をする瞬間までに。
ゆらゆら揺らいだりしないように。
「俺は、風使いに生まれて。…海と…空…と、ずっとずっと一緒で。友達で。空と風と…一緒にいるのが、当たり前で。ーーーでも、イノちゃんと出会って。葉山っちと、音楽に出会って。それでも俺、ずっと、揺らいでた。ーーー風使いも音楽も…って思った事もあったけど。…俺にはできない。中途半端にしたくないから、選ばなきゃって」
「ーーーーーうん」
「ーーー風使いを続けるなら、音楽はやらない。…音楽を選ぶなら、風使いをやめる。ーーー音楽をやりたいって決めた時、覚悟を決めたんだ」
初めて見る、隆一の鋭利な表情。
それだけ、隆一がそれぞれに真剣で。どちらが良いから…とかではなくて。どちらを選んでも疎かにできないから。空も音楽も愛しているからだと、イノランにはわかったのだ。
ザァァァ…
朝食の後シャワーを浴びる。
さっき顔を真っ赤にしていた隆一だったが、食後の片付けを終えた後にイノランがもう一度誘うと。照れながらも、差し出された手を繋いで、バスルームへと向かったのだ。
「隆ちゃん、お湯かけるよ」
「うん」
泡だらけの隆一の髪にシャワーを浴びせる。ばしゃばしゃと髪を洗い流す隆一を見ながら、イノランはホルダーに掛けたタオルを差し出した。
「ありがと、イノちゃん」
「ん」
水滴をタオルで拭き取りながら、隆一はにっこり笑う。
ーーー先程までの真剣な眼差しは、今は無い。
頬を染めて、濡れ髪の艶やかな隆一だ。
「ーーーっわ、ぁ」
「隆ちゃん」
湯の降り注ぐ中で、イノランは隆一を背後から抱きすくめた。
明るい場所での素肌同士の触れ合いに、隆一はジタバタ暴れて身を捩る。
せっかくタオルで拭いた髪は、再びびしょ濡れだ。
「っ…もぅ、イノちゃん!」
「ははっ、まぁいいじゃん。こんなのもさ?」
くるりと向きを変えて、隆一はジト…と。イノランを睨みつけた。
しかしそんな抵抗もすぐに消える。
隆一を抱きしめるイノランが、余りにも優しい微笑みで見つめていたから。
ザァァァァ…
「ーーーっイノちゃ…」
「隆」
「え?」
「ーーーーーー揺れていい」
「⁉︎」
「悩んで迷って、いいよ」
「ーーー」
「〝空を棄てて、俺を選んで〟って言ったのは、俺の本心だ。今すぐにでも、隆を攫って、地上に縛り付けたいって思う。それくらい、お前が好きだ」
「ーーーっ…イノ」
「でも、空を駆ける隆を見たらさ。ーーー情け無いけど…俺も揺らいじまった。〝空を棄ててよ〟っていうのも本心だけどーーーーー…」
「ーーー」
「あんまりにも隆が、空の中で笑うから。空が…似合うから。ーーー奪うだけじゃ、ダメなんじゃないかって。さっき早朝の空を飛んで、思った。ーーーごめんな、俺も、揺れまくってる」
「ーーーイノちゃん」
「ーーーだからさ、隆ちゃん」
「…え?」
「最善の方法だけじゃない、最幸な方法を見つけよう?」
「ーーー最…幸?」
「そう。最も幸せに思える方法。隆が我慢ばかりしないで、俺も…もちろん葉山君も、それから隆の仲間もさ」
「皆んな?」
「皆んなが最後、良かったよな、幸せだって思える選択。それを、探そうよ」
「ーーーっ」
「隆の言う、風使いの決断をする日がタイムリミットなんだとしたら。それまでゆっくりやればいい。色んな方法試せばいいよ。俺も葉山君も、初めての事はたくさんある。後悔しないように心ゆくまでやって、最後に何を選ぶか。他にどんな選択肢が生まれているのか。そう考えるとさ、なんか楽しみじゃない?」
「ーーーーー楽しみ」
目が鱗…とは、こうゆう事だろうか。
隆一は、それまで迫られていた決断というものが。急に重々しさを無くして、ふんわりと自身の頭上に浮かぶ雲のように思えた。
風使いか、音楽か。ーーーだけでは無くて。他の道もーーー?
「ーーー他の道も…」
「うん」
隆一にとって。
空も音楽も、余りに大切で。
込める想いが強くて。
視野が狭くなっていたのかも知れない。
二択じゃない。
そう、気持ちを緩めた途端。
無駄な力が抜けて、いつもと同じバスルームなのに。何故だかとても広々と明るい空間に見えた。
「ーーーどんな…」
「ん?」
「どんな選択肢が…見つかるかな」
「ーーーん、そうだなぁ…」
「うん」
「隆ちゃんの仲間も皆んな合わせてバンド組む未来とか」
「っ…え、ぇえ?」
「アイツら派手なビジュアルだからいけそうじゃない?楽器も持ってたしさ」
「ーーーっそ…うだけど」
「可能性ゼロじゃないだろ?ーーーでもね」
「ーーーうん?」
ザァァァァァ…
「隆…」
「っ…え」
「一個だけ、絶対譲れないものがある」
「譲れない…?なに?」
「ーーー隆が空を選んでも、俺を選んでも。他の選択肢を見つけても。俺の出す答えはひとつしか無いから」
「?…え」
「隆の側にいる事。愛して、支えたい。それだけは譲れない、俺のただひとつの答えだ」
「ーーーっ…イ」
ーーー隆を、迷いの中から、連れ出せるか?
三人の声が、聞こえた気がした。
(連れ出すさ。笑顔のままで、隆一を)
(どんなに迷っても、揺らいでも。俺が支えてみせるから)
強く心の中で誓ったら。
イノランにも、新しい力が湧いてきた気がした。
隆一を愛して。
音楽を愛して。
躊躇なく。
それをシンプルに貫こうと。
抱きしめる隆一の首筋に、昨夜付けた赤い痕を見つけた。
湯で濡れて温まったせいか、花びらのように赤く滲んで。
誘われるように、イノランは唇を寄せた。
「ーーーんっぁ、イノちゃん」
「こんなことするのも、」
「っ…ん、んーーーーー」
「お前だけだからな?」
濡れた前髪の隙間から見つめるイノランの瞳は、隆一だけを。
隆一はコクンと頷いて。
泣きそうな微笑みを浮かべて。
両手と共に、唇を絡ませた。
.