round and round (みっつめの連載)
イノランが提案してきたコーラスを録って。ふたりの歌声が重なり合って出来た曲を聴いて。
隆一は何となく照れくさいような気持ちになりつつも充実した時間を過ごして。気付けば外は、いつの間にか夕暮れになっていた。
送るよ?
イノランは帰り支度をしながら隆一に言った。
…けれど。
隆一ははにかんで、緩く首を横に振った。
「いつも送ってもらったら悪いもん」
「ーーー隆ちゃん…」
遠慮する隆一を見て。
イノランは僅かに、寂し気に眉を寄せる。
ーーーイノランからしたら。
送ってもらって悪いとか、そんな事微塵も思っていなくて。
隆一と少しずつ深い仲になる中で。
もっともっと、頼って甘えてくれていいのに…とすら感じていた。
ーーーけれども。
「ん、わかった。…帰ったらたまにはゆっくり休めよ?明日も早朝から…なんだろ?」
「ーーーうん。イノちゃん、ありがとう。イノちゃんも、気付けて帰ってね?」
「ああ」
ーーー無理強いはしない。
こうして一緒にいられる事だけでも、奇跡のようにも思えるから。
一緒にスタジオの出入り口まで歩きながら、そんな会話をして。イノランは地下駐車場へ、隆一は飛び立つ為の外へ。
今日はここで、さよならだ。
隆一が扉に手を掛けようとした、その手首を。イノランはそっと掴んだ。
「ーーーイノちゃ…」
「目。瞑って」
「っ…ーーー」
スタジオの玄関窓から差す夕陽は、目が覚めるようなオレンジ色だ。
隆一と出会った、あの森の奥みたいに。
「ーーーん…っ」
…ちゅ…っ
他に誰もいないスタジオで、交わすキス。
キスの間は、足元が心許ない。ふわふわして、飛んでいないのに飛んでいるみたいな感覚になる。
今日はここでお別れだから、離れがたい気持ちをぶつけ合うように、唇を重ねる。触れ合うキス。視線を交わして、今度は深く。イノランの舌先が隆一の唇をこじ開けて、濡れた音に目眩を起こしそうなキス。
「ーーー…?」
絡み合う唇を堪能しながら。
イノランは少しばかり、心の中で首を捻る。
隆一とのキスは大好きなのだが。
…ほんの少し、感じた違和感。
ーーーけれども。
「ん…っぁ、は…ぁ」
「ーーーっりゅ…」
「…んっ…ーーーん」
隆一の甘い吐息に、すぐに引き戻される。離れたくないのは、二人とも同じだと。こんな時、認識させられる。
「ーーーーーーー隆」
「…イノちゃん」
「ーーー隆」
「ん」
もう一度、触れ合うキスを。
「ーーーじゃあな?」
「ん…。イノちゃんも」
いつしか繋がっていた、お互いの利き手同士。
最後の最後まで、その手だけは離せなくて。
駐車場と、外と。
それぞれに進む、最後まで。
指先だけで繋がれていた手は、向け合った微笑みを機に。
するり…と。
離したばかりの、二人の手は。
じん…と、しばらく熱いままだった。
ザ…ザザ…ン
ザ…ン…
隆一が灯台の家に着く頃は。
もう夜の気配がした。
ーーーとん。
剥き出しの岩場に降り立つと、隆一はホッと息をついた。
しばらくその場に立ち尽くす隆一は。
遠くに見える、もうひとつの灯台をぼんやり眺めた。
「ーーー…」
スタジオにいる時だけは、忘れていられたのに。
ここへ帰ると再び戻ってくる。
ここ最近の隆一を悩ませる、例の事。
音楽をやると決めた時に結論を出せたつもりでいたのに、全然そんな事はなかった。…自身の決断の事。
ザッ…パァ…ンン
ザザ…ザ…ン
波の割れる音が。
〝どうするの?〟と、急かしているみたいだ。
ーーー音楽は、大事なもの。
イノランと葉山に出会って、もっと大事に思えてきた。
けれども、隆一にとって。
空の仲間、育ててくれた祖父。
彼らもまた、間違いなく大事な存在だった。
「ーーー…」
ーーー両立はできないだろうか…?という考えが頭を過ぎったけれど。すぐに首を振って打ち消した。
ちゃんとやるからには、中途半端はダメだと思った。
イノランと葉山を見ていればわかる。どれだけの情熱と時間を音楽に費やしているか。
それから空の仕事も。これまで自分自身で経験してきたからわかる。そこにももちろん、時間も情熱もかかっているのだ。
ーーー無理して両立して、立ち行かなくなって。それぞれに迷惑をかけてしまうのだけはダメだと。
ーーーそれに、ただそれだけと決意して進む道には。そこにしかない景色が、きっとあるのだと。
ザザ…ン…
隆一は僅かに、肩を震わせた。
夜風が背中を通り抜けて、肌寒くなってきたように思う。
「ーーーなんだろ…」
今日の朝は雨だったけれど、午後からは暖かかったのに。
肌寒さがとれなくて、両腕を抱いた。
「…家に入ろう」
踵を返して、背後の家に足を向ける。
ドアを開けて、家入る直前。
隆一はもう一度、遠くの灯台の長く伸びる光を眺めた。
早々に眠りたかったから、今日は湯船には浸からずにサッとシャワーで入浴を済ませた隆一。
濡れた髪も大雑把に乾かすと、水をグラス一杯飲んでベッドに潜り込んだ。
「ーーー…ん」
なんだか変だった。
身体が怠い気がする。
…変なの。いつからだっけ?スタジオにいる時は普通だった筈…と。そして思い返すと、スタジオでイノランと別れて、空を飛んでいる頃からだったかも…と思い出す。
風呂から出たばかりなのに背筋がぞくぞくする。それなのに顔や指先なんかの末端は、ジン…と火照って熱いくらいだ。
「ーーー…もしかして…熱?」
体温計は何処だったかと思いを巡らせるけれど。それがベッドから見える目の前の戸棚の引き出しにある事を思い出した。でももう立ち上がるのも億劫で、もういいやと。
隆一は布団を被ると、ギュッと枕を抱いて。いつしかそのまま、眠りにおちてしまった。
ーーー夜半。
隆一は薄暗い寝室で、ぼんやり目を覚ました。
自身の吐く息のあまりの熱さに。
風呂上がりの頃に感じていた背筋の悪寒は今は無いけれど。その代わりに身体全体が熱かった。
喉が痛い。喉が渇く。
頭が痛い…
「ーーー…水…飲みたい…」
呟く声はか細く掠れて。
その声を自分自身で聞いて、急激に心細くなってしまった。
今までもこうして体調を崩す事は、ごくたまにだが、あった。
けれどもその度に隆一は自身で対処をし、翌朝の仕事にはある程度回復して、休まず空のパトロールを務めていたのだ。
…ひとりだから。
全て自分で対処して、空に向かわなければならないと。
そんな意識が、隆一の意思も体調も揺るがす事なく保つ要因になっていたのかもしれない。
(…なんか…変だ)
しかし今回は、いつもと様子が違った。
ひどく心細い。
いつもは心が落ち着く筈の波音が、かえって今一人きりなのだと思い知らされる。
「ーーー熱…い」
間違いなく熱があると自覚した途端、隆一は重い瞼を開いて戸棚に置いた時計に目を凝らす。
時計の針は真夜中をちょっと進んで、刻一刻と朝へ向かって時を刻む。
…けれども、このままでは…。
隆一は夜明けからの空の仕事を思って、眉を寄せた。
とてもじゃないが、飛べそうもなかった。
(ーーーでも…とにかく)
色々考える前に、まず水分を摂らないと…と。身体を起こすのも辛かったけれど起き上がろうとベッドに手をついた。
ついた手が震えて、再び布団の上に身体が落ちた。
水を取りに行く。…こんな事も今はままならないのかと、本格的に寂しくなった。
そんな、隆一の耳に。
…カタン。と。
波音に混じって、小さな音が聞こえた気がした。
熱による空耳かと思って、隆一は目も開けずじっと横たわる。
「⁉」
ひた。
突然、隆一の額に触れる。ひんやりした冷たいもの。しかしそれは時間の経過と共に、心地よい温もりを隆一の肌に伝えてきた。
「…ぇ…?」
重い瞼を、もう一度ゆっくり開く。
すると薄暗い寝室の中で、隆一をじっと見つめる瞳とぶつかった。
「ーーー…イノ…ちゃん?」
「隆」
波音に混じって聞こえたのは、声だった。
隆一が誰よりも好きだと思う、イノランの声だった。
ザ…ザザ…
…ン。…ーーーザザ…
心地いい波音が戻ってきたと思った。
ずっと同じような波音だけれど、さっきまでと聞こえ方がまるで違うのは。
きっと心持ちの問題なんだと、隆一は天井を見上げた。
「ーーー水。飲んだ方がいい」
トクトクとグラスに水を注いで、キッチンから運んで来たイノラン。ベッドの縁に腰掛けて、ゆっくり隆一を抱き起こした。
「ほら。グラス落とすなよ?」
「うん」
グラスを受け取ると、火照った手の平に水の冷たさがひどく心地良かった。
コク…コクコク…
渇き切った喉が潤う感覚。
熱でぼぅ…とした頭が、少しだけ冴えた気がした。
「ーーーっは…ぁ」
「ーーー美味かった?」
「うん、ありがとう」
空になったグラスを隆一から受け取ってベッドサイドに置くと、イノランは肩を抱いていた身体をぎゅっと抱きしめた。
「イノちゃん…ーーーどうして?」
「スタジオで…ーーー」
「え?」
「別れ際にさ、キスしただろ?」
「っ…う、うん」
「ーーーあの時。…なんかちょっと…違和感ってゆうか。…隆の唇、いつもより熱い気がして」
「!」
「帰ってからも、気になってさ。ーーー思い返せば、隆。…元気無かったかも…?って。」
「…え?」
「元気つーか、なんか…考え込んでる?…って気がして」
「っ…」
「隆は、いいって言ってたけど。あの後ちょっと後悔してさ。〝くそっ、やっぱりちゃんと送ってあげればよかった!〟って。」
「ーーーっ…」
「…んで、夜になってもやっぱり気になって。こんなに気になるんなら行っちまえ!って思ってさ。ーーー夜中だったけど、来てみたら…案の定だ」
「ーーーイノ…」
「来てよかった。こんな具合悪くなってたなんて。ーーーひとりじゃ、心細いだろ?」
「イノちゃん…っ…」
薄暗がりに、イノランの優しく微笑む表情が見えると。
隆一は急速にホッと肩の力が抜けてその安堵感で、イノランの肩口にこてん。
身体を擦り寄せた。
ザザ…ン
ーーーザッ…ザザ…
「ーーーイノちゃん」
「ん?」
「ーーー」
「ーーーーー…隆?」
「ーーーなんでもない。…ごめん」
掻き消えそうな声だと、イノランは思った。堂々と歌う隆一の声とは、全然違う。ーーー迷いの声。
その声を聞いて。イノランは、ぽつりぽつりと、隆一に話し始めた。
「ーーーーーな、隆ちゃん。…俺さ」
「え?」
「ここに来る間、夜の海岸線を車で走りながら考えてたんだけど」
「ーーーうん」
「ーーーーーもっと。…もっと、隆に」
「ーーー」
「もっと、隆に踏み込もうって。…決めた」
「!」
「知らない事はきっとまだたくさんある。隆の事。知りたいなって思ってるけど、ガンガン入り込んじゃダメだろうな…って。そう思ってた」
「ーーー」
「俺は全然感じて無いけど。風使いとひとと。…関係無いって思ってた。…実際、そう思えるよ。ーーーでも、そうじゃないんだよな?…一緒に何かやるなら、全部知ろうとしなきゃだめなんだって。全部知って、その上で。フォローとか、初めて的確にできるんだって」
「っ…ーーー」
「ーーー躊躇ってる場合じゃないんだって。…気付いた」
いつしか。隆一の鼓動が忙しなく鳴り始める。イノランが、一字一句。選びながら丁寧に話してくれている事がわかって。隆一は、確かに込み上げてくる嬉しい気持ちを。ぎゅっと唇を噛み締める事で耐えた。
そして、何故そこまで?…とも。
「ーーーなんで?」
「ん?」
「イノちゃん…どうしてそんなに、俺の事…」
「ーーー」
「考えてくれるの?」
隆一の瞳が見上げてる。
窓越しの月明かりが、うるうると隆一を潤ませる。
イノランは。
内心、苦笑を浮かべてため息をつく。
(ーーー勘弁してくれ…そんなカオ。…こんな時にさ…)
病人相手に襲う…なんて事はさすがにしないけれど。レコーディングが終わったらと、約束もしたのだから。…今は、しないけれど。
好きな相手のこんな姿は堪らないと思う。
それに。
何故?どうして?…なんて。
答えはわかり切っている。
それに気付かない隆一がまた、可愛いとさえ思ってしまうのだ。
「ーーー例えばね?俺は葉山君も好きだよ。尊敬してるし、できる事ならずっと一緒に音楽をやりたい。愛してる…って言うのは大袈裟かもしれないけど…愛してるんだと思う。仲間として、葉山君の事」
「ーーーうん」
「でもね。実は全部が全部…知ってる訳じゃないんだ、葉山君の事。知らなくても付き合える。葉山君の音楽、葉山君の人柄。今まで一緒にいた時間。そうゆうのが、俺と葉山君を結びつけてるんだと思う」
「うん」
「ーーーうん」
「そっか」
「そう。俺と葉山君は、そんな感じ」
「ーーーうん」
「ーーーーー隆ちゃんは、ちょっと違うよ?」
「っ…」
「ーーー違う」
「ーーーうん」
「…わかるだろ?」
ちゅっ。
瞼に唇をおとす。
こめかみ、頬、鼻先…順にキスしていくと、隆一の身体に力が入る。
抱きしめる身体が熱い。
ーーー先走りそうだ。
「ーーーこんな事は隆にしかしない」
「んっ…」
「前も言ったかもしんないけど」
「っ…ーーーぁ…」
「心も声も身体も。隆のは全部欲しい。隆の悩みも迷いも喜びも悲しみも。全部だ」
噛みつくようなキス。
熱も想いも全部欲しがるようなキス。
ーーー隆、わかる?
ーーー俺はこんなに、お前が欲しい。
ーーー全部欲しいよ。全部、知りたいよ。
ーーー受け止める覚悟はあるよ。
ーーーだから教えて欲しい。頼ってほしい。ひとりで悩まないで。一緒に悩ませて。
ーーー愛しているんだ。
キスに込めて、隆一に届けと。
その身体を横たえても唇は解けなくて。
布団の上で重ねた手は、いつまでも、朝までも。
そのままだった。
ザザ…ン
ザッ…ザ…ンン
波の音で、イノランは目が覚めた。
半分開かれたカーテンの隙間から光が差し込んでいる。
「ーーー」
視線をベッド前の棚の時計に向けると、間もなく朝の6:00という頃だ。
イノランはベッドで眠っていた。
ちゃんと掛け布団を掛けて、枕も置いて。
ーーーそしてその隣には、いまだ眠る隆一。隣…というか。隆一はイノランの胸にぺたりとくっついて、イノランもまた、その身体をぎゅっと抱いていた。
お互い服をちゃんと着ているし、その記憶も無いから。一線を越えたわけでは無さそうだ。…が。
昨夜の熱に浮かされて、どこか気怠げに迷う隆一の姿に。思い止まるのは正直キツかったのも事実。
「よく耐えたよな。…俺」
苦笑と共に、起こさないように手を伸ばす。
黒髪をそっと梳いて、その額に触れてみた。
「お」
ーーー昨夜よりも、熱が落ちていると思った。
呼吸も、だいぶ落ち着いた。
きっと昨日の隆一は。
早朝から雨に濡れて、きちんと乾かないままにスタジオで過ごして、身体を冷やしてしまったのだ。それに、疲れも溜まっていたのだろうと思う。
考え事も、何やらあるようだし…。
「ーーー来てよかった。…側にいられて、よかったよ」
ーーーそう。
イノランが望むのは。
こうした時に、隆一の側にいてあげられる一番の存在になる事だった。
そっとベッドを抜け出して、イノランは外に出た。
こんな天気の良い早朝は。隆一の家や灯台の白と青の色彩が、青い空によく映える。
「ーーー眩し…」
白い鳥がイノランの頭上を飛んで行った。
朝陽が昇る。
海が、白く輝いていた。
「ーーーそういえば…隆」
毎朝のパトロールは、こういう時どうなるのだろう?と、イノランは思う。
まさか…身体の不調をおしてでも、空に出なければならないのだろうか?
「ーーー休ませてやりたいけどな…こんな日くらい」
イノランが、ぽつりと呟いた時だった。
イノランは気配を感じて空を見た。
「ーーー!」
そこには、三人の人物の姿。
皆一様に小さな雲に乗った、驚きの表情の青年達が。
そしてその内のひとりが、イノランに話しかけた。
「ーーーお前…もしかしてーーー」
「え?」
「〝イノラン〟…か?」
「ーーーなんで、俺の名前…?」
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