round and round (みっつめの連載)












ーーーいつか…触って欲しいし…。俺も、イノちゃんに触りたいーーー





その〝いつか〟はいつだろう?




先程まで苦しいくらいに溢れていたイノランの隆一を好きだという想い。
それが隆一のひと言で、不思議と荒々しさが消え去ってしまった。
それは多分…隆一の気持ちの片鱗を見られたから。
求め合う事を待っているのが、イノランだけじゃなく隆一もなんだと、知る事ができたから。

何事もひとりで待つのは辛い。その想いが強ければ強い程だ。
ーーーけれど、相手も同じ想いを共有しているのだとわかれば。その〝待ち〟の時間は、かえって楽しみになるものだ。


隆一を見下ろして。
イノランは、微笑んで見せた。




「ーーー隆ちゃん、ありがと」

「ん?」

「〝いつか〟…そのいつかが楽しみ」

「っ…」

「ちゃんと待ってるよ?隆の気持ちが…全部いいよって受け入れられる時を」

「ーーーイノちゃん…」

「…隆」




コツン。
隆一に覆い被さったまま、額と額をくっつけて。
至近距離で、イノランは告げる。




「いつか…お前を抱くよ?」

「っ…」

「全部欲しい」

「イノっ…」

「ーーー好きだから」



イノランは、薔薇色に染まった隆一を愛おしく思いながら。
そして隆一も、惜しげもなく想いを向けてくれるイノランを愛おしく思いながら。
取り敢えず今は離れたく無いと。離れられないと。
再び唇を重ねて、お互いを感じ合う。




「っ…ん…ぁ」

「隆…りゅうっ…」



ーーこの先はどんな…?
と、隆一はその時に自分がどうなってしまうのか。少しの怖さを感じたけれど。


(きっと、音楽と同じだ)


好きなひとと音と歌を合わせる喜び。
それと同じで。
好きなひとと身体を重ねたら、やっぱりそれは喜びと幸せでいっぱいになるのだろう。
両手を広げてイノランに全てを曝すまで、あと少しだけ時間がかかりそうだけれど。


(イノちゃん、大好きだよ)


ーーー案外、その日は目前かもしれない…と。
ぼぅ…としてきた頭の端で、隆一はそんな事を考えていた。













サァァァ…


一夜明けた朝は、早朝から小雨が降っていた。
昨夜、遅くにイノランが帰って行った後に少しだけ眠った隆一。
いつものように、まだ太陽が水平線から顔を出す前から外に出た。



「ーーーあれ、降り出してる?」


昨日、同僚のJに出会った際に知らされていたのは、午後からの降水という事だったけれど。
まだ暗い空からは、細かな雨粒がシャワーのように降り注いでいる。
ーーーとは言え。
風も雲も、隆一もJも。自然と共にある仕事だから。予報がずれ込む事もよくある事だ。




「おはよう」



隆一は濡れるのも厭わずに、灯台の前で空を見上げると挨拶をした。
もちろん誰がいる訳でも無いけれど。
いつも共にある空に向かって…だ。



トッ。



隆一は軽やかに地面を蹴ると、そのままフワリと空に舞い上がる。
風はほぼ無い雨降りの空。
夏場の今は、もう間も無くすると太陽の端が徐々に見えてくる頃だが。
厚い雨雲のせいか、今朝はこの時間帯にしては暗い。

隆一は東の空を向いて腕組みをすると、何だかふに落ちない顔をして、首を傾げて。これまた誰もいないように見える空に向かって名前を呼んだ。



「J。ーーーいる?」



隆一の呼んだ名前。
J…。隆一の同僚の雲職人だ。
暫しの静寂の後、隆一の上方から、少々間伸びした声が聞こえてきた。



「よーう、呼んだ?」

「J」



Jは人懐っこい表情を浮かべて、片手をあげて隆一に挨拶した。
長身のJは、まるでロックンローラーのようなスタイルで。明るい金色の髪の下で、眠た気な目が愛嬌よく笑う。




「隆。パトロールか?」

「うん。Jも今朝は早いね」

「ん…まあな?…や、ちょっとさ」

「うん?」

「ちっとミスった」

「!」

「…雨雲。作り過ぎ…かなぁ?って」

「やっぱり!」

「あ。バレてた?」

「わかるよ。だって予報よりだいぶ早いし。それに黒雲…Jが昨日言ってたのより分厚いなぁって思ったもん」

「ああ~~っ」

「ふふっ」

「隆、お前…無関係だからって笑ってんじゃねえよ~」

「無関係じゃないでしょ?同じ空の者。助け合わなきゃね?」

「隆~…」

「今日はこの森で小学生の遠足があるみたいだし…午後からの降水ならまだしも、朝から降ってたら中止になっちゃうもん」

「ーーーわかってるよ。だから今、せめてこの森周辺の雲だけでも薄くしようってやってたんだよ」

「うん」

「けどよ。雲密度の調節をどこで間違ったんだかびくともしねえ」

「ーーー」

「…退かすまで、間に合うかどうか」



Jの表情が翳る。
自分のせいで子供達の楽しみが延期…もしくは中止になったらと思うと。

しかし、上質かつ力強い雲を作り出せる〝J作〟の雨雲だ。
そうそう、空に広がる雲を消すなんていう事は容易では無いのだ。


寄せた眉間の皺を、ますますギュッとキツく刻んで。
ため息とともに、自作の雨雲を見上げた時だ。



「手伝うよ?」



明るさを含んだ、隆一の声が聞こえた。










「要は全部吹き飛ばしちゃえばいいよね?」



隆一はどんよりした雨雲を指差して。
呆気にとられるJににっこり微笑んだ。



「…え。全部飛ばすって…ーーーオマエ」

「J昨日言ってたでしょ?今日の降水は、暫く雨が降ってなかったのを解消する為って」

「あ…ああ、まあな?」

「広範囲にぱあっと短時間の降水で良かったんだよね?だったらもう充分潤ったと思うから、雨雲退かせても大丈夫でしょう?」

「ーーー充分過ぎるくらい降らせちまったしな」

「じゃあ、日が昇るまでに退かそうよ。風を起こして、海の方に飛ばしてみる」

「ーーーえ」

「すっっごい風、起こすからさ!」

「っ…ええっっ⁇」








森の上空に広がった雨雲。
予めJが、可能な限りぎゅっと一ヶ所に集めて。
しかしそれによって、ますます密度の増した雲の塊り。
隆一は真上に鎮座したそれを見据えると、キッと口をひき結んで隣にいるJに言った。



「J君いくよ⁉俺が海の方に風で押し流すから、J君は新しい雲を作って」

「ーーー雲?」

「大っきいのだよ?真っ白で大きい雲を作って置き換えるの!」

「なるほど!了~解‼ーーーだったら…ちょうどいいのがあるぜ!」















ビュオオオオッッ…ーーーーー

バサバサバサッ

ピーッピイピイ…




隆一の起こした風は森をざわめかせる。
鳥達は一斉に飛び立って、薄暗い早朝の空に消えた。

風によって叩き付ける横殴りの雨が、隆一とJに容赦無く降り注ぐ。
風と雨と波の音で辺りは大騒ぎだ。



「隆っ‼オマエそんな馬鹿力出して大丈夫かよっ⁉」

「え?なぁに?風の音で聞こえないよー」

「っ…馬鹿力!平気か⁇って」

「ヘイキだよー!ほらJも早く早く!大っきい雲‼」

「お、おう‼…よしっっ‼」




徐々に海上の方へ移動し始める雨雲の塊り。その風の威力にJは目を見張りつつも。今は己のする事に集中せねばと、両手を天に翳す。
Jとて、この仕事を今までこなしてきたプロだ。瞬く間に生み出される白い靄。
それがJによって意思を持ったように、流れて集まって、次第にそのかたちを現してくる。



「どうだっ‼ーーー特大の」

「わ…ぁ!すごいね‼」

「空に泳ぐーーーーークジラ雲だ」














眼下の森から、子供達の賑やかな声が聞こえてくる。
早朝から大仕事を終えたJと隆一は。崖の上に腰掛けて午前中の空を眺めていた。
目の前の空は、早朝の雨が嘘だったように晴れ渡っている。
そして、青空にはゆったり泳ぐクジラ雲。




「すっかり晴れちゃったね」

「海上に押しやった雨雲…完全に霧散したな」

「ね!遠足も出来て、良かったよね」

「ーーーだな。…ーーー隆、サンキューな」

「え?ううん」



にこにこ微笑む傍らの風使いを、Jはチラリと見る。

ーーー隆一と出会ったのは、ずっと前。
あの頃はお互い、独立してすぐの頃だった。まだ慣れないひとりでの空の仕事。
Jと隆一。それからスギゾーと、雷鳴使いの真矢と。
慣れない同士、高めあって励まし合ってここまできたものだ。

その頃から変わらない隆一の微笑み。
にこにこして穏やかで。それでいて芯が通って仕事に真剣で。
当時はおかしな風をよく起こしては慌てていたけれど。
ーーー今日のあの風。
下手をすれば暴風被害が起きかねない難しい風のコントロールを。
隆一はJに的確な指示を出しながらこなしてしまった。



(ーーーこいつ…いつのまにこんな…)



Jは今朝の隆一の姿に正直驚いていた。
四人の中では小柄な方の隆一。
その様子から見たら、暴風よりもそよ風の方が似合って見えるが。
いつからこんな風使いになっていたのだろう…と。



「ーーーJ君のクジラ雲…いいねぇ」

「ん?ああ…ーーーそっか?」

「うん。夏空にぴったり」

「ーーーそっか?」

「そうだよ。…そうだな…こんな雲にはこんな風がいいよね?」



そう言うと。
隆一は片手を振りかざすと風を渡す。
この夏空に似合う、爽やかな風だ。

Jは心地いい風に吹かれながら、もう一度傍らの隆一を見る。
長めの両サイドの黒髪が揺れて、微笑むような横顔。
なんだか隆一が、ここしばらくの間に綺麗になったように感じた。



「ーーー…」


その横顔を見て、Jは先日スギゾーから聞いた話を思い出す。
詳しい事は聞いていないけれど、スギゾーが嬉し気に…しかしどこか心配気に教えてくれたのは隆一の事だった。


ーーー隆ね、大切なひとができたみたいだよ。



(ーーー大切な奴…か)



ひと言で〝大切〟と言っても色々あるけれど。スギゾーの言う〝大切〟が隆一にとってどんな存在か。それはスギゾーの話し方を聞けばすぐにわかった。



隆一がどことなく綺麗になるような。愛するひとができたのだと。













Jと別れた後、そのまま朝のパトロールに出た隆一。今朝はあれだけの大風を起こしたから、隆一は風の及んだ範囲を丁寧に見回ると、木々や山道の様子や、崖の下の岩場の状態を見てホッとした。
目立つ変化は見当たらない。上手く風がコントロール出来たんだ…と。
隆一はもう一度肩の力を抜いた。




「ーーー」



ぐうぅ…。


「あ。」


腹の虫。今朝はまだ朝食を摂っていない事にようやく気が付いて。
気が付いた途端に、空腹感は耐えがたいものになってきた。


「ーーーお腹空いた…」


隆一は腹に手をあてながら苦笑を零して。近く見える灯台の方へと降り立って行った。









朝食を終えて。ようやくお腹を落ち着けて。隆一は再び空の上へ。
今日は月曜日。
一週間の内で、この日だけ違うルートでパトロールをする日なのだ。
いままでは日暮れに合わせて空に出ていたけれど。音楽を始めてからは、この後にスタジオに顔を出す予定だから、最近は時間を早めている。


隆一の住む灯台のある海岸線をずっと進んだところ。
そこに立つ、もうひとつの灯台。
隆一の家の前の灯台は真っ白だが、ここの灯台は煉瓦で出来た物だった。かなり長い間潮風にさらされてきたのか、所々欠けて風化している。
隆一はその灯台の下に降り立つと、手慣れた様子で小さな扉を開けて中に入って行った。

コツコツと内部の螺旋階段を登った隆一は、昼間にもかかわらず真っ暗な天辺の部屋の中で火を灯した。



シュッ



マッチを擦った途端に明るく灯される灯台の内部。
ここの灯台は手動の大きなネジを巻く事で歯車が動く。動き出した歯車は、規則正しく回って夜の海に光を振り撒くのだ。
しかし週一度、月曜日に隆一が巻きに来るネジの動力は一週間しか保たない。
隆一の家の灯台は太陽光で動くようになっているから平気なのだが…。



「ろうそくも…替えないとね」


灯台の最も重要な巨大な目を灯すのは、ろうそくの火だ。
中に仕込める最大サイズのろうそくも、やはり保って一週間がやっとだ。

内部のライトは電気が主、動力も電動が当たり前になっている今の時代で、この灯台は何もかもが旧式だった。
隆一の家の前の灯台の方が大きく、その光の届く範囲も段違い。本当は、白い灯台だけで、この辺りの海上を照らす事は可能で、この古い灯台は無くても困る物ではないのだけれど。

ーーー風使いの、代々の仕事…というのか。大切な物だったのだ。

一週間分の埃をはらって、歯車を動かし、新しい火を灯して。
隆一はホッとして、灯台の小窓から遥か向こうの景色を眺めた。



「ーーー…」


向こうの方角に、もうきっとスタジオに到着している筈のイノランがいる。
その事を思うだけで、隆一の胸はぎゅっと甘く軋む。


「ーーーイノちゃん」

ーーー隆ちゃん

「っ…イノちゃん」



どきどきと。
イノランを想うと苦しい。
本当に、こんな感情を持つ日がくるなんて思わなかった。



「ーーーっ…」


ぎりっ…
小窓の桟を握る手が爪を立てる。
こんな場所で、ひとりきりでイノランを想うと。
苦しくて…苦しくて…


イノランと好きだと言い合って、キスを交わすようになって。
もっともっと、イノランに身を任せてしまいたいと思う度。
音楽の楽しさを、どんどん知るようになる度に。

風使いとしての自分が、冷静に自分を見つめている気がするのだ。


ーーーいいの?そのまま突き進んでホントにいいの?音楽も彼も。深く深く愛して、決断しなければならないその日に…迷わない?



「ーーー…」


イノランと葉山と音楽をしたいと言った事。イノランと一緒にいたいと言った事は嘘なんかじゃない。
自分で望んで決めた事。
ーーーけれど。時折こうして自問自答する事はある。

先代の風使いが言っていた事。
どの風使いも、一度は必ず風と対峙しなければならない時が来る。
そして隆一は、その日が自身の風使いとしての決断を迫られる日だと、何となく感じていた。

風使いの掟。
それをこの先一生をかけて全うするか。
それとも風使いの全てを棄てるのか。

隆一はこの事を考える度に、頭の中が纏まらなくなって、結局いつもその先は考えないでいた。
ーーーけれども。



「ーーーイノちゃんをずっと好きでいたい」


「音楽を…やめたくない」



大切なひと。
音楽。


これに出会って、隆一の意識が徐々に変化し始めた。



「ーーーこの灯台とも…いつか。ーーーお別れする日が…くるのかな」



爪を立てていた手を、今度は煉瓦の面を愛おし気に撫でて。
いつか別れが訪れるかもしれないその日を想う。
それでも。
隆一の心に思い描くのは、自由の象徴である空から逃れて。
自由に地を駆けて生きる、自分自身の姿だった。






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