round and round (みっつめの連載)







蒼い森に足を踏み込むと。

外界との境目がわかるように、空気が変わる気がした。

ひんやりした空気と、樹々の匂い。
静謐な雰囲気が、そこにはいつもあって。
誘われるままに進む、その先には…。




真っ白な、君がいた。











イノランはこの森へ、度々足を運んでいた。
自宅のある都心からでも、車で気軽に来ることが出来る。早く仕事が終わった日の後にフラリと立ち寄ったり、休みの日なんかは、明るい内からこの辺りの街をぶらついて。日暮れに合わせてこの森を訪れたりしていた。

ようするに、お気に入りの場所だった。

夕暮れに来訪時間を合わせるのには、理由があって。
それは、踏み込んだ蒼い森の進む先に答えがあった。







今日も昼を過ぎた頃に仕事を終えたイノランは。都内のスタジオから車を走らせて、森のあるこの街に来ていた。到着したのはオヤツ時。森への道へ進む前に、麓のカフェでタンブラー入りのコーヒーと間食用のワッフルを買った。
このカフェのある辺りは、こんな素朴で洒落た小さな店が多い。地元の花畑のハーブで作った香り物の店や、パン屋。小さな食堂や、ギャラリーなんかもある。
イノランは夕暮れまでの時間を、よくこの辺りで過ごす事が多かった。




「そろそろ行こっかな」



カフェを出たところで、イノランは前面に鎮座する小高い蒼い森を見上げた。
再び車に乗り込んで、ハイキングコースの入り口の駐車場を目指す。

この森は、それほど標高が高いところでは無い。〝山〟という名は付いているが、平坦な場所も多く、イノランはいつも〝森〟と呼んでいた。




カサ。カサ。パキッ。




背の高い、真っ直ぐな樹々が林立する森を、イノランは歩く。
その足運びは迷いが無くて、それが度々ここを訪れている事を示している。


イノランがここを初めて訪れたのは、実はもうずっと昔のことだった。
初めて来たのは…子供の頃。
確か、家族とハイキングに来たんだったと思う。
背の高い樹々が、ずっと上まで伸びて。子供だったイノランは、上を見上げて。その先がどこまであるのか想像できなくて、途方にくれたものだった。

今ではしっかりコースが作られているこの森も。その当時は、まだまだ野性味溢れた場所だった。

家族と昼食を摂って、大人達が食休みを始める頃。イノランは、そっと。冒険に出たのだ。

大人に言えば止められるであろう、一人きりでの冒険。探検。
わくわくして、ドキドキして。
イノランは、ちゃんと戻れるように。道端の大きめの石ころを拾っては、歩く先々で目印に置いて行った。

この森は光が多く射し込んでいる。木の形状もあるのだろうか。真っ直ぐな樹々の隙間から入った太陽光は、まるで光のカーテンみたいに見える。

だからなのかもしれない。
不思議と怖さは無かった。
イノランは、誘われるように。
森の奥へと進んで行った。



ーーーそして。

イノランはその先で。
〝天使〟を見たのだ。












「ーーー天使…か」



歩きながら、イノランは考える。
あの時のアレは、天使…。
いや。鳥だったのかもしれない。
ーーーでも。




「やっぱ、天使…だよなぁ」




子供の頃の記憶なんだけれど。
イノランは、大人になった今でも…というより。最近になって急にだ。こんなにあの記憶が気になり出したのは。
実際、学生時代や、大人と呼ばれる歳になってしばらくは、思い出す事も少なくなった。

それはそうだろう。



「だって…天使って」



それを見たと。
そんな話、そうそう話せるものではないし。誰も信じはしないだろう。
仮に自分がそんな話をされても、半信半疑な目で見てしまうと思う。




( でも… )



けれど。
それでも、思う。

あれはきっと、天使だったと。







あの、子供の日。

一人きりの冒険で、森をずんずん進んだイノランは。
樹々の柱の向こう側が、オレンジ色に輝いているのを見た。重なる幹の細い隙間から漏れる輝くオレンジ色。
イノランは、その光に魅せられて。
その、光の源へとさらに進んで行った。





「わぁっ …」




樹々を抜けて。それまで下草に覆われていた大地が、急に剥き出しに岩に変わったと思ったら。

目の前に現れたのは。
一面のオレンジ色。

空は夕暮れのオレンジ。
その下には、海が広がって。
空のオレンジ色を受けた海面は、キラキラと眩しい程に輝いていた。

森を抜けた向こう側に、こんな海が広がっていたなんて。

海を臨む崖の上に立って。
イノランは自分一人で見つけたものの素晴らしさに、確かな満足感と達成感を感じていた。


しばらくそこで、膝を抱えて景色を眺めていたイノラン。
空がだんだん薔薇色に変わる頃。
そろそろ戻ろうと、立ち上がった時だった。


フッと。
視界に入った。
自分の座っていた崖の、十人分くらい隣に。
いつからいたんだろう。
イノランと同じくらいの、子供。
イノランからは横顔しか見えないが。
色白の、黒髪の男の子。
毛先がちょっとだけ癖があるのか、ふんわりと外側にはねている。

さっきまでのイノランと同じように膝を抱えて。じっと、海を見てる。

イノランは、自分と同じくらいの子を見つけた事が嬉しくて。
恐れなんかこれっぽっちも無くて。
ドキドキしたけれど、勇気を出して。
その子に、声を掛けた。




「君…だれ?」




振り向いたその子の表情は、微笑んでいて。
少しだけ茶色がかった大きな瞳が、イノランを見つめていた。









イノランの問い掛けに。
その子はにっこり微笑んで。
まるで向こうはイノランを知っていたみたいに。
物怖じしなく、見つめて。

立ち尽くしていたイノランが。一歩、
その子の方へ歩み寄ろうとした時だった。


本当に、ほんの一瞬。


その子の背中から、羽根が生えたと思った。白い光を振りまきながら、羽根を広げて。
ぐんっ …とイノランの間近に来たと思ったら、また、微笑んで。
そのまま、薔薇色になった空へ、消えていった。











あの出来事は、なんだったのか。


あの後、元来た道を戻ったイノランは。当然ながら、大人達に懇々と叱られて。
でも、例の出来事が衝撃的過ぎて。
お説教の言葉も、当時のイノランは、全く耳に入ってこなかった。





「人型は…してた」

「鳥だったら、人型なんてしてない筈」

「ーーーただの子供?」

「でも…羽根があった」

「真っ白で、綺麗な」

「ヒトに羽根が生えて空に消えたって。ーーーーー天使…だよなぁ」



イノランはうんうん唸りながら、道を進む。
時間が経てば経つほど、その記憶は鮮明さを失っていくけれど。

最近になって。
記憶の奥から引き出された、あの微笑みが、忘れられなくて。

あんなに穢れのない。綺麗な微笑み。
柔らかそうな黒髪と。
大きな瞳と。
真っ白な光に包まれた、あの子。

もしイノランと同じように成長しているなら、きっと同じくらいの年齢だろう。




( もう一度、会ってみたい )




それが。
ここ最近、イノランがこの森に通うようになった理由だった。



君は誰?
どこから来たんだ?
君は俺を知ってたの?
君は…。
君は、天使なのか?




さくさくと森を突き進んで。
タンブラーの中のコーヒーがちゃぷちゃぷ音を立てる。
いつもはコーヒーしか買わないのに、今日はワッフルまで買った。
間食用…と思いつつ。そこまで空腹では無い。
ーーーただ。買っていこうと。あの時強く思ったのだ。
ワッフルを注文しながら、イノランは心の奥でドキドキしていた。
ーーーなにかが起こるって。

ーーーきっと今日は、いつもと違うって。予感がした。



樹々の隙間からオレンジ色が見え出した。
あの時と同じ。
ドキドキして、その先が、早く見たくて。
気持ち早めになった足運びが、下草ではなく、岩場を踏みしめた時。


ぱあっと、オレンジ色が広がった。






「ーーーーーーーーっ …」






ここに他の誰かがいた事なんて、あの子供の日以来だ。
後ろ姿だけだけど。イノランと同じくらいの背丈。ちょっとだけ癖のある、ふんわりした黒髪。
白いシャツとジーンズ姿で、海の方を向いている。




ーーーーL a…L aL a…ーーーL a… a… a…ーーー





歌声が聴こえた。
風と波音に混じった、微かな、優しい声。

綺麗な歌声だ。…そう、イノランは思った。
じっとその声に聴き入って。
イノランが、あまりの心地良さに目を閉じた。ーーー…ら。



ぐうぅ…



「え…。」



歌声とはうって変わった、空腹の音。

イノランでは無い。ーーーと、したら。
目の前の人物が、腹を抱えるように俯いた。
イノランは一瞬、呆気に取られて。でも、今の腹の虫が目の前の彼だとわかると。躊躇なく歩み寄って、声を掛けた。




「一緒にオヤツ。食わない?」



「ーーーーーーえ?」





振り向いた彼は。
間違いなく。
あの日の、あの子の面影。


また会えたんだ。







「ワッフル好き?」

「ーーーワッフル…?」

「ーーーーー知らない?」

「ーーー初めてです」

「そっか。美味いよ?腹減ってるみたいだから、どうぞ」

「っ …ありがとう」




空腹を指摘されて恥ずかしいのか。その彼は頬を染めて、ワッフルを受け取った。
紙に包まれたそれを、じっと見て。どの辺りから齧れば良いのか考えているのかも知れない。
しばらくドキドキした様子だった彼は、漸くひと口。
パクッと。ワッフルに噛り付いた。

もぐもぐと咀嚼して、ごくんと飲み込んだ彼は。
よほど美味しかったのか、目を輝かせた。



「美味しい!」

「ん?ーーー良かったね」

「はい!」




こくりと頷いて、もうひと口。もうひと口。
その度に、心底美味しそうに微笑む彼。見ているこっちも良い気分になると。イノランはコーヒーを啜りながら、そんな彼を見つめていた。





最後のひと口を、ごくんと飲み込んだのを見計らって。
イノランは、早く聞きたくて待ちきれなかった事を、やっと問いかけた。





「君は、誰?」




じっと、彼の目を見て。
イノランは言った。

すると彼も、聞かれると思っていたんだろう。驚きもせず、構えることもせず。
ご馳走さま。と、ひと言言ったあと。
教えてくれた。




「隆一」




「ーーー…隆一?」

「うん」

「隆一…隆。ーーー隆ちゃん」

「ふふっ 、どれでもいいよ?」

「ホント?ーーーじゃあ、隆ちゃん」

「はい」

「ーーー別にいいよ?あらたまんなくて。俺ら同い年くらいじゃない?」

「う…うん!そうだね、同じくらいかもしれませ…しれないね?」

「ははっ、隆ちゃん面白い。ーーーじゃあ俺はね、イノラン」

「イノラン?」

「そう」

「イノラン…イノラン…イノ…ーーーイノちゃん」

「俺も良いよ?なんでも」

「ーーーじゃあ、イノちゃん」




不思議だった。
こんな風に出会ってすぐ、笑い合えるなんて。











「ーーーーー隆ちゃん」

「はい…あ、なに?」

「ーーー俺を、知ってる?」

「ーーー」

「俺は、知ってるよ?ーーー隆ちゃんを」

「ーーー」

「ーーー子供の頃出会った、あの子でしょ?」

「ーーー」





隆一は、じっと。
イノランを見ていた。


見定める目…というよりも。
好奇心で、きらきらした。そんな目だ。





「俺はね、子供の頃ここへ来て。その時、きっと。隆ちゃんと出会ったんだ」

「ーーー」

「いつの間にか、そこにいて。ちょっとだけびっくりしたんだけど…」

「ーーー」

「綺麗だなって、子供心にも思ったって、覚えてる」

「ーーー」

「色白で、黒髪がふんわりしてて、ちょっとはねてて。ーーー目が、大きいなって」

「ーーー」

「ーーー笑顔がいいなって」

「ーーー」

「ーーーーーー」

「ーーー」

「ーーーーーーー隆ちゃん」




ーーー君は、天使なの?




そう、言おうとしたけれど。
イノランはぐっと、言葉を飲み込んだ。

それはまだ。再会して間もなくの会話には、ちょっと踏み込み過ぎるかな…って。思って。

今度また聞けばいいって。

イノランは、にこっと笑って。
さっきから黙ったままの隆一に問いかけた。





「ーーーまた会えて、俺は嬉しいんだけど。ーーー隆ちゃんは?」

「ーーー」

「ん?」

「ーーーーーーーーーーー俺も」

「ーーー」

「ーーーイノちゃんを、知ってる」

「ーーーん」

「昔にここで会ったのは、俺」

「うん」

「あの頃はイノちゃんも…髪が黒かったけど。面影は同じ。ーーーカッコいいなぁ…って」

「ホント?」

「今日久しぶりに会えて、髪色が変わってて」

「わかんなかった?」

「ううん、違くて。ーーーもっと、カッコよくなったなぁ…って、思ったよ?」

「っ…!」

「また会えて、俺も嬉しい」




そしてにっこり微笑んだ隆一は。
あの日見た。
イノランを虜にする微笑みだった。










空が薔薇色に変わる頃。
隆一が、そっと立ち上がった、




「イノちゃん、俺もう帰るね」

「え、もう?」

「うん」

「ーーーそっ…か」

「ーーーーーごめんね?」

「いいよ、そんな、謝んなって。せっかく会えたけど、仕方ないよな」

「うん…」

「でも隆ちゃん、また会える?」

「え?」

「ここへ来れば、また会えるか?ーーー…つか、会いたい」

「ーーー」

「今日でまたサヨナラなんて、嫌だ」





色々聞きたい事があるから…じゃなくて。
純粋に、また会いたいと思った。

隆一と再会した瞬間から感じている、胸の騒めき。
まるで子供の頃、ひとりで冒険した時みたいな。ドキドキした気持ち。

それが止まない。
さっきからずっと、イノランの気持ちを急かしてる。


また会いたい。って。






「ーーー会えるよ」

「ーーーっ …」

「俺はいつも。月曜日の夕暮れに、必ずここへ来る。オレンジ色の夕陽があんまり綺麗な日は、月曜日じゃなくても来る事があるけど」

「月曜日?」

「うん。ーーーまぁ、仕事の関係で…月曜日なんだけど」

「仕事?隆ちゃん何の…」




何の仕事してんの?って聞こうとして、もう一度言葉を飲み込む。
そういうのも、また今度でいい。
また会えるってわかったんだから。





「じゃあ、わかった。毎週月曜日はここへ来る。ーーー約束」

「うんっ…ーーー嬉しい」

「俺も嬉しい」




お互い照れくさそうに、頷き合う。
隆一が、すでに薄紫になりかかった空を見上げて、名残惜しそうに踵を返した。




「イノちゃん、今日はまた会えて本当に嬉しかった。ーーーまたね?」

「うん、隆ちゃんありがとう。また来週、楽しみにしてるよ」

「うんっ」





じゃあイノちゃん、ばいばい!って手を振って崖伝いに駆け出す隆一。

見ている側から、どこに帰るんだろう。とか、そんな疑問が出てくるけれど、今はそれよりって。

イノランは大きな声で、隆一の背中に向かって叫んだ。





「隆ちゃんの歌声、すっげえ好きだからな!」




そのイノランの叫びに、遠く手を振って、応えてくれた隆一。
それが嬉しくて。



ーーー歌声だけじゃなくて…



そう心の中で呟いて。
隆一の姿が完全に見えなくなると。
イノランも、薄紫の森を。元来た道を戻っていった。














「おはようございます、イノランさん」

「おはよ~葉山君」





イノランの職業はミュージシャンだ。
今までには大きなバンドに身を置いていたけれど、個々が成長していった今。それぞれがより成長する為に、やりたい音楽を追求する為に。
ソロ活動を中心に音楽を作っている。

葉山はイノランの相棒。
ピアニストの彼は、アレンジも作曲もこなす、イノラン・ソロワークに必要な人物だ。


実は今、ニューアルバムの制作中。
スタジオに篭りきりの日々が続いている。ーーー当然、太陽光もさほど浴びずに篭りきり。疲れも溜まってくるのは、制作期間は仕方ない事かもしれないが。
葉山曰く、ここ数日のイノランの疲弊ぶりは心配になる程だったという。

ーーーところが。





「イノランさん、今朝は元気そうですね?」

「ん?そっかな?」

「はい。ここしばらくの疲れっぷりが嘘みたいです」

「ーーーホント?」

「スッキリしてて、爽やかな気配が…」

「あはは!爽やかって」

「そんな風に笑っているのも、久しぶりですね」

「そう?」

「ーーーなんか、いい事ありました?」

「!」




いい事…なんて。
葉山に指摘されて、隠しきれない、照れと笑みがこぼれる。




( いい事。ありまくりだよ )




隆一に再会できた事。
ーーーそれが、こんな風に表にも現れるくらい、嬉しかったんだって。

イノランは首を傾げる葉山に、教えてあげた。





「ーーー初恋のひとに再会できた…って。そんな感じのいい事、あったんだ」




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