長いお話・2 (ふたつめの連載)
例えばこの世界に。
神様というものが存在するとして。
万物を創り上げるほどの力を以ってしても。
手に入らないものがあったとしたら。
渇望する、そのものが。
この地上にあると知ったら。
神様は。
どんなに手を伸ばしてでも、手に入れようとするのだろうか。
たとえどんな力を、使ったとしても。
歓声が、ステージ袖まで地響きのように鳴り響いている。
立っているだけで、ビリビリと足の裏から全身に電気が流れるよう。
スタッフ達の、足元を照らすペンライトだけが光る暗幕の中で。
メンバー達は円陣を組む。
イノランは隣に立つ隆一の様子をそっと窺った。
不安に揺らぐ隆一。
常である姿勢を保てない程、恐らくその心は乱されて。
イノランに縋り付いてきたのは先程の事。
今日のステージで、夢で見た事が起こったら…と杞憂していた隆一。
さすがにそんな事が起こるとは考え難いけれど。
でも…。
ここ数日の事を思い返すと、全く無いとは言い切れない気もする。
『不安になっちゃって…』
自分がどうにかなってしまうのでは…。という不安も勿論あるのだろうが、隆一が一番に案じるのは、大切なライブが万が一にも自分のせいで良いものに出来なかったら…という事だろう。
プロのヴォーカリストとしての責任。
聴きに来てくれるファンに、おかしなものは見せられないと。
『キスして…』
そう言って目を閉じた隆一には、イノランは少し驚いた。
常とは違う空気を纏って、気持ちを曝け出してくれる隆一が嬉しかった。
( ーーキスが精神安定剤みたいになってんのかな )
隆一を助けると言ったのはイノランだ。それでなくとも、好きな相手。
キス…なんて。そんな甘い感情を伴なうもので隆一の不安を拭ってあげられるなら。
( 何度だって、喜んでするよ )
イノランはもう一度、隣に立つ隆一を見る。
さっきの揺らいだ様子は今はない。
( 大丈夫かな?)
もし何かあっても、隣に自分はいる。
隆一を守れる側に。
だから、存分に歌え。
そんな想いを込めて、気合入れの掛け声をした。
暗いステージへと、メンバーは順に上がって行く。
真矢、スギゾー、Jと進んで行く中で。
さあ行こうと、足を踏み出したイノランは。急にクッ…と、後ろから引っ張られる感覚に歩みを止めた。
「⁉」
何事かと後ろを振り返ると、最後にステージに上がる隆一がイノランのすぐ後ろに立っていた。立っている隆一の手が、長く垂らしたイノランのエクステの先を握っていて。
その手が小さく震えているのが、暗闇でもイノランにはわかってしまった。
「隆…?」
「っ …」
ステージ袖の僅かな光が隆一の瞳に映って。それが不安げに揺れている。
震える手も、揺れる瞳も。
切にイノランに訴えかける。
ーーー待ってっ 、ひとりにしないで。
直前でこんなこと。
あまりにらしくない行動過ぎて。
さすがのイノランの顔にも緊張の陰がはしる。
「どうした?」
歓声で掻き消されてしまうから、隆一のすぐ側に顔を寄せて問いかける。
間近に迫った隆一の表情は、これからステージに上がろうとするヴォーカリストのものでは無い。
眉根を寄せて、唇を噛んで、ふるふると首を振る。
「隆ちゃんっ …」
「っ …ーーー怖いよ…なんか、急に…」
「え??」
「円陣…組んでるまでは、平気だったのにっ …今…急に」
「ーーーっ …」
「ーーーーーこわいよ…イノちゃんっ 」
「っ …‼」
イノランさん早く!
背後からスタッフの声がかかる。二人がステージに上がらなければ進まない。もう三人はステージの上だ。これ以上ここで時間がかかれば、メンバーやスタッフに不審に思われてしまう。そしてその空気は、客席へと伝わってしまうだろう。
イノランは咄嗟に隆一の手を掴むと、力いっぱいその身体を抱きしめた。
「俺はここにいる!側にいるから!」
「イノっ …」
「怖くない!ーーーーー隆…お前の歌で…」
「っ …」
「よくわかんねぇモノ、逆に怖がらせてやれ‼」
隆一の後頭部を引き寄せて、一瞬の柔らかなキス。
隆一がびっくりして目を見開いている間に、ぐんっ…と。イノランは隆一の手を掴んだまま、一緒にステージへと進む。
イノランはギターを受け取ってストラップをかけると、中央に立つ隆一へと駆け寄った。
普段はしない動きのイノランを、三人が怪訝そうに見ているのを感じたけれど、今はそれどころでは無かったから。
マイクの前に立つ隆一の耳元で、イノランは構わずに囁いた。
「ヤバくなったら、俺んとこに来い」
「ーーーっ 」
その時は、キスしよう。
隆一の瞳に、本来の力が戻るのがわかった。
それを確認して、イノランはほっと胸を撫で下ろす。
足早に自分の位置に戻りながら、それにしても…と、イノランはまた思った。
( ホント、真面目な話。キスが効くのかも )
なんの確証も無いけれど。度々起こる事態を上手く鎮静化させているのは、他ならないキスだ。
イノランが隆一にするこの行為が、どんな風に作用しているかなんて解らないけれど。下手に変な解毒薬を用いったり、はたまた変な呪文を唱えたりするよりも、遥かに健全に思えた。
( どこでだってできるし )
手軽さもさる事ながら、何よりキスに込められた想いにだ。
( 隆を好きだから、できる事だけどね )
隆一の斜め後ろに立って、イノランは改めて思う。
ここから見る隆一が好きだ。
目を閉じて、じっと音に身を委ねる隆一が好きだ。
時には髪を振り乱して、時には空気にとけそうに歌う隆一が好きだ。
歌いながら視線を向けて、輝くように微笑みかけてくれる隆一が堪らなく好きだ。
それを守りたい。
今、それを守れるのが自分なんだとしたら。
貫き通すだけだ。
隆一が好きだと。愛していると。
揺るがずに、想うだけだ。
照明の明かりが一気にステージを照らす。各々の楽器が唸り始める。
隆一も落ち着きを取り戻して、堂々とマイクの前に立った。
一曲目から、隆一の歌声は心地よく遠く響いて。
二曲目、三曲目…客席の熱量を上げる曲が続く。
MCを挟んで、よりディープな曲へと進んでいく中で。ドラムソロ、ベースソロとセッションの最中に衣装チェンジで袖に下がった時だった。
イノランは水分補給をしつつ袖からステージを眺めていた時。
ライブ前に、人探しのお願いをしていたスタッフが近寄って声をかけてきた。
お疲れっす!
お疲れ!
と、軽快な挨拶を交わしたあと、スタッフは笑顔で言った。
「入場の時、ロビーにいたスタッフが、もしかしてあの人かも?って言ってましたよ」
「えっ⁉」
「入場時だったんで、そのスタッフも行方を追えなかったらしいんですが、イノランさんの描いたイラストに似てたって」
「ーーーそっ…か」
「ホントにその方なら、多分今会場にいらっしゃるはずですよね?イノランさん、その方とコンタクトは…取れないんですよね」
「ん…。なんも、知らないんだよね」
「ですよね…。帰りのロビーも、まぁ…混雑するんですが…。また気にしておきますね!」
「ありがと!みんなにもありがとうって伝えてね!…会えなくても、来てるって事がわかるだけでも助かるから」
了解です!そう言って戻って行くスタッフを見送って。
イノランはまた、挑む視線で唇の端をペロリと舐める。
( 来ているんだ。ーーーきっと、隆を見に )
勘…だけれど。
あの非常階段での脅しで、あっさり引くような相手では無いと感じたから。
そして、ライブ本番直前の、急に怖がりだした隆一。
何か関連があるはずだ。
イノランはそう、確信した。
ならば。
来て、見ているならば。
それを逆手にとってやる。
見せつけてやればいい。
隆一の歌が、誰かの思い通りになんかならないと。
どんな攻撃を受けたって。俺がそれを全て、無に還してやるところを。
イノランの胸に湧き上がった、未知のモノへ決して屈しない心。
ぎゅっと握りしめた拳が、その気持ちの強さを表わしていた。
全員が衣装を変え、再びステージに集まった。年々増して行く、ライブならではのメンバー同士のトークタイムに。客席からは絶えず笑い声が響く。
ひと言も喋らずにステージを後にしていたあの頃は遠く。イノランは笑いを織り交ぜて、客席に呼びかけて会話を楽しむ。
イノランは違和感を探していた。
同調する空気感の中で。
サッと見渡した時に、僅かに視界に引っかかる違和感。
様々な理由で見つかる違和感はもちろんあるけれど。それでも、ここに集まってくれているひと達はほぼ、ルナシーが好きという動機があるはずだ。
だからこそ目立つ。
それに属さないモノ。
相手は隆一と一緒にいるイノランも見ているから。
邪魔をするイノランを快く思ってはいないはずだ。
( 誰か解んない、お前。見てるだろ?お前が欲しがってる隆はここにいる。歌声も、ここにある )
( でも、俺もここにいる。隆の側にいる。お前が隆につけた痕は、俺が隠した。俺が隆の側にいる限り、お前の勝手にはさせない )
( 何も言わず、何も教えずに怖がらせるのは卑怯だ。そんなお前に、隆は歌わない。無理矢理歌わせたって、それは隆の歌じゃないからな )
一瞬の間に込めた、イノランの言い分。伝わったかどうかなんて解らないけれど、それでも見えない相手に投げかけた戦線布告。
そして次の曲で、反撃ともとれる。
相手の反応が返ってきた。
照明が青く銀色に輝く。しっとりと歌い上げる、美しい曲で。
その最中だった。
スギゾーのバイオリンが奏でる間奏が過ぎて、隆一が再び歌い出した時。
びくりと、隆一の身体が一瞬震えるのがイノランにはわかった。
イノラン自身も繊細な指運びが必要な曲で、演奏も集中しないとならない。
気になって、ギターを弾きながらチラチラと隆一を窺うと。隆一がフッと振り返って、イノランを見つめて微笑んだ。
「ーーっ ?」
微笑んだ隆一は、とても綺麗で。
イノランは思わず見惚れた。
ーーーでもその瞳は。
「隆っ …」
まるでガラス玉。
隆一が忌み嫌っていた、何も映さない。人形のような、あの瞳だった。
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