長いお話・2 (ふたつめの連載)
眠りに引き込まれる時と同じような抗えない感覚。
今度は急激に覚醒する感覚を感じながら、隆一は瞼を震わせて、目を開けた。
「っ…隆!」
目覚めた途端に視界いっぱいに映ったのは…不安と焦りの表情を浮かべた人物。
ーーーイノランだった。
イノランは隆一が目を開けると一瞬ホッと息をついたものの、まだぼんやりと空間を見つめる隆一をぎゅっと抱きしめた。
サラリ…と。
長く片肩に垂らしたイノランの髪が、隆一の頬に掠めて落ちる。
「ーーー隆一‼…」
「…イノ、ちゃん」
「ーーーっ…りゅ、大丈夫か?どっか痛いとことか、変なとことか無いか⁈」
そのイノランの剣幕に。
自分への心配をどれだけしてくれているのかが伝わって来て。
隆一はきゅうっ…と甘く痛む胸を抱えて、イノランの背に両手を回した。
「…無い。ーーー痛いのも、変なとこも。ないよ?」
「…っ隆…。そっか、」
「ぅん、」
「よかった…っ…」
そして今度こそ、全く隙間が無い程の抱擁。
そのイノランと密着した部分のあたたかさに。
強く抱きしめられる腕の強さに。
隆一は心底安心して、同時に愛おしい気持ちが溢れて止まらなかった。
ーーーそれは、そう。
睡魔に落ちたあの空間で。
リュウイチとイノランの本当の意味での再会の場面に立ち会えたせいだろう。
互いに想いながらも気持ちを伝えぬまま離れ離れになっていた二人。
孤独も困難も難題も後悔も、全部全部乗り越えて。
やっと自由の身で再会した二人は、きっと今頃、今までの時間を取り戻すように寄り添っているに違いない。
そんな様子を目の当たりにしたら。
過去の自分とイノランの、愛のある場面を見てしまったら。
隆一も、手を伸ばさずにはいられないのだ。
目の前の恋人に。
「ーーーイノちゃん、」
「ん、隆?」
「…空、」
「ああ、」
「ーーー晴れた…かな?」
「大丈夫だよ」
「ん、」
「ーーーもう、大丈夫だ」
力強いイノランの頷きを感じて。
隆一は心からの、ほー…っとした息をついた。
ーーー終わったんだ。
ーーー本当に…と。
「ーーーね、あのね?話してあげたい事がたくさんあるの」
「うん、」
「リュウイチの事とか、ね?」
「ーーーん、いいよ。全部聞いてやる。やっと全部、終わったんだもんな?」
「うん!」
目と目を合わせて、額を擦り付けて。
隆一が晴れやかな顔で笑うと、イノランは本当にこれで全て終わったのだと。
込み上げる想いでいっぱいで。
イノランの長い髪の端をぎゅっと掴む隆一の姿を見たら、もう堪らなくなって。
隆一の唇に指先で触れて、悪戯っぽい微笑みでじっと見つめてくる隆一に、今度は指先じゃなくて唇で触れようとした…ーーーーーところが…。
「ウォッホン‼…んんーー。」
背後に響く大きな咳払いで、二人はハッとして。
隆一を押し倒すような格好でいたイノランは後ろを振り返る。
隆一もまた、目をぱちぱちさせて、咳払いの方に視線を向けた。
するとそこには腕組みして少々呆れ顔のスギゾーが、楽屋のドアに寄りかかって肩をすくめていた。
「あのねぇ、キミタチ。イチャつくのも仲がよろしくておおいに結構だし、やっと全部終わってめでたいのもいい事なんだけどさ」
「あ…。」
「ああー…」
「ライブはまだ終わっちゃいねぇよ?隆が倒れてる間の時間を真矢とJのセッションで繋いでる」
「!」
「ーーー全部終わった今、こっからはツアーファイルの続きと隆のバースデーだ。ギター弾くんだろ?いけるか⁇」
ニヤッと。
今度は不敵な笑みを浮かべるスギゾー。
今更だけれど、やっと広範囲に視線を向ける事で、ここがライブ会場の楽屋の中だと隆一は気が付いた。
ステージの上で歌い切って意識を失った隆一は、ここに運ばれてソファーに寝かされたのだろう。
そしてスギゾーが心配で慌てふためくスタッフ達を宥めて、こうして楽屋を自分達だけの空間にしてくれている事や。
表舞台では隆一を心配しながらも必死に時間稼ぎをして場を繋いでいてくれている真矢とJ。
さらにはあの暗闇の中でファンと共に光を灯し続けてくれた葉山やスタッフ達の存在。
ここには来れずとも、配信で全てを見守っていてくれた世界中のファン達。
そんな、数え切れないくらいの力に支えられてここまで来れた事に。
隆一はグッと目元が熱くなって涙を滲ませた。
「スギちゃんありがとう…!イノちゃんも、ありがとう。ーーーーー大丈夫だよ」
「ん、」
「みんな待ってる。ステージ、行けそうか?」
「うんっ‼」
ベース&ドラムセッションが終わった事は、照明が暗くなることで気が付いた。
青い空間に、三人の人物のシルエットが浮かび上がる。
それが真矢とJと入れ替わりで登場した三人のメンバーだとわかると。
会場のファン達や、心配していたスタッフ達や葉山は色めき立った。
ーーーI'll Stay With You…
そう、静かな声で曲名を呟いた隆一に、一筋のオレンジ色のライトが落ちる。
ーーーーその、姿に。
再び客席は色めき立ち、息を飲んだ。
二人のギタリストの間に立つ隆一がギターを抱えているのだ。
そのすぐ真隣にはイノラン。
反対側には、今回はヴァイオリニストに徹したスギゾーが立つ。
まさかここで隆一がギターを⁇
そんな期待に満ちた気持ちを誰もが抱える中で。
爪弾かれるギターの音色。
優しくて、どこか気怠げで。
細く啼く声のようなヴァイオリンの音色も相まって。
歌う隆一の声も、どこか泣きそう聞こえるのは何故だろう?
〝ーーーその 光の中で 羽根をひろげ 孤独に 咲く…〟
偶然かもしれないけれど。
ついさっき、確かに翼を戴いていた隆一の姿と、どこかこの曲は重なるようで。
一切の事情を知らないメンバー以外の人たちも。
溢れる程の、ここに至るまでの隆一の心情が。
痛いくらいに伝わってくるのだ。
ーーーそしてそれを支える、イノランの……
〝途切れそうな あなたの 途切れそうな 夢のつづき…〟
綺麗に重なる二人の歌声は。
聞いているだけで胸が打ち震えてしまう、灼けて蕩けてしまいそうな熱が込められていた。
思い返せば何て日々だったろう…と思う。
滞在先のホテルの非常階段で隆一が巻き込まれた…いや。
初めから隆一に白羽の矢が立てられて、あの日あの場所でそれがスタートしたのだ。
Happy birthday ‼ Dear RYUICHI ‼
目を覚ました隆一がステージに戻り、兼ねてからの希望であったギターと歌を無事終えて。
その後に待っていたメンバー紹介で。
毎度の如く、スギゾーとイノランによる隆一の紹介合戦⁇が始まると。
メンバー、ファン、スタッフ一同からのバースデーソングが贈られた。
「皆んなどうもありがとう‼」
心配も不安も、この日まで抱えていた大きな荷物をやっとおろして。
隆一は晴れやかな笑顔で感謝の言葉を言った。
(ーーーあぁ、)
見上げれば煌めく照明が見える。
さっきまでは闇に飲まれて、自身の足先すら見る事が叶わなかったこのステージで。
そしてここからは見えないけれど、暗雲に包まれていた空も色彩を取り戻したのだろう。
サァァァ…
耳を澄ませば、聞こえてくるのだろう。
凝り固まった闇達が、綺麗な雨になって降り注ぐ音が。
実際には数ヶ月の出来事。
しかしあまりに濃厚で、背負うものが大きくて。
随分と長い時間をこの出来事と共に在ったように思う。
けれども終わったのだ。
ツアーファイナルと、隆一の誕生日を迎えたその日に。
ーーーやっと…
〝ーーー世界中の地域で起こっていた原因不明の天候不良が解消されているとの情報が、各国の情報機関から続々と入ってきております。一夜明け、日本の上空にも停滞していた巨大な暗雲は今朝になり完全に姿を消し、昨夜の雨も上がり現在青空が見えております。ーーー突如発生し、前触れも無く消えた暗雲については今後、各国の研究機関と連携して調査が進められるとの発表が…ーーーーーー〟
pi。
カタン。
イノランはテレビを消してリモコンをテーブルに置くと、チラリと横にいる隆一を見た。
テレビの前のソファーで、膝を抱えてミルクティーの入ったマグに夢中の隆一。
ふぅふぅ…と、唇を突き出して冷ます様子があどけなくて。
イノランは、そんな柔らかな雰囲気を纏う恋人を。
ぐっ…と、抱き寄せた。
たぷん。
マグの中の熱々のミルクティーが波打って、隆一は慌てて両手で掴んだ。
「っ…んもぅ!イノちゃんってばイキナリ危ないでしょう⁇」
「ははっ、ごめんごめん。平気?」
「ーーー平気だけどさぁ」
「隆ってばミルクティーにばっか夢中だからさ。ーーー見てた?今のニュース」
「ん…。ん?」
「ーーー見てねぇな」
「っ…だ、だって!早く飲まないと冷めちゃうし」
「(ククッ…) ふぅん?」
「ーーー昨夜はツアーファイナルだったから、今日はぼんやり気味なんだもん…」
「だな。ーーーしかもただのライブのゴールじゃなかったもんな?」
「ーーーうん、」
遠くを見るような目で、隆一がリビングの窓からの空を見上げた。
ここ数日間、ずっと暗闇に包まれていた空だから。
こうして青い空を取り戻せた事に、嬉しさや感慨深い想いでいっぱいなのだろう。
そんな想いに浸っていたせいか、隆一の手がゆるっ…と緩んで。
持っていたマグが落ちそうに傾いた。
「ーーーと、」
「あ、ごめ…」
「ーーーこっち置いとくよ?」
「うん」
イノランは笑いながら隆一からマグを奪うと、テーブルのリモコンの隣にコトンと置いた。
半分くらい飲んだんだな…と頭の隅で思いつつ…
気持ちはもう、こっちへ。
「ーーー隆」
「ん?」
「ありがとう」
突然のイノランからの感謝の言葉。
隆一はぱちぱちと瞬きをすると、どうして⁇と、イノランに問い掛けた。
「青空を取り戻せた。ーーー隆とリュウイチが、必死に駆け回ってくれたからだ」
「え?…ぅうん!違うよ」
「ん?」
「皆んなもだよ。皆んながいてくれたから、頑張れたんだよ」
「…ん。」
「皆んなだよ?世界中の応援してくれたひとも、ファン達も、スタッフも、葉山っちも、スギちゃん、J君、真ちゃん…皆んな!」
「ーーーうん」
「もちろん、」
「ーーー」
「イノちゃんも、だよ?」
「…隆」
いつの間にか、イノランのシャツの裾をぎゅっと握りしめて。
じっと真っ直ぐに見つめている、隆一。
そんな隆一の目を見ると、何度も何度も思うことだけれど。こうして隆一と想いを通わせるようになれた事は、今回の騒動の中での、ある意味一番大きな事だったかもしれないと。
「ーーーココ、」
「え?…あ、」
「隆の手首。初めはホント…焦ったし、驚いたし」
「ふふふ、ねぇ?だってあんな手首の痕、身が竦んじゃうよね」
「な、マジであれ見た時、あの男早く捕まえて問いただして…!って。ーーーまぁ、実はあれはリュウイチだったってのが驚きなんだけどな?」
「ホント!良かったよ、イノちゃんに胸ぐら掴んで振り回されなくて。イノちゃん、目が怖かったし」
「だって、そりゃそうだろ。あん時は事情も何も知らなかったんだし…。隆に、あんなさ」
「ん、」
「でも、良かった。ーーー綺麗に消えたな」
「うん!ーーーでもね?」
「ん?」
「イノちゃんがブレスレット着けてくれたでしょ?…だからね、怖くなかったんだよ?」
「ーーーそっか、」
「ずっと側にいてくれた。初めの約束通り、俺の騎士みたいに、ずっと…」
隆一がイノランに両手を伸ばす。
すると左手首のブレスレットがシャラン…と鳴った。
そこにあるのは白い肌。
傷もなんの痕もない、滑らかそうな隆一の肌で。
昨夜ここに帰り着いて、風呂上がりに隆一に貸したイノランの白のコットンシャツが微かな衣摺れの音を立てると。
「…イノちゃ、」
「ーーーん?」
手首を掬って、痕のあった部分に唇を寄せるイノラン。
もう片方の手で。
シャツの裾から手を差し入れて、白い翼の生えていた背中をさらさらと撫でる。
「ーーーっ…ぁ、」
「くすぐったい?」
「ん…っ…」
「ーーーそれとも、足んない?」
「ーーーっ…意地悪」
真赤な頬をして、キッと睨む隆一。
迫力なんて皆無で、イノランにとっては可愛いばかり。
髪や額にキスをしながら、そういえばこんなにゆっくり隆一に触るのも久々な気がする…と。
(実際は隙さえあれば触っていた気もするけれど)
気持ち的に、という面では。
重荷が下りて、ゆったりと…という意味ではだ。
「…ぁっ…ぅん」
「ーーー隆、」
最初は触れ合うように、掠めるように。
もどかしいくらいの優しいキスを繰り返し繰り返し。
ーーーけれどもそんなんじゃ物足りないのは、二人とも同じことで。
すぐに舌を絡め合って、夢中でキスを交わす。
ちゅっ…ちゅく、
「ーーーっ…ぅん、ん」
「…今日、」
「は…ぁっ…んん?」
「ーーー止まんないっ…かも」
イノランは少々乱暴に隆一のシャツのボタンを外すと。
同時に隆一の下着ごとジーンズを脱がせて、ソファーの下に落とした。
「ーーーぁっ…や、待って」
「待てないだろ、もぅ」
かちゃかちゃとイノランもベルトを外すと、着ていた黒のTシャツを勢いよく脱いだ。
そんな様子を熱に浮かされたように見ていた隆一に、イノランは優しく微笑むと覆いかぶさった。
素肌が重なって、気持ちよくて隆一は目を細める。
イノランの舌が隆一の弱い部分を的確に這うから、二人して早々に勃ち上がり始めたものを重ねて握り込んだ。
「ぁんっ…やだ、あっ…も、」
「りゅう…っ…、もうイキそう?」
「だっ…てーーー気持ちイイ…もん!」
「そ、だな。ーーー俺っ…も、」
くちゅくちゅと重なった二人のものが音を立てる。
霞む目で、イノランは真下の隆一を見ると。
涙を零して、ぎゅっと指先を噛んで耐える隆一の姿。
ーーーまだ繋がっていないから。
ここで早々に達してしまいたくないと、我慢しているのだろう。
そしてそれはイノランも同じ。
こんなに可愛らしい姿を曝け出してくれるのが嬉しくて。
隆一の耳元で囁く。
「もうちょい、我慢できるか?」
「…んっ…んん、」
「ーーーっ…隆…?」
「っ…ーーーん、ぅん」
イノランは隆一の脚を抱え上げると、隆一の秘部に舌を這わせた。
これからイノランを迎え入れる後孔を、少しでも痛みが無いように。気持ち良さで、いっぱいになるように。
濡れた音を響かせて、舌と指先で存分に解す。
「あっぁあんっ…イノちゃっ…」
「ーーーっ…もぅ、平気、か?」
コクン。
涙でぐちゃぐちゃの顔で、隆一は一瞬微笑んで。
イノランの背中に手を回す。
ーーーいいよ。
隆一の頷きを受けて。
イノランは激情にも近い愛おしい気持ちを込めて、恋人を貫いた。
「はぁっ…りゅう」
「んぁ、あ…」
「ーーーりゅ…っ…」
「…ぁんっ…ん、イ…ノっ…ちゃ…」
「隆一っ…」
ーーー快感で朦朧とした思考で、思う。
こんな風に抱き合うなんて。
キスをして、セックスして。
好きだと、愛してると囁いて。
微笑んでくれる、その笑顔だけで満たされてしまう。
そんな二人になれて、そんな日が来るなんて。
(ーーーそんな夢みたいな日が来るなんて)
数ヶ月前の二人は、思いもしていなかった。
抱き合っている間に、陽はすっかり高くなっていて。
ついでにテーブルの上に置いたミルクティーは冷めてしまっていた。
それでも喘ぎ過ぎて、ライブの翌日もあってか喉の渇きを覚えた隆一はマグカップに手を伸ばした。
こく、こくん。
「ーーーもうアイスミルクティーになってんじゃないか?」
「ん…。ーーーはぁ。…でも美味しいよ?」
「も一度いれてこようか?」
「んー、」
「ーーーそれか、天気も良いし。シャワー浴びていつもの喫茶店でも…」
「うん‼」
「(…早ぇ…) ん、いいよ。行こうか」
「わぁい、やった!」
気怠いはずの身体もなんのその…といった風情の隆一に。
イノランは微笑みを浮かべて、隆一に手を差し伸べた。
午前中の外に出ると、風が心地いい。
隆一の誕生日が過ぎた頃。ちょうど春の名残の涼しさと、初夏の暑さが同居する時季だ。
一歩進むだけで闇に同化してしまっていたつい昨日までを考えると。
まるで別世界の様に思えてしまう。
「こんな気分、久しぶり!」
隆一は気持ちよさそうに、うーん!と伸びをした。
そんな様子を、それはそうだよな。と、イノランは心の中で頷いた。
気丈に振る舞っていた隆一だから。
全てが終わった今、その解放感は並大抵のものじゃないのだろう。
いつもの喫茶店で軽食を摂って。
久々にショッピングでもしようかって、通い慣れたメンズウェアの店と、靴屋。
本屋さんも行きたい!って、ぐいぐいイノランを引っ張って向かった先の書店で、隆一は一冊の写真集を買った。
「どんなの買ったの?」
「ん?…これ?」
歩き回って、ちょっと休憩しようよって腰を落ち着けたのは、緑豊かな公園の石段だ。
見上げると向こうの方には葉桜が立ち並んで、二人が座る辺りの周りにはハナミズキの樹。
まだところどころに、可愛らしい白と薄ピンクの花が付いている。
そんな明るい広場で、隆一が座るなり広げたのはさっき購入した写真集。
風景の写真なのかな?と、イノランはその表紙を見て思った。
すると隆一は、にっこりと笑うと。
ほら、見てって。
真ん中辺りのページを開いてイノランに見せた。
「…あ、ここ」
「そう。ーーーわかる?」
「わかるさ。ーーーすげぇ、なんか懐かしいな」
「ね、皆んなで行ったよねぇ」
そのページには、薄く澄んだ青い空と、石と、建物と、遠くに見える木々の風景。
見覚えがある。
ーーーそう、行ったのだから。
「ーーーアイルランド…だろ?」
「そう。ーーーここねぇ、多分俺たちが撮影で行った辺りだよ?」
「雪、降ったよなぁ」
「ふふふっ、ね?雪を呼んじゃったよねぇ」
「ーーー隆。この風景の写真見つけたから、買ったんだ?」
「ん…。ーーーっていうかね、」
「ん?」
「ーーーここの場所にも、俺たちの〝音の記憶〟が眠っているんだろうなぁ…って」
「ーーー…ああ、」
「リュウイチが言ってた、俺たちの歩いて来た場所に眠る音の記憶。ここにもきっといるよね?ーーーそう考えたら、なんかさ…」
「ーーー」
「どんな場所も、愛おしくなるよね」
この小さなページの写真にも、俺たちのカケラが写り込んでいるみたい。って、隆一は顔を綻ばせる。
その隆一の表情が、とても穏やかで。
とても、綺麗で。
(ーーーーそうか。例えば今ここで隆が歌えば。ーーー俺も、歌えば。ここにはもう〝音の記憶〟が残るんだ。ーーー次にここを訪れた時に、前にここで歌ったねって、思い出すように…)
「ーーーそんな場所を、もっともっと増やしていけたらいいな」
「え、?」
「隆の歌と。俺の歌と、ギターと。それから皆んなのもさ」
「イノちゃん…」
ひらり…
いつの間にか見つめ合っていた頭上でそよ風が吹いて。
ひとひらの、ハナミズキの花びらが舞って。
ひらひら…
「あ、」
隆一の髪にちょこんと乗っかった。
「隆、髪に」
「え?」
「花びら」
「っ…どこ?」
言われて隆一は頭の上をぱたぱたと仰ぐ。
そんな隆一にイノランはくっくっ…と笑うと。
「いいよ」
「っ…」
「取んなくていいよ、そのままで」
「ーーーイノちゃん」
「可愛いから」
ーーーちゅっ…
「ん、」
パタン。
不意打ちのキスの隙を突いて、イノランは隆一の手にある本を奪うと石段に置いた。
一瞬、咎めるような顔をした隆一だったが、そんな表情もすぐに蕩けてしまう。
「ーーーっ…ふ、」
「好きだよ」
「…んっ…」
「ずっと…ずっと、」
「ーーーえ、?」
「こうしたかったから。ーーー隆、と」
今回の事が起きる前から、ずっと。
ずっとイノランは、想っていたから。
出会ったばかりの隆一の声に惚れて。
人柄に惹かれて。
今まで何度も思ってきた事がある。
「一回しか言わないから聞いて」
「っ…?」
それを聞かせてあげたいと、イノランは思った。
「お前の歌声は、どこまでも届いて。
遠く、高く。
空の果てまで。
透き通って、力強くて、甘やかで…
こんな歌声、俺は知らなかった。
隆の歌声に出逢えて。隆の隣にいられる事が、奇跡に思えた。
生涯、俺がただひとりの歌声を選ぶとしたら。
俺が選ぶのは間違いなく。
隆…。お前の歌声だよ?」
「ーーーイノちゃん…」
「あのなぁ、泣くやつがあるか」
「…っ…イノちゃ…」
「泣き虫」
「イ…ノちゃ、の、せい」
「ーーー隆」
「嬉し…だも、んっ…」
「俺も嬉しいよ」
「…っふ、ぅ…」
「そんなに、泣く程さ」
どうかこれからも聞かせて欲しい。
大好きな歌声を。
一番近くで。
「側にいるから」
end
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