長いお話・2 (ふたつめの連載)












チッ…チッ…チッ…






身を委ねる空気が、とても緩く滑らかに感じた。
どこが地面か空かわからない浮遊感。

多分、目を閉じているんだろう。
瞼の向こう側の景色が見えない。
一筋の光さえ、見えてこない。






チッ…チッ…





( …でも、何の音だろう?)




隆一は、その緩やかな空間に漂いながら。ゆっくりと、目を開けた。




「ーーーあ、」



闇。
目を開けても、開けなくてもその景色は変わらない。
深々とした暗闇だけが、隆一の視覚を支配していた。

ーーーでも。




チッ…チッ…
…チッ…チッ…




ごく僅かな、音だ。
視界を暗闇に奪われたせいか、僅かに聴こえるその音は、隆一の耳に酷く響いた。
闇を刻む。
それは時計の秒針の音のようで。
時計の音かもしれないと認識した途端。こんな暗闇しかない空間にも時は流れているんだと。
隆一は妙に安堵した。





「何も見えないや」

「ーーー多分ここは、ステージの上なんだろうけど…」

「闇に飲まれちゃったって事だよね」




恐らくそうなのだろうが、そうなると気掛かりはある。
今回の事に関して、何の予備知識ももたない人々の事。
この会場にいるスタッフ、ファン。それからここにはいないけれど、同じく闇に飲まれた大勢の人達。
今はこんな、光も声も聞こえない暗闇にいるからわからないけれど。
きっと皆んな、恐怖の声をあげている筈だ。



「っ…」



そんな想像をして、隆一はぎゅっと眉根を寄せた。

ーーーーー早く何とかしなくては。

恐怖で竦む彼らを、早く光の下へ連れ出さなくては。
その為に自分達は特別な曲を創り上げたのだし、今日までの不可解な日々を乗り越えてきたのだから。


ーーーだから。…その為には。




「イノちゃんっ!」

「真ちゃん、J君‼」

「スギちゃん…っ」




隆一は闇の中でメンバーを呼ぶ。
こんな時。
目の前が塞がれた時。
何より彼らの存在が、隆一にとってどれだけ力になるか知っているから。




「皆んなっ…みんな‼」





ーーーーー。




チッ…チッ…チッ…





無情にも。
彼らからの返答は聞こえない。
聞こえてくるのは、ずっと耳につく秒針の音だけだ。




「ーーーみんな…」



隆一は、ぺたんとその場にへたり込む。
今座った地面が、ステージのそれなのか、はたまた別の地面なのかわからないけれど。
そこには確かに、足を踏ん張れる地面が存在している。

そしてさっきから。
風…というか、空気の流れも感じないこの闇の中。
まるで肌をラップで覆われたような張り付くこの闇の空気が気味悪くて堪らない。




「ーーーここ」

「声が全然、通らない」



自分の発する声さえも、耳を塞がれたように聞こえる。





チッ…チッ…チッ…




「なんなんだよ…。この時計の音」



闇を刻む。
この秒針の音だけは響く。



「ーーーどこかに時計があるの?」



隆一は、スッと立ち上がる。
その時計の刻む音に導かれるように。



「ーーーーーどこにあるんだろう」



不思議と恐怖は無かった。
本当ならこんな時、イノランが一緒ならもっと心強いと思うけれど。
互いの姿が見えない今。
声の通らない空間で、呼びかけ合うこともかなわない今。

何だろう?と思う事を、ひとりで進むしかないのだと。
隆一は音のする方へ進み出した。

今出来る判断基準は、実にシンプルだ。
怖いか、怖くないか。
嫌な感じがするか、しないか。
ーーーその先に、希望があるような気がするか、しないか。そんな勘頼りのようなものだけど。




〝勘って、大事だぜ?〟




「ふふっ」



隆一は緩く表情を和らげた。
いつか彼が言った言葉。
あの時の言葉が、今は隆一を奮い立たせる大切な言葉になっている。




ーーーいいよ、隆。進め。

ーーーここまで来たら、隆の思うように。

ーーー姿が見えなくても、俺は隆の側にいるから。

ーーー同じこの闇の一部になっているから。

ーーー進んで…進んで。



心に中に、確かに語りかける恋人の言葉。
それに勇気づけられて、隆一は闇のその先へと進んで行った。









チッ…チッ…チッ…




ーーーこっちだよ
ーーーこっちだよ

ーーーこっちにおいで




「ーーー」



チッ…チッ…




ーーーさぁ、こっちだ



「ーーー」



チッ…チッ…



ーーー進んで…進んで…
ーーー歌を歌う
ーーーこの先は、お前のステージだ






「っ…え、⁇」



ある境界に踏み込んだのだろうか?
隆一の辺りの景色が、急にぱぁっ…と変化した。



「ーーーここ…」


隆一は思わず歩みを止めて、その景色に見入ってしまう。

そこは まるで神殿のようで。
荘厳な石造りの柱や屋根。その下には同じ石材で拵えられた祭壇のようなものが見える。




「あ、」



そしてそこで隆一は見つけた。
大きな柱の上部に、大きな時計を。
振り子が付いていて、規則正しく時を刻んでいる。



「ーーーあの時計の音だったんだ」



しかしここで隆一はまた、あっ!と思った。



「短針と長針が……」



見当たらないのだ。
あの時計の文字盤を回るのは秒針だけで。
その為、いったい今が何時なのかがわからない。



「秒針だけ…」



それでもちゃんと時を刻む時計。



「確かにこんな所にいたら、何時何分なんて知らなくても大したこと無いよね」



確かに時が流れているとさえわかれば。
息をして、心臓も動いて。
こうして立っている事が出来るのだから。
その事さえ見失わなければ、どんな場所でだってきっと大丈夫なのだ。




それにしても、ここはどこだろう?と、隆一は再び歩みを始めながら辺りを見回す。
当然ながら、初めてくる場所だ。
しかしどこか懐かしさを感じるのは、ずっとずっと前にプロモーション撮影で訪れた石の街の雰囲気に近いからかもしれない。
そう思い立つと、隆一はまたも、ふふっと微笑んだ。



「一年に一度降るかどうかって場所で、雪が降ってきたんだよね。…あの時」


そのせいで、えらく寒い思いはしたものの。黒の衣装に映える白い雪で、美しい映像が撮れたのは懐かしい思い出だ。

きっとあの場所にも、ルナシーの音の記憶は確かに存在するのだろう。




「………」



ーーーそうだ。
どんな時も、五人で巡ってきた。
音楽を連れて、どこへだって。
そして今回も。
もう揺るがない絆で結ばれた五人は、この闇を青空に変えるために覚悟を決めたのだから。




「ーーーーーよし」



用意されたステージ。
秒針の音に導かれたここは、文字通り最終の場所なのだろう。
ならばここで、歌うのみ。

隆一は、コツコツと靴音を響かせる。
そしてここでは、光も音も空気の流れもある事に気づく。
とても厳かで、神聖な…


その時だ。




ーーーその胸に、羽を持つ者




「え?」



また、どこからか聞こえた声。
隆一はその声をここへ来て初めて聞いたけれど、その声はこの荘厳な風景に広がった。




ーーーその胸に、白い羽を持つ者



どくん。


「ーーーぇ、」


再びその声が言葉を発した瞬間、隆一の胸の辺りが大きく高鳴った。



ーーー持つべき者が、その羽を持った、時



どくん…どくん…。



「っ…ぁ、あ」



ーーー真の翼となって、その者を、眩く照らす



どくん…どくん…どくん…っ…




「ぁ、ぁっ…つ、翼?」



そういえばそんな話をどこかで聞いたことがあると、隆一は熱くなる胸をおさえながら思い出そうとしていた。
あれは、どこでだったか…誰に言われたんだったか…




「あ、」



ハッとした。



「ーーーそうだ、教えて、授けてくれたのは…」


自分と同じ顔で微笑む彼。




「リュウイチ」


〈俺も一緒に歌うよ。…隆一〉


「っ…ぁ」




いつの間に隣りにいたんだろう?
熱い胸を抱えながら、ふと横を見ると。
そこには隆一と同じ衣装に身を包んだリュウイチがいた。
目が合うと、リュウイチはにっこり微笑んで。
胸をおさえた隆一の手の上に、掌を重ねた。



〈ここは俺が天使の羽を貰った場所〉

「え、?」

〈あの声は、天使の声だ。姿はないけど、隆一をずっと見つめていて、このステージに呼んだんだよ〉

「〝神様〟の次は〝天使〟⁈ーーーーーここ、一体」

〈ーーーそうだな、隆一のために用意された特設ステージ…かな?ここは俺がいた、真っ白な空間のその先にある天使の部屋だ。多分、色んな空間と繋がる事が出来る場所なんだと思う。ーーー暗闇から、突然ここに出たでしょう?〉

「うん。ライブ中に闇に飲まれて…そのまま」

〈あの闇の中じゃ、さすがに歌いづらいって、このステージに天使が呼んだんだろうね。きっとこの場所と、ライブ会場のステージは繋がっている筈だよ〉

「そうなんだ!確かにあの闇の中じゃ歌うのは無理だなって思ってた。だって音が全然通らないし…」

〈闇の濃度がどんどん濃くなってきてる。コールタールの中にいるみたいなものだよね。早く闇を払わないと〉

「歌、だね」

〈うん。ーーーね、胸の辺り、熱いでしょ?」

「…すごく。ね、これって」

〈俺が隆一に渡したものがここにある。隆一は持つべき者だ。ーーー天使の羽がーーーーーー〉




どくん…どくんっ…



〈翼になる〉



「ーーーーーあっ…」




リュウイチの声に重なって、隆一は自身の身体が焼けるように熱くなるのを感じて。
その熱とあまりの眩しさに、思わずぎゅっと目を瞑った。










暗闇の中で身動きが取れずに、イノランはその場に座り込んでいた。
こんな闇の中に突き落とされた夢を見た事がある。
あの時も心得ていた事があったけれど、こんな時に失くしてはならないのは冷静さだ。闇雲に動き回っては体力精神力の無駄な消耗になる。
周りにいるはずの皆んな、当然心配で気になるけれど。
どうやら音も通らないこの闇の中。
ギターを弾いても、自身の周りで音がこもるばかりで、今は諦めた。



(何か動きがあるまで待機)



纏わり付く不快な空気に耐えながら、ぎゅっと愛機を抱きしめる。指先に触れる弦のキリリとした感触や、ボディーやネックの木の滑らかさに意識を預けて。
下手したら発狂しそうになる、何も見えない空気で、イノランは冷静さを保っていた。



「ーーー隆」

「隆。…大丈夫か?」



独り言。呟くのは、やはり恋人の名前。
気丈に今日を迎えた隆一だけれど、その本心は怖いに決まっているのだ。
本当ならば、今すぐ隆一を探しに行きたい。
側にいると誓ったイノラン。
こんなところで足止め食ってる場合じゃないと、もどかしい思いでいっぱいなのだ。



「…くそ」



気を抜くと焦りで気持ちが暴走しそうだ。
隆一だけじゃない。
スギゾーも真矢もJも。それからスタッフ、来てくれた人達、世界中の人達。
皆んなが今、この闇に負けまいと堪えてるはずだから。



「何か…。何か出来ることは無いのか」



動きを待つといっても、限界はある。
それは実際のタイムリミットという意味でもあるし、イノラン自身の気持ちがいつまで耐えられるか…という事でもある。
待つという行為は、長引けばそれは苦痛にもなるから。



「せめてもう少し状況がわかれば」

「ーーーせめて、皆んなの無事がわかれば」



いつまでここでこうしていればいいのか。
焦るな焦るなと言い聞かせても、背筋が突っ張って痛い。
嫌な汗が出る。



「っ…くそ」



イノランは勢いよく立ち上がると、思い切りギターを掻き鳴らした。
苛つく気持ちを霧散させるように。
まるでスギゾーのリードギターの如く、ギターを掻きむしった。




「届けっ…」

「っ…ーーー届け」

「アイツらに!っ…皆んなに‼」



そして。



「りゅうっ…隆一‼」



めちゃくちゃに鳴らすギター。
それなのに音は相変わらず響かずに。
音の塊はイノラン自身に取り巻くばかりだ。

思わず絶叫するイノラン。
しかしその対比とも言える、静かで密やかな声が。
イノランの耳に届いた。










〈おい、俺〉





「ーーーえ、」




思わず手が止まる。



ふわっ…。

イノランの頭上が、唐突に明るくなった。
強烈な光じゃない、仄かな光。
あたたかな光。

ほわほわと揺れるその光は、イノランの目の前までゆっくり降りてくると。
だんだんと形が変わって、やがて人型になっていった。



「ーーー何、だ?」



しかしどんなものでも明るいもの。
イノランは焦りの気持ちがスッと引くのを感じて、その揺らぐ光を凝視した。





〈ーーーちょっと落ち着けよ〉



「っ…あ」




その声は聞き覚えがある声。…というよりも。
イノラン自身が一番よく知っている…



「ーーー俺…?」



そして、ほわほわと人型になった光の塊は。
遂には表情もわかるほど鮮明になり。
その現れた人物は、イノランに向かって不敵な笑みを浮かべた。




〈焦ったって仕方ないだろ。…自分でもさ、わかってんでしょ?〉

「ーーーお前」

〈イノラン。ーーーわかる?俺はお前。ずっと以前に撒かれた、お前の音の記憶だよ〉

「あ、」




確かに。
目の前のイノランは、今のイノランよりも若く見える。
その意味する事が、イノランにはすぐに理解できた。
音の記憶。
リュウイチと、同じ時を過ごした彼。
そして彼はきっと、リュウイチを探し求めている以前のイノランなのだと。


ーーーと言うことは。




「アイツらにも…スギゾー達にも?」

〈ああ、以前一度だけ隆一と出会えた時に約束したから。何かあったら俺らも力になるって。ーーー今が最終局面、ヤバい時だってわかったから、俺らも加勢に来た〉

「そっ…か」

〈ーーーあの時、隆一が言ってくれた。リュウイチは、たったひとりで頑張ってきたって。今回のこの事が全部終わったら、きっとリュウイチが俺らの元に帰れるように協力してくれるって〉

「ああ、」

〈すげえ嬉しかった。隆一の言葉。ーーーでもさ、待ってるだけじゃダメだって、その時を待つだけじゃダメだって。今回の事で身に沁みてわかったから。リュウイチを失くして、初めて気付いた。ーーーだから〉

「ーーー」

〈だから今回は、待たないよ〉

「ーーー」

〈もう待たない。嘆かない。ーーー奪いに行く〉

「ーーーああ!」




少し歳下の自分が頼もしく見えた。
この頃のイノランは、隆一に想いを抱いていたけれど。
それを隠していた頃だ。

遠くから見つめるだけでいい。
隣で歌ってくれていればいい。
この今の関係が壊れるよりも。
側にいられればいいんだ…と。



しかし今の、以前のイノランは違う。
一度離れてしまったから、次はもう二度と離しはしないと。
凛とした、力強い男の表情だ。

そんな歳下イノランに、歳上イノランは微笑んだ。




「ーーーお前さ」

〈ん?〉

「めちゃくちゃリュウに惚れてんだろ」

〈っ…それはお前もだろ〉

「ーーーわかってるさ」

〈ーーー〉

「だから、言うんだ。隆に、何度だって」

〈ーーー〉

「愛してるって」




ニヤッと口の端で笑ったイノランにつられて。
二人並んで、闇を走る。
仄かに光るイノランの柔らかな明かりは、どんな照明よりも明るく見えて。
さっきまでの焦りや苛立ちは嘘のよう。

行き先なんかわからないけれど、進む先に目指す〝それ〟があるのだと確信して。
イノランとイノランは、疾走した。





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