長いお話・2 (ふたつめの連載)
夜の月明かりにかざす。
隆一の左手薬指には、銀色に光る指輪がぴったりとおさまっていた。
(ーーー綺麗だな…)
隆一は惚れぼれと、その銀色を見つめた。
恋人の印といって、イノランがくれた指輪。恋人同士になってそこそこの時間は過ごしてきたし。お互いにブレスレットを贈り合ったり (隆一の場合は不可抗力かもしれないが) 。
今更、指輪?…と。
隆一はひどく照れくさくなってしまった。
そんなものが無くても、隆一はイノランにじゅうぶん愛されていると実感していたし。形ある物で繋がれずとも、彼がそこにいてくれるだけで良かった。
安心できたし、愛情を確認できた。
「ーーーやっぱり、良かっただろ?」
「ん?ーーーうん」
「こうやって、形ある物で繋がれるとさ」
「うん。ーーーありがとう。…嬉しい」
ベッドの中で、そっとはにかむ隆一。
その表情には、もう迷いなんか無くて。
隆一の、裸の肩を抱き寄せながら。イノランは今日の昼間の事を思い出していた。
「俺なんかに…いいの?」
隆一はそう、イノランを見つめて言った。
アクセサリーショップを出て、帰りがてらに立ち寄ったこの街の美術館。晩春の花々に囲まれた中庭の、白いベンチ。
そこに誘われるように二人腰掛けて、イノランは恭しく指輪を隆一の左手薬指に贈った。
その時に隆一の胸に湧き上がった気持ち。
照れくさくて、嬉しくて。
ーーーでも…
いいの?…俺で。
そう、どこか一歩引いた目で見ている自分がいた。
(…だって、イノちゃん…)
(ーーー俺は…)
(俺たちは…)
未来を誓い合ったわけじゃない。
この先の未来、二人がどんな形で共にいるかわからない。
(ーーー…いつまで…一緒に)
二人の間に結ばれた絆を、疑っているわけではない。
…ただ。
こうして、指輪という特別な物を贈られて。
隆一の中で、様々な気持ちが生まれて、顔を出し始める。
この出来事に身を浸している間は、イノランと恋人同士でいる事ができる。
ずっと側にいられる。
ーーーけど、全て終わったら?
全部終わったら、その時もまだ恋人同士でいられるのだろうか?
ずっと…ずっと。
問題解決に向けて走ってきた。
早く終わりを迎えて、平穏な日常を取り戻したいと願い続けた。
それなのに。
終結が目の前に見え隠れした途端…。もしかしたら、終結と同時に、この恋も終わりを迎えるの…?と。心をざわめかせる隆一。
(ーーー…自分勝手だ…俺)
こんな自分が、イノランからの愛情の印を受け取る資格があるのか…と。
隆一は、自分の心に現れた新しい感情に。俯いた。
「ーーー隆?」
「っ…ーーー」
「隆ちゃん…?」
顔なんか上げられない。
おそらく何かを感じ取って、隆一を窺い見るイノラン。
彼がこれまでに尽くしてくれた事を振り返ると、とてもじゃないけどこの気持ちを打ち明けるなんて出来なかった。
ーーーこの出来事が終わったら、俺たちは…何処へ向かうの?
ーーー二人の未来もわからずに、こんな印をくれて…いいの?
…なんて。
ーーー俯いたまま、答えがでなくて。
隆一はもう一度、小さな声で問い掛けた。
「ーーー俺なんかに…いいの?」
春めいた中庭で、隆一のかき消えそうな声は、それでも確かにイノランに届いて。
その瞬間に。
イノランが返した答えは、はっきりとした力強いものだった。
「隆以外の誰がいるの?」
「ーーー!」
「どんな想いで、俺が隆の側にいるか…わかんない?」
「ーーー…」
「隆がいればいい。前も言ったけど、一緒に地獄に堕ちたって構わない。ーーー生半可な気持ちで、この指輪をあげたわけじゃない」
「っ…ーーー」
「今回のこの出来事の為だけじゃなくて、過去も現在も未来も見渡して、それでもあげたいって思ったのは隆だけだ」
「イノちゃん…」
「ーーーわかるだろ?…この意味」
ほのかに微笑みをのせて、優しい眼差しで告げられたイノランの言葉に。隆一は感情が絡まっていた胸の内がスルリと解けて。その代わりにポカポカした暖かい気持ちが広がるのがわかった。
そんな美術館の中庭での、昼間の出来事。
隆一を抱き寄せるイノランが、くっくっ…と笑うのを隆一は見逃さず。
頬を膨らませて、抗議の声を上げる。
「ーーーなに?なんか笑ってる」
「ん?や…ごめん。だってさ。…今日の昼間の隆ちゃん…」
「ーーーん?」
「思いつめてる…ってゆうか。超、考え込んでて…」
「ーーー仕方ないじゃん」
「でも、その理由がまた…可愛いのなんのって」
「むうっ…」
ぷい…と。
不貞腐れて顔を背ける隆一を逃すまいと、イノランは覆い被さって押さえ込む。指輪の嵌まった左手に手を重ねて、布団の上で指を絡ませると。先程まで睦み合っていた熱が再び二人を襲う。
明日はライブ2daysの初日だから、いい加減眠らないと…とは思うけれど。
どうしようもなくて。
唇を重ねて、その身体に触れた。
「ーーーあ…っ……ゃ…」
「っ…」
「…っ…ん」
「ーーーーー隆っ…」
艶やかに濡れる隆一の瞳に微笑みかける。
腕の中の恋人に、こんな顔をさせているのは自分なんだと思うと、愛しさで堪らなくなる。
狂いそうになる。
「ーーー離せるわけ…ないだろっ…」
こんなに愛せるのはお前だけなんだ…と。
深く重ねた唇の隙間で。イノランは、声にならない声で叫んだ。
夜が明ける。
ーーー筈の朝。
世界が漆黒に染まる、一日前の朝。
目覚めたら。
もう既に、いつもの朝では無かった。
けたたましく鳴るスマホの着信音で目が覚めた。
ベッドサイドに並べて置いたイノランと隆一のスマホは、持ち主が出るまでは鳴り止むものか…とでも言うように。
未だ微睡む二人の聴覚をこれでもかと刺激した。
「ーーーはい…。おはよう」
『イノランさん!おはようございます‼外!外、見ましたか⁉』
「ーーー…え?」
『…空が…ーーー空が…大変な事に…』
「っ…」
「イノちゃんっ!」
隆一の方の電話もマネージャーからで。おそらく同じ用件だったのだろう。ガバッとベッドから起き上がったイノランに続いて、隆一も後を追って窓辺に急ぐ。
シャッ…
イノランは勢いよくカーテンを開けると、二人の目の前のその空に。
瞬きも忘れて、目を奪われた。
「っ…ーーーう…そ」
「ーーー空が…」
愕然と、それ以上言葉が紡げずに。
二人は空を見上げて立ち尽くした。
『ーーーさんっ!…イノランさん!』
「ーーーあ…」
未だ通話状態の手にしているスマホから、張り詰めたマネージャーの声が聞こえて、イノランは呆然としながらもスマホを耳にあてた。
「ーーー今日…ライブ」
『その事で、これから早急に打ち合わせしなければなりません。ーーー隆一さんは?今日も一緒ですか?』
「ああ、ずっと一緒だよ。隆にも今、マネージャーから連絡来てるみたいだ」
『それなら、これからすぐお二人を迎えに行きます。もう近くまで来ているので…二十分で準備可能ですか⁇』
「大丈夫。済ませる。隆と待ってるから。ーーーそっちも気をつけて」
通話を切って、イノランは隆一にマネージャーが迎えに来る事を伝えると。
もう一度。
窓からの空を見上げた。
「ーーー…マジかよ…」
たった一晩で。
こんな景色に変わってしまうなんて。
ーーーしかし。
自分達。事情を知っているメンバー五人は、まだ良いのかもしれない。
原因を承知の上で、この日…明日に向けての準備をしてきたのだから。
それよりも、事情を知らない人たちが…
「ーーーイノちゃんっ…」
隆一が手を握る。
イノランもぎゅっと、その手を握り返した。
「ーーー真っ黒だ…」
空が。
マネージャーの車に乗って。
ライブ会場に着く頃になると、今朝方は真っ黒だった空に、幾分の太陽の光が差し込み始めて。ちょうど夜明けのような空に変化していた。
今は、たったそれだけの光にも安堵しながらバックステージの控え室に向かう二人。
するとそこには、三人のメンバーが既に到着していた。
「イノ!隆!」
「みんな!」
集まる、ここにいる全員が困惑の表情をしている。誰もが…今ここにはいない世界中の人が、きっと初めての経験だから。
こんな風に、空が真っ黒に染まるなんて。
挨拶そこそこ。
ライブ関係者が集まったのを確認して、早速始まる打ち合わせ。
これは何の現象なのか?
原因は?
どんなものなのか?
ライブはできるのか?
安全なのか、危険なのか?
それにそもそも、観客はここまで来られるのか?
公共交通機関は?
何かあった際の対応は?
ライブ当日にして、早急に検討、決定しなければならない事があり過ぎて。
皆、打ちのめされそうだった。
拉致があかなかった。
本来なら、本番前のリハーサルに充てる時間。
それを全て打ち合わせに使って、話し合いは続く。
ライブをしようにも、これではみんながここまで来る事が出来ない。
交通機関も、空の便は欠航が決まった便もある。陸路も本数が減ったり、大変な遅れも出ている。
ーーーしかし。
本当の暗黒に染まる日は明日なのだ。
今日はこうしている間にも、太陽の勢力がぐんぐんと闇を押し除けて。
天気の悪い日中…程度まで空が回復してきた。
「ーーー」
なにが起ころうが、この事の打開策は〝歌〟なのだ。
メンバーがあの曲を演奏して、隆一が歌わなければ、明日世界は闇にのまれてしまうのだろう。
こうしてどんなに話し合いを重ねても、きっと根本的な解決にはならない。
ーーーそれに隆一は、白熱するこの場に身を置いて。静かに、じっと考えた。
未曾有の出来事。
誰もが初めての…
それがポジティブなものならいいだろう。歓迎するだろう。
しかしこれは、正体のわからない。
恐怖を孕むものだ。
何かに突破口を見出したいと願う。
何かに希望を見出して、それを糧に奮い立とうとする。
ーーー隆一は、思う。
音楽は、その〝希望〟なれるんじゃないかと。
そして自分は…自分達は…。
立ち向かう為の〝音楽〟を持っているのだと。
「ーーー」
騒めくミーティングルームで、隆一は静かに立ち上がった。
音も無く、無言でその場を離れる隆一に。
メンバーは勿論、スタッフ達も顔を上げた。
「ーーー隆…」
「隆?」
「ーーーごめん。ちょっと…ーーーすぐ戻るね」
ドアの所で振り向いて微笑む隆一に。
スッと立ち上がって後を追ったのはイノランだ。
メンバーが二人退席して。
慌てふためくスタッフ達を宥めたのは三人のメンバーだ。
きっと何か考えがあるのだと。…そう思ったから。
「隆!」
「ーーーイノちゃん」
ライブ会場の、まだ無人のロビー。
今は窓が閉まっているけれど、ここからは空が見える。
その窓辺に立っている隆一に、イノランは駆け寄って声をかけた。
「ーーーどうした?…」
「イノちゃん」
「え?」
「ここ。ーーー外が見える」
「ん…まあ、そうだな」
「あのね?ちょっと試してみようと思うんだ」
「ーーー試す?…何を」
「ーーーーーーーーあの歌」
「っ…え?」
隆一は歌ってみようと思ったのだ。
あの歌を。
明日、一度きりしか歌ってはいけないとは言われていないし。
それに、ここまで形にするのに酷く時間も手間もかかった曲なのに。空に向かって、ちゃんと歌った事がない事に気が付いた。
歌ったらどんな変化が起こるのか気にもなるし。ほぼぶっつけ本番で、変なものは聞かせられないという、ヴォーカリストとしての責任からくるものでもあった。
「全部はもちろん歌わないよ?少しだけ…どんな感触がするのか知っておきたい」
「ーーーうん」
「ーーーーーーーーイノちゃん、聞いててくれる?」
チラッと、上目遣いで窺う隆一に。イノランはこんな時なのに鼓動が跳ねてしまう自分に苦笑い。
手を伸ばして、隆一の髪をくしゃっと撫でると。
当たり前だろ?と、笑って見せた。
イノランの言葉に、はにかんでコクンと頷く隆一が、何と無く儚げで。
イノランは、窓辺に立つ隆一の真後ろに立つと。背後から隆一をぎゅっと抱きしめて。ビクリと肩を揺らす隆一の耳元で囁いた。
「ーーー何かあっても、守るから」
「ーーーっ…うん」
「歌って?…隆」
最愛のひとの腕に包まれて。
最大級の安心感に身を委ねて。
懸命に命を吹き込んだ歌を。
隆一は、初めて空に向けて。
歌った。
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