長いお話・2 (ふたつめの連載)












痕が付くほどぎゅっと押さえる手。
襲いくる痛みを何とかやり過ごそうとしているのか、隆一はキツく唇を噛んで耐えているようで。
イノランはその左手を掴むと、以前付けられた痕の部分を凝視した。



「っ…ーーー」


ーーー見た目の変化は無い様に思える。あの時のままの…
では隆一がここまで痛がる原因は何なのだろう?



「…くそっ」


次から次へと…
そう、やはり思わずにはいられない。例の〝神様〟は、隆一に試練しか与えないつもりなんだろうか?…と。
突如放り込まれた未知の出来事の日々に、隆一はこんなにも懸命に向き合っているのに。
そんな隆一を慮る素振りも見せない〝神様〟に、イノランはここで怒りにも似た思いが込み上げそうだった。




「ーーー大丈夫か?隆、痛い?」

「…ん、ちょっと…慣れてきた」

「ーーーそっか」

「けど…ーーー痛い」

「!」

「手首の痕が、締め付けてくるみたい」



眉根を寄せた隆一は。それでもイノランの方を向くと、困惑気味ながらも微笑んで見せる。

そんな…気遣うんじゃないよ。
…そう、イノランは言いながら。

ぎゅっと押さえ付ける隆一の手の上からイノランも手を重ねた。
今してやれる事なんてこれくらいしか無い。…そんな苦い表情を浮かべるけれど。

ーーー…隆一にとっては…




「イノちゃん、絆創膏みたい」

「ーーー絆創膏?」

「そう。痛いのおさえてくれてる。…ほら、小さな切り傷とかもさ。絆創膏貼るだけで痛みって治るじゃない?」

「あ…ああ」

「そんな感じ。イノちゃんが手を重ねてくれたら痛みが消える気がするよ?」



くすくすと嬉し気に笑う隆一は、確かに先程までの苦痛の表情は無い。



(度重なる恐怖だの痛みだのに慣れきって、鈍感になっているんじゃ無いだろうな…)


しかし実際そうなんじゃ無いかと、隆一の様子を見ていると思ってしまう。
ーーーそれは生存本能的にまずいんじゃなかろうか…と。



「隆ちゃん、ホントに平気?もう痛くないの?」

「痛いよ」

「っ…」

「ーーー痛いけど、怖くない」

「え?」

「…ってゆうかね。怖がってもいい事無いって気付いたから。ファイナルまで時間無いし。怖がる時間も音楽に向けたいしね?」

「ーーーそっか」

「ーーーそれから、イノちゃんを…」

「ん?」

「イノちゃんを好きって思う方にエネルギーを向けたい」

「!」

「痛みの正体もわかんないけど。その間にも好きな音楽とか、好きなひとの事想ってた方が良い意味で気が紛れるでしょ?」



ーーーきっとこの手首の痛みは〝神様〟かなんかが何か伝えたいか、もうすでに何か伝えているかなのだろう。
だって以前リュウイチが言っていた。
この手首の痕は、受信機ようなものだと。〝神様〟からのアプローチを受けやすくするものだと。
だったら、それならそれでいい。
ここから更に難問が追加されようが、もう気持ちは揺るが無い。

歌うだけだ。

ここからどんな魔物が現れようと負けない。
手に持つ物は強大な騎士の剣ではないけれど。
妖術を込めた破壊の歌ではないけれど。

武器になる物は四人の楽器。
それから隆一の、愛の歌だ。




「怖くないよ」

「ーーー隆」



もうこれくらいで怖がってなんかやらない。
そう呟いた隆一の瞳は。
強く。
綺麗な光を集めて、イノランを見つめていた。









隆一の手をずっと繋いだまま、隆一が眠るまで心配そうに起きていたイノランだったが。隆一が安らいだ寝息をたてるようになると、急にライブの疲れが押し寄せて。イノランはあっという間に眠りにおちた。

泥のように眠るとは、こんな感じだろうか。深く深く眠りの底におちたイノランは、不思議な夢を見ていた。





ーーー暗い闇だ。
淡墨の世界に放り込まれたような感覚。
イノランが今立つ場所からは一片の光も見えない。



「ーーーなんだ?…ここ」


一歩踏み出そうとした足は、爪先も見えない。黒い煙に包まれたみたいに。
…そんな、変な空間。
予備知識も何も無いけれど、イノランは平静を失わなかった。



「ーーー隆ちゃんは白い空間って言ってたけど…俺は闇の空間かよ」


…そう。
ここ最近の非現実的な事例の数々で、イノランも多少の事では驚かなくなってきたのだ。しかも自分は眠った筈だという自覚があるから。これが夢なら醒めればいいだけだ、と。恐怖に慄く事も無く、イノランは冷静に辺りを見回した。



(…なんも見えねえな)


(音も匂いも無い)


(隆が言ってた白い空間とは別のもの?)


(ーーーここでじっとして、俺が目を醒ますまで待つか…)


(進んでも変わんない気がするけど…進んでみるか)


(体力温存するならここで待機だけど)


(ーーーうー…ん。どうすっかな)




イノランは飲まれそうな闇の中で腕を組む。こんな時は冷静を失う事がなにより危険だと、イノランは本能でわかっていたのかも知れない。




(ーーーえ?)



さてどうするかと、決めかねていたイノランの耳に。

何かが聞こえた。











声とも違う。
風の音とも違う。
この頭に直接響く音はなんだ?

方向的にはイノランの背後から。
暗くてきっと見えないだろうが、何かがあると。
イノランはここにきて漸く躊躇って。しかしゆっくりと後ろを振り返った。




ーーーーー闇。

目が痛くなる程の。





「ーーー…」



イノランはじっと目を凝らす。
深々とした闇に気圧されそうになりながらも視線はずらさない。
すると。




「ーーー?」


ーーー何かが動いた気がした。
見えるものは闇だけれど、その空間がゆらり…揺らいだように見えたのだ。



(…なんだ?)



じっと見る。
闇の圧力は強いけれど怯まずに。



(なんだろう。…何かある。さっきからずっと向こうの方が…)



〝ずっと向こう〟という距離の概念が存在しないような気もするこの空間。
しかし絶対に何かある。
何かがじっとこちらの隙を狙っているーーーーーーーー




コォオオァアァア……




「え…?」




突然だった。
イノランの寸分先の空間が崩れて無くなった。
もともと真っ暗な空間が、ボロボロと剥がれ落ちてその隙間からぬるい空気が吹き込んでくる。
新鮮とは到底言い難い…澱んだ風だ。

そして、崩れた空間の後にあるものは…完全なる〝無〟。今立つ場所の闇なんて到底及ばない、真の漆黒だった。



ボロボロ…ボロ…


オオオォアァァアァァァァァ…




「っ…これ…ーーーーーヤバッ…!」



イノランは咄嗟に後退すると。
目前まで迫る空間の崩れの恐怖に慄いた。
ーーーこのままここにいたらヤバい。
ここはきっと夢だろうが、自分が目覚めるまでここにいたら、本当の意味で目覚めなくなってしまう。 



(ーーーーー走れっ)

(とにかくここから退がれ)

(逃げなければ)



初めてイノランの顔に浮かんだ焦燥の色。
イノランは踵を返すと。
走った。
どこまで行けばいいかわからないけれど。
ただ前へ。









ーーーーー早い…
早い…早いっ…

追い付かれる。

この暗闇は〝何〟なんだ?
こんな夢も初めてだ。
足が…もつれそうだ。
走っても走っても全然進んでいるように感じない。




「ーーーちっくしょ…どこまで行けばっ…」


(っ…ーーーーー隆…も)


真っ白な空間に初めて落とされたとき。
こんな絶望感を味わったのだろうか?



「隆っ…」

「ーーー隆…ちゃん」



こんな時に一番に想うのは、やはり隆一。
絶望の淵に立っても、彼を想えば力が湧いてくるーーーーーーー



「隆ちゃんっ!…隆っ‼ーーーーー頼むっ…!」



脚が鉛のように重くて動かない。



「〝そっち〟の俺を…叩き起こしてくれっ‼」






ーーーイノちゃん!




「…え?」



絶叫した瞬間、イノランの耳に確かに届いたのは自分を呼ぶ声。
それも力強い、上からの声。
たった今焦燥感に駆られていたイノランの思考が、一気に澄み渡る。
すぐ背後まで迫る空間の崩れも気にせずに。
イノランは足を止めて、声の聞こえた上方を見上げた。






「ーーーーーーーっ…」




イノランは目を見開いた。
漆黒の空に、まるで雷のように一筋の光が走った。
一瞬、ここから出たい願望のあらわれか?…とも思ったが。
一筋の光は次第にその幅を広げていって。あっと言うまに、空を照らし始めた。

暗闇にずっといたからか、イノランはあまりの眩しさで目を細める。




「ーーーあっ…たか…」



その光は心地よかった。
あたたかくて、安らぐ光。
ここが先程までの暗闇だなんて忘れてしまう。



「…?……あ、声?」



微かに聞こえる声は歌声だろうか?
それも…なんて…




「気持ちいい声」



この声の側に行きたい。
この声の主を知っている。
イノランは手をいっぱいに伸ばすと名前を呼んだ。





「隆ーーーーーーー」





呼応するかのように光は更に眩しくなって。その光の中で、イノランは隆一の笑顔を見た気がした。



(ーーー多分…目が覚めるんだ。…俺)



鉛のように重かった脚が軽くなって。
意識がクリアになるのを感じながら、イノランはちらりと後ろを振り返る。
光に気圧されて、イノランの所までは迫って来ないが。
奥の方には、やはり漆黒の空間。
光の中に身を置く今。さっきまであんな所にいたのか…と。今更ながら悪寒が走った。



「…何にもないな。ーーー光もそうだけど…生き物の気配が…」




そしてここでイノランはハッとした。
ここが…此処こそが。

例の暗黒地帯なのではないかと。
生命の存在しない、負の大地。

現実と地続きの夢なのだろうか?
なぜこの夢を見ているのか、その辺はよくわからないけれど。
今まで画面越しにしか見たことのなかったこの黒い大地。

そんな忌まわしい場所から連れ出してくれたのは。
紛れも無く、隆一の存在なのだと。
光にとけていく自分を自覚しながら、イノランはそう思った。











「あっ…イノちゃん?ーーー起きた?」





瞼を開けたら、心配そうな顔がイノランを見ていた。加えて眩しい光。たった今まで見ていた妙な夢の続きかと思ったが、その光が窓越しに差し込んでくる本物の太陽の光だと認識すると。
無事、目覚める事が出来たんだと。イノランはホッと脱力した。




「イノちゃん…?」



ーーーそして。



「ーーーねぇ、イノちゃん…大丈夫?」

「…ん?」

「すっごく、うなされてたよ?」



力無くベッドに身を沈めるイノランを尚も心配そうに見下ろしてくる隆一。
眉を下げて、何か言いたげに唇を薄く開けて。小首を傾げて様子を窺う隆一は、イノランにとって可愛い事この上ない。



(ーーー光の中の隆)



あの夢の中で聞いた声は確かに隆一のもの。その声が漆黒の世界を切り裂いて、闇を光で照らしてくれた。
ーーーそしてその光の中で、イノランは隆一の笑顔を見たと思ったのだ。



(ーーー隆が助けてくれたんだ)



漆黒の夢に落ちていた自分を。
そしてあの夢は、地続きの夢。
きっと今地上で起こっている世界の侵食のそれである筈なのだ。

対抗する曲を完成させた今。
いよいよ大詰めまで迫った今。
いったい誰がイノランに見せた夢かはわからないけれど。
イノランには、それが宣戦布告にも思えた。



ーーーコノ漆黒ノ大地ニ打チ勝テルト思ウノカ?
ーーー武器モ無イ。オ前タチノ持ツ、ソノ音楽タッタヒトツデ。



漆黒は人々の負の感情の塊だという。
それが見せた夢だとするならば。
生命の存在しない世界に、〝感情〟というものだけは存在するのだろうか?




「ーーー……」



「ーーーイノちゃん…?」

「あ、」

「ねぇ、ホントに…平気?」




思考の奥に入り込んで、ベッドに横たわったままボーっとしていたのだろう。
隆一の心配顔はいよいよ深刻だ。
投げ出されたイノランの手をぎゅっと握って、どうにか意識をこちらに向けようと、必死な様子で問い掛ける。
隆一にしてみれば、うなされ続けた恋人がようやく目覚めたと思ったら。ぼんやり虚空を見つめて反応も鈍いとくれば、心配で心配で堪らないのだろう。

そんな隆一にハッとして済まなく思ったイノランは、繋がれた手をぐん…と引いて。横たわる自身の胸の上で、大切そうに隆一を抱きしめた。



「…あっ」

「ーーー隆」



どきどきと。
密着しているから、お互いの鼓動が忙しなく重なり合う。
一瞬、隆一は身を起こそうと身動いだけれど。イノランはそんなのはゆるさない。
抱え込んだ隆一を、ますます強く。
背に回した片手を上に滑らせて、艶やかな隆一の黒髪を撫でる。
さらさらと掬った黒髪にイノランは唇を寄せると、呟くように隆一に言った。




「ーーー同じ漆黒なのにな。…全然違う」

「ーーーえ?…何…が?」

「隆の黒髪と、あの場所。勿論、隆のが断然綺麗だ」

「…え?あの場所…って」

「ーーーーー侵食された大地。まさにこれから、俺らが立ち向かう…」

「…あ」




隆一の身体が、きゅっと強張るのを感じる。それでもイノランは続けた。




「多分…夢だけど。…けど、地続きの夢で。そこに立つ夢を見た」

「ーーー夢?」

「正直、もう二度と行きたくねえ場所だった。頭でどうこう考える前に悪寒が走る。…そんなトコロ」

「…最悪じゃない。…それ」

「うん。ーーーでも、そんな最悪な場所をどうにかしようって、俺たちは動いてんだよな」




隆一の身体が、もっときゅっと硬くなる。イノランは、宥めるようにその身体をさすった。



「ーーー脅かさないでよ」

「だってホントにそうだから」

「…ん」

「ーーー…でもね?そんな時に聞こえたんだよ」

「?」

「俺が絶体絶命な時にさ。ーーー声が」

「声?」

「そう。…隆の声だよ」




それからイノランは、目覚めるまでの夢の話を隆一に聞かせた。









隆一は黙って、じっと話を聞いていた。
イノランはそんな隆一を見つめて、そして。
あの時確かに確信した事を、隆一に言った。




「隆が天使か女神に見えた」

「ーーーうそだ…あ」

「ーーー本当だって。笑ったように見えたんだよ」

「ーーー」

「漆黒の大地を照らすのは隆の歌声だって、確信した」

「……イノちゃん」

「そんくらい、光の中の隆ちゃんは綺麗で、パワーに満ちてて。予知夢みたいなものかな…。きっと大丈夫だって、思えたよ」

「ーーー…俺」

「わかってる。こんな事言ったら隆にプレッシャーかかるって。でもそう思えた。俺が直接見たんだから、信頼性はありそうだろ?」

「ーーーうん…」




イノランは横たわる身体を起こすと、隆一と向かい合わせになって、もう一度恋人を抱きしめた。




「勿論、隆にだけ押し付けるつもり無いよ。〝俺たち〟だ。皆んなで…だもんな?」

「っうん…」

「…ん。ーーー隆?」

「うん?」

「…大丈夫」

「…うん」

「大丈夫」

「ん」

「ーーー大丈夫だから」

「うん、信じてるよ?」




ふふっ
そんな風に微笑んでくれる隆一。
イノランは隆一の左手を掬うと、痕のついた手首に唇を寄せた。

ちゅっ…ちゅ…ちゅ…っ

手首から、指先一本一本にもキスをして。いつしか呼吸が乱れ始めた隆一の頬に触れる。

もう待ちきれない様子の隆一。
朝なのに。
これから移動なのに。
そんな事は一瞬の気掛かりだ。


ちゅく…っ…



絡む唇は、それ以上を語らずに。
重ね合うだけで全部伝わる。




「んっ…ふぅ っ…」

「ーーー隆」

「…ぁ っ」



イノランの手が、隆一の服の隙間から入り込んで素肌を撫でる。
昨夜はこんな良いトコロで中断してしまったから。



「仕切り直し」



イノランは嬉しそうに唇を舐めると、すでに反応しだした隆一の敏感な部分を指先で弄った。



「っ…や ぁ…朝…だよぉ」

「まだ平気」

「マネー…ジャ…っ来ちゃ んっ…」

「いまさらもう我慢できないだろ?」



ーーー昨夜も中途半端だったし。
そう隆一の耳元囁くと。
ようやく観念したのか、コクンと頷いて頬を染めた。



「っ…は ぁ…あっイノ…」

「ーーーんっ…」

「も…早っ…く ぅ」

「欲しい?」


無意識に揺れる隆一の腰に手を添えて。
硬くなったお互いのそこを擦り合わせると、隆一の声は止まらない。
僅かに残ったイノランの理性が、部屋の外まで聞こえないかと思う程。
マネージャーが声掛けに来る時間も迫っている。


ーーーならば…と。



「声。…全部もらうよ?」

「え?…あっ…んーーーんっ」




隆一の声は、イノランの口づけに消えて。繋がった身体は、性急に熱くなる。
そして思い返せば、ツアー中もこうして触れ合っている時間はそこそこ取れているな…と。イノランは照れ笑い。



(触るなって方が無理だ)


縋り付く潤んだ恋人の姿を下に見て、朦朧とする思考の中で。イノランはある曲をぼんやり思い出していた。





君が 今 最後の 女神に 見える

守りたい 君よ…


愛に 満ちた 微笑みで…




この世界 を…






.
28/41ページ
スキ