長いお話・2 (ふたつめの連載)
目の前の隆一の表情が、漸く落ち着いたものに変わったところで。
イノランは隆一の顔を覗き込んで訊ねた。
「ーーーもう、大丈夫?」
「うん、もう平気。ーーーちょっと嫌な感じのアクシデントだったけどね」
「な。…ホント、なんだったんだか」
「…うん」
「まぁ、でも」
「?」
「隆ちゃんが何とも無くて、良かった」
「ーーーーー」
「ね?」
「ーーーうん!」
えへへ…。と笑みを溢した隆一を、イノランはホッとして見つめた。
ーーーその時。
「⁉」
たった今まで、柔らかく微笑んでいたイノランの表情が急に険しくなって。
その視線が、隆一の一点に刺さって動かなくなった。
急に変貌したイノランの様子に、隆一も訝しげに首を傾げる。
「ーーーイノちゃん?」
どうしたの?
と。紡ごうとした隆一の言葉は、イノランによって阻まれてしまう。
「隆ちゃん、ちょっと」
「え?」
イノランは手を伸ばして、隆一の左手を掴むと。
手の甲辺りまで隠している、長めの白いシャツの袖口を。
するりと、たくし上げた。
「っ …‼⁉」
「ぇ…っーーー?」
露わになった隆一の左手首を見た瞬間。
サッと、隆一の顔色が真っ青になって。イノランの表情はますます険しいものに変わった。
隆一の左手首には、くっきりと付いた。
掴まれた、赤黒い手指の痕。
「ーーーーっ ‼」
「イノちゃっ …」
イノランは隆一の右手首のシャツも同様にたくし上げる。
しかし右手には、掴まれた痕は付いていなかった。
触れた隆一の手が、震えているのが伝わってくる。
それはそうだろう。…と、イノランは、ごくりと息を飲んで隆一を見る。
「ーーーこれ、さっきのアイツの」
「なんで?…だって俺、両手掴まれたのに…なんで左手だけ?ーーーそれに、普通こんなにならないよね⁇」
「ん…」
イノランは、じっと。その左手首を見る。
ーーーまるで描いたようにコントラストのはっきりした、掴んだ手の痕。
仮にものすごく強い力で掴んだとしても、こんな短時間で赤黒く変色するだろうか。
まるで内出血をして、数日経過した肌の色だ。
「…………」
「ーーーーーー……イノちゃん…」
完全に思考の奥に入り込んでいたイノランの耳に。
力無く震えた隆一の声が聞こえた。
ごめん。と、意識を向けると。
床に散らばった例の楽譜を拾いあげて見つめる隆一がいて。
すっ…と、その一枚をイノランに差し出した。
「ーーー読めない…この譜面」
「え?」
隆一の言っている意味が解らなくて、イノランはつい、素っ頓狂な返事を返してしまう。
音楽を仕事にしている身で、譜面が読めないとはどういう事なのか。
イノランが首を捻りつつ、渡された楽譜に目を移した。
「っ ーーー」
「…イノちゃん」
「ーーーこれ…」
「……おかしい…よね?」
「ーーーーーーホントに譜面か?」
一見すると楽譜に見えるそれ。
しかし五線譜の上に並ぶ記号は、二人が今まで見た事が無いものだった。
「ーーーーー」
イノランはまた、隆一を窺い見る。
すでに顔色は蒼白だ。
よくわからない、何かの渦中に巻き込まれたのだと。隆一は、直感で感じ取っているのかもしれない。
「ーーーーー」
イノランはおもむろに、自分の左手首に着けていた二本のシルバーのブレスレットと、生成りの糸で編み上げたミサンガを外すと。
痛々しい痕の付いた隆一の左手首に、そっとそれらを着け始めた。
「っ イノちゃん?」
「これで隠せるでしょ?」
「え…?で、でも…」
「隆ちゃんにあげる。下手に包帯とかで隠すと、多分余計目立つし、みんな心配する。ーーーアクセサリーの方が良いよ」
「でも、イノちゃんのお気に入りでしょ?いっつも大事に着けてるじゃん!」
「いいから。俺があげたいから、あげるの。ーーーーーーん…そうだな」
「?」
「もうすぐーーーっても、まだちょっとあるけど…もう春だし。隆ちゃんへのちょっと早い誕生日プレゼントって事でーーーーーどうかな?」
ニッと、悪戯っ子みたいな笑顔を見せるイノランに。
隆一は呆気にとられて、口をぽかんと開けて固まった。
「さ。ほら出来た。ーーー似合うじゃん?」
三本のアクセサリーを着け終わると、それらは丁度良く、痕を隠してくれている。
隆一はその一連のイノランの様子を、瞬きもせず見つめていて。
自分の手首に飾られたアクセサリーを、まるで宝物のように惚れぼれと指先で触れた。
「ーーーありがとう、イノちゃん。…これ、大事にするね?」
恥ずかしそうに礼を告げる、そんな隆一の姿に。イノランは満足げに微笑んで。
しゃがんでいた体勢から立ち上がって、隆一に向かって左手を差し伸べた。
「…イノ?」
「起こしてあげる」
「え…?ーーー大丈夫だよぉ」
イノランの思わぬ行動に、隆一は一拍間を置くと、急に照れたようにはにかんだ。
なんだかイノランが、すごく気を遣ってくれているのがわかって。
ーーーそれも、結構大胆に。
誰に対しても、さり気ない気遣いをするイノラン。
長く一緒にいる間に、それは何度も感じていたし、目の当たりにもした。
でもそれが、このたった数十分足らずの間に。ぐんっと、一気にイノランとの距離が近くなった気がして。
優しい、イノランの気持ちが。
すぐ側にあって。
これまでずっと一緒にいた仲間なのに。妙に嬉しくて、くすぐったくて。
新しいイノランを見つけられそうな、そんな予感に。
あんな事があった直後にもかかわらず。
隆一は心密かに、喜びを感じ始めていた。
差し出された手に、おずおずと触れると。イノランの手がぎゅっと絡め取ってくれる。
繋いだ手はあたたかくて、この手を離したくないと思った。
正体の解らない男。
それも何か、おかしな事ばかりだ。
有り得ないと思いつつも、変な世界に迷い込んだ錯覚に陥ってしまう。
「みんなには詳しくは言わない方が良いよね。ーーーあのひと、俺の名前…言ってたから…」
「隆ちゃんになんらかの用があるって事…?」
「ーーーそれが、歌を歌えって…事なのかな」
「それっ‼」
「え?」
「あ…ごめん」
「イノちゃん?」
「なんでも無い、ごめんな急に…」
「⁇ーーー変なイノちゃん」
ふふっ…と笑う隆一。こんな時ですら朗らかな姿を見せてくれる。
イノランの胸中に、また先程の激情が込み上げる。
大好きな歌声の隆一を。
あんな風に怯えさせて、変な事に巻き込んで。
その上あの男は、歌を歌えと言うのだろうか。
(怖がらせておいて…)
一体何が目的なのかわからない。
あの、読めない楽譜。
読めたとして。それを歌ったら、どうなると言うのだろうか?
他のひとでは駄目な理由があるのだろうか?
ーーーー何故、隆一を名指すのか?
隆一に、不自然に痕を残す理由は?
矢継ぎ早に次々と湧いてくる疑問。
そのどれもが、推理して予想の出来ない疑問ばかり。
「イノちゃん」
いつの間にか、また眉を顰めて思考の奥にいたらしい。
気遣いの顔で、隆一がイノランを見つめていた。
ーーーそうだ。
解らない事ばかりだけれど、この件で一番迷惑を被っているのは他ならない隆一だ。
怖い目に遭って、不気味な痕を付けられて。
それでも隆一は、イノランに微笑んでくれる。
ーーー無意識の強がりかも知れないが。
イノランは、ぐっと口元を引き結ぶと。さっきしたみたいに、もう一度隆一の頬に指先で触れた。
「みんなには、今はまだ黙っておこう。まだ状況が解らないから、下手に騒がない方がいいよな」
「うん」
「でも、どんな理由であれ、このフロアにいた事に変わりはないから。念のため、警備スタッフには伝える。逃げたみたいだけど、入り込んでる人がいたって」
「ん…そだね」
不安そうに、見上げる隆一。
無理に平静を装おうとしているのが、イノランにはわかって。
触れていた指先を頭に移して、髪を掬って撫でた。
「心配すんな」
「ーーーーー」
「なんか突然わかんない事になっちゃったけど…。俺も一緒に悩んでやる」
「イノちゃん…」
「乗り合わせた船…って。そんなんじゃないよ?隆ちゃんばっかり、変な目に合わせらんない」
「ーーー」
「ーーーーー俺にできる事…まだわかんないけど。隆ちゃんと一緒にいる事は出来るよ?」
「っ…」
「頼ってほしいな」
後頭部に回っていたイノランの手が。くっ…と、力を込めて。
そのまま、コツンと額同士がぶつかった。
「ーーっ っ ‼」
眼前には、にこにこと笑みを浮かべたイノラン。
隆一はいきなりの展開にびっくりして、思わず目を見開いた。
( ーーイノちゃんっ )
( ……びっくりしたよ… )
( ーーーキス…されるのかと思った… )
ステージではあるけれど、プライベートでイノランとキスした事なんて無い。
当然と言えば、当然だけれど。
けれど。
この数十分の間に急速に生まれた、イノランに対する新しい気持ち。
その気持ちが、どんどん大きくなって。一緒にいてくれるって、心強くて、嬉しくて。
前からずっとイノランの事は大好きだったけれど。それはメンバーとして、戦友として、親友として。
でも。
この新しい気持ち。
キスされる?って思って、どきどきしてしまう、この気持ち。
ーーーこれは何だろう?
解らない事だらけだ。
変な出来事も。
それから、イノランの事も。
解らないけれど。
答えを出すのは、まだ先になりそうだけれど。
今、この瞬間の隆一の心を占める大きさは。
目の前のイノランとの事の方が、ずっとずっと大きかった。
だから嬉しくて。
隆一も戯けて見せて言った。
「イノちゃんが、守ってくれるの?」
「そう。隆ちゃんの騎士」
「カッコいい!」
「それか…隆ちゃんの護衛」
「騎士のがカッコいいよ!」
「ーーー守護霊」
「あははっ‼」
「まぁ、それは俺もイヤだわ。んじゃ、騎士。ナイトな。ーーーそれでは、お姫様?歌姫、行きましょうか、飯食いに」
「う、うん…あっ!ーーーはい!」
ふっと目が合って、今のやり取りに堪え切れなくて吹き出す二人。
先の見えない、よくわからない不安も。二人でいれば大丈夫かも知れない…と思うほどに。
新しい気持ちのもとに、急速に近付いた隆一とイノラン。
あまりに現実離れした展開が、この先待っているなんて。
この時はまだ、想像すらしていなかった。
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