長いお話・2 (ふたつめの連載)
「ーーー誰?」
誰かに呼ばれた気がして、隆一は振り返った。
でもそこには、誰もいない。
というか。そもそもここは、どこなんだろう?
辺りは真っ白な、何も無い空間だ。
見た限りでは、地面も空も、木も建物も、生き物も。何も見えない。
しかし良く目を凝らすと。微妙に色味が違うのがわかる。
白だけど白じゃない。質感の違いだろうか?
微妙に色の違う白に触れてみようと手を伸ばすけれど。その指先は虚しく空間を横切るだけ。
「ここ…どこ?」
隆一は心細い想いで辺りを見回した。
それでもどんなに辺りを注視しても、何も無いし誰もいない。
「ーーー早く出よう。こんなところ」
ひとりぼっちで、いきなりこんなところにいて。隆一は、急激な怖さに襲われる。
こんな非現実的な場所、夢に決まっている。と、無理矢理そう結論付けて。
隆一は折れそうな気持ちを奮い立たせるように、ずんずんと前へ進む。
でも。進めど進めど同じ白い空間。本当に進んでいるのかさえわからない。
半ばムキになって足を動かしても何も変わらない。
変わらないことが、隆一を苛つかせて。わからない事だらけの実情に、遂に隆一は声を荒げた。
「何なんだよっ …」
「ーーー俺に、どうして欲しいわけ?」
「歌えって?」
「何を?」
「ーーーあの、よくわからない楽譜⁇」
「だったらさ、教えてよ」
「今俺の周りで何が起きてるの⁉」
「どうしてライブの邪魔をするの?」
「音楽の場を邪魔するくせに歌えって?」
「理解のできないものを歌えるわけないじゃない」
「それからさ」
「この…手首の痕はナニ⁇」
「あの数字はナニ⁇」
「あなたは誰?」
「どうしたいの?」
「どうして欲しいの?」
「ちゃん聞かせてよ」
「姿を見せてよ」
「教えてよ」
「ーーーお願いだから」
「大切な…」
「俺の。皆んなの大切なライブの場を」
「邪魔するのだけは、お願いだからやめて」
「心からの歌を」
「捻じ曲げて、操るのはやめて」
「自由に歌わせて」
「何も囚われずに歌いたいだけ」
「ーーーーーお願い…」
「ねぇ…」
「あなたは誰なの?」
サァッ……
「!」
何も無かった空間に、突如風が吹き抜けて。急な風に思わず目を閉じた隆一。
大きな風圧に耐えて、辺りが落ち着きを取り戻したのを感じて。
隆一はそっと、目を開けた。
「ーーーーぇ…」
目を開けた、その光景に目を見開いた。
まるで映画館でスクリーンを見ているよう。でもこれは映画と違って360度どこを見ても映像がある。映像の中に、ポーンとひとりで放り込まれた感じだ。
映像も一定ではなく、変化してゆく。
まるでプロモーションビデオや映画そのものの様。
「?…ーーーーあれ?」
引き込まれる様に、その周囲の映像に見入っていた隆一だったが。
ふと、首を傾げた。
ーーー知っている気がした。
移ろい流れて行く、その映像の場所や風景が。
「これ…」
「ーーーこの場所」
「ーーー行ったことがある所だ」
そうだとわかったら。
目に映る全ての映像に心当たりがあると確信して、さらにジッと周囲を見つめて。
そしてハッと気付いた。
プロモーションビデオの撮影で赴いた地。今まで幾度となく通い続けた音楽スタジオ。仲間とともに巡ってきた数え切れないほどのライブのステージ。
「今まで俺が…通って来た場所?」
こうして見ると、音楽と今までの人生に関わる場所だと気が付いて。
その全ての場所や風景に、大切な想い出があると思えた。
「でも…なんでこんな映像が?」
懐かしくてついつい表情も緩んでしまうけれど。非現実的な今の状態も、ここまでくるともう慣れてしまって可笑しくて笑ってしまう。
怖さも、さっきまで感じていた苛立ちも消えて。
音楽とともに歩んだたくさんの景色に浸っていたら…。
コツ…コツ…コツ…
「っ…ーーーーーー」
隆一の背後から近づく靴音が。
ーーーあのひとのものだと、気配でわかった。
隆一は不思議と心静かで。
後ろに確かにいる誰かに、そっと語り掛けた。
「ーーーそこにいるんだよね?」
〈ーーーーー〉
「聞きたい事がたくさんあるの」
〈ーーーーー〉
「ーーー振り向くよ。…いい?」
〈ーーー…〉
無言だけれど。ふわりと空気が揺れる気配を感じて。
隆一は意を決して、ゆっくりと後ろを振り返る。
足元に落としていた視線が、靴を履いた相手の足元を捉えた。
爪先が細く長く。クラシカルな濃茶の革靴が綺麗だと思った。
隆一はそのまま脚伝いに視線を上に上げていく。黒の細身のパンツに、白のシャツ。
自分もよくしそうな格好だなぁ…と思いつつ。
そのひとの顔にようやく目を向けて。
隆一はここでまた。目を見開いた。
「っ…え…ーーーー」
〈ーーーーー〉
「ーーーーー俺?…」
驚いて立ち尽くす隆一の前にいたのは。
紛れも無い。
隆一、自分自身だった。
「ーーーーーー俺?」
目を離せずに呟いた言葉は掠れてしまっていたけれど。それでもちゃんと伝わっていたみたいだ。
目の前の隆一は柔らかく微笑んで、そして。穏やかな口調で話し掛けてきた。
〈驚かせて、ごめんね〉
「っーーー」
〈もうわかってると思うけど、俺はキミ。隆一だよ〉
「ーーーーー」
〈さっき、いっぱい質問してくれたよね。ーーーホントは全部答えてあげたいんだけど…。ごめんね、今は時間が無いんだ。また次の時にゆっくり教えてあげる。ーーーでもこれだけは今伝えたくて、キミをここへ呼んだんだ〉
「な…に?」
〈今キミが直面してる不思議な事。ーーーこれは悪い事じゃない。怖い事じゃない。だから、萎縮しないで。今まで通りに歌って〉
「歌って…って。じゃあ…だってライブで俺をおかしくしたのは君なんでしょ?それなのに今まで通りにって…。わからない事ばっかりで怖いから萎縮するの!このまま歌えなくなったらどうしようって…ライブが台無しになったらどうしようって思っちゃうの仕方ないでしょ⁉」
〈ーーーごめん。言葉も説明も足りなくて不安にさせて…。でも、俺じゃないんだ〉
「…え?」
〈キミが時々おかしくなるのは、それは俺のした事じゃない。ーーーそれは…今はまだ…言えないんだけど…〉
「ーーー」
〈でもこれだけは覚えててほしい!俺はキミの味方だよ?だって俺だって隆一だもん!ーーーそれから…〉
「え…?」
〈ーーーイノちゃん。…彼は最大最強のキミの騎士だよ〉
「ーーーイノちゃん?」
〈絶対に離れちゃダメ。繋いだ手を離しちゃダメだよ?これから起こる事からキミを守ってくれる。キミも彼といることで力が湧いてくる。ーーーすごい力だよ?〉
「っ ーーーー」
〈まずは、あの楽譜を読み解いて。ーーーごめんね。こっちの記号で難しいとおもうけど…キミとイノちゃんなら出来るよ。そして歌って。あの曲を歌ったら、ひとつづつわかってくるよ〉
「歌ったら何が起こるの?」
〈ーーーごめん、今は言えない。こうしてキミと会っている事も内緒なんだ〉
「え?」
〈ーーーーーもう行くね?…忘れないで〉
「っ …」
〈俺はキミの味方だよ。ーーー力になりたい。ーーーーーだってキミは。ーーーーこの世界の救いの歌を歌える、ただ一人のひとなんだから…ーーーーーー〉
「ん…」
「あ、隆ちゃん起きた?」
「ぇ…?ーーーーーーーぁ…イノちゃん?」
「おはよ」
ぱちぱちと目を瞬かせて、隆一は周囲を見回した。
ひどく壮大な夢を見ていたせいか、今の状況が追いついてこない。
ーーーでも。
「っ…俺、服」
「ん?あー…だってさ」
ソファーの上でイノランと寄り添って。しかしその姿はお互い何も身につけていなくて。目の前で照れたように笑うイノランを見て、夢におちる前に自分のしていた事を急速に思い出して。隆一は顔を真っ赤にして、潤んだ瞳をイノランに向けた。
「イノちゃんっ…」
「隆ちゃん途中で意識とんじゃって寝ちゃうんだもん」
「えっ…?」
「気持ちよかったでしょ?」
「っっ…‼」
「隆ちゃん可愛すぎ。めちゃくちゃ可愛くて離してあげられなかったからさ」
「~~っ…」
「いつかはちゃんと、最後までしような?」
「ーーイノちゃんっっ…」
「ん…?」
〈繋いだ手を離しちゃダメだよ〉
隆一の頭の中で、夢で見たもうひとりの隆一の言葉が響く。
ーーー離しちゃダメだよ?
「っ…イノちゃん」
「隆…?」
「ーーーーーーー離さないで」
「っ …」
ねぇ。大丈夫だよ?
言われなくたって、離さないよ。
俺を守ってくれるとか。
俺にとっての最強の騎士だとか。
そんな事言われて、もちろん嬉しいけれど。
でもね。
それ以上に、イノちゃんが好き。
見返りなんて何も無くたって、俺はもうイノちゃんを愛してる。
「ーーーキス、して」
「隆ちゃん……」
「足りないよ…」
「いいよ」
「…んっ 」
イノランの腕がすぐに抱きしめて、唇を重ねてくれる。
馴染んだ素肌と柔らかな唇が気持ちよくて。隆一もイノランの背中に両手を回して縋り付く。無意識に絡んだ脚は離れなくて。再び熱を持ち始めた身体が触れ合ったら。そこを擦り合わせているだけなのに、また止まらなくなってしまった。
「隆ちゃん…っ …可愛すぎるんだけど」
「ぁっ…ん…」
「ーーーっ…気持ちいい?」
「ん…っ…うん!ーーーい…の、ちゃ」
「っ …ーーん?」
「離さな…いっ…で」
「ーーーーーっ」
「側にいて」
「隆っ …」
イノランを想うという事が力になるのなら。
( ずっとずっと、好きでいればいいんだ )
隆一がどんな使命を抱えてしまっているのかはまだわからない。
もう一人の隆一の言う〝世界を救う歌〟の意味も不明だけれど。
「離さねーよ」
「ん…っ ーーーー」
「離せったって、離さないし。誰にもやらない」
「イノ…っ …」
「俺のもんだ」
力強い腕に抱かれて。
隆一の頭の端で、夢の中で出会った隆一が微笑んでいる。
〈離さないで。最愛のひとを〉
隆一は途切れ途切れの息継ぎの隙間で小さく頷いて、柔らかな微笑みを浮かべた。
ほんの少しだけ見えた、謎のカケラ。
あとでちゃんイノランにも話して教えてあげたい。
ーーーでも今は、目の前の愛しい彼と、愛のある時間を。
イノランの背中に回した、左手のブレスレットが。
綺麗な音を立てて揺れていた。
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