長いお話・2 (ふたつめの連載)
「これ…どうしたんだ?」
イノランは隆一の持つ紙片を射抜くように見て。今度は隆一に労わるような視線を向けて問いかける。
その問いに隆一は眉を下げたまま、今日あった出来事をイノランに詳しく聞かせた。
「……」
隆一の話を聞いて。
イノランの表情は依然として険しいまま。声を発さず、じっと考え込んでいるようだ。
そんなイノランに隆一は。こんなにも真剣に一緒に悩んでくれる事に、感謝の想いを抱きつつ。その反面。こんなおかしな事に巻き込んでしまった事への、申し訳ない想いも確かにあって。その胸中は複雑な気持ちでいっぱいだった。
「ーーーこの…」
「え?」
唐突に、イノランが口を開いた。隆一は咄嗟に顔を上げる。
イノランは、小さなカードを見つめたまま、トーンを落とした声で言った。
「この数字。0520ってさ。これ…もしかして隆ちゃんの誕生日かな」
「ん…。ーーー俺も、そうかなって、思った」
「5月20日。ーーーツアーファイナルじゃん。…この日に何か起こるのか?」
「えっ…?」
「だって。これが本当に日付を意味してるなら、そう考えるのが…」
「やだっ‼」
「ーーーっ 」
イノランの言葉が言い終わらないうちに、隆一のつん裂くような叫びが響く。イノランはその剣幕に目を見開いて、その後の言葉が紡げなくなってしまう。
「そんなのやだよっ !だって、そしたら…ホントに何か起きて、ツアーのゴールが台無しになったら…俺の所為でせっかくのライブがダメになったら…!」
「隆ちゃんっ…」
隆一は取り乱したようにスクッと立ち上がると、玄関に向かって駆け出した。
「隆っ ‼ どこ行くの」
「探してくる」
「えっ⁉」
「あのひと、絶対今日あそこにいたんだから!まだ近くにいるかもしれないもん‼ 探して、話してくる!どうにかして、こんな事やめてもらう!」
「っ …何言ってんだ!そんなの危険だ!それにどこにいるかわからないのに…無謀だろ!」
「危険でも無謀でも…だって、嫌だよっ…‼」
「隆ちゃんっ」
イノランは、玄関へと尚も進もうとする隆一の手を掴んで動きを止めようとするも。平常心を失くしているのか、隆一は身体を捻って逃れようとする。それでも手を離すわけにはいかなくて、イノランは乱暴ともとれるくらいに、力いっぱい隆一を引き寄せて抱きしめた。
「隆ちゃん…っ ‼」
「ゃっ…離してっ !イノちゃん…っ 」
「離さない!」
ぎゅっと抱いた隆一の身体は震えていて。離せという言葉とは裏腹に、隆一の手はイノランに縋ってきつくシャツの端を握り締める。
声がうるんでいるのに気が付いて、イノランは隆一の頬に手を添えて顔を向けさせた。
「っ…」
潤んだ声の通り、隆一の目元には涙が揺らいでいて。寄せた眉がその悲痛な隆一の気持ちを表しているようで、イノランはやり切れない想いで胸が締め付けられる。
「隆…」
「イノちゃん…っ !イノちゃんだって、嫌でしょ⁉大事なライブが…せっかくのファイナルが…!みんなで…メンバーとスタッフとファンの子たちと、進んできたツアーの最後が…もしかしたら台無しになったらって…っ!そんな可能性があるかもしれないって知っちゃったら…ーーーただ待つだけなんて…できないよっ 」
「ーーーーー」
訴えかける、隆一の表情。
その声も、縋り付く手も必死そのもので。
隆一の言い分は尤もだと。イノランは真っ直ぐに隆一を見つめることで同意の意志を伝える。
もどかしい想いは、イノランも同じなのだ。
方法がわからない。
目の前で涙を零して縋り付いてくれる隆一を。
いったいどうしたら救えるのか。
そもそも今起こっている事が、善なのか悪なのか。それすらもわからない。
判断基準もない。
何か方法はないのだろうか?
手掛かりが欲しい。
せめて隆一を安心させてあげられる、どんな事でもいいから。
「ーーーーーーーーーーー!」
隆一を抱きしめたまま、思考の波に飲まれそうになっていたイノランが。唐突にパッと顔を上げた。
「ーーーそうだ」
「ーーーえ…?」
空気の変わった気配に、隆一も涙で濡れた目をイノランに向ける。
すると今度はイノランが。ずっと真剣に強張らせていた表情をフッと崩して、きょとんと見上げてくる隆一に微笑んで見せた。
「隆ちゃん、あの楽譜…」
「え?」
「上手くできるかわかんないけど、やってみようよ」
「っ …!」
「一応、五線譜にはのってんだから。意味はわかんないけど、そのまま音符に置き換えてやってみよ?」
「!」
「もし上手く再現できてたら、なにか手掛かりになるかも」
「う…うんっ !」
沈んでいた隆一の瞳が輝くのがわかって、イノランは笑みを深めて大きく頷いた。
「…っんだこれ!意味わかんねー」
ソファーの前のローテーブルに、二度にわたって贈られた楽譜を並べて。それから解読した音符を書き込んでいく為の白紙の五線譜の紙。
二人で頭をくっつけて合って、首を捻りながら書き込んではいるけれど。
「ホントにこれで曲になんのかな」
ーーー取り敢えず、自信は無い。
なにしろその記号が。まるで初めて見る形。のたくった蔓みたいな、意味不明なものだ。
まったくお手上げ状態のイノラン。ずっと根を詰めて格闘していたから、脚を床に投げ出して、ちょっと休憩…と笑う。
しかしそんなイノランに微笑みかけるのは隆一だ。先刻までの張り詰めた気持ちは、今は霧散して。
イノランが示してくれた一つの可能性が嬉しくて。一緒にここまで尽くしてくれるイノランの気持ちが有り難くて、嬉しくて。ーーーそして心のすみでは、申し訳ない気持ちもあるけれど。今は小さく灯った希望の方が遥かに大きかった。
「それにしてもさ?」
「ん?」
イノランはテーブルに置かれた例の小さなカードを摘み上げて、面白くなさそうに言った。
「ーーー親愛ナル歌姫…って。親愛?歌姫?…歌姫って!」
「ね。おかしいよね?歌姫なんて…俺男だよ?」
「ん?ーーーや、違くてね」
「え?違うの?」
「うん…。そうじゃなくて、歌姫ってさ」
「うん?」
「ーーーーーーーー」
「?…ーーーイノちゃん?」
「ーーーーーーー歌姫なんて、他のヤツに言ってほしくない」
「ーーーっ 」
「だって、俺の隆だ。歌姫なんて言うのも、俺だけでいい」
「イノちゃん…」
「隆は?」
「え?…」
「俺以外に言われていい?」
イノランの瞳も声も。酷く拗ねているって隆一にはわかって。でもそれは妬いてくれているからって事もわかって。
それどころじゃないのに、イノランが愛おしくて仕方なくなってしまう。
すぐ隣にいるイノランの顔を覗き込んで、視線が合ったところでにこっと微笑んで。ふるふると首を振って、隆一は言った。
「やだよ。イノちゃんにしか言われたくない」
「ーーーーー」
「イノちゃんは、いいよ?」
「ーーーん」
イノランは嬉しそうに目を細めると、隆一の頭を引き寄せる。
コテン…。とイノランの胸におちた隆一は頭を預けて擦り寄った。
「ーーー隆も休憩?」
「うん。イノちゃん、気持ちいいもん」
「そう?」
「ん…。」
擦り寄っていた隆一の顔がそっと見上げて。重なったその瞳には期待がこもっていて。
イノランは引き込まれるままに、隆一の顎に手をかけて。柔らかな唇を舌先でなぞった。
「ん…」
「隆ちゃん…」
ソファーに隆一を押し付けてキスをする。触れ合うだけのキスだけじゃ、もう物足りなくて。もっともっと深く…と唇を重ね合わせるたびに、ソファーがキシ…キシと音を立てて軋む。
唇の隙間からも濡れた音が溢れて。イノランは熱くなった心と身体を自覚して、今日はもう止められそうにないと隆一に囁いた。
「なぁ…隆…?」
「っん…っ …ん?」
「ーーーこのままさ…してもいい?」
「っ…え?」
「お前を抱きたい。ーーーずっと抱きたいって、思ってた」
「っ ……でもっ …」
「隆が怖がることはしない。…愛し合いたいんだ、隆と」
「…イノちゃん」
「ーーーいい?」
至近距離で見つめ合う隆一の表情が、一瞬の間に艶やかに色づいて。黒い前髪の隙間から見える隆一の瞳がゆっくりと閉じると。小さく、コクリと前髪が揺れた。
「っ …ぁっ…はぁっ」
キスを解くと、隆一は酸素を求めて大きく息継ぎした。はあはあと肩が揺れて、吐息混じりの声が色っぽくて。イノランはもっと声が聞きたくて、隆一の身体に手を這わせる。
「や…っ ぁ…」
「ここ、気持ちいい?」
首筋から鎖骨まで、そこから胸元へと丹念に指先を滑らせる。胸の引っかかったところを舌先で突つくと、首を振って声が溢れた。
「ぁんっ …あっあ…イノっ 」
「隆っ …声…」
「ん…っあん…」
「っ …可愛い」
イノランは嬉しそうに笑うと。それぞれのモノをジーンズから取り出して、重ね合わせて握り込む。
隆一の身体がびくりと跳ねて、一瞬だけれど強張った表情を見せた。
イノランはそんな隆一に優しくキスをおとして、微笑んであげる。
「今日は初めてだから…最後まではしない。怖がんなくていいよ?」
「っ…イノちゃ…」
「リラックスして、一緒に気持ちよくなろう?」
「ぅんっ 」
イノランの本心を言えば、本当は最後までしたかった。愛しい恋人と繋がって、ひとつになりたかったけれど。
これも二人にとっては未知の領域。初めての事だから。
焦って、隆一を怖がらせる事だけはしたくなかった。
だから今日はこれでいい。
次への楽しみに繋げればいい。
だってこれだけで、今はこんなに気持ちいい。愛しい隆一の身体に初めて触れ合えた。
「あっ…ん…ーーーーっ 」
「隆…っ …りゅう…」
「ぁんっ …イノちゃ…もぅ…」
「一緒にっ…な」
イノランの手の動きが速くなって、隆一の手も、そこに添えられた瞬間に。
二人一緒に放って。
隆一の手が、離れたくないって言っているみたいに絡みついて。大好き…愛してるって、うわ言のように言ってキスを繰り返して。
不完全なセックスだったかもしれないけれど。心はあたたかく満たされて。
二人の絆は深まって。
一緒なら怖くないって、この先へと挑む勇気が湧いてきたのだ。
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