長いお話・2 (ふたつめの連載)










君の歌声は、どこまでも届いて。

遠く、高く。

空の果てまで。

透き通って、力強くて、甘やかで…



こんな歌声は、知らなかった。

この歌声に出逢えて。君の隣にいられる事が、奇跡に思えた。

生涯、ただひとりの歌声を選ぶとしたら。

俺が選ぶのは間違いなく。

隆…。君の歌声だ。





























ライブのリハーサルを終えて宿泊先のホテルに全員で戻ったのは、もう日が暮れた後だった。


ルナシーは現在、全国ツアーの只中で。ライブも中盤を過ぎた頃だろうか。
リハーサルとは言え、ついつい力が入って、気付くとあっという間に一日が終わっている。
程良い疲れと、充実感に包まれて。
メンバーもスタッフ達もそれぞれの部屋へと戻って行った。

ホテルのワンフロアーを貸し切っての、今回のこの地での宿泊。
一日の疲れを各自、部屋についているバスルームで洗い流し。
さっぱりしたところで、同階にあるレストランで夕食だ。

朝夕と、ブュッフェスタイルのこのレストラン。
全国を回ると、その土地土地の食事も楽しみのひとつになる。
このレストランでも、お馴染みの料理から地元飯まで色々あって。
メンバー達も嬉々として集まって来る。



「お疲れ~」


イノランはのんびりとした足取りでレストランの中に進むと。
Jと真矢のいるテーブルに近付いて、椅子を引きながら挨拶をする。



「おう。」

「イノランちゃんもお疲れ~」


すでにビール片手に箸を進める二人。上機嫌でイノランにもアルコールを勧める。
それを笑顔で受けるイノランは。ここで周りを見渡して、フト。思う。



「スギちゃんは?」



もうひとりのギタリストがいないと気付いて、向かいの席の真矢に訊ねた。



「さっきスタッフと一緒にコンビニ行くって、買い出し行ったよ。何だっけ?何が無いっつってたっけ?」

「濃い緑茶。なんか、部屋にあるのは薄いって言って」

「粉末の濃いのが良いんだってさ」

「……」



拘り屋のスギゾーだ。
緑茶について力説する様子を思い浮かべて、イノランは可笑しくなって吹き出した。



「スギちゃんらしい」

「な!別にいいじゃんな、たった二泊三日くらい何だってさ」


二人も同意とばかりに、ククッと笑う。

ひとしきり会話が弾んで、イノランはもう一度周りを見回して。
そして、もう一度アレ?と、思った。




「隆ちゃんは?」

「え?」

「ーーーあれ…そういえば、いねぇなあ」



Jと真矢も一緒になってぐるりと周りを見て。隆一がいないことがわかって、首を傾げた。

いつもだったら、隆一はメンバーの中では一番か二番。早く集合の場に集まってくるのに。
そして、頑張ってくれているスタッフ達と、労いの挨拶や会話を一緒になって楽しんでいるのが常だ。

それが今は、どこにも見当たらない。




「ーーー」



ざわ…。
と。イノランは僅かな心の騒めきを覚えた。


ーーー…?


( 何だ…?)



隆一がまだ来ていない事くらいで、どうかしてる…とも思ったが。
たった今騒めいた心の内が。放っておいてはいけない。とでも言うように、鼓動が大きく跳ね上がった。



「ーーー」



イノランは一度座った席を立ち上がって、努めて朗らかな声のトーンに変えて二人に言った。



「部屋に煙草置いてきちゃった。ーーーちょっと、取ってくんね」



そう言って微笑んで、手をひらりと振って見せて。
来た時とは違って、幾分急ぎ足でレストランを出た。










煙草を取りに行くと言ったが。それは勿論、自然に席を立つためのイノランなりの嘘だった。

そこまでして隆一を探す理由はあまり見つからないが。
さっき、イノランの胸を騒つかせた予感。それが何か気になった。

ーーーそれに、こういう時に働く勘。
意外と状況と一致している事が多いと、イノランは自分自身で良くわかっていた。




( ま。一応、確認ね )



そう平静を装ってみても。
足運びは自然と速くなる。
闇雲にホテル内を歩き回る内に、知らず知らずに焦りが募るのを自覚して。
そこまで広大とは言えない、このフロア。別の階にいるのか…?それか、外?ーーーでもマネージャーはさっきレストランで、スタッフと打ち合わせをしている姿を見た。
それにこのツアー中という状況で、隆一ひとりで外出するとは考え難い。


ーーーーーやっぱりホテルの中にいる筈。


そう、イノランは確信して。

もう一度このフロアの隅から隅まで。
先程よりも念入りに、隆一の姿を探し歩いた。



( 隆…ホントにどこ行った?)



いつしかイノランの表情から余裕が消え、僅かに眉を寄せ険しいそれに変わっていた。

二巡しても隆一は見つからず。仕方無く別のフロアを探しに行こうと、イノランがため息をつきながらエレベーターの方へ行こうとした時だった。





「痛っ‼ーーーーーっ …ゃっ…」




エレベーターの横の通路の突き当たり。
非常階段の方から、ガタッ!…という大きな物音と。
その後に聴こえてきたのは。

確かにそれは、隆一の声だった。











ただならぬ、その声を聴いて。
イノランの背筋が一瞬で凍り付いた。


一体何が起こっているのか、わからないけれど。
恐らく隆一の声に違いない、それは。
恐怖の感情で強張った声で。
聴いただけで、ロクでも無い事がそこで起こっているのだと、イノランはすぐに察知して。

自分にこんな瞬発力があったんだと関心する程。イノランは脇目も振らず、非常階段の方へ駆け出していた。




















「ーーーーー何してんの?」


「‼⁉」







「っ ーーーーーイ…ちゃ……」






イノランが非常階段の重い扉を勢いよく開けると。
階段の踊り場に見知らぬ男がいた。
見た目はごく普通の、スーツを着込んだ、背の高い少し年配の男。
その男は、踊り場の壁面に隆一の手首を固定して、押さえ付けて。動けないようにして、隆一に顔を寄せている。

二人の足元には何枚もの紙片が散らばっていて。イノランには、それが楽譜だとわかった。

イノランがいきなり現れた事に余程驚いたのだろう。男は顔を引攣らせて、動かない。
隆一もがくがくと脚を震わせて、今にも泣きそうに唇を噛み締めている。



その、隆一を見た瞬間。




ス…っ …と。イノランは、急速に冷静になる自分を自覚した。

ーーーいや、冷静を装った、怒りだった。









「ーーーーーあんた、誰?」



「っーー」


「このホテル。このフロアさ?貸切で。警備の皆んながしっかり見てくれてるから、ホテルのスタッフとバンド関係者しか入れない筈なんだけど。ーーーあんた、どっから入ったの?」


「ーーー」


「ウチのスタッフじゃないよな。ホテルの人に聞けば、あんたがここの人かどうかもすぐ判る。ーーーつか、それよりもさ」


「ーーーーー」


「隆に、何してたの?」


「っ …」


「ーーーーー何したって聞いてんだ」


「ーーーーーっ …」




イノランの鬼気迫る語り口に。男は苦々しげに睨み付けると、ジリ…と怯んで隆一の手の拘束を緩めた。
その一瞬の隙をイノランは逃さずに。グッと隆一の手を掴んで、自分の背後に隠すように引き寄せた。




「ーーーイノちゃん…」




目を吊り上げて、怒気を隠しもせずに纏ったイノランに。
隆一は気遣わしげに窺い見る。


こんなイノランは珍しい。


メンバー同士の衝突がある時だって。急なアクシデントで、状況が定まらない時だって。

イノランはいつだって、静かに見定めて。時には自らムードメーカーになって場を和ませて。
感情を荒げる事はほとんど無いのに。

それなのに。
今のイノランは、隆一ですら躊躇う程に怒りを露わにしている。





「どうする?今すぐスタッフ呼んで、警察に突き出す事だって出来るよ」



「っっ ーー‼」



イノランの留めの一言と、冷たく射据えた視線に怖気付いたのか。
男は数歩、後退りをして。そのまま何も持たず、逃げるように非常階段を駆け下りて行った。

カンカンカン……バタン!…と。
階段を降りる慌てた足音と、階下の非常階段の扉の閉まる音が遠く聞こえると。


ふー…っと、イノランは深く息を吐いた。





「ーーーーーはぁ…」



イノランの背後にいた隆一が、脱力して床にぺたん…。と、座り込む。
その気配にイノランは振り返ると、隆一の目線に合わせてしゃがみこんだ。




「隆ちゃん…大丈夫?」

「ーーーうん。…イノちゃん、ホントにありがとう」

「いいんだよ。ーーー何か…されてない?」

「うん。大丈夫だよ」

「ーーーそっか。…良かった」

「ん…」

「…アイツ、何なの?」

「わかんない。ーーーレストランに行こうと思って廊下歩いてたら、後ろから急に名前呼ばれて。ーーーで、ここまで引っ張られて。…この楽譜見せられて、この曲を歌えって…言われて」

「歌を歌え?」



その言葉に、イノランは眉を顰める。

この時のイノランの、率直な気持ち。
ーーーそれは。

正直、おもしろくなかった。


この歌声を。
そんな簡単に、我が物のように言う。
あの男の、思慮の浅さに。

再び、腑が煮え繰り返る程の激情が、蘇る。


隆一の歌声。
イノランが惚れ込んだ、唯一の声。
この歌声の隣に居続ける為に。どれ程の努力を重ねているか。

この歌声と共にある為に、どれ程自分を研ぎ澄ましたか。


あの男なんかに、わかってたまるものかと。イノランは無意識にも、表情が険しくなる。




「イノちゃん、カオ怖い」

「え?」



からかい半分の、穏やかな隆一の声音で。イノランはハッと我に返った。
くすくすと微笑んで、隆一の目がじっとイノランを見ている。




「さっきのヒト。死にそうなカオして逃げてった。ーーーイノちゃんが怖かったんだね」

「ーーーーーだってさ」

「ん?」

「隆ちゃんが危ないって思ったし…」

「えー?」

「ーーーーーーーそれにさ…」

「?」

「…許せなかった」

「え…?」

「ーーー隆に、あんなカオ…させてさ」



泣きそうに震えて、怯えた隆一の姿。
恐怖を孕んだ、抵抗の声。




「許せなかった」



イノランの指先が、腫れ物を扱うように。そっと、隆一の頬に触れる。



「っ…」



瞬時に隆一の瞳が見開いて、心底びっくりした表情を浮かべた。

でも、そんな事はお構い無しなのか。隆一の無事を確認するかのように、頬を撫でるイノランの指先は止まらない。
いつしか、ぽわん…。と、力の抜けた隆一は。込み上げて来る安心感と、心の内に生まれた、あったかい気持ちに。
口元には、いつしか弧を描いて。

目の前で静かに微笑んでくれる、優しいギタリストに。
隆一は感謝の言葉を囁いた。



「イノちゃん、ありがとう」





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