短編集・1







〝イノちゃん〟

彼を呼ぶ、彼の声は甘く。


〝隆〟

彼を呼ぶ、彼の声には熱がこもる。










《毒とキャンディ》









「すみません…なんか急に、こんな…」




玄関を潜ったのはイノランさんの家。
玄関先には確かに、INOUEと書かれた小さな洒落たプレートが掲げられているのだが。




「気にしないでよ。一個空いてる部屋あるからそこで寝られるからさ」

「や。僕はもう、リビングの片隅とかでも全然構わないんですけど…」

「何言ってんの?今日の葉山君はお客様なんだから、ちゃんと泊まり部屋だって準備できますよ」

「葉山っち、きっと遠慮してるんだよ」

「遠慮なんかすんなって。仲間なんだしさ」

「それに困った時はお互い様!ね?」





この家の家主であるイノランさんと。言わずと知れた僕らユニットのヴォーカリスト隆一さんは、すっかり疲れ切った僕の目の前で弾む会話。

この二人がほぼ同棲のような状態だというのは本人達から聞かされていたし、彼らのバンドメンバーであるJさんからも以前釘をさされたことがある。





ーーー葉山君。

ーーーあいつらとユニットって、マジ尊敬するよ。

ーーー近年のあの二人を同時に上手くこなせんの…多分葉山君だけだからさ。

ーーースッゲ、貴重な存在。

ーーーでも!

ーーー無茶はすんなよ?




…って。苦笑気味に、コーヒーを差し出してくれたJさん。
ーーーそんな、僕の方が上手く…なんて思えないんですけど。寧ろ付き合いの長いメンバーの皆さんの方が色々解ってて上手くこなせるんじゃ?…って、言ってみたんだけれど。



「だからこそ…だよ」

「え?」

「あいつらに耐性つき過ぎて、毒だか薬だかもうわかんね~。麻痺してんのかも、あいつらの生む空気に」

「ーーー」

「どっぷり浸かんのも、別に悪い気はしねえけどさ?浸かっちまったら抜け出せねえ。耳を塞げねえ、目を逸らせねえ。そんな空気…あいつらが揃うと…あるじゃん?」

「ーーーはい」



その点は僕も激しく同意する。
本当に、そうゆう空気があるんだ。
隆一さんとイノランさんには。
好奇心。怖いもの見たさ。そんな感じだ。



「ーーーでも、なんなんでしょうね?お二人の…あの空気感」

「ん?」

「凄く透き通ってて。きっと二人の間にも何かしらの壁はあると思うんですけど。その壁が限りなく透明に近くて、限りなく薄い。薄い見えない壁越しに見つめ合ってるイメージがあるんです」

「ははっ!ーーーそうゆう…曲あったな」

「ええ。…壁ってゆうか薄い氷?氷だから熱に弱くて、二人ともお互いに向ける熱で氷を溶かそうとしている感じです」

「ーーーほら」

「え?」

「やっぱり葉山君はあいつらを上手くこなしてる」

「…そう…ですか?」

「俺たちメンバーと決定的に違う」

「?」

「毒か薬か、まだちゃんと解ってる」













とにかく今日の僕は迂闊にも程があった。
たてこんだ仕事を(今日締め切り!)どうにか終えて。データを送信してホッとして。そう言えば今日はロクに食事も摂ってないと思い出し。帰りがけに食べていこうと帰り支度をした。
今日は仕事道具があったから、その鞄に家の鍵やら財布やら詰め込んでスタジオの棚に置いていたのだが。退室間際にかかってきた電話で、ちょっと慌てて。
たった今送ったデータの確認の電話だったんだけど、疲労と空腹でちょっと不調だったのかも。
何と僕は鞄を置きっぱなしのままスタジオを出て、街に出て、食事をしてしまったんだ。






「ーーースマホだけは持ってて良かった…」


そして電子決済が出来る店で良かった。
危うく無銭飲食をするところだった。


ふらふらと店を出て、ガックリ項垂れる。ーーーホントはタクシーで帰ろうと思ったけど。また何か予想外の事が起こると困るから。多少時間はかかるけど徒歩で帰ろうか…。ってゆうか。ーーーそもそも鍵が…。家に着いても鍵が…。
どうするか…。
大変面倒だけどスタジオに戻ろうか。
それならここからタクシーでスタジオに行って、荷物を取って家まで送って貰えばいい。それなら鍵も財布も戻る。

ーーーまあ。激しく面倒なんだけど。



トボトボ…。
きっと歩いていたんだと思う。

はじめは他の誰かを呼んでいるんだと思った。どこか別の〝葉山君〟なんだと思った。

けど。



「葉山っち~!」



僕以外いないですよね?
あの呼び名を、あの声で呼ばれるのって。

振り向いたら、少し後ろで手を振っていたのは。

隆一さん。
イノランさんだった。









ーーーそんな今から戻るくらいなら、今夜は俺の家に来れば?そんで明日荷物取りに行った方がいいんじゃない?



…疲れ切った僕には。イノランさんの提案は、とても魅力的だったんだ。









「葉山君のタオルと着替え置いとくね」

「ありがとうございます。何から何まで…」

「いえいえ。風呂、ごゆっくり」

「すみません。お先にいただきます」




恐縮してバスルームに向かう。
手渡されたタオルは手触りがよくて、着替えはゆったりした黒の上下だった。




ゆったり。
湯船に浸かる。
はぁー…。
ため息が出る。
疲れた一日だった。
…充実した一日かな?
とにかく一日のラストにこんな展開が待っていたなんてびっくりだ。

だってこんな…。
言うなればここは、二人の愛の巣って事だろう。
Jさんに釘さされた。無茶すんなよって言葉にめちゃくちゃ逆らってる気がする。



「ーーーでも…今夜は仕方ないか」


深入りせず、さっさと寝てしまえばいい。事実今日は、もう疲れ切って眠い。
イノランさんに酒に誘われようが。
隆一さんのお喋りに引き込まれようが。
決意を強く。

おやすみなさい。
今日はありがとうございました。

そう言って。
与えられた寝床へ突き進めばいい。

それでいいんだ。








「葉山っち、もう寝ちゃうの?」

「はい。今夜はもう…」

「今日仕事大詰めで激務だったんだろ?」

「ええ。やっと終わりましたけどね?」

「ーーーそっか」

「なんですか?隆一さん」

「え?ううん、いいんだ」

「?」

「隆ちゃん、せっかく三人揃ったからゲームしたかったって」

「え?ゲーム」

「そう。ダイヤモンドゲームって知ってる?」

「…ああ、はい」

「いいよ、葉山っち。また今度やろ?」




ーーーそうか。確かにこうして三人で夜を過ごす事は珍しい。隆一さんが、ちょっとはしゃぎたくなる気持ちもわからなく無い。



ーーー無茶すんなよ?



Jさんの言葉が、また頭を過ぎる。
ーーーでも。





「いいですよ?せっかくですから、一回だけ」














「おやすみなさい」



たった一回の勝負だったけれど。
その一回で僕は一着。
イノランさん二着。
…って事で。



「隆ちゃん不貞腐れないの」

「…だって」

「また今度スタジオでやりましょう?持って来てくださいよ」

「ほら。葉山君がまた今度って」

「ーーーうん」



収まりが着いた。


結局、一杯だけ付き合ってよ。って。
イノランさんによって注がれたテキーラ。イノランさんはショットグラスでストレートだったけど、僕はグレープフルーツジュースと氷で割った。…残りのジュースは隆一さんへ。

そのせいで眠気に拍車がかかる。
水飲みたいな…って思ったけど、面倒だからそのまま布団に倒れ込んだ。



ーーー眠い…
ーーーーーーー眠い……

遠く方で、軽やかな隆一さんの声が聞こえた気がしたけど。

…もういいや。



「ホントにーーーーーおやすみなさい」













ーーー夜中だと思った。

やっぱりものすごく喉が渇いて。
水が飲みたくて。
数時間だけど深く眠ったおかげか頭はスッキリしてた。




「水…」



冷蔵庫の水を貰おう。
薄暗い部屋の時計を見ると、意外にもまだ午前一時をちょっと過ぎた頃だった。

あの二人ももう寝てるだろうと、なるべく静かに廊下を進む。

僕のいる部屋はキッチンの目の前だ。
出てすぐに冷蔵庫に直行。
冷たい水を存分に補給して、ホッとする。
ーーーひと心地つくと、今まで気にならなかった事に気がつくものだ。

そう。
ーーー声が、聞こえた気がしたんだ。



「?」



寝てるはずだから、二人は。
ーーー外の猫かな?…とも思った。
ちょっと、甲高い、声。


そのまま気にせず部屋に戻ればいいのに。僕はついつい、まだ行った事が無かったキッチンの奥に続く、向こう側の部屋の方へと進んだ。




ーーー無茶すんなよ。



あれ。またJさんの言葉。
なんでこうも度々?…と思ったけれど。
その問いの答えが、この後解ることになる。







キシ…


「ーーーっ…ぁーーーイノちゃ…ん」







…今の。声…?





ギッ…キシ…キ…




「んっ…ーーーぁ、あっ…」

「隆…声っ…」






ーーーーー。





「ーーーしぃ…」


「ふ…っーーーぅ…」










ーーーーーーパタン。



限りなくを音を立てず、限りなく気配を消して。
僕は部屋に戻る。

薄暗い部屋と、ドアという隔たりが。
今は僕に安堵をくれる。





〝イノちゃん〟

彼を呼ぶ、彼の声は甘く。


〝隆〟

彼を呼ぶ、彼の声には熱がこもる。





「ーーーはぁ…。」



いつかきっと、こんな場面に出会すだろうと。二人といるようになって覚悟はしていた。

彼を見る目。
彼を呼ぶ声。
彼に触れる手。
彼に微笑む、彼。

そんな片鱗は幾度と無く見てきたから。




「そう考えれば」



自分が目の当たりにしてきた、二人の甘い空気は。
作り物でも、偽物なんかでも無くて。
正真正銘、真実の愛から生まれたもの
って事なんだろうか。




〝毒だか薬だかわかんねえ〟



「僕ももうよく解んないですよ…Jさん」


けれど。
びっくりはするけれど。
嫌な感じが一切しないのが不思議だ。
隆一さんの曲や、イノランさんの曲に。時折苦しくなるほど込められる、切なさに似てる。

あの声も。
軋む音も。

僕の胸をぎゅっと締め付けて苦しいくらいだ。




「毒か薬…か」



でも僕の印象は。…そうだな。



「毒か、飴かーーーって感じだ」






きっとあの二人なら。
毒だろうが、飴玉だろうが。
そんな事、微塵も気にせずに。
たったひとつのその塊を分け合うのだろう。

合わせた唇の。絡み合う舌先の間で。


毒か。
飴か。


どちらかなんて知ろうともしないで。

その交わる瞬間に、永遠を求めて。







end?…→














床いっぱいに散らばった、ゲームの駒なんか気にしないで。







キシ…


「ーーーっ…ぁーーーイノちゃ…ん」




するまでは声を出さないって豪語してた隆だけど。




「あ…ーーーぁんっ…ん」




いつもみたいに身体中を愛したら、宣言も、やっぱり無駄だった。




ギッ…キシ…キ…




「んっ…ーーーぁ、あっ…」

「隆…声っ…」



パクッと。
空いた片手で隆の口元に静止をかける。

ーーーさすがに、葉山君に聞こえるだろうって。




「っ…ーーーすっげえ、可愛いけどさ」


「んっ…んんーーーんぁっ!」


「ーーーしぃ…」




ちゅっ…くちゅ。




「ふ…っーーーぅ…」




声を抑える目的だった筈のキスは、だんだん目的を忘れて貪り合う。
溢れて隆の頬を伝う唾液を舐めて、そのまま首筋に吸い付いた。
甘噛みするように一点を責めると、隆の首筋に赤い痕が付く。



「ゃっ…!イノちゃん」

「ーーーん?」



我慢できないのか、のけ反って俺の背中に両手を回す。シャツのはだけた隙間から胸の先端が覗くから。堪らなくて舌先で弄った。



「あぁんっ」

「ーーーこら。そんな大きな声で…だめだよ」



なら、しなければ?って思うかもしれないけど。
それはないんだ。


今ある条件の中で、隆を抱く。
それは時として。
声だったり、音だったり。
視界だったり…

気を付けて、我慢しなければならない時もあるけれど。

この存在を目の前にして、愛さないという選択肢は。
俺には無い。





「りゅっ…隆…」

「ぁーーーんあっ…あ」



ギシギシと軋む音も、抑えられない。
だから、それならばと。
隆を抱えたまま、ベッドの外へ。
床の上で再び隆に覆い被さった。

これなら音を気にせず思う存分繋がれるだろ?
そう言うと。
隆は真っ赤な頬で、にっこり笑って。
濡れた唇を触れさせてキスを強請った。




「ーーーいいよ」

「んっ…ふ、」

「声。全部…俺のもん」



「ぁんっ…ん…んーーー」





我を忘れて求め合う。
例えば今日みたいに、葉山君みたいに。
誰かが俺らの空気の中にいようとも。
抑制の中のセックスは。
時として。

毒みたいに危うくて。
飴玉みたいに甘くて、溶けそうになる。




飲み込んだ隆の甘い声が。
俺の頭を麻痺させて。

今宵ばかりは気付けなかった。


密やかに闇夜を動く。
彼の存在に。





end




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