短編集・1












夜空の下で。
その芳香は…。











《チュベローズ》












今日は俺は、ソロの撮影。
海を臨む郊外。その高台にそびえる、ハーブガーデンに来ているんだ。








「すっごい広いねー!」

「この辺じゃ一番の広さのハーブガーデンですよ。今日は撮影で貸し切らせてもらっているけど、週末なんかは観光客で賑わうそうですよ」

「へぇ、俺なんかはあんまり詳しくないんだけど…スギちゃんとかは好きそうだよね?」

「あ~!そうですね、好きそうだし詳しそう。オーガニックなアロマとかね」

「ね!ーーーハーブって、こんなに種類があるんだね」

「取り敢えず、ここの庭にあるハーブは全部食用ですって。お茶とか香辛料とかね」

「ふぅん…」

「ちなみにさっき隆一さんが食べてたクッキーもここのハーブ入り」

「あ、美味しかったよ?」

「ほら、あそこのショップでスイーツが売ってます」

「え⁉」

「ーーーーー帰り寄る?」

「うん!寄りたい!お土産買って行こう」

「言うと思った。ーーーじゃ、撮影サクッと終わらせましょう」




青空の昼下がり。そんな会話をマネージャーやスタッフと弾ませて。
爽やかなハーブの香りが広がる庭で、俺の撮影は順調に進んでいった。







「お疲れ様です!」

「お疲れ様~」



撮影が終わる頃、辺りは陽が傾き始めてた。広大なハーブガーデンのその先は、空と海。
傾いた太陽が、空と海の端と、風にそよぐハーブの輪郭を金色に染め始めている。
そのあまりに綺麗な風景に。今日の撮影ご苦労様!って、ご褒美を言われているように思えた。

スタッフ達が後片付けをする中、そんな景色を眺めていた時だった。
俺の鼻先を、ふわっ…と。微かな良い香りが擽った。



「ーーーーーえ?」


ーーーいい匂い
ーーーなんだろう?
ーーー甘い…香り




さっきまで辺りに漂っていたハーブの香りとは違う。もちろん良い香りだよ?ーーーでも、今のは…なんか…

鼻先を向けると、風上の方から漂ってくる。ーーー向こうの方、撮影では行かなかったな。



「ーーー」


振り返ると、スタッフ達はまだ忙しそうに駆け回ってる。
ーーー今なら。ちょっとだけいいかな…
そう思って。マネージャーに言った。



「すぐ戻るから、向こうの庭見てくるね?」



じゃあ、そのままさっきのショップに来て下さい。って約束して。俺はひとり、向こうの庭へと歩き出した。



どちらかというと明るくて開けた雰囲気だった向こうの庭とは対称に。
今歩いてる庭は、ちょっと密やかな感じだ。


「ーーーでも、こっち側もやっぱり綺麗だ」


背の高い薔薇の木。ミモザやライラック、オリーブの木。
木が多いんだ…。だから所々日陰もできて、秘密の庭っぽいんだね。
ーーーなんて見回しながら歩いている最中も、あの香りは続いてる。
さっきよりも濃くなっている。

甘い甘い…誘われるような花の香り。




「⁉」



思わず足を止めてしまった。
なぜかって…

だって、そう書いた看板が立ってるから。


〝日暮れより、この先立ち入り禁止〟



「え…なんで?」


なんで日暮れ?足場が悪くて、暗くなると危険な場所でもあるのかな⁇


「ーーーでも…」


あの香りは、この先から香ってくる。
ーーーこの先に、その花の花壇があるの?
ちょっと背伸びしてみたりして、向こう側を窺ってみるけど…よくわかんないや。
残念だな…
どんな花なのか見てみたかった。
ーーーなんてちょっとガッカリしてたら。




「おや、お客さんですか?」

「ーーーえ?」



後ろから声がして、思わず振り返る。
するとそこには、麦藁帽子を被った、小柄で白い髭のおじいさんがいた。



「ーーーあ、こんにちは。ごめんなさい、勝手に」

「いやいや、いいんですよ。今日は貸し切りだって聞いていたから…」

「あ、はい!撮影で使わせていただいて。とっても広くて綺麗なハーブガーデンですね」

「ああ、関係者の方でしたか。失礼しました。私はここの庭師をしています。気に入っていただけて光栄です」

「ええ、とっても!向こうの広い庭も素敵でしたけど、ここも良いですね。ーーーすごくいい香りがして…つい」

「香り?…ああ、月下香ですな」

「ーーー月下香?」

「月下香は和名ですが、チュベローズとも言われます。ーーー風に乗って向こうの庭まで香ったでしょう?」

「チュベローズ…?その香りなんですか?」

「この高台は夕方になると風向きが変わるんですよ。だから向こうの庭にも香りが流れて行ったんです」




そう言いながら、庭師のおじいさんは立ち入り禁止の柵を開けた。
開けたら、どうぞ。…と、にっこり笑って勧めてくれた。




「ーーーいいんですか?」

「ん?」

「立ち入り禁止って。俺が入っても…」




ちょっと躊躇っておじいさんを見たら。今度は朗らかに笑って、大丈夫。ともう一度勧めてくれた。



「チュベローズはね、その芳香の素晴らしさから〝夜、チュベローズの花壇に恋人同士で訪れてはいけない〟と言われた花なんですよ」

「ーーー夜?…どうしてですか?」

「チュベローズは、月下香と言われる様に、暗くなるとその芳香が強くなると言われている」

「へぇっ!」

「甘い香りに恋人達は我を忘れて愛し合うそうですよ」

「あ…だから?」

「まぁ、そんな話があるので、あやかってここでもね?夕暮れになると入口を閉めてしまいます。実際、強すぎる芳香で具合が悪くなってしまうお客さんも時々いるので」

「ーーーそうだったんですね」

「でも花は可愛いんですよ?ーーーほら、白い小さな花。咲いてるでしょう?」

「あ…ーーーホントだ。確かに見た目は…可愛い」

「花嫁のブーケに一房だけ忍ばせたり、結婚式でも人気ですよ」




そう言うと。
庭師のおじいさんはチュベローズの花が二つ付いた房をプチっと手折って。
甘い香りに、ちょっと酔い始めた俺の手の平に。その小さな花を、そっと乗せてくれたんだ。









おじいさんにお礼を言って、あのショップに戻る頃。
空は薔薇色になっていた。










「ただいまー!」

「あ、隆ちゃんおかえり~。お疲れ様!」

「イノちゃん!」




出迎えてくれたイノちゃんと、いつもの挨拶。それから…キス。



「…ん」


触れ合うだけの挨拶のキスは、大抵それだけじゃ終わらないのもいつもの事。
お互いの本気のスイッチが入る前に、ハッと我に帰った方が止めに入る。

ーーー今日は。

ーーーーーーー今日は?




「んっ…ぅ…?」



先にハッとしたのは…多分、俺。
まだ玄関なんだからって、両手をイノちゃんの胸について突っ張ってもーーーーー。
ぎゅっ。

またイノちゃんに抱きしめられてしまった。
ーーーってゆうか…どうしたんだろう?



「っ…ゃ あっ…」

「ーーー隆っ…」

「んっ…ふ ぅ…」



まだ玄関。
まだ靴履いてる!
まだ挨拶なのに!
今日のイノちゃんはどうしたの⁇



ひとまずすり抜けようと思っても、しっかり抱きしめられてて抜け出せない。
…ちょっと苦しい。
酸欠で…ふわふわ…




「ぷは ぁ…」

「ッ…ヤッ…バ…」

「んっ…え?」

「隆ちゃん、ヤバイ。ーーーなんかした?」

「なに…が?」

「なんか…すげえ…。いい香り。撮影でコロンかなんかつけたの?」

「え…?そんな、つけてな…ーーーーーーーーあ。」

「あ?」

「チュベローズ!」

「チュベ…あの香水とかになるやつ?」

「そう!今日の撮影、ハーブガーデンって言ったでしょ?」

「ん?ああ」

「そこにあったの。チュベローズの庭。すっごくいい香りで甘い香りで…でね?」

「?」

「もらったの。庭師のおじいさんに、これ」



俺はハンカチに挟んで、ジャケットのポケットに入れて持ち帰った小さな白い花を取り出してイノちゃんに見せた。
ハンカチを開いた途端に、ふわぁ…と広がる、甘い香り。
もう切り花になってしまってるのに、こんなに香るの?




「月下香とも言うんだって。暗くなるとね?香りが強くなって…」

「ーーー」

「夜にチュベローズの庭に、恋人同士で行っちゃいけないって」

「ーーーなんで?」

「…なんで…って」




ーーーあ。
…イノちゃんの空気が…変わった。




「ーーーその甘い芳香に包まれると」



ーーー俺を見つめるイノちゃんの目が、変わった。



「恋人達は、我を忘れて愛し合うんだって」















正直。
帰ったばかりでちょっと疲れてたんだけど。
イノちゃんに手を引かれて、チュベローズの花だけ持って。
暗い夜道に二人で飛び出して。
一緒に、向かった先は。



いつもの。緑がいっぱいの、大好きな近所の公園だった。

夏から秋に向かう季節。
公園の緑は精一杯に背伸びして、見上げる夜空に葉の模様をつける。
緑が深くなったいつものベンチには、この時間は誰もいない。



家からずっと手を繋いでた。
片手はイノちゃんの手。もう片手にはチュベローズ。
歩くたびに甘い香りが漂って、その芳香が確かに増してるのがわかった。



「ーーー甘い」

「ん?食うなよ?」

「む。食べないよー。お菓子じゃないもん」

「ははっ…だな。でも確かにーーー」

「うん?」

「夜の空気に似合うな。ーーーこの香り」

「ーーーうん」

「ーーー」

「ーーー」

「ーーー」

「っ…ーーー」




…どうしよう。黙っちゃった。
こんな…恋人達に必要な条件が揃いまくってるこの状況で。

チラッと隣のイノちゃんを見ると、俺の手にある白い花をじっと眺めてる。



「ーーー…」


ーーーこの香りに包まれた、世の恋人達は。
みんなみんな、こんな時間を過ごしたのかな。
甘い香りに誘われて、いつもよりもっとドキドキして。誰よりも大好きな恋人に、寄り添ったのかな。


ーーーイノちゃんが喋ってくれない。
ドキドキしてるのに。
俺だってこの香りに、もう酔わされてるのに。




「ーーーーー隆ちゃん」

「…え?」

「隆…」




イノちゃんの指先が、俺の頬を捉える。
その指先は後頭部に回って、そのまま…。
そのまま堕ちるのは、あっという間だった。










木々に隠れてるとはいえ、この公園でイノちゃんと抱き合うなんて思ってもいなかった。
誰が来るともわからない。
そんな緊張感が俺達を興奮させる。

俺はすでに下は脱がされて、白いコットンのシャツだけ羽織ってる。
ベンチに座ったイノちゃんの膝の上に、俺は跨いで揺れていた。




「ぁんっ…ゃ」

「ん…足んない?」

「ん…んっ…」

「隆ちゃん、俺の肩に両手回して」

「っうん」




言われるままイノちゃんの肩口にぎゅっと抱きつくと。イノちゃんは俺の背を片手で支えてくれて、そのまま…




「っ…ああ んっ」

「ふっ…ーーーこっちの方が、もっとくっつけるでしょ?」



ベンチに押し倒される格好で。俺を抱いたまま、イノちゃんが覆い被さって。その反動で、繋がった部分はより深く俺の中に入り込む。

それだけで気持ちよくて。
目眩がした。




「んっ …んっ…」

「隆っ…それ、貸せっ…」

「は ぁ…ーーんっーーこ れ?」

「ん」




イノちゃんは俺が握りしめていたチュベローズの花を受け取ると、それをベンチの横のコンクリート台の上に置いた。
その途端に、ス…と甘い香りが遠ざかってしまう。
ーーーなんで?って顔で見上げた俺を、イノちゃんは満足そうに微笑んだ。




「チュベローズの香りは…いらない」

「ーーー?」

「今ここで隆を抱いて…わかった」

「んっ…ーーーえ?」

「俺が好きなのは隆の匂い」

「っ…」

「俺にとってチュベローズ以上に魅惑的な匂いは…お前だけだ」

「イ…ノ 」

「隆っ…」

「あ ぁんっ…」

「りゅっ…りゅ う…」

「ぁあっーーんっ…ぁ あ…」







ーーー真っ白になった後なのに。
俺とイノちゃんはずっとベンチでくっついてた。
だって離れたくなかったから。
ここが外だってことも忘れてた。

イノちゃんは優しく俺の肩を抱いてくれてる。俺ももう何にも囚われるものもないから、存分にイノちゃんに擦り寄った。


ーーーイノちゃんは、だいぶ萎れてしまったチュベローズの花を指先で摘んで見て言った。




「ーーー多分ね?」

「うん?」

「恋人の匂いが引き立つんだと思う」

「ーーーチュベローズで?」

「うん。…この花単体だと、確かにすげえいい香りがするよ」

「うん」

「ーーーでもさ。そこに恋人の匂い…大好きで愛してるヤツの匂いが交じったら…」

「ーーーうん?」

「もうその時点で、チュベローズは引き立て役になっちまうんだよ」

「ーーー」

「ーーー隆の匂いが、ヤバイくらい魅惑的になる」

「っ…」

「さっき…。や、今も…そうだよ?」




至近距離で、イノちゃんは俺を見つめて。
ぐっと近付いたイノちゃんの瞳に吸い込まれるように、俺は目を閉じて。
また胸をドキドキさせながら、イノちゃんと何度目かわからないキスをした。











俺もハーブガーデン行ってみたい。ってイノちゃんが思い出したように言ったのは、空が晴れ渡ったある日のオフ。

あの庭師のおじいさんの話だと、昼間はチュベローズの庭に入れるって事だったから。俺ももう一度行ってみたくて、二人でハーブガーデンに向かったんだ。














「ーーーーーうそ…」

「休園日?」

「マジかぁ…」




ーーー確かに今日は平日。
平日は急に休園することもあるので、ご来園の前にご確認下さい。って入り口に書いてある。

うっかり。
電話してから来れば良かったね。




「ーーーま、残念だけど仕方ないか」

「また来よう?秋になるとまた綺麗だよって庭師のおじいさん言ってたし」

「そうだな」

「ーーーうん!」




じゃあどうしよっか?って、閉まったフェンスの前で二人でうろうろ。
ーーーすると…



…ふわ…



「ーーーーーあ」


「ん?」

「ね、イノちゃんわかる?」

「?」

「ーーーチュベローズの香り」

「え…?ーーーーーーーあ、ホントだ」

「中から、風に乗って香ってきたんだね」

「ーーーだな」




ーーー甘い香り。
昼間の香りは…俺は美味しそうって思う。お菓子みたいな。

甘い甘いケーキかな?





「ね。イノちゃん?」

「ん?」

「昼間の俺は、どう?」

「ーーー昼間の隆?」

「そう。昼間の、俺の匂い」

「ーーー」

「どう?」




こんな所でまたイノちゃんと二人きりって思ったら。なんだか嬉しくて楽しくて。自分でもわかるくらい機嫌が良い俺は、イノちゃんの前でくるっと身を踊らせてにっこり笑って見せた。




「ーーーーー」



イノちゃんは暫く難しい顔で俺を見て、それから、はぁ…って大きなため息。
ちょっと!なんなの?そのでっかいため息!

ム…としてる俺の前で、イノちゃん今度は苦笑い。
そして、両手を広げて、俺を。

ぎゅっ。




「ーーーーー可愛い」

「ーーう?」

「ホント…もう。身も心ももたねえよ」

「え?」

「愛しくて愛しくて負けそう」

「ーーーーーそれ、俺の歌?」

「くくっ…ねぇ?」

「むうっ」

「ーーーーー大好きだよ。隆の匂いも身体も心も声も全部だ」

「っ…」

「全部好きだからな?」

「っ…ーーーうん」




風の通り抜ける高台の上で。
俺たちは飽きもせずキスに夢中になる。
風はやっぱり、甘い香り。

チュベローズは…そうだね。
恋人達を、彩ってくれる香り。
大好きで愛おしい恋人を、もっともっと美味しくしてくれる香り。


極上の香りを纏って。
愛おしいひとに、微笑むんだ。






end…?



















「いただきまーす!」



隆は俺の目の前で、大きなシフォンケーキにフォークを突き刺した。
その後季節を移して、ようやく二人で訪れる事が叶ったハーブガーデン。
ここの農園で育ったハーブの入ったシフォンケーキ。とろ…っとしたクリームが端にかかっててかなりのボリュームがありそうだけど。
隆曰く。

シフォンケーキは空気がいっぱいだからすぐ食べられちゃうよ!

…だそうだ。

実際隆は、むぐむぐと美味そうにもう半分程食べ終えてる。



「ホント、ケーキ好きだな」

「ん?うん!ケーキ大好き!どんなのも好きだよ?」

「ーーへ~」



俺の言葉ににっこりして、続きのケーキを食べる隆。
そんな姿を見ていたら、困ったことに俺の意地悪虫が…




「ね、隆ちゃん?」

「ん~?」

「それすっごく美味くて大好きなんだよな?」

「ん?うん!大好き」

「そっか。ーーーじゃあさ?」

「うん?」

「ーーー俺とどっちが好き?」

「…う?」

「ケーキと俺と」

「!」

「ーーーどっち?」




ーーーちょっと意地悪が過ぎたかな。
黙ってしまった。ーーーでもこれって、隆とコーヒーとどっちがいい?って隆に詰め寄られるようなモンか…

ーーーやっぱりちょっと、意地悪だったかな…




「イノちゃん」



「ーーーえ?」



考え込んだ俺に、隆はキッパリ言い放った。



「イノちゃんだよ?」

「ーーーーー隆」

「イノちゃんに決まってるじゃない。ーーーだってね?」

「ーーーうん」

「イノちゃんがいるから、ケーキが最高に美味しいって思えるんだよ?」

「!」

「だから、イノちゃん」

「ーーー」

「俺の一番はイノちゃん。ーーーわかった?」

「ーーーーーはい。」





俺の一番も隆一です。







end




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