ミライ・カコ・イマ













「ーーー…」

「………」




だんだん。
だんだん…と。

足取りが重く、スピードも落ちて。

J君の家を出て、脇目も振らずに道を歩いたのに。
いつしか足は止まって。

久しぶりに見上げた空は、高いコンクリートの真っ直ぐなラインで、切り取られた空だった。





がしゃんがしゃんっ…がしゃんがしゃんっ…がしゃん…




鉄道橋の下。
いつのまにか午後の空。
秋の季節。
日暮れもだいぶ早いから。
ずっと向こうの空の端は、オレンジと紫色が滲んだ水彩画みたいな色をしてる。


ーーー綺麗だね。
ーーー未来の世界でも夕陽は変わらないね。

そんな会話をイノちゃんとしたかった。
…でも、俺たちは。
少なくとも、俺は。
頭の中はぐちゃぐちゃ。



〝離れちまったんだよ。ーーーイノと隆は〟



ねぇ、それってどういう意味?
離れるって。
別れるって事…なの?



がしゃんがしゃんっ…


「ね、イノちゃん…」


がしゃんがしゃんっ…がしゃんがしゃんっ…


「ーーーっ…イノ、」


何かを言わなきゃいけないって思うのに、上手く言葉は見つからない。
鉄道橋に響く電車の通過音に負けないように。
俺はイノちゃんにしがみ付いて、声を張り上げて彼を呼んだ。


「イノちゃん…っ…」

「ーーー隆、」


イノちゃんの両腕が俺を抱きとめてくれる。
泣いている時。
わけがわかんなくなって、気持ちがぐちゃぐちゃな時。
逆に、嬉しい時。
幸せを分かち合いたい時。

イノちゃんは俺を抱き締める。
思いの丈を込めて。




「ーーーーーっ…なん、で⁈」

「ーーー」

「なんで…っーーー」




どんなに喧嘩しても、それは喧嘩で。
嫌いになる訳じゃないよ。
ーーー好きだから、喧嘩もするんだよ。

喧嘩=嫌い…じゃない。




「そう言ってたのに…っ…」

「ーーー、」

「別れちゃうって…ーーーじゃあ、嫌いってこと⁇」

「ーーーりゅ、」

「俺はイノちゃんが嫌いで…ーーーイノちゃんは俺が嫌い…で、」

「ーーーーー」

「だから離れたの…⁈…」

「っ…隆ちゃん…ーーーーーーーー





がしゃんがしゃんっ…がしゃんがしゃんっ…





だから呼ばれたの?

五年先の未来。

俺とあなたが、バラバラな世界。



がしゃんがしゃんっ…がしゃん…





イノちゃんはいま、俺を抱きしめてくれているのに。







ぼんやり…。

鼻の奥がツンとして痛い。
泣き過ぎて、擦り過ぎた瞼が痛い。
何度も何度も彼の名前を呼んで。
こみ上げて来る堪らない思いを叫んだから、喉の奥が痛い。

痛い…痛い…。

ーーーでも、本当に痛いのは。
張り裂けそうな胸だ。






がしゃんがしゃんっ…がしゃんがしゃんっ…






「ーーーーーぐすっ…ーーー」

「ーーーーーー」

「…ぅくっ…ん、」

「ーーーーーーーーくくっ…」



ーーーイノちゃん。
何で笑うの。

ーーー酷くない?



「泣いてるの、ばかみたいじゃん」

「ごめん、違うって」

「酷い」

「隆…ーーーだから、違うよ」

「っ…」



じゃあ何?ーーーって、睨みつけてやろうとしたら。
コツン。

急に目の前にイノちゃんのどアップ。
おでこ同士が重なって。
今度は囁くようにイノちゃんは微笑んで。
ーーー泣き顔が可愛いからだよ。って…


くっ…と。
思わず息が止まる。




「ーーー隆ちゃん」



至近距離でじっと見つめてくるイノちゃんの目が。
落ちて消えかける夕陽のカケラが映って…潤んでる。



「ーーーーーーそれに、泣きたいのはさ、」

「ーーー…」

「俺もだから」

「…ノ、ちゃ…」

「隆と離れるとか、別れるとか。ーーーダメだった…とかさ」

「ーーーっ…」

「ーーーーーーーーーありえないだろ…っ…」








がしゃんがしゃんっ…がしゃんがしゃんっ…
がしゃんがしゃんっ…がしゃんがしゃんっ…がしゃんっ…



ーーー長い…な。ーーー電車の音。


編成数の多い、特急なのかな…。




がしゃんがしゃんっ…がしゃんがしゃんっ…
がしゃんがしゃんっ…がしゃんがしゃんっ…がしゃんっ…






「っ…りゅ、ぅ」

「はぁっ…ぁ、」

「ーーーいいよな?ーーーもう、暗いから…」

「んっ…んん…ーーーっ…ぅん」



こくん。

頷いたら。




とさっ…


空が見えた。








電車が去ると。
この鉄道橋の下は秋の虫の鳴き声に包まれる。
ーーー明かりも、鉄道橋を等間隔に照らす小さなライトと。
遠くの方の工事現場の、無人の標識灯だけ。


ーーーだからわかるよ。

イノちゃんの息遣いも。
漏れる声も。



「ーーーっ…隆…」

「ぁっ…んぁ…っ…」


繋がる…
濡れる、音も。





〝俺は今何も持ってない。だから今一番に俺が求めてるのは隆ちゃんなんだよ。俺の身体と心全部使って、隆ちゃんを守って絶対に二人で元の時代戻るんだって、そうゆうモード。余計なもんは持ってないよ。だからこそ、今は…

何も考えずに隆ちゃんを愛せるような気がするーーーーーーーーーーーーーーーーー〟




ぐちゅっ…ぐっ…


ーーー宣言どおり。
イノちゃんは、後先は考えてないんだろうな…

ここが外だって忘れてるのかも。
それくらい、俺の隅々まで。
快感で痺れるほどに俺を抱く。



「はっ…ぁ、ーーー」

「くっ…ん、んっ…ふぁっ…」





でもイノちゃん…

この世界の俺たちは、俺たちの未来の世界。
離れて、側にいない。
俺たちがいる世界なんだよ。

それでも?
そんな未来が待ってるって知ってしまっても。
俺を変わらず愛してくれるの⁇





「ーーーっ…りゅ、ぅーーー隆…隆一っ…隆ちゃんっ…」

「イノっ…ぁんっ…ああっ…あーーーーー」





ぱたん。
…ぽた、


「ーーーっ…ノ…?」



地面に押し倒された俺の頬に、落ちてくる雫。
それが何かって、わかるまで。
時間はかからなくて。
イノちゃんの涙だって…わかったの。




「ーーーーー誰、が」

「っ…あ、ぁっーーーゃ…ぁ…」

「離すかよっ…‼︎」

「ーーーノ…っ…ちゃ、」

「お前、を」



イノちゃんが胸に抱えた想いを。
俺にぶつけてくれてる。
気持ち良さと軋む痛みで意識を飛ばしそうになるけれど。
俺は必死にイノちゃんに抱きついて、それを受け止める。
ぅうん。
受け止めたいんだ。
受け止めるのは俺だけって、思いたいから。



痛い…痛い。

ぐちゃぐちゃに突き上げられて、息が止まりそう。
でも、重なる唇が、気持ちよくておかしくなりそう。






がしゃんがしゃんっ…がしゃんがしゃんっ…
がしゃんがしゃんっ…がしゃんがしゃんっ…




ーーああ、
また電車が通り過ぎる。

ここに留まっているのは。
イノちゃんと俺だけ。

過去から未来へ。
未来から過去へ。
ーーーもう、どっちでもいい。

イノちゃんと俺と。
二人が揃っていれば、ここが二人の世界になるんだもの。
ここが過去でも未来でも。
どこにいても愛するって、誓ったはずなのに。






朦朧とした視界で夜空をとらえて。
俺は震える手を空へ伸ばす。



「ーーーっ…ね、ぇ。ーーーー」




ねぇ。この世界の、イノちゃんと隆一。



「ーーーーーど、して…?なの」


愛するひとの側を、どうして離れたのーーーーーーー⁇










クシュン!

ハックシュ…





「寒いよな」



連発したくしゃみ。
そのあと鼻を啜る俺をイノちゃんは苦笑しながら抱きしめてくれる。
はだけた服を直してくれながら、すっぽりと。



「ーーーあったかい」

「ん?」

「イノちゃん、あったかいね」

「そっか。よかった」



外でしちゃったから、済んだ後の熱の冷めていく途中で風邪引いたら大変。
それは俺だけじゃなくて、イノちゃんもだよ?





「ーーーね、イノちゃん」

「ーーーん?」

「イノちゃんに抱かれてる間、ずっと考えてた。俺はイノちゃんが大好き。世界一…ぅうん、計れないくらい…愛してるよ?」

「っ…ーーー俺もだよ」



ぎゅっと、イノちゃんは、もっともっと強く俺を抱く。



「ーーーこの気持ちはずっとって、思ってた。無くなる事なんて有り得ないって思うのに…ーーーなんでなんだろう…」

「未来の、俺たち、か」

「っ…いやだ」

「ーーー隆…っ…」

「やだよぉ…」



離れたくないよ。
側にいたいよ。
それなのに…

情けないけど、涙が止まらない。
泣くだけしかできないのかな…


するとイノちゃんが、


「ーーーきっと訳があるはずだ」

「っ…」

「たった五年だ。そんな短い時間で、消えると思うか?」

「ぇ、?」

「好きって気持ち。こんなに、愛してるって気持ち」

「っ…」

「Jの言う派手な喧嘩が元だってんなら、ただ単に離れたって訳じゃないと思う。だって俺たちずっと言ってたじゃん」

「ーーーなに、?」

「喧嘩=嫌い、じゃない」

「あ、」

「小さかろうが派手だろうが、喧嘩は喧嘩だ。俺たち、イノランと隆一の喧嘩だ。ーーーだったらさ」

「ーーーえ?」




抱擁を緩めて、イノちゃんは俺を見る。
真っ直ぐに、力強い瞳で、俺を。




「嫌いになった…じゃない、別な理由があるはずだ」




別な理由…。
離れるほどの、理由が。

この未来の世界の俺たちにはあるの?


だったら、それを解決すれば…ーーーーーーー








会いに行こう。

この未来の世界のイノランと隆一に。



夜の鉄道橋の下で。
互いの温もりを分け合いながら。
俺とイノちゃんは。
そんな決意をしたんだ。








同じ世界で、同じ時間に、同じ人物が顔を合わせるとどうなるか…




「この未来の世界の俺たちに会いに行くけど。やっぱりそこだけは注意した方がいいよな」

「…うん、どうゆう風になるかわかんないしね…。念には念を…」




そうだね、と。頷きあって。
夜が明けて明るくなるのを待って。
それからイノランと隆一がそれぞれ住んでいる筈の所へ向かってみようということになった。



「ーーー今日は仕事かな」

「…ん、まぁ。仕事でなくとも何かしら出る予定はあるだろうからな」

「ーーーわかんないよ?」

「ん?」

「イノちゃんなんか、今日はオフで、ずっとずーっと!惰眠を貪って過ごすかもしれないじゃない」

「っ…りゅーうー」

「ふふふっ、」

「俺そんなことしないでしょ?」

「でも一日中ベッドで離してくれない事はあるでしょ?」

「そりゃそうだろ。ーーーつか、それと惰眠を貪るのは全然違うだろ?」

「ま、ね?」

「~~~っ…たく。ーーー」

「ふふっ」

「ーーーでもさ」

「ぅん?」

「こっちの世界の俺らが、もう何ヶ月も喧嘩状態ならさ…平気なのかな…」

「…ぁ」

「隆ちゃんとプライベートで話さない…笑い合わない、触れられない…抱くこともできない…ーーーなんてさ」

「ーーーーー」

「ーーー俺なら…無理だな。…多分、すぐに降参しちまう」

「ーーー」


「ごめんな、隆ちゃんって。側にいられないなんて無理です。って…」













朝がきた。

昨夜は薄暗いうちからここにいたから、よくわからなかったけど。
一夜を過ごした鉄道橋は、青く銀色に輝く、朝陽に映える美しいもので。
早朝始発から電車が忙しなく行き交う様子は。
過去も未来も、いつでも交差しているんだよ…と。
背中を押されているように思えて。




「ね、イノちゃん」

「ん?」

「昨夜ここでね。この五年先の未来の、鉄道橋の下でイノちゃんと交わって愛し合えたことはね」

「ーーーーん?」

「この世界のバラバラの俺たちに、今のこの俺たちを見せつけてやりなさいって、誰かに言われてる気がする」

「ーーーーー誰か?」

「…例えば、電車とか?」

「ーーーーー」

「下りと上り電車が、過去と未来…みたいに思えない?」

「ーーーーああ、」





がしゃんがしゃんっ…がしゃんがしゃんっ…
がしゃんがしゃんっ…



今日も元気に行き交う電車。
人々を乗せて、想いを乗せて。
それと同じように。
過去の俺たちも、未来の俺たちも。
未来に想いを馳せたり、過去を懐かしんだりして、過ごすのだから。



「絶対に、俺たちがここへ来たことの意味があるんだよね。ーーーだから、やっぱりそれを解決すれば、戻れると思う」

「ーーー例の曲については全然よくわかんないけど…。そうだな、きっとそうだ」





朝陽を浴びると、力が湧いてくる。
二人で一緒にいれば、どうにかなるんだと。










道を進む。
何度も歩き続けた道を。
ーーーその先には…




「ーーーイノちゃんの住む家」

「引っ越ししてなければ、な」

「うん…」




そうだよね。
その可能性だってゼロじゃない。
何が待ちうけているかわからないのが未来なんだから。



「ーーー時間的に、午前中からの仕事がある日ならそろそろ…」

「イノちゃんが外に出てきてもおかしくない時間だね」

「ちょっと張り込みするか」

「ふふふっ、刑事さんみたい」

「変な感じ…。自分自身を見張るなんてさ」

「なんだっけ。…メロンパンと牛乳?」

「…張り込みの定番はアンパンじゃなかったっけ?」

「そうだっけ?ん、この際どっちでもいいけど…」

「腹減ったんだろ」

「っ…!」

「図星。まぁ、朝飯の時間だしな」

「ぅ…」

「いいよ。少しこっちの様子見て、しばらくしても動きが無ければ今度は隆ちゃん家の方に移動しよう。その途中で何か食べればいいよな」

「うん!」


朝ごはん!
嬉しくて思い切り頷いてしまった。
そうしたらイノちゃんは、俺を見てくくっ、と笑う。


「…なに?」

「くっくっ。ーーーいやさ」

「ん?」

「ホッとするな、って思ってさ。ーーーどんな状況でも、腹減った~とか、ご飯食べよう?って言葉ひとつで喜ぶ隆ちゃん見てるとさ」

「ーーー俺が食い意地だけみたいじゃない…」

「いいんだよ」

「え?」

「それでいいんだよ。ーーー好きな相手の前でさ、腹減った~とか、もぅ眠い~とか、欲求に素直なの」

「…イノちゃんの場合は、俺とえっちしたい~でしょ?」

「そうだよ。でもそれがいいんだよ。ってか、そうじゃなきゃダメなんだと思うよ。求めたいものを我慢したら、絶対いつかガタがくると思うし。それがもとで、どんどんどんどんヒビが大きくなってさ」

「ーーーやだね。そんなの」

「もしかしたらさ、こっちの世界の俺たち。ーーーなんかそんな我慢してたのかなぁ…。初めは些細な何かを我慢してたつもりが、重なって、積み上がって、大きくなって…。」

「遂には…一緒にいる事が耐えられなくなった…?」

「わかんないけどさ。…でも、なんかこれだけは言えるって思う事がある。それはさ、隆ちゃんを嫌いになって離れてるんじゃない筈だって事。それだけは…なんか言い切れるんだよ」




ーーー嫌い。
その言葉は、言ってしまったら最後。
後悔なんて言葉では片付けられない。
不用意に使ってはいけない言葉だと思う。
相手も自分も悲しいだけになる。
そんな言葉だから。

だからこそ、俺もイノちゃんの言うことに同意する。

俺もそう。
イノちゃんが嫌いだから離れるなんて、それだけはない気がする。
もっと別の理由。


ーーーーーそうだな。


もしも仮に俺が、イノちゃんと別れるという選択をとった時。
それは。
嫌いになったからじゃない。
そうじゃなくて。

ーーー好きだから。
誰よりも好きだからこそ、身を引く。
自分の存在が、彼の重荷になってしまっていると感じた時に。
もしかしたら俺は。

イノちゃんの側を、離れるのかもしれない。






「ーーーー…」



深く思考の奥に入り込んでいたみたい。
隆、隆。って、側にいるイノちゃんが、俺の袖をくっと引っ張る感覚でハッとした。


「なに?」

「ーーーほら、」

「え?」



「俺だ」




建物の陰から、そっと見守るその先に。
マンションの玄関から出てくる人影。



「っ…ぁ、」



見慣れた黒のハットを被って、サングラスは胸元のネックレスに引っ掛けて。季節柄、薄手のジャケットと革靴。
黒のレザーの鞄は、仕事用のかな。


「イノちゃん、だ」

「ああ、未来の…」

「ーーー髪、未来の時代は落ち着いた茶色だね」

「な、」


イノちゃん、今は金髪に近い感じだものね。

ーーーでも、イノちゃん。



「なんかさ、元気ない?」

「ーーーーー俯いて…。なんだよ、未来の俺」

「ん、J君と同じ。やっぱりちょっと大人っぽいなぁ…って思うけど。ーーー」




いっぱい笑って、幸せそうにギターを弾いて。
隆、好きだよって、手を繋いで、微笑んでくれる。
太陽みたいなイノちゃんの面影が…




「寂しそうに見える…ね」


「ーーー」




去っていくイノちゃんの背中。
視線は下向きに。
ねぇ、それってさ?
これから向かう場所に、俺がいないから?
歩くあなたの隣に、俺がいないから?

ーーーそう思っても、いい?






「隆ちゃん」

「イノちゃん」

「ん?」

「行ってきていい?」

「!」

「今、あのイノちゃんのところに」

「ーーー隆ちゃん」

「本当ならイノちゃんがイノちゃん本人に訊けたら一番だと思うけど。でも何が起こるかわからないから。ーーーだから、俺が会いに行ってもいい?」

「ーーーーーー隆、」

「ね?ーーー物陰から見てて欲しいよ。そしたら俺は何も怖いものはないから」




行動は起こさないと、何も変わらないから。



「ーーーーーわかった。ちゃんと側で見てるから」

「うん!」

「ごめんな、隆ちゃん。ーーー頼む」



ぎゅっと繋いだ手を、引き寄せて。
イノちゃんは掠めるだけのキスをして、俺に力をくれる。



「ありがとう、行ってくるね」

「ああ、」



繋いだ手を離して、俺は小さく頷いて。
そして、先を行く未来のイノちゃんを追いかける。
一瞬後ろを振り返ると、イノちゃんも物陰伝いについて来る。


先の信号が点滅し始めて、イノちゃんの歩速が緩んだ。

今だ、と思って。
呼んだんだ。





「イノちゃん!」



「ーーーーーぇ、?」




声は届いたみたい。
前に立つイノちゃんが、ゆっくりこっちを見た。

イノちゃんの表情が、驚きの後に強張ったものになるのを…見逃さなかった。







「イノちゃんっ…!」



そう呼び止めた俺の声は、どこか悲痛な…。




「ーーーーー」


振り向いたイノちゃんと俺の隙間の時間が止まったみたい。
イノちゃんは目を見開いて微動だにしない。
俺もいつの間にか呼吸をするのを忘れてて。慌てて息継ぎして、もう一度彼の名を呼んだ。



「イノちゃん、俺…」

「ーーーーー」

「ーーー俺がわかる?」



目の前のイノちゃんにとっては、過去の俺。
イノちゃんの記憶の中に、俺は絶対に存在しているはずなんだ。





「ーーーりゅ、う…?」



ーーー目を見開いたまま、イノちゃんは一文字一文字、呟いて。
それは、紛れもなく俺の名前。




「隆…一…?」

「っ…そうだよ、隆一だよ!」

「ーーーーー隆…。…でも、」

「…え、?」

「少し違う、か?ーーー」




J君もそうだった。
俺とイノちゃんをすぐにわかってくれたけど、五年の差は、やっぱりあるようで。
その違いに躊躇っているんだ。




「わかってくれて嬉しい!ーーー俺は隆一だよ。ーーーでも俺はこの時代の隆一じゃない、あなたにとって過去の隆一なんだよ」

「っ…は?…過、去…?」

「混乱するはの当たり前だよね!俺もまだ理由はハッキリよくわからないんだけど、俺は五年先の未来に来てしまったんだ。…どうにかして元の時代に戻らなくちゃいけなくて、どうやったら戻れるだろう?って…それで色んな原因を考えて…」

「ーーーーー五年前⁇…」

「ーーーイノちゃんっ…」

「え、?」

「出会ったばかりでこんな事聞いてごめんなさい!ーーーでも今この時代のイノちゃんと俺が抱えてる問題が、俺がこの世界に来てしまった原因だと思ってるんだ!」

「ーーーーーーー」

「この世界の俺とイノちゃんは…一緒じゃないって聞いた!ーーーねぇ、なんでなの⁇」

「……」



俺がその疑問を投げかけた瞬間。
イノちゃんの表情が凍りつくのを感じた。
ぎゅっと口を噤んで、俯いて。

軽々しく訊いてはいけない事だったのかもしれない。
けれど、訊いて良いのは、多分…俺だけ。
そう思い込むことにして。
怯まずに。
もう一度問い掛ける。




「なんで五年先の未来に来てしまったのか。なんで五年先なのか?って、ずっと思ってた。でも、この世界の俺たちが離れてしまったって聞いてから、原因はそれしか考えられなくなった。ーーーなにか、だれかが。この世界のイノランと隆一を助けてあげてって、俺をここへ呼んだとしか思えなくなったんだよ…っ…」

「ーーーーー」

「困っている事があるなら力になりたい!この世界の二人の手助けがしたいんだ」

「ーーー…」

「ねぇ!隆一はどこ⁇この世界の隆一はどこにいるの⁈」

「…知…る、かよ」

「ーーーなんで、あなたの側にいないの⁇なんで離れたんだよ!ずっとずっと…っ…」

「ーーーーーっ…さ、い…」

「ずっと一緒にいるって、約束したのに‼︎」

「うるせぇよっ…‼︎」



ドッ…!


「っ…あ、」



一瞬、彼の苦悩の顔が通り過ぎる。
鈍い振動が肩に響く。
それはイノちゃんが、行き先に回り込んで道を塞ぐ俺を押し退けた感触。
痛みはそれほど無い。
ーーーけれど、胸が痛い。

ずけずけと言い過ぎたのかもしれない。
彼の触れて欲しくない領域に踏み込んでしまったのかもしれない。

だってあんなイノちゃん、初めてだ…




「ーーーイノ…ちゃ、」



押し退けられた反動で、俺は脚が縺れて後ずさる。
拒否された声に、胸の奥がグゥ…ッ…締め付けられて気持ちが竦む。
もうそれ以上言葉が見つからなくて、思わずその場に崩折れそうになった時。
俺を背後から掬い上げてくれる手が…




「隆ちゃん、ほら」

「…あ、」

「平気か?」



その手は。
イノちゃんの手。
じっと様子を見ていてくれた筈のイノちゃんが、いつの間にかすぐ側にいた。



「ーーーイ…イノちゃん…ありがとう。ーーーでも、いいの?」



目の前にはこの世界のイノちゃんがいるのに。
同じ人物が顔を合わせる事になってるよ。
ーーーもう一人のイノちゃんの登場で、また驚いてるみたい…。



「まぁ、とりあえずは何も起こってないから平気だろ」

「ん、」

「ーーー派手な事しなきゃ大丈夫だって。ーーーーーそれよりさ。…ちょっと我慢ならなかったから」

「…、え」

「目の前の俺。ーーー見てて、情けなくなった」

「っ…ーーーイノ…」



イノちゃんは俺の手を握ったまま。
ずい…と、この世界のイノちゃんに対峙する。
繋いだイノちゃんの手がぎゅっと力強くて、彼が今、怒っているのだと悟った。






「ーーーお前さ。ーーーホントにイノランか?」










〝ホントにイノランか?〟



俺の手を繋いだまま、イノちゃんの声は苦しげだった。
その表情は俺の位置からはよく見えないけれど。
その声と同じように、眉を寄せているのだと思う。




「ーーーお前…。お前も未来から来たのか?」

「ああ、そうだよ。ここにいる隆と一緒に五年前から飛んできた過去のお前だ」

「…一緒に…か」

「そうだよ。当たり前だろ」

「ーーー当たり前…?」

「俺は隆の側にいる。難しい事も多いけど、なるべく時間を見つけて隆と一緒にいる。ーーーそれが隆との約束だから」

「ーーーーー」

「馴れ合いじゃない。甘えだけじゃない。ーーーお互いを大切に想い合って、尊敬し合って、」

「ーーー」

「愛し合おうって、一緒にいようって、約束したからな」

「ーーー」

「ーーーーお前の隣には、今は隆はいないみたいだけど…」

「っ…」

「忘れてるわけじゃねぇんだろ?隆との約束」

「!」

「ーーー喧嘩する事自体は仕方ないって思うよ。そりゃ、して当然だ。この際、喧嘩する事に関しては、まぁ…いいよ。ーーーーーけどさ」




〝けどさ〟

その一言。イノちゃんの声が、低く…怒りを孕んでる。
繋いだ手は、ますますぎゅっと離れない。

ーーー離すもんかよ。
ーーー未来の俺らがどんなでも。

そんなイノちゃんの無言のメッセージが伝わってくるみたいだ。




「ーーーけどさ。…イノラン。ーーー未来の俺」

「ーーー」

「お前さっき何した?」

「ーーー」

「ーーー隆を、ど突かなかったか?」

「ーーー」

「っ…イノちゃん」



ぎゅうっ…

イノちゃんの手が冷たい。
指先も氷のよう…




「ーーーこっちのお前らがどうなってるか知らねぇけど、喧嘩に目が眩んで一番大事な奴に危害加えてどうすんだ。それが過去から来た喧嘩相手だったとしてもそれとこれとは別問題で、心配してくれてる奴にやっていい事と悪い事があるだろうが‼︎」

「ーーーお前に…」

「そんなお前の態度だから!隆が離れてったんじゃないのか⁈」






「ーーーーーわかんねぇよ。…お前には」

「ーーー」

「俺らの間に何があったか?ーーー教えるつもりも無いね。仲良く揃って未来に来ちまうようなお前らにはな」

「ーーーは、?」

「わかるわけねぇ…」

「イノちゃ…」



わかるわけない。ーーーなんで?
仮にも俺たちは、同じ人物なのに。

ーーーでも、そう呟いたイノちゃんの表情が、すごく…
すごくすごく…辛そうで苦しそうで。
未来の俺が嫌いなら。嫌っているだけなら、こんなに辛そうな顔するわけないって…思えてならなくて。

俺は、つい…



「嫌いじゃないんでしょ⁇ーーー嫌いになって離れたんじゃないんだよね?」

「ーーーしつこいな」

「だってじゃあ、なんでそんなに辛そうなの⁈ーーー泣きそうなの⁇」

「…隆一」

「っ…え、」




イノちゃんが俺を見つめる。
未来のイノちゃんと、こうやってちゃんと視線を重ねるのは初めてかもしれない。

ーーーイノちゃん…。あなたの目を見ると、俺も苦しいよ。




「隆一。…それから…過去の俺…」



その時、一瞬だけ見せてくれたのは。
苦しげに微笑む、イノちゃんの笑顔。
でもそれもすぐに消えて、さっと背を向けて。




「さっさと過去へ帰れ。ーーーもう二度と顔見せんな」






















「くっそ…」

「イノちゃん、」

「一発ぶん殴ってやればよかった」

「ダメだよ!例え未来のイノちゃん自身でも暴力はダメ」

「だって…!そうすりゃ目が醒めるかもしれないじゃん!」

「イノちゃん!」

「アイツ隆ちゃんに体当たりしたくせに謝りもしねぇし!」

「ぶつかっただけだってば!平気だよ?痛くもないもん」

「嘘」

「え、?」

「嘘だ、俺にはわかるんだからな。ーーー隆ちゃん、怪我は無くても…」

「っ…」

「痛かったんだろ?」



トン、
イノちゃんの手が、俺の胸をたたく。

ーーー知ってたんだ。
イノちゃんの手前、バレないようにしてたのに。




「拒否されてーーーーー」

「ーーーっ…」

「胸は痛んだだろ?」




ごめんな、って。
イノちゃんは俺を抱き寄せる。

イノちゃんのせいじゃないでしょって言ったら。



「でも、アイツは俺だから。ーーーこのままの月日を歩んだ五年後の俺に違いはないから。ーーーだから隆ちゃんに謝らないといけない」



ごめんな。

また、謝るイノちゃん。
謝らないでよ。
本当に、謝らないで。

イノちゃんに謝られる未来は、変えたい。



「ーーーね、未来は変えられるよね?」

「ん、?」

「だって一瞬後は白紙だもの。どうにでもなる!ーーーだからね?」

「ーーー」

「今の俺たちが、もっともっと…」

「え、?」

「もっとだよ?これ以上無理ですってくらい、仲良くなればいいね」

「!」

「ね?」

「ーーー隆、」

「ね?ね⁇イノちゃん」

「…くっ、」

「う?」

「くくくっ…はは!」

「え?」

「ーーーはははっ…!ーーーそうだな」




そうしよっか!

そう言って、イノちゃんはもっとぎゅっと俺を抱きしめる。

そうか。
俺たちの行動や考え方ひとつで、それは巡り巡って未来を変えるんだ。
それが俺たちがこの時代に来た理由なんだとしたら、やっぱり俺たちがするべき事はひとつ。
この時代の二人を助けてあげられるのも俺たちだけ。


それは先の時代の俺たちを変える程の絆と愛情を。
壮大な愛情から、日々の小さな愛情も全て掬い上げて。
それを見せてあげればいい。
思い出させてあげればいいんだ。














この世界の隆一の事も気になったから。
イノちゃんと二人、見慣れた街を歩いて彼の家へ向かう。
ーーー俺は家にいるかな…なんてぼんやり思っていると。
通りの店々はオレンジや紫や…ゴーストチックなカラーリング。
そっか。



「ハロウィンだったね、今日は」

「ーーーいつも隆ちゃんとやるけど。ーーー今年はな」

「黒猫さんはお預けね」

「ええっ⁈いやいやいや、無事に帰ったらやり直しのハロウィンしようよ!黒猫隆ちゃんに会わなきゃ終わんないよ!」

「ーーーえっち」

「…だからね、何度も言うけど…」

「性欲も立派な欲求でしょ?」

「わかってんじゃん」




もぅ…。って、恥ずかしくてそっぽ向いたけど。
俺の気持ちはもう期待でいっぱい。
俺だって、この日ばかりは特別でありたいんだよ?



「じゃあ、帰れたらね?」

「約束な」

「ぅん」



ちょっと照れ臭い。
でも手を繋いだまま歩いていると。




「わぁ、」

「ん?」


通りのワゴンに、お菓子のお店。
ハロウィン仕様の可愛いスイーツがいっぱいだ。



「ぅわあ、可愛い!」

「そうだな」

「ね、見て。黒猫の形のロリポップがあるよ」

「ーーー欲しい?」

「え、?ーーーぅうん」




可愛い。
猫のキャンディ。
こんなハロウィンには食べてみたいけど…でもね。



「この先も何が起こるかわからないから、資金は大切にしなきゃ」

「ーーー」

「だからいいよ。見るだけでじゅうぶん」



J君に貸してもらったお金は、大事に使わなきゃね。





「買ってあげるよ」



でもイノちゃんはポケットを探ってコインを取り出す。
お店の人に猫のキャンディを指差して、お金を渡した。



「ほら、」

「イノちゃん、」

「いいから。欲しかったんだろ?」

「ーーーそ、だけど…」



今の俺たちにとって、キャンディは嗜好品。
俺ばっかり、申し訳ない。
ーーーそれに、これはJくんの…




「これは俺の金で買ったから」

「え、?」

「実はついさっき気づいたんだけど。いつも使わない反対側のポケットにコイン二枚だけ入ってたんだ。150円」

「ーーー150円?そ、なの?」

「文無しじゃなかったんだな。ーーーまぁ、どっちにしろ150円だけじゃここで当面過ごすのは無理だったけど。ーーーでもキャンディくらいはさ、俺が」

「イノちゃん」

「隆ちゃんにプレゼント」

「ーーーっ…嬉しい」

「ん、」

「ありがとう、イノちゃん」




手渡された黒猫のロリポップ。
今までで一番嬉しいかもしれない、ハロウィン。

ーーーだから俺もプレゼントがしたいと思うけど…



黒猫の俺は帰ったらのお楽しみ。
だったら、今は?





「ーーーね、イノちゃん」

「ん?」

「黒猫の俺は…まだだけど」

「ん、」

「だから今はね?」




キャンディをぎゅっと胸に抱いて。
イノちゃんに顔を寄せる。

ーーーほら、この世界の二人にも示してあげないといけないからね。


こんなに小さな事でも、幸せだった事…覚えているでしょう?ーーーって。




「イノちゃん大好きだよ」



目を閉じて、唇を重ねた。
そしてすぐに応えてくれるキスに溺れながら。



この世界の二人に想いを馳せた。






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