恋におちる












〝水の底で眠りに就く、君ともう一度〟













ぽちゃん。





水面に幾重の輪。
凪いだ海でも、その輪は緩い波に煽られて歪んで消える。


俺が落とした浮きの無い釣り糸の先に付いているのは魚の餌ではない。
擬似餌でもない。


繋いだのは宝石。
真っ赤な、血の色のような宝石。
クロスを象る、小さなルビー。



ーーーそんなの釣り糸に結ぶなんてどうかしてる。

ーーーお兄さんそれで何釣ろうとしてんのさ。


釣り場の隣に座るお隣さん達は、俺の妙な行動をチラリと見ては揃って笑う。
そんなんで魚は釣れないよって。
釣果なんてでないだろって。



ーーー人魚姫でも釣りたいのかい?


以前そんな事を言った人がいたけれど。
人魚じゃないよ。
そもそも釣り糸で釣られる程、人魚は馬鹿じゃないでしょ?


そうじゃない。
そうじゃないんだよ。

俺が釣りたいもの。
…や。釣るのが目当てなんじゃない。
会えるのなら、どんな形でもいいんだ。
その場所がわかるなら、俺が潜って行ったっていいんだ。

ここからは見渡すことのできない、深い海の底までだって…。















「イノ。お前また今日もあの海に行ってたのか?」


「ん?まぁ、ね」




ギターを担いでいつものスタジオに行くと、仲間のベーシストのJが俺を見るなり言った。
コイツとは幼馴染でもあるから、遠慮はない。
俺が日々あの海に通うのを、コイツは知ってる。

ギターケースと一緒に釣竿も担いでスタジオ通い。
皆んな、不思議そうに遠巻きに見てたけど。コイツだけは違った。





「なに、釣り始めたの?」


そんな問い掛けに。



「別に魚釣りしたいわけじゃない。手段として、試してる」

「ーーー手段?なんの」

「人探し」

「…は?」

「もう一度会いたい奴がいてさ。その為の、」

「ーーー人魚にでも会いたいのか?」

「ふっ。Jと同じ事言ってた釣りのおっちゃんがいたよ」

「ーーー」

「ーーーでも、そうじゃない」

「ーーー」

「人魚とか、そんなんじゃない」

「ーーーじゃあ、?」






「恋人」






恋人。
好きになったひと。
好きになって、好きになってくれて。
たった一晩、たった一度だけ。
身体を重ねて。
抱きしめたまま寝落ちた夜。

その次の朝。
目覚めたら、そのひとはいなかった。


書き置きも何も無く。
連絡手段も何も無く。
ただ。

抱き合った白いシーツの上に。
コロン、と。
真っ赤な石の、ペンダント。
クロスを象ったそれは、そのひとが身につけていた血の色のような宝石。
ルビー。


たった一晩愛し合ったひと。
彼。
彼の残したものは、そのルビーと。
消えることの無い、俺の中の気持ちだけ。


信じられない程に好きで、愛おしくて。
忘れられない。
また会いたいと、あてのない人探しを決断させるほどに。

俺は彼に恋におちていた。





ーーーで、それでなんで釣りかっていうと。


単純な理由だ。
出会った場所があの海だったから。

当然、人魚みたいに水の中で出会ったわけじゃなく。
砂浜のその先の丘の上に建てられた。
カフェ兼バーみたいな店だった。



でも、だったらその店で探せばいいんじゃないのか?って思うだろうけど。

違うんだ。
まるで賭けのように、釣りなんて行動に俺を突き動かす理由。


聴かせてくれた。
あの日、たった一度だけ。





〝これはね、恥ずかしいんだけど俺が作った曲なんだ〟

〝恋の歌。俺は海が好きだから、その要素も混ぜ込んで〟

〝切なさも混ぜ込んで〟


〝海と、叶わない恋の歌〟






その時。
彼が聴かせてくれた歌は。
マイクも、演奏も、何も無かったけれど。
離さなかったんだ。
俺の心を捕らえて、鷲掴みにして。





〝叶わない恋ならば いっそ 海の底に 沈んでしまえばいい〟




彼は隆一と名乗った。

隆一の歌ひとつで。
隆一の存在全てに。

俺は恋におちた。








わかってる。
現実に考えて、常識で考えて。
ひとが海の底にいる筈なんて無い。
例え海と恋の歌を歌った彼が、本当に恋心を抱えたまま海におちてしまいそうだったとしても…だ。

お伽話じゃないんだ。
だって彼は、隆一は。

確かにそこにいたんだから。












ちゃぷん。





小さな音を立てて、夕闇の水面からルビーが顔を出す。
釣り糸の先に結え付けた赤い宝石は、海水で濡れて、潤んだように艶やかだ。




「ーーー」



美味そうな匂いもしない赤い石は、どうやら魚達も見向きもしないんだろうな。
ーーーっていうか…





「わかってる」

「こんな事したって無駄だって」


でも。
行動せずにいられない。
あり得ないと思いつつも、もしかしたらという可能性に賭けずにいられない。

会えるのなら。
隆一に。
もう一度、会えるなら。

こんな馬鹿げた事も。
自ら海の底に潜ろうと。


構わないんだよ。















海の側のカフェ・バー。
隆一はそこで、歌を歌ってた。


ピアニストの彼は仕事のパートナーだと言っていた。
「葉山です」
演奏の合間に挨拶してくれた長身の彼は、穏やかに笑ってた。



「ふたりでピアノと歌でね。色んなレストランやバーで演奏しているの」



隆一も歌の後の清々しい表情で教えてくれた。



「いつもこの店で歌っているのか?」


俺の問い掛けに、隆一はふるふると首を振る。

「依頼される事もあるけどね。でも、殆どはもう行き当たりばったり。飛び込みで」

「ーーーってことは…」

「明日はまた、何処かの場所で」


「ーーーーー」




もう会えないんだ。
本人たちすら、明日の事がわからないのなら。
今日ここで出会ったばかりの俺が、また偶然にも彼らと出会える事は…




「ーーー…」



目の前で微笑む隆一。
柔らかく、甘い声音に乗せて。


それは表向きの顔?
それはそうだろう。
はじめて出会った俺たちだ。
俺のことを、いち観客として見られるのが当然だ。

でも。
けれども。






「あのさ、」

「え?」

「今日、歌い終わったあと。時間あるか?」

「ーーー」

「隆一」





もっと君のこと知りたいと思った。
限られた僅かな時間で。
もしかしたら、もう会えないのかもしれない君のこと。










「…時間、ある」

「ーーーえ」

「え?」

「あ、ぁあ。ごめん」

「…ぇと、あの…」

「ごめん!本当に。せっかく時間あるって言ってくれたのに」




不覚だ。
まさかそんなあっさり、了承してくれるなんて思わなくて。逆に隆一の方が首を傾げるくらいに、思い切り間の抜けた返事をしてしまった。

でも、それくらい。
まさかって思うくらい、嬉しくて。
俺はいつまでも、隆一の微笑みを見つめてしまった。












「行ってらっしゃい」

「うん。葉山っちも楽しんで来てね」

「はい、隆一さんも」



このレストラン・バーでの夜の演奏を終えて。
日払いの給金を受け取った隆一と葉山君は、互いに手を振った。
いつもは同じ宿に戻るというふたりだけれど、今夜は違う。
葉山君もこのレストラン・バーで知り合ったスタッフ達とだいぶ意気投合したようで。
この後営業が終わったら飲みに行かないかと誘われたようだ。
もちろん一緒の隆一にもお声がかかったが…



「ごめんなさい。せっかく俺まで声かけていただいたのに、」


そう、丁寧に相手に断ったあと。
隆一はちらっと俺の方を見て。
それから、多分。俺にだけわかるくらいにささやかに。
ふっと、柔らかく微笑んで。



「今夜は約束があるので」


と、また丁寧に頭を下げた。











深夜の海岸線を、俺と隆一はのんびり歩いた。
人通りは殆ど無いし。
あるものといえば、道路沿いに街灯と共に立ち並ぶ背の高い椰子の木だ。
そんな夜道を、俺は浮き立つ気持ちをどうにか抑えながら。
隣を歩く隆一に、声をかけた。






「ありがとう、さっき」

「え?」

「葉山くんと一緒に誘われただろ?」

「あ、ぅん」

「むこうの飲み会、音楽好きが集まっていそうだったし。ーーーでも俺との方、優先してくれて」




そう。あの店で働くスタッフ達は、皆音楽が好きで集まっているのだろうと思ってた。
ピアノを弾く葉山くんや、歌をうたう隆一のそばで皆こぞって話をしていたし。
自分達の持ち込みの管楽器や弦楽器を見せては、何やら楽しそうにしていたのを見ていたから。

だからもしかしたら、隆一も彼らの集まりに興味もあったかもしれない。



でも。








「いいの。大丈夫だよ」

「ーーーん、」

「もちろん彼らとの音楽談義、とっても楽しかったけれどね」

「そうだと思ったよ」

「でも、いいの」

「ーーー」

「あなたとの約束。俺は大事にしたかったから」

「ーーーーー隆一、」

「先に誘ってくれたのはあなただし」

「ーーー」

「それにあなたも好きでしょう?音楽」

「ーーー知ってんの?」

「そりゃあ…あの店に来るってひとはだいたいそうだと思うし。ーーーそれにね」

「ん?」

「ーーーあなたの手、」

「手、?」

「ん、」



ひた。
隆一の手が、俺の指先に触れる。
急な出来事で、俺はここでも間の抜けた反応をしてしまって、不覚!と思うのだけれど。
隆一の手は温かくて、さらさらしてて。
俺の指先を丹念に、じっと見つめて。(暗いから?)



「ギターとか、ベースとか。弾く人の手」

「ーーー」

「…してるなぁ、って」

「ーーーーー弾く」

「!やっぱり」

「すごいな。よくわかったな。俺は楽器は何でも好きだけど、ギターを弾くよ」

「ギタリストの手だね!」




にこっと、隆一は笑った。
夜道でも、街灯の明かりでわかる。
隆一の表情。
あの店で歌っていた時の大人びた表情とはまた違って。
素直に、飾らずに、俺に微笑んでくれている気がする。

それが嬉しい。
そんなのを見せてくれると。
隆一の事、もっともっと知りたいと思う。




「このあとどうしようか」

「そうだねぇ、」

「隆一、腹減ってる?」

「大丈夫。さっきのお店で演奏の合間に夜食をいただいたよ」

「そっか。ーーーじゃあ、」




このまま何処かで飲んでもいいし。
何処かでゆっくり語り合うのもいい。

隆一が側にいてくれる今夜、せっかくの夜。
きっと、どんな過ごし方だって有意義な時間になることはわかるけれど。





きらきらと。

隆一の胸元で時折煌めく、小さな光。
あの店にいた時から見え隠れしていた、赤い石。
クロスを模るのは、ルビーだろうか。

夜道の街灯に反射して、今もきらきら光ってる。

その光に後押しされる。



ーーー今夜誘ったのは何故?

ーーー友達になりたかった?

ーーー語り明かしたかった?

ーーーそれとも…




ーーーもっと違う、

ーーー深い、深い…




ーーー彼の底まで、深くまで。






「隆一、あのさ」

「ん、?」

「今夜は帰らなくて平気か?葉山くんと連絡は、」

「葉山っちもあの調子だと何軒もハシゴしそうだよ。だから大丈夫」

「はははっ、そっか」

「俺も大丈夫」

「ーーー」

「帰らなくても平気だよ?」



ふわりと、また微笑む。
言ってることはよく考えるとすごい事だけど。
隆一も一緒にいる事を望んでくれてるって、思うことにした。





「俺の部屋に来ないか?途中で飲み物でも買って、」















家っていう自分のプライベート空間に。
出会ったばかりの人間を呼んだりなんかしない。
常の俺なら、そうだ。

でも、隆一は。











「お邪魔します」

「どうぞ」




隆一を招き入れた。
びっくりしてるのは、平静を装っているけれど。
俺の方。

隆一は俺がドアを開けると、パッと顔を上げて玄関を見上げた。
開け放ったドアに、どうぞ。の意味を込めて、隆一が先に入るのを待っていたけれど。
隆一はドアの前で待ったまま、はにかんで、俺を見る。

主人である俺を先に…と思ってくれているんだって、その視線でわかって。




でも、今日はさ。





「どうぞ」

隆一が、先。

もう一度言って、今度は軽くトン…と背を押すと。
隆一はありがとうと言って、一歩を踏み出した。








ガサ。


リビングのテーブルに、買ってきた物を置く。
コンビニの袋には、それぞれ選んだ飲み物と、軽くツマミ。
クランベリーのサワー缶と、ミネラルウォーターに手を伸ばそうとしていた隆一。
水ならうちにあるからいいよって言ったら、隆一は目を丸くして、それから微笑んで。
ミルクティーのペットボトルを掴んだ。

あなたは?って、目配せ。

俺は缶ビール。それとミネラル…


「お水、あるんじゃないの?」


と、言われて。
そうだった、と。自分で言ったくせに、ちょっとバツが悪くて、照れる。
舞い上がってるって、自分でわかるから。尚更。

で、それらの飲み物と、それぞれのツマミ。
俺はチーズのアソート。
隆一はというと…



「チョコ好きなの?」

「うん。オヤツで食べるのも好きだし、お酒の時もよく選ぶ」

「そうなんだ」

「歌う前とかも、」

「歌」

「葉山っちと控室で。葉山っちはナッツとか。だから俺のチョコと一緒にぽりぽり食べてステージに上がるんだよ」



ーーーぽりぽり。


衣装をばっちり決めた隆一と葉山くんが、差し向かいでナッツとチョコを食べてる風景を思い浮かべて。

(やば…)


それは可愛い。
可愛すぎる…かも。

と、そんなコンビニでの経緯を思い起こしながら。
俺は傍で袋を漁る隆一を見る。

にこにことチョコの袋を開ける隆一は、俺の想像…妄想なんか知る由もないんだろう。
キャンディー包みのそれを取り出してジッと見つめてる。
早く食べたいって顔して。




「ああ、悪い。ーーー飲もっか」

「はい」

「ーーー」

「?」

「かしこまんなくていいよ。同じ歳くらいだし」

「あ、」

「呼び方も、イノランで」

「イノラン?」

「俺も隆一…。ーーー隆って、呼んでいいか?」

「!」

「隆」

「いいよ!」

「よかった」



じゃあ乾杯!って、買ってきたばかりのアルコール缶を交わした。








夜は更け行く。

誰かがいる夜がこんなに心地いいって思うの、いつ以来だろう。
たった一本の缶ビールなのに、今夜はえらく酔いの回りが早く感じる。






「なぁ、隆?」

「ーーーん?」



ソファーでゆったり酒を飲んで。
隆がぱくりとチョコを口に入れたタイミングで、彼を呼んだ。
むぐむぐと口を動かしながら、隆はちょこんと首を傾げて俺を見る。
少しの間、そんな隆から目が離せなかったけど。
そう。
叶うなら、お願いしたいことがあった。




「歌」

「歌?」

「そう、隆の」

「ん?うん」

「すごく好きだと思った」

「ーーー」

「隆の歌う姿も、隆の歌う表情も、歌声も」

「ーーーありがとう」

「すごく好き」

「ーーー」

「好き」

「ーーーーーちょっと、照れちゃうね」

「そう?ーーーでも、ほんとにそう思ったから」

「ん、」




そう。
叶うなら。




「聴きたいなぁ…って、」

「ぇ、?」

「隆の、歌」

「ーーーーーここ…で?」

「もし、叶うなら」

「ーーーイノラン、」

「聴きたいな」











「俺の歌…」

「まぁ、あの店のステージで聴かせてもらったんだけど」

「ん、」

「また、もう一度。ーーー隆の歌」



聴きたいなって、呟いて。
ここで、ハッとした。

隆の歌。
隆の歌う姿。
隆の表情。

望むのは、俺だけに向けられたそれら…なんだ。
あの大勢の前で歌う隆だけじゃ足りなくて。
俺だけに、って。

そんな事を望んでいる自分に、カッと顔が熱くなるのを感じた。
胸の内が、火を噴いたように熱くなるのを実感して。



(それって…)



独占欲とか。
そうゆう感情なのかな。
一歩間違うとヤバい感じになりそうな、この感情。



(ーーーでも、)



優しくしたい。

抑えつけて、閉じ込めて…とか。
そうゆうのは望んで無い。
そうじゃなくて。
隆が歌う、自由に。
そんな姿を見たいんだ。
ーーー俺の側で。
歌って欲しいんだ。






「いいよ」

「っ、」

「今夜誘ってくれたお礼。こんな風な時間を過ごすの、楽しかったから」

「隆」

「ーーー逆にお礼に歌…くらいしか今用意ができなくて、」

「そんな、」

「ごめんね」

「そんな事ないよ。最高のお返しもらう気分だ」

「ほんと?ーーーじゃあ、」

「ーーー是非」

「うん。ーーーーーー何の曲を歌おうかな、」

「すげぇ、楽しみ」

「ふふっ、えっとね。ーーーそうだなぁ」

「ーーー」

「俺の作った曲なんだけど。タイトルもまだ考えてなくて…」

「え、ってことは」

「まだ未発表。葉山っちも知らない」

「!」

「ーーーっていうかね、」

「え、?」




隆は、座っていたソファーからすっと立ち上がると。
そのまま立って歌うのかと思いきや、ソファーの下のラグの上にぺたんと座って。
俺が手を伸ばせば触れ合える、そんなすぐ側で。

息継ぎも、吐息も。
隆の体温、匂いまでも。
手を伸ばせば、触れられるほど近くで。





「この曲はステージで歌うつもりで書いたんじゃない。ーーー多分ね、」

「ーーー」

「たくさんのひとに聴いてもらう曲じゃなくて、」

「ーーー」

「ずっと、ずっと。しまってた」

「ーーー」

「もしかしたら歌う事もないまま消えて無くなってしまう曲だったのかもしれないけれど…」

「ーーー」

「今、歌いたいって思った」

「ーーーーーそれ、」




「恋の歌。俺は海が好きだから、その要素も混ぜ込んで」

「切なさも混ぜ込んで」


「海と、叶わない恋の歌」












〝叶わない恋ならば いっそ 海の底に 沈んでしまえばいい〟




叶わない恋って、もしかしたら誰しも一度は経験するんだと思う。
好きになったひとが、必ずしも自分の事も好きになってくれるとは限らない…とか。
好き同士なのに、色んな事情で物理的な距離があって。会えない時間が苦しくて。
それならばいっそ、想いを手離して。
叶わない恋を選ぶ場合もあるだろう。

ひとつとして同じものなんて無いけれど。
そのどれにも。
きっと。
噛み締める唇とか、耐えて堪える涙とか。
最後の一瞬まで、指先を触れ合わせていたい程の、痛いくらいの気持ちがあるんだろう。





(ーーー隆は、)



歌う隆を、見つめながら。
熱に浮かされるように、ぼぉ…としていく頭の端で思う。


そんな恋をした事があるのかもしれない。
隆が、この歌を作ってしまうほどの。
海の底まで沈んで。
光が届かない砂の上で、膝を抱えて、眠りに就くみたいな。

苦しくて、綺麗で。
可愛い。
叶わない恋歌。





「ーーーーーーーーーー……」



歌を聴き終わったあと、どうするのがいいんだろう。
拍手や喝采、スタンディングオベーション。
良かったよ!って、笑顔で駆け寄るのがいいのかな。

歌をうたって、はぁ…と、息をついて。
どうだった?っていう、隆のはにかんだ視線を受けながら。
俺はそんな事を考える。



(良かったよ)

(まだ誰にも聞かせたことのない曲を聞かせてくれて)

(光栄だし、嬉しいよ)



ーーーなんて、そんな言葉ばかり、頭の中に現れては消えて。
ありきたりの台詞は、消えて…消えて…


残った言葉は何だ?





「ーーーイノラン、」

「…ん。」



あまりにも俺が沈黙してたせいだ。
隆はちょっと不安気な顔して、俺の感情を読み取ろうとするみたいに、俺を見上げる。




「ーーーとても…」


良かった…




「っ…ぇ、」


良かったよ。って言葉は、やっぱり声に出る事はなくて。
その代わり。
俺は無防備におろす隆の腕を掴んでた。
隆の白い手の甲まで隠す、ニットの感触を感じながら。




「…ノ…ラン…っ…」



歌う間、ずっと側で感じてた。
隆の匂いも体温も、それから声も、全部。

俺は言葉の代わりに、腕の中に閉じ込めた。








誰でもいいとか、そんなことは決してない。
こんな風に心を乱されるのも。
高熱を出した時みたいに頭の中がぼぉ…と熱いのも。
今日出会ったばかりの、殆ど初対面に近いのに。
こんな躊躇いも無く、腕の中に閉じ込めてしまうのも。

それは、隆だから。

それこそ関係ないんだ。
初対面とか、まだ何もお互いの事を知らないとか。
同性同士とか、本当に。





「…あったか、」

「イノ…ラン?」

「ん?」

「…ぁ、あの」




抱きしめた隆の体温があったかくて。
冬に向かう、この季節には堪らなく心地いい。
白いニットに包まれる隆の肩をぎゅっと、もっと抱き寄せて。
鼻先に掠める黒髪はさらさらして柔らかくて。
それに映える滑らかそうな白い首筋は。




「いい匂い、」

「っ…」



ーーーなんて、言った後に。
目の前でびっくりした顔してる隆と目が合った。
よく考えれば、そりゃそうだ。
でも、そんなのも嬉しくて堪らない。
俺のする事で俺に返してくれる反応全てから目が離せない。




「ーーー隆は、」

「…ぇ、」

「そんな恋をした事があるのか?」

「!」

「今の歌みたいな、そんなさ」

「ーーーーー」

「叶わない恋」





〝あの海の水は わたしの涙で できているの〟




「なぁ、」

「ん、」

「隆」

「ぅん?」

「ーーーーー何で、?」

「ーーーーー」

「聴かせてくれたのは何で?」



きっと、たくさんの歌を知っている筈の隆が。
その中でもこの曲を選んでくれたわけ。



「ーーーそれ…は、」

「うん」

「…ぇ、えっと…」

「ーーー」

「ぁ、の…」




ちらちらと俺を見ながら、隆の言葉は歯切れが悪く。
ーーーでも、それは悪い意味なんじゃないんだって、隆の頬の赤さでわかってしまった。
それを見たら、自分の気持ちも疑いようもない程はっきりとして。
溢れそうになる想いを隠せなくて。
ぎゅっと唇を噛んで耐えた。

最初からそうだったんだ。
俺は、君に恋におちた。









「ほんとは、違うの」

「ーーーーーん、?」



抱きしめていた隆の身体を、そのまま掬い上げて。
抵抗もされないのをいいことに、俺は躊躇いも捨てていたのかもしれない。
横抱きにして、寝室に向かって。
ドアの向こうにベッドを見つけると、隆は一瞬ぎくりと肩を揺らしたけれど。



こてん、と。
すぐに、俺の胸に頬を擦り寄せて脱力した。



「ーーーーー違う?」

「ん、」

「何が?」



きしっ。


電気をつけないでいるから、白いシーツは海のように青白い。
そこにゆっくり隆を横たえながら、俺は隆に問い掛ける。


「っ…」


きゅっと、目を瞑って。
上から覆い被さる俺から視線をそらそうとするから。
怖がらないでいいよ。
嫌がる事はしないから、と。
言葉の先を促すように、指先で真っ赤になった頬に触れた。




「違うって、なに?」

「ーーーーーっ…ん、」

「隆」

「ーーーーーーぁ、あの…ね」

「ん」

「ーーーあの、歌」

「ーーーん」

「ほんとはね、ずっと前に作ったんじゃ…ないんだ。ーーーしまっておいた曲なんじゃなくて。ーーーもう、即興で…」

「ーーー」

「溢れる気持ちを、そのまま歌ったの」

「ーーー」

「ーーーーーあの店で…」

「ーーー」

「あなたを初めて見た時から、」

「ーーー」

「ーーーあなたと、初めて会話をした時から、」

「ーーーーーりゅ、」



じっと。
瞑っていた目は、いつしか俺を真っ直ぐに見つめる。
薄く涙の滲む隆の瞳は雄弁に語る。




〝叶わない恋に おちてしまったから〟








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