塔の上












隆一の靴は底が減らない。

二人は塔の中でも基本、靴を履いて過ごす。
もちろん寝室のベッドの上、ソファーのあるふわふわのラグの上などリラックスしたい場所では靴を脱ぐけれど。
石造りのこの室内は、歩くたびにこつこつと心地いい音が響いた。

キッチンでコーヒーを淹れてくれている隆一の後ろ姿をじっと眺めていたら。
イノランの目に、隆一の靴が目に付いた。

イノランからは踵の部分しか今は見えないけれど。
キャラメル色の、上等な革のドレスシューズだとわかる。





「隆の靴、俺も好み」

「え?どうしたの?突然」

「ん?いや、隆の靴素敵だなって思って。そうゆう形の俺も好きだし、しかもめちゃくちゃ綺麗。全然汚れてないし」

「あ…ーーーうん」

「あ、」

「え?」

「…ごめん。そういうつもりで言ったんじゃないんだ」

「ううん。いいんだよ、事実だもん」

「隆」

「ーーーどんなに素敵な靴を履いても、俺が外を歩けないのに間違いは無い。だからイノちゃん気にしないでよ」

「ーーー隆」



イノランは思わず言葉を詰まらせてしまう。
困ったように笑う隆一が寂しかった。

綺麗な靴。
隆一と好みが似ていると思った、素敵な革靴。
しかしその靴底は、土に触れる事なく。草の上を歩く事なく。
塔の部屋の床を、こつこつと歩くだけだ。

再びコーヒーを淹れる事に戻った隆一の背中は、やっぱり寂しそうに小さく見えた。




「ーーー」



鼻歌はもう癖なのかもしれない。
度々、隆一が口ずさむ歌が小さく聞こえると。
イノランは塔の窓から見える空を見た。

ここからの外を隆一と歩けたら。
大切なギターを背負って、隆一は気に入りの靴を履いて。
手を繋いで、二人分の荷物の入った鞄を持って。



「ーーー」


入口も無いこんな塔の上に。
誰がずっといたいと願うだろう。





「隆ちゃん」

「ん?」



イノランの呼びかけに、コーヒーできたよと、隆一が振り返った。
ありがと。そう言ってカップを受け取ったイノランは、ぐっと手を引くとそのまま隆一を抱えてバルコニーに出た。



「っ…イノラ…」

「隆っ…」



いきなりの行動に驚愕してしがみつく隆一。
しかしイノランは落ちんばかりにバルコニーから身を乗り出した。



「ここから出よう!」

「ーーーっ…え…?」

「どんな邪魔があっても、出口が無くても!いざとなったら俺がこの塔ぶっ壊してやる」

「壊っ…」

「塔が無くなれば自由だ。すぐそこが地面になるんだ。どこまでだって、一緒に行ける」

「っ…!」



イノランは叫ぶと、隆一を正面から抱きしめて言った。
驚きで目を丸くする隆一をまっすぐに見て。



「全てはこの塔だ。この塔が隆を守り、隆を孤独にさせてた」

「ーーー塔?」

「ーーー知り合った街の連中、それから森の教会の人達にも聞いた。ーーーこの塔の秘密だ。言い伝えられた、この塔の話を」






瞬きも忘れたみたいな隆一の瞳は。
うるうると濡れた色でイノランを見上げた。





隆一を抱きしめながら、イノランは街での出来事を思い返していた。






〝あの塔には、昔々魔女がとじこめられていた〟

〝呪いの歌を歌うと恐れられて〟

〝だから人々は、入口の無い塔を作った〟

〝出られないように。災いをもたらさないように〟




それがイノランが街の人に聞いた、言い伝えられている話。
しかもそれには続きがあった。



〝魔女の没後、ずっとずっとそこは無人で荒れ果てていた〟

〝けれどここにきて、もう二十年以上前だと思うなぁ。あの塔に再び、新しい魔女が閉じ込められたと聞いた〟

〝しかし誰も見た事がない。何しろ魔女の一件以来誰もあの付近に近付こうとはしないからな。ーーー誰も真相は知らないと思うよ〟



「新しい魔女?」


酒場でその話を聞いていたイノランは、グラスを持つ手をピタリと止めた。


〝ああ、魔女だ。歌が恐ろしく上手い、美しい声の魔女だと聞いた。そのあまりの美しい歌声に、誰もが虜になって言いなりになっちまうんだとさ〟

そう、声を潜めて常連の客は話した。



「ーーー歌」


イノランはテーブルに視線を移して眉根を寄せた。

ーーー歌。
ーーー美しい声。
ーーー新しい魔女が来たのは二十年以上前。


「ーーー」


ーーー閉じ込められて。
ーーー塔から出られない魔女。
ーーー入口の無い塔。



「ーーー…まじかよ…。……それってさ」



イノランの脳裏に、優しく微笑む、黒髪の愛おしいひとの姿が浮かぶ。



「…隆が…魔女に仕立て上げられてるって事かよ」



結露で濡れた掴んだグラスが、ミシリと軋む。
寄せた眉根はますます深く。
険しい顔で、イノランはテーブルの木目を追って。必死に心を落ち着けた。



「ーーーなぁ、もういっこだけ聞いていいか?」


震える声を堪えて、イノランは隣の客に問い掛ける。
早くこの話題は終わらせたい風情の客の男は、渋々と頷いた。



「その新しい魔女が来てから。…っていうか、その前の魔女がいた時もさ。実際になんか…ーーー災いがあったって言い伝えとか、あんの?」



イノランの問いは意外だったのだろう。
客の男は一瞬目を丸くすると、しばらくじっと考えて。
ゆるゆると首を振ると言った。



〝ーーーーー言われてみればだなぁ。ーーーそういや聞いたことがない、そんな魔女絡みの災いの実態なんか。ーーーそれよりもだ〟

〝ーーー街での男連中の暴動だの喧嘩だの、お偉いさんのいけ好かねえ対応だの上がり続ける物価の愚痴だの、そんな話題で持ちきりだ〟



「ーーーーー」



イノランは黙って立ち上がると、財布から紙幣を取り出してテーブルに置いた。



「二人分だ。話聞かせてくれた、礼」



いいのか?と、再び目を丸くする客の男に、イノランはギターを背負って後ろ手に手を振って店を出た。


「ーーー」



森へ向かう道を黙々と歩きながら、イノランはぎゅっと唇を噛み締めた。
向かわねばならない所ができた。
それは隆一が言っていた、森の教会。
幼い隆一を育てたという神父やシスターに会いたかった。
ーーーそして。



「話を聞かないと」



全てを知っているとすれば、教会の人たちだ。


あの塔はなんなのか。
人びとの言う魔女とは何か。
そしてその塔に、隆一を置く理由は何か。
隆一の髪が長く伸びる理由はなんなのか。




「隆が自由になれる糸口」



掴みかけた気がしたのだ。

隆一をあの塔から連れ出す事ができる方法を。





魔女は歌う。
魔女は歌う。

しかしそれは呪いの歌ではなく。

喜びの歌。
歓びの歌。
祝福の歌。

愛の歌。






森の教会を勢いよく飛び出したイノランは。
一歩一歩。
森の塔への道を進むごとに。
ゆっくり、ゆっくり。
速度は落ちて。
やがてへたり込むように。
土の地面に、崩折れた。




「っ…ーーーなんて言えばいい…」



がりっ。
無意識に、地面の土を掻いた。



「隆…に」








………………………


バルコニーでイノランに抱きしめられた隆一は。
唐突なイノランの行動に少々躊躇いながらも、その身体をじっとイノランに預けていた。
ここから出よう!と言ったイノランは、何かを知っているのだろうかと。
隆一はただただ、静かにイノランの言動を待った。



さらさらと、イノランの指先が隆一の髪を梳いては撫でる。
その手の動きに、隆一はびくりと身体を震わせた。
ーーーこんな風にイノランは、度々隆一に触れる。
優しく緩やかに、大事に隆一に触れた。
夜は同じベッドで、と。そう提案したイノランは、二人並んで横になると、隆一が眠ってしまうまで髪を撫でた。

あまりの心地よさに、いつも先に眠ってしまうからわからない。
こんな時イノランがどんな顔をしているのか。
うとうとした目で顔を上げようとすると、今度はぎゅっと抱きしめられてしまって。
隆一はいよいよ本格的に瞼が落ちて。
イノランの表情を見ることは叶わないでいた。

ーーーけれども、今はベッドの中ではない。
まだ、眠くもない。
隆一は、そっと。
顔を上げた。



「ーーーっ…」


どきんっ。

胸が鳴った。



「ーーーーーイノ?」



そう、名前を呼ぶのが精一杯だった。

イノランの、隆一を見る表情。



(っ…なんで?)



切なげに、愛おしげに。
この上なく大切なものを見るような眼差しで、イノランは隆一を見つめていた。
いつもは胸に抱きしめられて見えない表情。
けれども今は、隠そうともせずに。
隆一は、そのイノランの眼差しを一身に受けて身を硬くした。


(ーーーどうしよう)


(恥ずかしくて…)


(イノちゃんと目が合わせられないよ)



しばらくそのまま身を委ねていたけれど。
ついにはどうしようもなくなって。
隆一はおずおずと、イノランを呼んだ。




「っ…あ、の。ーーーイノちゃん?」

「ん?」

「…どうしたの?」

「ーーーどうもしないよ。ーーーただ」

「え、?」

「出会ったばかりの時に言ったこと、さ。ーーー好きになるよって」

「う、うん」

「覚えてる?」

「ーーっ…うん」

「ん、」

「ーーーーーーーーーーイノちゃん?」

「好きになったから。ーーー隆の事、どうしようもないくらい、好きになったから」

「っ…ーーー」

「だから、全部一緒に背負う覚悟だ。ーーーーだから、話すよ」

「…ぇ?」




イノランの指先が、隆一の頬に触れた。
柔らかく頬を撫でると、そのまま指先で唇に触れた。




「隆は、新しい魔女として、ここにいる」

「ーーーぇ。……なに、魔…女…?」

「この塔は隆を守ってる。…けど、結果。隆を孤独にさせた」





森の教会の人たちに聞いた話。
イノランはそれを、ゆっくりと丁寧に。
隆一に話して聞かせた。









この森の先の街は、昔々とても治安が悪かった。
それこそ音楽やアートや演劇などの娯楽も無く。
旅人の通り道としての街。
それ故に、様々な人々が集まり、犯罪や衝突が多かった。

それに日々怯えながら暮らしていた地元の住人たち。
しかし旅人のお陰で生活が成り立っていた人々は、どうにかして規律の取れた街にならないものかと思案した。

ある時、歌が驚くほど上手い女性がこの街に来た。
彼女は歌を歌って報酬を得ながら、旅を続けていた。
その当時、エンターテイメントが根付いていなかったこの街で、彼女の存在は瞬く間に広がって。
その歌声に、人々は魅せられた。



彼女をこの街の魔女に仕立てよう。


ーーーそう、突拍子も無い事を言い出した者がいた。


彼女を高く出る事ができない塔の天辺に。
そしてあの美しい歌声は呪いの歌だと広めよう。
彼女に近づけば呪いをもらうと広めよう。
それはすなわち、この街に魔女がいるという事だ。
魔女のいる街で犯罪や暴動をすれば呪いを受けると、人々は思うだろう。

この街は、魔女と共に在る事になるのだ。

何かに縋りたかった人々は。
馬鹿馬鹿しいと思いつつも、次第にそちらへ傾き始め。
ついにはーーーーー



「ーーー彼女はそのまま塔の上で、ずっと歌い続けたそうだ」

「…ずっ…と?」

「そう。ーーーまさに、この塔の上で。今の隆みたいに、ここにずっと閉じ込められて」

「っ…ーーー」



ヒュッ、と。
隆一が息を詰める気配を察して。イノランはぎゅっと隆一を抱きしめた。



「ーーーまだ、話して平気?ーーーまだ続きあるけど」


隆一にとっては衝撃的すぎる話だから。
イノランは慎重に、隆一の様子を窺った。

イノランの腕に縋った隆一の指先に力がこもる。
そして。


「…大丈夫。ーーーいいよ」

「ん、」


懸命に、話を飲み込もうとしているのがわかった。





ーーー彼女のいなくなった後。
その頃には、街は治安の回復と活気を取り戻していた。

歌う魔女の言い伝えは、やがて森の奥の塔と共に関心が薄れていった。



しかし、ある時だ。

森の奥の塔の側に、たまたま通りかかった農夫がひとりの少年を見つけた。
その少年は名前以外、自分の事は知らない。
迷子なのか、何処から来たのかもわからない。
困った農夫は、森の教会に少年を連れて行った。

ここでも生い立ちやこれまでの事を聞かれたが何も知らない少年。
だけれど、少年は。



〝歌は知ってる。歌が好き〟



そう言って。
答えの代わりとでも言うように、歌を歌った。

それはそれは、美しい歌声で。




ーーー魔女の再来だ。


何処から広まったのか。
少年はあの魔女に違いない。
そんな噂が出始めた。

そんな訳はあるまいと、少年を擁護したのは森の教会の神父やシスターだった。

しかし教会はごく少人数。
街の人々を相手に少年を守るには限界があった。



〝この塔にいなさい〟

〝いろいろ不便かもしれないが、街にいるよりも、教会にいるよりも安全だ。ここには入口がないんだから。街の人々が押しかける事もできない〟

〝私たちが毎日様子を見に来るよ〟

〝ひとりは寂しいだろうが、騒ぎがおさまるまでは〟

〝この塔は高いから、身を乗り出しては危ないよ〟

〝いざという時の助けになるように。お前に小さな魔法をかけよう〟

〝この赤いリボンは魔法のリボン。一度お前の髪に結んだら、ちょっとやそっとじゃ解けない〟

〝お前を落下から守り、私たちがお前に会いに行けるようにする為の魔法〟




「魔法?ーーーえ、じゃあ、この髪が伸びるのは…」

「ーーーああ。隆を守るための魔法だったんだ」

「そんな…っーーーそんな事があったなんて」

「ーーー」

「じゃあ俺は、出られないの?ーーーずっと一生、ここから」

「っ…ーーー」

「俺は魔女じゃないよ!」

「ーーーーーっ…隆」





〝このリボンは解けない。彼を守る為に、教会が力を込めて作った強力な魔法だ。一度かけたら解くことは難しい〟

〝ーーーただ、唯一の方法を除いては〟




〝危険をかえりみても、なお。ーーー自分の保身以外の為に、この魔法を使う時〟

〝魔法は解ける〟




そんな事、どうしたら隆一に言えるだろうか。
危険な目に遭えと言えばいいのだろうか?
真実を知ったからと、自分にこれ以上何ができるのか。

イノランはもどかしさを隠せずに、涙ぐむ隆一を抱いたまま。
さっき指先で触れた隆一の唇に、自身のそれを重ね合わせた。




「ーーーなんのキス?」


潤む瞳でイノランを見上げた。
僅かに唇を離して、初めて交わすイノランとのキスに、隆一は問い掛けた。



「…同情?ーーーここから出られないんだって」

「違う」


目を伏せて呟く隆一に、イノランは少々声を荒げて否定した。
イノランからしたら、ずっと交わしたかった隆一とのキスだったけれど。
ーーー思わず堪え切れなくてしてしまったキスだけれど。

柔らかな隆一の唇の感触に心底感激した反面、それは涙の味がして。
胸がぎゅっと、切なく痛んだ。



「ーーー違う。同情なんかじゃない。なんでそんな事言うんだ」

「…だって。ーーー」

「隆の事、好きだって言った。それは嘘偽りなんかじゃない。本心だ。出会って一瞬の間に隆に恋に落ちた。一目惚れしたって、言っただろ」

「っ…ーーー」

「好きってさ。ただ好きって言うだけじゃない。それだけで足りる筈ない。目の前に好きなひとがいたら触りたいし、抱きしめたいし、キスしたいって思う。そういう想いを隆に抱いてる」

「ーーーイ…」

「同情だけで、隆と一緒にいるわけないだろ!隆の力になりたい。一緒にいたいんだ!」



波打つ気持ちを払拭したくて、イノランはもう一度唇を重ねた。
でも今度はさっきと違う。
噛み付くような激しいキス。
隆一の手が震えてイノランの腕を掴んでも、崩れ落ちないように隆一の後頭部に手を回した。



「ーーーぁっ…ん、」

「っ…は、ぁ」



隆一の唇から光る筋。
イノランは苦笑して、混じり合った唾液を指先で拭ってやった。
そして、こつん…。
隆一と、額を合わせた。



「ーーー好きだよ」

「っ…ーーー」

「好きだ」

「っっ…」

「好きだ、隆」

「ーーーっ…ぅ」

「ーーー隆は?」

「っ…う、ぅ」

「隆は、俺の事…ーーー

「好きっ…!」

「!」

「好き…っ…好き、好き!イノちゃんが…」

「っ…隆」

「好きだよっ…」



大粒の涙が隆一の瞳に溢れて、溢れて…溢れて…
頬を染めて、涙でぐちゃぐちゃになるその表情を。
イノランは愛おしそうに見つめて、抱き寄せた。

せめて自分の前だけでは泣けばいいと思う。

孤独に耐えてきたのだと思った。
歌がなかったら、今日までの間に隆一はどうなっていただろう。
ーーーしかし、その美しい歌声が発端になって、今ここにいるのだと思うと。

なんとやるせない事だろう。















「ーーーいつか必ずここから連れ出してみせる」

「ん?」

「俺と旅に出ようよ。隆と俺と。ギターと、隆の歌の旅」



初めて重ねた身体。
気怠い微睡みと、甘い余韻の中で。
ベッドの中で、そんな話をしながら指先を絡ませた。



「どこまでも行こう。隆となら、何処へだって行けるんだ」

「…うん。イノちゃん」



白いシーツに黒髪を散らして、隆一は儚げに微笑んだ。
そうなったら嬉しいと、微笑んだ。



「俺もそうだよ。何処にいても、イノちゃんがいればいい」




ここにいるのは不便だけど、今はもう不幸じゃない。

イノランが一緒だから。

いつかここを一緒に出ようと囁き合って。

それまでの日々を愛し合って過ごす。




隆一の中に、初めて生まれた気持ちがあった。
その言葉を知ったのは本の中。

誰かを相手にそれを想うのは初めて。
もちろん、言葉にした事も無く。

けれどもイノランには、それを言いたいと思った。




覆い被さるイノランに両手を広げて。
愛おしいその背中に腕を回して。

自分が知りうる、最高の笑顔に乗せて。
隆一は、イノランに言った。





「愛してる」



後戻りもできないくらいに。










季節は巡り。
時は流れて。

いつか必ず一緒にここを出ようと誓ったあの日から、数年が経っていた。





「隆!」

「え、あ!ーーーイノちゃんだ」

「ただいま!」

「イノちゃーん!お帰りなさーい!」

「お土産あるよ。ーーーいつものお願いできるか?」

「うん!待ってて」



隆一は塔の上でイノランを待ち。
イノランは街でギターを弾き、こうして夕方には帰って来る。
すると隆一は髪を垂らし、愛しいひとを塔の上までむかえるのだ。

そんな日々を過ごしていた。

一見すると穏やかに流れるふたりの時間だけれど。
決して忘れない約束は、いつだって心の中の大切な場所にしまってあった。





その日の夕飯時だった。
いつものように、隆一手製の料理を美味そうに食べるイノランに。
隆一は向かいの席で、少々困惑した顔でイノランに言った。



「ーーーあの、ね。イノちゃん」

「ん?」

「…その、たいした事じゃ…ないんだけど。…」

「ーーーどうかしたのか?」



いつもの朗らかな隆一らしからぬ様子に、イノランは持っていたスプーンをカチャリと置いて首を傾げた。
どう言えばいいのか思案しているのか。しばらく言いにくそうに俯いていた隆一だけれど、テーブルに置いた手にイノランの手が重なると。
ハッとしたように瞬きをして、おずおずと口を開いた。



「ーーー今日の昼間、イノちゃんが出かけている時ね?…下に、人が来たんだ」

「ーーー人が?…教会の人じゃなくて?」

「うん。教会の人たちならわかるもん。ーーー知らない人だった。…でね?」

「ーーーうん」

「いつもみたくバルコニーで歌ってたら、その人が…」

「ーーー」

「ーーーっ…その…」

「ーーーーー隆?」

「ーーー…っ…ぁの、」

「何かされたのか?その人に」

「ーーーーーっ…」

「隆」

「っ…ま、」

「ーーーーー」

「〝魔女だ〟ーーーーーって…」

「ーーーっ…‼」



眉を寄せて、唇を噛んで。
それ以上何も言わなくなった隆一。

イノランは背筋がザワリとする感覚を覚えて。
多分、強張った顔をしていたのだろう。

隆一の指先が、向かいのイノランの頬に気遣うように触れて。
イノちゃん、大丈夫?
そんな視線に、イノランはその手に再び手を重ねた。



「ーーー大丈夫だよ。ごめん」


安心させるように、イノランは無理矢理でも微笑んだ。
けれどもそれも、隆一にはお見通しだろう。

隆一の困惑した表情は消えない。
いつもは気遣いの隆一ですら、今はその余裕も無いのだろう。

ーーー怖かっただろうと思う。


知らない人間にいきなり。
〝魔女だ〟…なんて。


一緒にいてあげられなかった事は、致し方無いのだけれど。
イノランは、隆一に見えない膝の上で。
ぎゅっと、拳を握った。





「隆、大丈夫だよ。ーーー明日からはさ」

「っ…ーーー」

「しばらくの間は、街には行かないから」

「い、の…」

「幸い、契約済みのライブも無い。ーーー必要な物も、当分はここにある分で賄えるもんな?」

「っ…う、ぅん」



重ねた隆一の手が、かたかたと震えている。
イノランは堪らなくなって、その手を引いて抱きしめた。



「っ…イノちゃ」

「いいから、おいで」

「う、ん」

「気持ちが落ち着くまで、こうしてるから」

「ーーーっ…ん。…ありがと」

「ーーー」



ーーー気持ちが落ち着くまで。…なんて。

こんな事があった以上。
心から隆一が安堵できるなんて、無理なのではないか。
ーーーそんな懸念が、イノランの表情を険しくさせる。



(…ここを出るまでは。隆の心の安らぎは…)



ここを出る決断をする日は近いのかもしれない。
そう、イノランが頭の端で思った。

ーーーその、数日後の事だった。



その日は突然、訪れたのだ。







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