塔の上




















深い森。
滅多な事じゃ、誰も来ない深い森。

その森の木々に隠れるように。
高くそびえる塔があった。

季節は秋。
紅葉した葉の隙間から覗く、白い塔。
青い尖った屋根。
細い塔の天辺付近にぐるりと巡るバルコニー。
白壁には野バラが絡んで、季節によっては美しい赤い花が付くという。


しかし。

しかし、おかしな事に。
これほど高く上に伸びる塔なのに。
どこを見ても、探しても。
上へと登る階段が見つからない。

入り口も無く。
階段も無く。

この塔はお飾りで、誰も住んではいないのだろうか?




ーーーいいや。

ここには確かに住んでいる。
誰かがここにいるのだ。

その証拠は、この歌声だ。












「っあー!今日もいい天気」



隆一は、塔の上のバルコニーから身を乗り出した。
さっきまで、思う存分に歌っていたから、彼は今上機嫌だ。
綿あめみたいに白い雲がふかふか浮かぶのは、真っ青な秋の空。
カラッとした秋真っ盛りの空気はひんやりしていて気持ちがいい。
思わず外に飛び出して、森に実る秋の恵みを探しに行きたい気持ちになるけれど。

彼、隆一は。
この塔からは、決して出る事はなかったのだ。




この森に色付く秋の葉のような、綺麗な山吹色のロングシャツに、シンプルなパンツ姿の彼。
パッと目を惹く黒の短髪には、襟足のところで赤いリボンでひとつに結わえられている。そしてそれによく似合う白い肌。
大きな茶色寄りの瞳と、愛嬌たっぷりの形の良い唇。

そんな隆一の日課は、このバルコニーに立って。
歌を歌う事だった。

食事を作り、広くはない塔の部屋の掃除をし。
本を読んで、歌を歌う。

決して外の世界には出られないけれど、隆一はこの生活を苦とは思わなかった。
ーーーなぜここにいるのか?
ーーー塔に階段は何故無いのか?

側から見れば疑問はたくさんあるけれど。
隆一にとっては、なんの問題は無かった。



ーーー何故なら…







「隆!」

「え、あ!ーーーイノちゃんだ」

「ただいま!」

「イノちゃーん!お帰りなさーい!」

「お土産あるよ。ーーーいつものお願いできるか?」

「うん!待ってて」




塔の外の下から隆一を呼んだのは、黒いコートを着込んだ青年。
背中に背負っているのはーーー楽器だろうか?
手には大きな空色の布の袋を抱えて上を見上げている。

その姿を見つけた隆一は微笑んで。
請われるままに頷いて。
彼の言う〝いつもの〟を実行するために。

隆一は歌った。
バルコニーから外へ向かって、美しい声で。

ーーーすると。




しゅるしゅるっ…と。
襟足のところでリボンで結んだ短い黒髪が。
歌に呼応するように、ぐんぐん伸びていく。

艶やかに伸びる隆一の髪は、遂には下で待つ彼の元まで。
すると彼も心得て。
その髪の束をそっと掴むと、愛おしげに唇を寄せた。




「隆、いいよ」

「はぁい!」



彼の合図で、隆一は再び歌う。
すると今度は、伸びた髪がするすると縮んでいくのだ。

髪の端を持ったまま、彼は塔の上まで難なく登る。

とん。

彼が無事にバルコニーに降り立つと、隆一はうれしそうに彼に抱きついた。




「お帰りなさい!」

「ん、ただいま。ーーー待たせてごめんな?」

「ううん、今日は天気が良かったから洗濯いっぱいできたよ」

「そっか、ありがと」

「へへっ」



仲睦まじい、ふたり。

この塔に階段が必要ない理由もわかった。




これは、この塔に住む隆一と、イノランのお話。









「俺は別に悪魔でも魔法使いでもない。普通の人間。ミュージシャンだ」

「俺も別に魔法が使えるわけじゃないよ。普通の、歌が大好きってだけ」




誰かに自分達の事を尋ねられると、ふたりはこんな風に返していた。









塔に帰って来たのはイノラン。
彼は一週間の半分以上、朝から夕方頃まで、森を抜けたその先の街まで出かけていた。

彼の仕事はミュージシャン。
街のミュージアムや公園。小さなステージで、背中に背負った楽器…ギターを奏でて報酬を得ている。彼の奏でるギターの演奏はどこでも人気で、今日はこちら、明日は向こうと演奏依頼が絶えなかった。






「イノちゃん、お疲れ様!お腹空いたでしょ?」

「腹減った。隆の作ってくれたランチ美味かったよ」

「よかったぁ。でもいっぱいギター弾くから、すぐお腹空いちゃうよね。夕飯の前にちょっとだけ何か食べる?」

「コーヒーが飲みたいな。ーーーあと」

「クッキー焼いたの。それも食べる?」

「ああ」




にっこりと微笑んで、隆一は甲斐甲斐しくイノランの世話をやいた。

ーーーそんな至れり尽くせり…隆もゆっくりしていいんだよ。

イノランはいつもそう言って苦笑を零すけれど。
隆一にはその懇願も届かずに。
逆にイノランのために動く事が楽しくて仕方ないという風だ。




「隆」

「っ…うぁ、危ないよイノちゃん」



熱々のコーヒーカップを持ってやってきた隆一を。
イノランは腕を引いて抱き寄せる。
木製のトレーに乗ったカップが揺らいで、隆一は慌てた声を上げた。



「…コーヒー、溢れそうだったよ」

「ん?ーーーごめんね」

「いいけどさ?ーーーほら、コーヒーどうぞ」

「ありがと」



片手で器用にコーヒーを口に運ぶものの、もう片手は相変わらず隆一を抱き寄せたまま。
その体勢に恥ずかしくなったのか、隆一はジタバタとイノランの腕を逃れようとした。




「だめ」

「イノちゃん…」

「だめだよ。こんな簡単に逃れられたんじゃぁ、せっかく隆がここにいる甲斐がない」

「…そ、だけど」

「俺達が一緒にいる理由、わかってるだろ?」

「っ…」

「な、?」

「うん」





コトン。

手近のテーブルにカップを置いた。
空いた手で、今度は両手で。
イノランは隆一を抱きしめる。




ーーー不思議な力を使うように見えるのに、普通の人間と言うふたり。

自由に外に出る事が出来ない隆一。
ひとりでは自由に塔を降りる事も登る事も出来ないイノラン。
一見すると、不自由に縛られているように見えるふたり。

けれども。
お互いがいないと、ここにはいられない、ふたり。
そんな、絡み合う関係が。
ふたりの絆を、深く強くしていた。




ーーーふたりは何故?
わざわざこんな塔の上に住むのだろうか。








数年前の事だ。

イノランはある日、ひとりこの森を彷徨っていた。
その様子は、だいぶ長い事歩いて来たのか、少々お疲れの様子で。
背中に背負ったギターケースに加え、肩から革でできた大きなショルダーバッグ。そしてもう片手には、ガッシリしたこちらもハードタイプのギターケース。

そんなかなりの重量のありそうな荷物を抱えて、それでも足を止める事なく。
…しかし、毒付いていた。




「くっそ!何だよこの役立たない地図!」

「いつの地図送ってきたんだよ!」

「依頼先の劇場なんてどこにあんだよ、森じゃねえか‼」

「〝この地図のここいらの地形はだいぶ前に変わってしまってねぇ。お兄さん、こんな地図どこで手に入れたの?今どきこんなの持ってる地元の人間なんていないと思うよ?〟ーーーって言われたんだけどね。…さっきたまたま出会った親切な人にさ」

「依頼人にこんな暴言吐きたくねえけど、使えねー地図なんか送ってくんじゃねえよ」



ああーっもう疲れた!

そう言って、いよいよ荷物を地面に投げ出して(ギターは大事に)イノランはゴロンと草の上に寝転んだ。








「ーーー…」



ピチュピチュ…ピチュ

ピピピッ




「ーーーーーーーー鳥の声。」



サァァァ、

サワワ…



「風の音」



ーーーなんて長閑かなんだ、と。
イノランは目を瞑る。
たった今まで苛ついていた気持ちが溶けて消えるようだった。



「ーーーいいな、こんなところでさ。ゆっくり音楽できたら…」



イノランはミュージシャン。
今回はとある劇場の何周年記念だとかで、演奏の依頼を受けてこの地へ赴いた。
招待状と共に同封されていたのは劇場までの地図。
列車をいくつも乗り継いではるばる来たというのに、行けども行けども例の劇場の影も形も見えてこない。
住所は合っているはずなのに、目の前に広がるのは広い森。さすがにおかしいと思ったイノランは、たまたま森で出会った地元の…先述の親切な人に事の次第を話したのだが。

要約すると、そんな劇場なんぞこの辺りには無いという。
もしかしたら、たいぶ前。何十年も前の、もっと街の方の地域の地図なのでは?という事で。




「ーーー悪戯だったのか?」

「それとも狐にでもつままれたか?」



ーーーどっちにしろ。
ここは深い森の中。

イノランは途方に暮れた。





「ーーー」



しばらく目を閉じていたイノランだったが。
ひとまず今夜眠れる場所を見つけなければと起き上がる。
自分が夜露に濡れるのは構わない。…が。
大切なギター。これだけは、夜の森の冷え冷えとした露で湿らす訳にはいかない。

それに、実は当てがあったのだ。




「さっき森の奥に見えたトンガリ青い屋根」



森を彷徨うイノランの目線から見えるという事は、背の高い家なんだろうと思う。
あそこまで行けば、一晩くらい夜露を凌げるだろうと。
イノランは荷物を抱え直して、さっき見た、青い屋根目指して歩き出した。











「近くで見るとホント…背の高い」




木々の隙間からちょこんと覗く青い屋根目指して歩いたイノランは。
小一時間程かけて、そこに辿り着いた。


トンガリ屋根の具合から、城のようなシルエットを想像していたのだが。
目前にそびえ立つのはペンシルチョコレートのような細長い塔だった。
その姿に一瞬目を丸くしたイノランだったが、屋根のある建物には変わりない。
有り難い今夜の寝床を確保できたと、胸を撫で下ろした。




「ーーー誰か住んでんのかな」



サクサクと下草を踏み締めて塔の前まで来ると。
イノランは下からその塔を仰ぎ見た。


ーーー白い壁。ストーン…と、上に伸びる塔は、そのまま空に吸い込まれるようだ。
しかし遠くの天辺に覗く青い屋根が、この塔の上限を示す。
白い壁の下の方には野バラが絡んでいて、どこに入口があるんだろう?と、イノランは壁面を見渡した。



「えっと、」

「ーーーこっちか?」

「…ん?」

「ーーーーー入口…入口、は」

「ーーーあれ?」




ぐるぐると何周しただろうか。
外周はさほど無い塔。
しかし何度見てもこの塔の入口が…



「無い」



イノランは呆然とした。
建物のくせに入口が無いなんて。
…って事は、これは中に入るように出来ている建物では無いという事なのか?
しかしそれではこの塔は一体…

野バラが絡みついてはいるものの、そんなに寂れた風には見えない。
絶対に誰かがいると思っていただけに、イノランはガックリと肩を落とした。




「…なんだよ。どんだけついてねえの?俺」



これではまた寝床探しのし直しだ。
しかし空の向こうは、すでに夕闇の気配が漂いだしている。
今から意を決して森を抜けようと思っても、途中で夜になる事は目に見えている。
ーーー仕方ない。



「~~~はぁ。もう歩く気力もないや。何も無いよりはマシだ。今夜はこの塔の側でーーーーー」


ーーー野宿するかぁ。
そう半ば投げやりに呟いた時だった。




「ーーー?」



荷物を下ろす手をピタリと止めて。
イノランは耳を澄ませた。

ーーー風じゃない。
ーーー鳥でも無い。

声が、聴こえたからだ。




………♪♫……♬…♪…





「ーーーやっぱり…誰かいる」



「綺麗な歌声…」



「この塔の上だ」



入口は見当たらないけれど。
ここにはきっと誰かがいるんだと確信したイノランは。

登っていけないのならと。
ケースを開けて、大切なギターを取り出した。



ーーー誰か、いるのか?

ーーーそこにいるのは、誰?



そんなメッセージを込めて、イノランはギターを爪弾いた。
この深い森に似合う、塔の上の何者かに語りかけるようなメロディーで。





「誰?ーーーそこにいるのは」




間も無く塔の上から聞こえてきたのは。
歌声と同じ、惚れぼれするような声だった。





「ーーーっ…」




招かれた、その塔の天辺の部屋で。
イノランはほぅ…っと、感嘆の溜息をついた。







塔の下で、呼び掛けの代わりに奏でたギター。
そのメロディーに応えるように、塔の上から聴こえた声は。
疑ぐった感情なんて欠片も無い。
好奇心と愛嬌がいっぱいに混じった声で。




〝もっと聞かせて欲しいよ、そのギターで音楽を〟

〝あなたは誰?〟

〝あなたも音楽が好きなの?〟



そんな問いかけに。
イノランはイノランで躊躇いもせずに。
頷きの代わりの音色を響かせた。





ーーーしゅるっ…



イノランの目の前に勢いよく舞い降りて来たのは、長い長い黒髪の束。
まるでこれに掴まってというように、それは艶やかに光っていて。
イノランは不思議と慌てもせずに、その黒髪をそっと掴んだ。



しゅるんっ!



掴んだ黒髪が、急にイノランの身体を持ち上げたと思ったら。
呆気にとられるイノランを、ぐんぐん塔の上まで引き上げる。
実際に有り得ない事態に、そんな馬鹿なと思いつつ。
あっという間に辿り着いた塔の天辺。
そのバルコニーに軽やかに足をつけると、その眼下に見える景色にイノランは目を見開いた。



「ーーーすごい…」



その塔の高さに。
森の広さに。
そして、空にぐんと近くなった気がする事に。


暫し景色に見入って、そして視線を塔の中へと向ける。

すると塔の側面とは違い、室内はあたたかな木の色で。
やわらかそうなクッションや、小さいながらも丁寧に使い込まれたテーブルや椅子。
部屋のアクセントに小さな緑も飾られて。
まるでお伽話の妖精かなんかの部屋みたいだなぁ…なんてイノランは思った。







「ーーーこんにちは。さっきギターを弾いていたのは…あなた?」



歌声と同じ声が、イノランに問いかけた。
ハッとして顔をあげる。

夕暮れ寄りの西日が部屋に射し込んで。
オレンジ色の光が幾筋も斜めに線を描く。
その中に立っていたのは、イノランと同じくらいの背格好の青年。
毛先が緩く跳ねる黒髪は、さっき掴んでいたのと同じ艶やかものだけれど。



(あれ、)



その彼の髪は、肩にすらつかない短いもので。
ーーーではさっきの長い黒髪はなんだったんだ?と、イノランは心の中で首を傾げた。



そんなイノランの湧いた疑問を心得ているように、彼は穏やかににこにこ微笑んで。
ゆっくりゆっくり、イノランの前に歩み出た。



(ーーーっ…)



思わず、イノランはほぅ…っと、感嘆の溜息をついた。




「俺は隆一。ーーーーーあなたは?」



黒髪が似合う白い肌。
茶色の大きな瞳と、微笑みの形の赤い唇が。
イノランをじっと見つめていた。





「俺はイノラン。旅…って程のもんじゃ無いけど、まぁ…旅の途中かな?」

「何処かへ行く途中なの?」

「ん、そうなんだけどね。でもなんか、それも微妙な感じになっちゃっててどうしようかなって思ってるところなんだけど。一応、ミュージシャンなんだ」

「ミュージシャン!だからギターがあんなに」

「ん?」

「素敵な音!」

「ほんと⁇すげえ…嬉しい。そんな風に言ってくれて」




にこにこと微笑む隆一を見て、イノランは今度は隆一に訊ねた。
出会ってまだ僅かだけれど、既に訊きたい事はいっぱいだ。
君はここにひとりでいるの?
この塔は何故入口が無いんだ?
さっき俺をここまで運んでくれた長い黒髪は何?
君はいつからここにいるの?
入口が無いなんて、君はどうやって外へ出るんだ?

矢継ぎ早にイノランの頭の中に次々浮かぶ、訊きたい事。
ーーーだけれど、それより何よりも。




「君も、隆一も。歌が、音楽が好きなのか?」



まだ互いの姿を見る前から。
〝歌声〟と〝ギターの音色〟で出会ったふたり。
イノランが隆一の歌声に惹かれたのは間違いないし。
隆一がイノランのギターの音色に惹かれたのも間違いなく。
姿も人柄も、そんなのわからないのに。

出会いたいと思ったのだ。
新しい風が吹く予感がして。


第一に訊かれたイノランの問いに。
隆一はパッと頬を染めて、こくんと頷いた。
嬉しかったのだ。
何よりもまず、その問いをくれた事が。



「俺も音楽が好き。歌が好き」

「歌、」

「うんーーーーー…」

「ーーー?」



一瞬。隆一が俯いて、苦しそうな顔をしたな…とイノランには思えた。
けれどもそれもすぐに消えて、再び顔をあげた隆一には凛とした表情が浮かんでいた。



「俺は生まれてから今まで、ずっとここにいる」

「ーーっ…ぇ…?」

「幼い頃までは、この森の先にある小さな教会の神父様とシスターが俺を育ててくれたけど。大きくなってからは、ここでひとり。必要な物は教会のひとが数日毎に届けてくれるけど、ずっとひとりでここにいる」

「………そん、な。ーーーーーなんで…」

「俺は自分はただの人間だって思ってる。別に魔法も何も使える訳じゃない。歌が好きなだけ」

「ーーー」

「ーーーでも違うんだって。俺には何か力があるって。だから外へ出しちゃいけない。この塔から出してはいけない。その力を持ったまま外に出るのはあぶないって」

「っ…何だよ、それ」

「ーーーわからない」

「だって隆一はそんな事何も知らねえんだろ⁇そんな力も無いってお前自身がわかってるんだろ⁇」

「っ…わからないんだよ」

「何が⁉」

「だって誰も教えてくれないんだ!教会のひと達は優しいけど、ごめんねって。何も教えてあげられないんだって。ーーーここから出ようと思っても出られないっ!何度この塔を出ようとバルコニーを乗り越えたけどーーーーー」

「ーーーーー」

「いつのまにか髪が伸びて、俺を離さないんだ!バルコニーに絡みついて、下へ降りられないっ…」

「ーーーお前の、髪⁇」




長く堪えていたものが、きっとあったのだろうし。誰かに聞いてもらいたかったのだろう。
唇を噛んで、床に崩折れる隆一。
項垂れる隆一の襟足に見えたのは、赤いリボンで結わえられた。
今は短いひと束の黒髪だった。









隆一にもらった便箋と封筒と。それからインクとペンを借りて、今回の旅の目的だった劇場へ手紙を書いた。
隆一に聞いたら、やっぱりそんな場所は聞いた事が無いっていうし、そもそも辿り着けないんじゃしょうがない。送られてきた招待状に書かれていた住所に、今回の事を丁重にお断りする内容の手紙入れて。森の先の街まで行けば郵便局もあるらしいから、その内出しに行こうと思う。…まぁ、届くかどうかはわからないけど。

うやむやになっていた目的地の事が、手紙を書いた事でスッキリしたから。
イノランは改めて隆一に向き直った。




「これで先を急ぐ理由が無くなった。ーーーあのさ、隆一」

「…はい」

「俺、しばらくここにいてもいいかな?」

「ーーーっ…え?」

「気になっちまったし、隆の事。ーーーなんか難しい事情もあるみたいだけど、でもずっとひとりなんて、そんなのだめだ」

「ーーー」

「理由も知らされず…なんてさ。納得できる理由があるならまだわかるけど、それすらわかんない状態でこんなの…ーーー力になりたいよ」

「イノ…ラン」

「隆が動けないなら、俺が動いてやる。楽器担いで、街へ通って、色んな場所で演奏活動する。何か情報を得てみるよ。ーーー街へ行けば、何かこの塔について知ってる奴もいるかもしれないだろ?」

「ーーーあっ…」

「それを探って、知った上で。隆が決めればいい。これから先もここで過ごすか、それともここを出て、自由に生きるか」

「ーーーーーじ、ゆう」

「そう。誰だってその権利はあるんだ。どんな選択肢だって選べるんだ」

「っ…ーーー」

「だから俺は、その手助けがしたい。隆がどっちか選べるように、選択肢を探してあげたい」

「ーーーイノランっ…」

「ん?」

「なんで?ーーーなんでそんなに…気に掛けてくれるの?」



俺たちまだ出会ったばっかりなのに…。

ーーーそう、どこか強張った表情をする隆一に。
イノランは、にこっと微笑んだ。




「気になったから。隆の歌も、隆の抱えてる事情も…隆の事も」

「ーーー俺の事?」

「俺自身も今の自分に驚いてるけど。隆の全部、俺を捕らえて離さない。ーーーそれってさ」

「ーーー」

「一目惚れ…って、やつだよ」

「ぇっ…ーーー?」




一目惚れ。
そんな単語を、この塔で読んだ本の中に出てきたと、隆一は思い出していた。
一目見ただけで、心奪われる。好きになる。目の前に星屑が散る。胸が高鳴る。
理屈じゃ無い。
心のままに。
側にいたいと思う。

隆一は、そんなイノランの告白にどうしたらいいのかわからなくて。
どきどきした気持ちになってしまったけれど。
よく考えたら、初対面の、出会ったばかりのイノランに。
己の身の上をいきなり打ち明けてしまった事は。



(ーーーもしかしたら…俺も?)



イノランに、一目惚れしたからだったのかもしれないと。
そう思ったのだ。




勇気を出して、おずおずと触れた手。
出会ったばかり。
まずは、握手から。

隆一にとって。
育ててくれた教会のひと達以外で、初めての他者。
幾度となくギターを奏で続けた、指先が少しかさついた。
片手だけ、爪を少しだけ伸ばした、ギタリストの手。
さらさらして、あったかい。
初めて自分で出会った、一目惚れしたひと。

運命は、こんな突然に姿を現わす。




「隆、いい?」

「っ…」

「ここにいても。ーーー隆を、好きになっても」

「イノランっ…」

「好きになるよ?」

「ーーーっ…うん」



俺も!

そう言って頷いた隆一は。
ひとりの時には見せる事のなかった、笑顔を浮かべたのだ。




そんな出会いを経て、イノランと隆一は、この森の塔で一緒に暮らし始めた。
イノランが元々一人で住んでいた遠くの街の小さなアパートは。
この旅に出る前に契約を終わらせてきた。
本当はどうしようか迷ったのだが、そのまま別の街に住み着くのもいいかもな…と、引き払ってきたのだ。



(よかった。家を出てきて)



なんの未練も無い。
大切なギターは共にあるし、過去の生活よりも、今から始まる暮らしが楽しみで仕方がなかった。


(隆との暮らし)


もちろん、隆一と約束した事は忘れてなんかいない。
浮き足立っているばかりでは無い。
それはきちんと遂行するべきと思っているから。
ーーーでも。
一瞬で好きになったひととの新しい暮らし。
心踊るのも仕方がない事だろう。



(こんな展開が待っていたなんてさ。思いもしなかった。ーーー本当に、嬉しいんだよ)



早速イノランの為に荷物の置き場を空けたり、部屋の間取りを教えたり、必要な物をせかせかと引っ張り出しては生活の場を整え始める隆一を。イノランはそれにひとつひとつ頷きながら、微笑んだ。
隆一にしたって、こんな事は初めてだろう。
それ故に嬉しさを隠せない。
そんな隆一が微笑ましくて、いじらしくて。
ただただ、不思議だった。
ーーーこんなに心惹かれるなんて。




「ね、隆」

「うん?」

「俺はどこで寝ればいいの?」

「え?…ぁ、そうだね」



パタパタと動き回る隆一が、イノランの言葉で足を止めた。
イノランの言う事はもっともだ。
今までひとりで暮らしてきた隆一。
ベッドだってひとり用のがひとつきりだろう。
ーーーしかしイノランは、それをわかっていて敢えて問うたのだ。
意地悪したいわけじゃないけどーーー好きな子程…ってやつだ。



「ーーーん。…ベッドひとつしかないから…イノランがベッド使っていいよ。俺はリビングのラグの上で眠るもん」

「はぁ?」

「え…。ーーーあ、イノランがラグの上がよかった?ーーーでもお客様だし…

「違うでしょ」

「え、?」

「もう俺はお客様じゃないの。一緒に暮らすパートナーだろ?」

「っ…パートナー」

「良いも悪いも隆と共有すんの。隆だけ我慢とか、そんなの無し。わかった?」

「うっ…うん。ーーーでもベッドは…」

「一緒に眠ればいいだろ?ひとり用でもくっいて眠れば平気だ」

「いっ…一緒⁇」

「そうだよ。ーーーえ、やだ?」

「や、だじゃない!そうじゃなくて」

「ん?」

「ーーーそうじゃなくて」

「ーーーうん」



ちらっとイノランを上目遣い。
ちょっと恥ずかしそうに。

ぐらりと揺らぐ、イノランの心。
こんな些細な事でどきどきするのが、やっぱり不思議だった。



「ーーーいいの?俺と一緒で」

「ーーー」

「俺は…いいけど」

「ーーー」

「イノランと一緒が…いいけど」



ぐわんっ…と頭を殴られたみたいな衝撃。
しかも、甘い甘い、衝撃だ。



「嫌だったら最初からここにいない。ーーーわかるだろ?」

「ーーーっ…ぅん」

「一緒にいようよ」

「うんっ、」

「ベッドの中の無防備な時間は一緒にいよう?」



互いを知る近道。
温もりは心を緩めてくれる。

好きだと思った気持ちは間違いじゃなかったと、一緒にいれば確信に変わるから。



「寝る前に少しずつ話そうよ。俺の事も、隆の事も」


手を繋いで眠るんだ。













塔から森を抜けて、イノランは週に数日、ギターを背負って街へ出た。
最初はバーやレストランに飛び込みで演奏をしていたけれど、その内にそのギターの評判が広がって、あちこちのライブハウスやイベントなどに呼ばれるようになった。
何度か顔を出す場所などでは、そこのオーナーや常連客などの顔見知りもできた。演奏の後にグラスを酌み交わすようにもなり、そこで色々な話もするようになった。

美味い料理の店や、地元のアーティストの事や。
ーーーそう、森の奥のあの塔についても。




〝あそこへ近づいてはいけないよ〟
〝あそこには魔女がいるんだとさ〟
〝呪いの歌を歌って、人々に災いをもたらすんだそうだ〟



「ーーー魔女?」



昔々、あの森は魔女のものだったという伝説があるんだと、バーの常連客が教えてくれた。



「その頃はまだあんな高い塔は無かった。まだ森の奥の一軒家に魔女はいて、呪いの歌を歌っては日々を暮らしていたんだと」

「ーーー」

「ところがある時、魔女を恐れた人達があの塔を作った。一度登ったら降りられない、入口の無い塔だ。ーーそこに閉じ込めたわけだ」

「ーーー魔女…を?」

「そこでその魔女は一生を終えたという言い伝えがあるけどなぁ。ーーー今も誰かいるのかねぇ?」

「ーーー」

「ああ、でも」

「ーーーでも?」

「ーーーーーいや、あれも噂話だ」

「…教えてくれない?」

「聞いたって仕方なかろう」

「いいだろ?ーーー俺はここでは新参者だ。こういう奴ってのはーーー」

「ん?」

「怖いのも知らずで、色んな噂話に首突っ込みたくなるものなんだぜ?」









ふらつく足取りをぐっと堪えて。
イノランは夕方の森を進んでいた。



「飲みすぎたかな。…極上のテキーラだったらこんな悪酔いしないんだけど」



勧められるままに飲み干したのは、恐らく安い酒だろう。
話を聞き出す為だったとはいえ無茶したかもと、イノランは苦笑した。



「早く帰ろう」


早く帰って、隆一に会いたい。
いってらっしゃいと手を振って送り出してくれる隆一だけれど。
一日中をひとりで過ごすのは、やはり寂しいだろうと思う。

ーーー知ってしまったから。
誰かと過ごす日常を手に入れてしまったから。
寂しさは、余計に際立つ。



ふと帰りがけの森の道で青い花を見つけた。
可憐な、薄い五枚の花弁に、中央に黄色の芯。
イノランは思わず立ち止まると、そっと手を伸ばして一輪の花を手折った。
顔に寄せると、それはツツジのようないい香りで。
イノランは嬉しそうに口元を綻ばせて、家路を急いだ。









「隆!隆一。ーーーただいま」

「あ、イノちゃん!お帰りなさい」

「今いくよ。ーーーいつものお願い出来るか?」

「うん!」




しゅるっ。



伸びる艶やかな黒髪は、イノランの元まで。
愛おしげに掴んだイノランを、ぐんぐんと持ち上げる。


トン。

バルコニーに降りたイノランに、隆一は駆け寄って。
そんな隆一を、イノランは優しく抱きしめた。




「ただいま」

「お帰りなさい」


気付かれないように、イノランは黒髪にあの青い花を耳元に挿した。
黒髪に青い色彩がよく似合った。



「あ、花?」

「そう。お土産。ーーー似合うよ」

「っ…ありがとう!」



ぎゅっとしがみつく隆一を支えて。
イノランは昼間聞いた話をぼんやり思い出していた。

ーーーあんな話。
嘘でも、真実でも。
隆一に聞かせるなんて…躊躇いを感じたのだ。






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