人魚











ちゃぷん。


ーーーその水音が、息を吹き返す音にも思えた。






「ーーーーー落ち着いたか?」


バスタブの縁に寄りかかるように身体を横たえていた隆一。
溜まっていく水が、隆一の腰あたりまで隠す頃。
イノランは様子を見ながら水道を止めた。

熱々だった脚が気になって、水に手を入れて触れてみると。
今はもうそんな事はなくて。
イノランはようやくほっと息をついた。



「ーーーごめんなさい。こんな事になっちゃって」


済まなそうな隆一の声が力無くバスルームに響く。
ゆっくりと開いた隆一の瞳は、もう金色ではなくなっていた。



ちゃぷ…。


ゆっくりと動かせるようになった脚は、もう大丈夫だろうか。

心配はもちろんある。
大切なひとだと自覚した途端の事だから、尚更。
ーーーしかしそれだけではなくて。
隆一には何か…重要な何か秘密があるのではと。
イノランは思っていた。



「ーーーーー隆、あのさ。…言えない事とか、言いたくない事なら無理には聞かない。…けど。ーーー隆…お前」



ぱしゃん。



「イノちゃんにならいい」

「ーーー」

「こんな事教えて、迷惑かもしれないけど。…でも」

「ーーー」

「イノちゃんには聞いてもらいたい」

「ーーーああ、いいよ」



優しく、目を見て頷くイノランに。潤む瞳を堪えて、隆一もまた頷いた。



「ーーー怖いって思うかもしれないけど…」

「まさか」

「え、?」

「隆だもん。ーーー隆の事なら、なんでも来いだ」

「っ…ーーーありがとう」

「ん、」



隆一は、一呼吸おいて。
ーーーそれから。



「人魚なんだ、俺」

「ーーーーー」

「満月の日にだけ、その姿になる」

「ーーーーー」

「普段はひとの…この隆一の姿をしてる。夜の間に身体を海水に浸して、じゅうぶんに水分を身体に取り込めば昼間の間は陸の上で普通に生活できる」

「ーーーーー」

「この部屋に来た時に、シャワーを浴びて水分補充できたかなぁって思ってたんだけど…。ごめんなさい、やっぱり足りなくなったみたいで…」

「ーーーーー」

「誘ってくれて嬉しくて。…こんな事態を危惧して断る事も出来たと思うんだけど…ーーー気持ちの方が勝ってしまった」

「ーーーーー」

「イノちゃんと一緒にいたかった」

「ーーーーーっ…」

「せっかくの夜なのに…本当にごめ…

「いいよ。ーーー俺こそ、ごめん!」

「ーーーイノちゃん、」

「そんな事情あるって」

「ーーーそんな…言ってなかったんだから当然だよ。イノちゃんは悪くない」

「でもさ…ーーーでも、」

「人魚なんて、普通は思う訳ないもん」

「そんな事ない」

「ーーー」

「思ってたよ」

「…え?」

「俺は人魚ってどんなかなぁって、思ってた。本当にいるなら会ってみたいと思ってた。童話に出てくる、例えばあんなに綺麗で、一心で寂しくて、強い。そんな存在がいるなら出会いたかった。ーーー隆と出会って、隆が俺にとっての人魚みたいな存在かもしれないって勝手に思ってた。ーーーだから驚かない。隆だから。ちっとも迷惑じゃないし、知る事ができて嬉しいって思ってる」

「ーーーイノちゃん…」


ちゃぷん。



「好きだ」

「ーーーーーぇ、」

「隆の事、好きだよ」



バスタブ越しのイノランの告白。
ひとりは服のまま冷水に浸かって、もうひとりはバスルームのタイルの上に跪いて。
側から見たらどんな状況か?と、思われそうな場面だけれど。

好きになったひとに好きだと言うのに、そんなの関係無かった。



好きだっていう、言葉も気持ちも。
決して嘘なんかじゃなくて。
いつか伝えられたらと思っていたイノランの気持ちが、このタイミングで溢れてしまっただけだ。



ぴちゃん。



バスルームの蛇口から水滴が落ちた。
落ちた雫はバスタブに張られた水面に落ちて。
隆一の側に丸く波紋を広げた。



〝好きだ〟


そう告げたイノランの表情は優しくも真剣だった。
水に浸かる隆一をじっと見つめて。
それを見れば冗談なんかじゃないと、隆一にもわかった。


バスタブの縁に置いた隆一の手が小さく震えてる。
水に浸かって冷めたと思っていた身体の熱が、再び戻ってくる感覚がする。
真っ直ぐにイノランに見つめられて。
本当は恥ずかしくて逸らしたいのに、その視線をずらす事が出来ない。


嬉しかった。


初めて出会った時から、その存在が気になってしまったのはイノランだけではなく。
隆一もそうだったから。

こんな寒空の下に会いに来てくれて、親切にしてくれて、笑いかけてくれて。

好きだな…って、いつからか隆一も思っていた。


俺も、あなたが好きだよ。


ーーーそう言ってしまいたかった。


けれど。
隆一には、躊躇ってしまう理由があった。
突然のイノランからの告白を。
自分の気持ちに蓋をしてでも押し退けないとならない理由が。



「ーーーーー嬉しい。好きって言ってくれて、とっても」

「隆、」

「ありがとう、イノちゃん」

「ん」

「ーーーーーーでも、ごめんなさい。…せっかく連絡先も交換したのに。ーーー」

「……」

「…もう、会えない」

「ーーーえ、?」

「今夜で最後にしよう?」


切なげな微笑みを見せる隆一。
その微笑みを見ながら、イノランは隆一が言った言葉のパーツを一個一個。
理解しようとした。


もう会えない。
今夜で、最後に。



「なんで?」

「っ…」

「なんでもう会えないんだ?」

「イノちゃん、」

「俺が先走って告白したからか?」

「…え、違っ…ーーー違うよ」

「ーーーじゃあ、どうして?もう会えないって…」

「イノちゃんは悪くない!」

「ーーー」

「だって嬉しかった。好きって…すごく嬉しいって思った。だって俺もイノちゃんが好きだもん!」

「っ…隆……ーーーじゃあなんでだよ。好きならこれからも会いたいって思うだろ⁈」

「思うよ!俺だってイノちゃんといたい、これからも一緒にいたいよ。その気持ちは嘘じゃない。だから俺の事も聞いて欲しいって思った。…でもダメなんだ!だって俺は、」

「ーーー人魚だから…か?」

「ーーーっ…」

「そうなんだな?」


思い当たる理由なんて、それしかーーーーー。


「ーーーーー満月の夜。…俺は人魚の姿になる。人魚なんて、そんな綺麗な存在じゃない。人間になりたくて、愛するひとを探してる。愛してくれるひとを探してる。ーーー人魚の物語は、あながち間違いじゃないんだ」

「ーーーーー」

「人魚の姿になった俺は、本能のままだ。歌を歌い、ひとを誘惑して、ただそのひとを探すんだ。何をするかわからない。人魚の時の記憶は、すごく曖昧。それが怖い。自分が怖いんだ」

「ーーーーー」

「ひとの姿でも、この様。人魚になれば、自分でも制御ができない。ーーーこんな俺に、イノちゃんが付き合う事はないよ」


好きだから。
好きだと言ってくれた、初めてのひと。
誰でもいいわけじゃ無いと、初めて気付けたのはイノランの存在。
好きな気持ちがもっと深くなって。
これが手離せないくらいの愛情に変わってしまう前に。


「俺から逃げて」

「ーーーーー」

「こんなに親切にしてくれて、自分勝手だって思ってる。ーーーごめんなさい。…でも、」

「ーーーーー」

「人魚の本能じゃない、俺自身の気持ちで一緒にいたい。ただの隆一の姿で、イノちゃんといたい。ーーー今のままじゃ、ダメなんだっ…」



ばしゃんっ…



大きな水飛沫を立てて、イノランの両手が隆一を引き寄せる。
引き寄せた隆一の耳元で、きっぱりとした口調で言った。


「ーーーわかった。…って、引き下がる気は、全然無いよ」

「っ…イノ、」


抱きしめられた身体。
濡れることも厭わずに、濡れた隆一をイノランは胸に抱き込んだ。


「簡単な事だ」

「…ぇ?」

「俺が隆を愛して、隆は俺を愛せばいい」

「っ…」

「な?」


簡単だろ?すっげえシンプルで、一番の解決法だと思わない⁇

そんな風に軽やかに言い放ったイノランは、隆一の顔を覗き込んで、にっと笑って。
そして。
もう一度、抱きしめた。


「隆はひとになりたい?」

「ーーーっ…」

「ん?」

「っーーーーーなりたい…。ーーーひとになって、ただの隆一になって…」

「うん」

「イノちゃんと一緒にいたい!」

「ーーーーーっ…うん」


ぽろぽろと、隆一の頬を涙が伝う。
その涙は丸くなって、ぽちゃぽちゃと水面に落ちると。
バスタブの底につく頃には不思議な宝石に変わって。
水の中できらきらと虹色に輝いた。

それを見て、イノランは。
隆一がどう言おうと。
やっぱり人魚って、綺麗なイメージがあると改めて思った。
その想いは、隆一と出会って、尚更。


次の満月は、一週間後。
その時、その晩。
あの海岸にまた来ると、イノランは隆一と約束した。


「次の満月の夜。お前を攫いに行くからな」







夜空の月が、日を追うごとに丸く黄色く姿を変えるにつれ。
イノランは仕事帰りの空を見上げては、あの海にいる隆一を思い浮かべた。

バスルームでの愛の告白と聞くと、何となくロマンチックに聞こえるかも?…しれないけれど。
あの現場だけ目の当たりにしたら、もしかしたら可笑しな風景にも見えただろう。
実際あの後は、二人して笑ってしまった。

ーーー冷たいでしょ?ごめんね。
ーーーハハハッ、びしょ濡れだ。
ーーー…ふふっ、何やってんだろうね?お風呂場で、俺たち。
ーーー俺もまさかこんな所で!って…今さらだけど思う。
ーーー……好き、って?
ーーーそう。だって一度きりの告白なのに…。風呂場でびしょ濡れでって。
ーーーでも嬉しかったよ?
ーーーそう言ってもらえて、俺も嬉しい。
ーーーうん!


そんな会話をとりとめもなく交わした。
そこには互いに伝えられた安堵や、伝えた事で増えていく愛おしい気持ちがあった。



「隆が笑ってくれた。ーーー多分、出会って初めて、心から」


イノランが人魚に抱いていたイメージ。
どこか寂しげな微笑み。
想いが叶わなければ、泡になって消えてしまうという、儚さ。

そんなイメージも、確かに綺麗だけれど。


「隆はもう、それだけじゃないもんな」


ひとになりたい、あなたと一緒にいたいと強く望んだ隆一は。
儚さだけの美しさではなくなっていたから。
















「人魚ってさ、どんな姿なんだろうな」


「ーーーなんだよイキナリ」


満月まであと三日の夜。
たまたま仕事で同じスタジオにいたアーティスト。
…そして、幼馴染のJ。
久々に飲んで帰るかって意気投合して。
最初はスタッフも含めて数人いた飲み会も。
三軒目が終盤に差し掛かる頃には、イノランとJだけになっていた。

三軒目は、静かなバーだ。
ジャズが流れる中、時折カラン…という氷の揺れる音がする。

お互い仕事の後でもあるし。
そろそろ眠気も襲ってくる頃だろう。
この一杯を飲んだらお開きな、って。
もう一度乾杯をした後だ。

イノランが、視線をカウンターの向こうに飛ばしながら言った。



「人魚」

「ーーーーーまた人魚の曲書くのか?」

「ん?いや、そうじゃないけどさ」

「じゃあ、なんだよ?なんで人魚?」


そうとう酔いが回ってんのか?なんて茶化しつつも、当の幼馴染がこれくらいの酒で泥酔するわけがないという事はJも知っている。
ーーーという事は、どういう事だ⁇…と、Jは頭を捻った。

するとイノランは、そんなJを見て苦笑する。

「悪りい。そんな深刻な事ってわけじゃないから」

「ん?」

「ーーーただ、ちょっと。どんなかなぁ…って」

「ーーー」

「思ってさ」


ただちょっとで、なんで人魚の事なんか?
そんな疑問はJから離れないけれど。
どんな事でも、こんな静かな酒の席でこの幼馴染がJに呟く事は。
今のイノランにとって心を占める大きな事なんだと、それも知っていたから。

Jは残りの酒をグッと煽ると。
穏やかな口調で、言った。



「金の瞳と銀の鱗。…じゃね?」

「!」

「俺のイメージはそれかなぁ」

「ーーーーーそれってさぁ…」


俺の曲じゃんか…。

そう文句を呟くイノランに、Jはニヤリとまた呟いた。


「でもマジでそうなら、めちゃくちゃ綺麗じゃん?」

「っ…」



綺麗。
綺麗。
ーーーそう、隆一は。
見かけだけじゃなく、声も、ココロも。

イノランにとって、綺麗なひとだった。





バーを出ると、冬の空気が刺すように冷たい。
こんな寒さの中、今夜も隆一は海水に脚を浸しているのだろうか?
そう思うと、今度は切なさが顔を出す。


「会いに行くからな。ーーー隆、」

見上げた月は、少しだけ欠けた月。
満月まで、あと少し。


「もう少しだけ、待っててくれ」






見上げる月が、円形に近い。

パッと見れば真ん丸に見える。
けれどもじっと見つめると、端の方がほんのすこしだけ欠けているのがわかる。

ーーー明日は満月。


ザザ…
ザ、ザ…ン。



パシャン。
…パシャ。




隆一は夜の海辺で岩場に腰掛けていた。
冬の冷たい海水に足を浸す。
もう今まで幾度、こうしてきただろう。

「ーーー」

遠くに見える船舶の灯りを眺めながら、隆一はぼんやり思い返した。

幼い頃、隆一は海の中で過ごしていた。
人魚の姿で、それこそ当たり前のように。

しかし大人になったある日、隆一は禁じられた昼間の海の外へ顔を出す。

そこで見た光景に、隆一は目が醒めるような気持ちになった。













青空、白い雲。水面付近の海水は明るくきらきら光って、深い海の中とは全然違って。
遠く砂浜に見えるのはたくさんの人々。
しかもこの日は砂浜にステージが設けられ、アーティスト達が続々と演奏していた。

歓喜する観客達。
各々楽器を駆使して格好よく演奏し、歌う姿。

隆一は夢中になって、その光景を見つめた。


ーーーそんな中で。

あるひとりのアーティストが登場すると。
どきん、と。
隆一の鼓動が大きく鳴った。


「ーーーーあのひと、」


なんて優しい音色を響かすのだろう。
曲調はこの海に似合う明るくテンポの良いものだけれど。
奏でるギターの音色。
歌い上げる、その声。

名前も知らない。
こんな遠くだから、顔もよくわからない。

けれども。
そのひとの事が一瞬で気になって。
今回だけではなくて、また会いたい。
叶うならば、もっと側で会って。
話ができたら、どんなに素敵だろうと。

これまで決して破る事のなかった、禁止された昼間の海に。
隆一は度々顔を出すようになったのだった。




「ーーー全然、あれ以来あのひとには会えなかったなぁ」


無理もない。
海の上といっても、それはとても広い。
海に住むものにとって、海に境界は無い。
またあのひとに会いたいと、探す範囲は気が遠くなる広さだ。
しかも相手は人間。
近くに住むのならいざ知らず、もう二度と同じ海に来るとは限らない。

出会える確率は、微々たるものだった。


ーーーそれでも…
会いたい。
会いたい。
次に出会えたら、宝物をあげたいと思った。
海の底で見つけた綺麗な石。
宝石みたいに光るから、チェーンをつけてブレスレットにした。
いつかその日まで無くさないように、隆一は自身の手首にそれを着けて。
禁止されている事を破った代償に、昼間に歌う事を禁じられた。
隆一自身も、歌う事が大好きだったのに。
それを禁じられた時は大きなショックを受けたけれど。
いつかあのひとに会えるなら。
会える可能性がゼロでは無いのなら構わないと。
その日以来、隆一が歌うのは夜の間だけになった。



「ーーー満月…。明日」


隆一の脳裏に浮かぶのはイノランの事。

明日会いに行くからと、約束してくれた。


「ーーーイノちゃん、ねぇ」


確固たる確信はまだ無いけれど。
あの日のあのひとと、イノランは。
同じ感じがしたのだ。


「あなたなの?」


初めて、好きになったひと。

人魚の姿を棄てて、ひととして側にいたいと強く思ったひと。



〝ーーー好きだよ、隆〟



手首に着けた綺麗な石を。
どうか明日、あなたに。






その日の夕暮れ時。
仕事を終えて、イノランは高速を飛ばしていた。

本来明日も仕事があったのだが、今日一日のうちに明日の分も終わらせた。
ーーー急な用事でもできたの?
そんな風に訊くマネージャーに、イノランはきっぱりと頷いた。


「急で悪いんだけど明日は空けたい。今日この仕事の後どうしても行きたい場所があるから。ーーーその為の時間を、明日も空けておきたいんだ」


そこまで堂々と言われては仕方がない。
収録や撮影などの、誰かの予定と絡む仕事では無かったから。
マネージャーはすぐさま今日中に明日の分も終えられるように準備してくれて。
夕方になる頃には、イノランの希望通り明日はオフがもらえる事となったのだ。

イノランは手際良しのマネージャーにお礼言うと、スタジオの地下駐車場に駆け降りて。
陽が傾き始めた夕暮れの街に車を走らせた。










満月。


空にはぽっかり、丸い月。
今夜は雲も無いから、月は完璧な円を描いて浮かんでいる。






「ーーーあなたに 会いたいと 願う…」



車窓に青い夜の海岸線が見えるころ。
それまでつけていたカーステレオは消して。
イノランは歌を口ずさんでいた。
誰に聴かせる訳でもなく、今の自身に聴かせるように。



「穏やかだな、今夜の海は」


まるで息を潜めているよう。
ーーーというか。
満月に誘われて動き出す、全てのものが。
月が天辺に輝くのを、今か今かと待っているようにも思えた。





ザザ…ザン。
ザ…ザザ…。



ザク、ザク、ザク…




小気味いい音を立てながら、イノランは砂浜を踏みしめる。
今夜は車の中で革靴を脱いでサンダルに履き替えた。
服も、着ていたジャケットは置いて、ラフなシャツ姿。
かろうじて、巻いてきたストールでささやかな暖をとりながら、イノランは進む。



「ーーーやっぱ、寒い」

「さすがにジャケット置いてきたのは失敗だったかなぁ」

「サンダル履きだから足先も冷たいし」



しかしそうブツブツ言うイノランの表情はひどく晴れ晴れしている。
身体に感じる寒さなんて、今のイノランには実はどうでもいい事だった。

好きなひとに会える。
その上、今夜はそのひとの願いを叶えたいと思っている。





ーーーーーなりたい…。ーーーひとになって、ただの隆一になって…


ーーーーーイノちゃんと一緒にいたい!




彼の、隆一の願い。
それを叶えてあげたい。



「ーーーっても、方法なんて明確にはわかんないんだけど…」


人魚をただのひとにする方法なんて、誰も知りはしないだろう。


「物語と同じなら、」



「ーーー愛し合う…。」


「真実の愛。それで、人魚の脚は、ひとのそれになる」






ザク、ザク、ザク。



「ーーー大丈夫だ。…きっと……きっと」



彼に会えば何かがわかる。
彼に会えば、きっと何かが動き出す。
この海岸で初めて会った瞬間に動き出した気持ち。
その時みたいに、きっと。





ザザ、ザ…ン。
ザ…ン。



ザク、ザク…ザ…



「ーーーーーっ…」



思わず、歩みを止めた。
そしてイノランは、前方に意識を向ける。



まず、声だ。
話し声ではない。ーーー歌、だ。
その声は心の芯をくすぐるような、甘い歌声。
もっと聴いていたいと、自然と足が再び動く。


ザク…ザ…ザク…



パシャンッ…


「ぁ、」


聞き覚えのある水音。
その音を辿る。

ーーーそこには。



「ーーーーー金色の…瞳」



あの日バスルームで垣間見せた。
金色に光る二つの瞳が、イノランをじっと見つめていた。





じっとイノランを見つめる金色の瞳は、隆一のもの。



「ーーー隆、」


目が離せない。
その瞳に捕らわれたよう。
視線はそのままに、一歩一歩近づくと。
近付いてわかった。

満月の夜に、姿の変わった隆一に。



隆一がいつも着ていた、白いコットンのシャツ。
それを今は無造作に羽織るばかりで。
本来、太腿辺りまで隠すシャツの裾から覗くのは、いつも隆一の脚ではなくて。
月明かりを浴びて、きらきらと輝くのは銀色の鱗。
すらりと伸びた魚の尾びれとそっくりの、それ。

ーーーそれから、金色の瞳。



「隆…ーーーお前、」



頭の端で、先日交わした幼馴染との会話が顔を出す。




〝金の瞳と銀の鱗。…じゃね?〟

〝でもマジでそうなら、めちゃくちゃ綺麗じゃん?〟



ごくりと、イノランの喉が鳴る。

目の前にいる隆一に、見惚れるしかなかった。



「ーーーホントだよ。めちゃくちゃ綺麗だ」


こんな姿を海の波間で見てしまったら。
惹かれて誘われてしまうのは無理もないのだろう。

ずっと見ていたい。
そう思ってしまうのだろう。




けれども、隆一の願いはそうじゃない。


「ただの隆一に、なりたいんだもんな?」


毎夜脚を濡らさなくてもいいような。
好きな歌を昼も夜も自由に歌えるような。
〝ひと〟とか〝人魚〟とか関係なく、そんなものに囚われずに。
好きになったひとと、ずっと一緒にいられるような。

ーーーそんな願い。


人魚の姿の間の記憶は曖昧だと言っていたから。
びっくりされるかな…?と、思いつつも、イノランはもっと近くに寄って。
そっと手を伸ばして、驚かさないように。
彼の頬に、指先で触れた。



パシャンッ…


尾びれが水面を叩く。
水飛沫が散って、イノランのことも濡らす。



「ーーー悪ぃ。驚かせた」

「ーーーーー」

「俺だよ、イノランだ。ーーー約束通り、ここへ来た」

「ーーー」

「お前を迎えにきた」

「ーーー」

「隆」

「ーーー」

「一緒に、」

「ーーー」

「一緒に行こう」




ぎゅっと、抱きしめた。
するとひやりと冷たい感触と、一拍遅れの抵抗。
両手をイノランの胸に突っ張って、尾びれは尚も水面を揺らす。
そんな反応すら可愛いと思う。



「隆?ーーー寒くないか?」


濡れて冷たい隆一の身体。
もちろん人魚だから大丈夫なのだろうが、そういう問題ではなくて。
ひとりで夜の海にいる日々を過ごしてきた隆一が、寒そうで。

どんなに抵抗されても離すまいと。
イノランは抱きしめる両手に力を込めた。



「物語の人魚姫は泡になったけど」

「っ…ーーー」

「お前はそうじゃない。ーーーだってさ」

「ーーーーー」




隆一の瞳がうるっと揺れた気がした。
それを見逃さなかったイノランは、隆一の頬を包む。

言葉もいらない、愛情の表現。
気持ちを込めて、瞳を見つめて。






「好き同士だもんな?…俺ら」




今夜してあげたいと思っていた。
好きの印。
隆一と初めて出会ったこの海で、イノランは唇を重ねた。

それは歓喜に満ちた、ちょっとだけ海の味のするキスだった。









「隆、こっちだよ」

「うん」



イノランは隣を歩く隆一の手を繋いだ。
こっちだよと、示すその先にはイノランの住む家がある。



「大丈夫か?今日は随分歩いたもんな」

「ありがとう、平気だよ?こうやって歩くのにも慣れてきた」

「ーーーそっか」



微笑みを向けてくれる隆一にペースを合わせながら、イノランもまた優しくわらう。
完全なひとの身体を得た隆一は、その身体の変化にまだ完全に順応出来ていない状態だから。


「部屋に着いたらゆっくりしよう。隆の部屋も準備してる。少し休むといいよ」



ーーーそう。
一日あの海沿いのホテルに滞在した二人だったが。
二人は今日からイノランの家で一緒に暮らすのだ。



あの満月の夜。
イノランのキスを受けた隆一は。
泡にもならず、人魚の姿を留める事もなく。
人魚だった隆一は、願いだった、ただの隆一の姿を得たのだ。










玄関を開けて、隆一を招き入れる。
初めてであろうこうした玄関に初めは緊張している風情だった隆一も。
室内に入ってからも手を繋ぐイノランの存在に緊張も解れたのか、次第に興味深げにきょろきょろあたりを見回した。

リビングについて、隆一をソファーに座らせた。
深く沈む感触にわっ、と声を上げる隆一に微笑んで。
イノランも隣に腰かけた。




「今日からここが隆の家。俺と隆の、住む場所だよ」

「ーーーイノちゃん」

「ん?」

「ーーーーーありがとう。…本当に、ありがとう」

「!…そりゃ、こっちの台詞だ」

「え?」

「一緒にいてくれる。あの夜俺をちゃんと見てくれて、わかってくれて。ーーー隆、言ってくれたじゃん?」

「っ…あ、」

「愛してるって、キスの後、言ってくれた」



初めてのキスの後。
金色だった隆一の瞳は、みるみるうちに黒い瞳に変わっていって。
イノランに抱きしめられていた、ひんやりとする身体は熱を帯び。
銀色に輝いていた鱗は、ぱらぱらと剥がれて落ちて、海の波間に消えていったのだ。

その変化の様を瞬きも出来ずに見ていたイノランだったが。
次の瞬間目に映ったのは、ひととしての隆一の姿だった。







イノランの手首には、隆一からあの夜もらったブレスレットがある。
綺麗な石のついた、華奢なチェーンのブレスレットだ。
いつか隆一が海の底で見つけた、美しい石。
愛する人と出会えた時に渡そうと、ずっと大事にしてきたものだ。

ーーーそれから。

イノランはジーンズのポケットをさぐると、ひとつの銀に光るものを取り出した。




「あ、それ」

「そう、隆の鱗だ。一枚だけ、俺の服に付いて残ってた」

「そ…っか」

「人魚だった頃の隆の大切な欠けらだ。これはさ、ギターのピックに加工できたらいいなぁって思うんだけど」

「いいよ!」

「隆、」

「もちろんいいよ」



禁忌を犯して顔を出した昼間の海。
そこで見た、あの音楽の風景。
遠くからでも、一瞬で好きになったひと。

それがやっぱり、今目の前にいるイノランなのだと。
隆一には思えたから。

自身の欠けらが彼の音楽の一部になれるなら、こんな幸せなことはない。




「ありがとう、隆。宝物も、一緒にいてくれることも」

「俺も、ありがとう」

「ん?」

「イノちゃんだから、ひとになれた」

「ーーー」

「なりたいって思えた」




そっと顔を寄せて、隆一は恥じらいながら、初めての自分からのキス。
イノランは驚いたけれど、すぐに嬉しそうに破顔して。
今度はお返しの、ちょっと深いキス。
大人のキス。



「…っ、ん」

「隆」

「ん、」

「ーーー愛し合おうな?…ここから、いっぱい」

「…っうん」




人魚は泡にならず、ひとに。
愛するひとと出会って、これからも。






end




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