人魚












深い海の底で見つけたのは美しい石。
透けていて、水面から差す光に翳すとキラキラと輝いた。

難破船の宝だろうか?
それとも虹色の貝が吐き出した石だろうか?

ーーーどちらにしても。
この美しい石はそっと隠そう。
愛するひとと出会えた時に、そのひとにあげられるように。










パシャン。



「ん?」


イノランは、耳の端に捉えた水音の方へ視線を向けた。
向けたその先は、ゴツゴツとした岩礁が続く海だ。
こんな岩場の波が度々跳ねる場所では、水音なんて何ら珍しくはない。
海水で満たされたその場所は、寧ろ水音があってこそだ。



「イノラン君、どうした?」

「え、あ…いや。」

「魚でも跳ねた?」

「…魚、だったのかなぁ?ーーーなんか波が大きく跳ねた気がして」

「だいぶ潮も満ちてきたからね。でも、海岸での撮影もほぼ終わったから。もうちょっとですよ」




カメラマンがイノランを見てにっこりする。
それを見て、イノラン満足そうに頷いた。

イノランは新曲のブックレット用の撮影に、この海岸に訪れていた。
もう本格的な冬になりかけたこの季節。
天気の良い日中とはいえ、寒風吹き荒ぶ海岸での撮影は寒さが身に沁みた。
日が沈む前に。
潮が満ちて岩礁が海水に隠れる前に。

撮影は、さくさくと順調に進んでいた。





そんな最中に、さっきの水音。
パシャン…なんて。
ここではありふれた音なのに。
イノランは妙にその音が気になった。




「ーーーーーまぁ、魚…か」



釣り人の絶好の釣りスポットにもなっているという場所だから。
大きな魚がいてもおかしくない。

いつまで水面を眺めていても、寄せては砕ける波が見えるばかり。
イノランはそう結論付けて、スタッフに呼ばれて踵を返した。












「え?人魚?」



撮影クルーや事務所スタッフ達と、少々早めの夕食に立ち寄った海沿いのホテルのレストラン。
そのレストランの内装の壁に飾られた小さな絵画。
それは人魚の絵で。
何故だかその絵に惹きこまれて、じっと見つめていたイノランに。
レストランのスタッフが教えてくれた事。



満月の夜に、人魚が顔を出すって話があるんですよ。
ずっと昔から、この辺の海岸で。



そう教えてくれた。



「ーーーなんかそんな像があるって場所…」

「デンマークにもありますね。人魚の像が」

「ああ、それだ」

「ここのは…本当なのかどうなのかわからないんですけれどね」

「ーーー地元のひとがそんな事言って…。じゃあ、誰かが見たって感じの話じゃないんですか?」

「ーーーーそこも詳しくは…。ーーーただ、そんな話があるんですよね。話題作りなのかもしれませんが」

「はははっ!ーーーでも、いいですね。人魚って、本当にいたらどんなかなって思う」

「そうですね」

「人魚って曲、僕も作っているんですけど。綺麗なイメージはもちろん、儚さとか、ちょっと哀しげとか。でも隠れた強さとか。そんなイメージがあるんです」





好きなひとを想って。
想って、想って。
結局伝えぬままに、泡になって消えてしまう。

ひとになる為に、声も奪われたのに…




「ーーー人魚…か」



イノランは思う。
それほどまでに想いを寄せるひと。

そんなひとに、出会ってみたいと。



そんなひとに出会えたら。
今持っている価値観や小さなつまらない拘りなんかひっくり返って。

見たことがない、新しい世界が広がるのではないかと。










「ねぇ、明日ってオフだよね?」



食事を終えて、イノランはマネージャーを呼び止めた。


「え?ええ、そうですね」

「今日もこのまま帰ってからも、何も無かったよね?」

「はい、撮影も無事終わりましたし。この後東京に戻って解散の予定です」

「そっか。ーーーじゃあ、あのさ」

「?はい」

「俺、今日このホテルに一泊していいかな。なんかのんびりすんの久々だし、このホテル気に入ったからさ」

「!そりゃ、いいですけれど…。帰りはどうします?」

「明日特急列車のチケット取って帰るよ。明後日の仕事には遅れないように行くから」

「分かりました。ずっと忙しかったですしね。たまにはのんびりして下さい」

「サンキュ!ーーー皆んなもお疲れ様!」

「じゃあ明後日」









ホテルのフロントでキーを受け取った。

新曲を作ってから、本当に久しぶりに羽を伸ばす。
カードキーを挿し込んで、開かれた部屋の向こうには、日暮れの海。

イノランはバルコニーに出ると、暗くなり始めた海を眺めた。





何故ここへ留まったのか、本当はまだよくわからない。
ゆっくりしたい気持ちはもちろんだけれど、本当はもっと違うところにある気がする。




ーーー出会える気がしたのだ。




自分にとっての、人魚に。









ホテルの売店でも買えるけれど。
部屋で飲む飲み物が欲しいなと思ったイノランは、財布とスマホとキーだけを持って外へ出かけた。





「…寒」




日が暮れた後の海岸沿いは、やっぱり冷える。
それでも今夜は風が穏やかなのが救いかもしれない。
羽織ってきた、少々薄手のジャケットでも夜の散歩はできたから。


ホテルから一番近くの自販機は、昼間撮影をした海岸のすぐそばだ。
もう少し行けばコンビニもあったはずだが、イノランの足は自販機の方へと進んで行く。




ザッ、ザ、ザクッ…



ここの浜は砂ではなくて、細かな砂利と貝殻の粒が目立った。
歩く度にジャリジャリザクザク心地いい。
イノランはそんな足取りを楽しみながら、海岸の自販機の前で立ち止まる。





「えっと、」


不動のコーヒーと。

ピッ。ゴトン。

風呂上がりのミネラルウォーターと。

ピッ。ゴトン。

ーーーと。あと、



「瓶入りがある」


温泉施設なんかでよく見かけるやつだ。
コーヒー牛乳、フルーツ牛乳、牛乳。
懐かしさを感じるパッケージ。



「風呂上がり…こっちのがよかったかな」


「腰に手をあてて、グーっと一気に」


そんな様子を思い浮かべて、イノランはクスッとひとりで笑って。
コインを追加して。
フルーツ牛乳を。

ピッ。ゴトン。




三本の飲み物をぶら下げて、海岸を歩く。

夜の海岸。

こんなに暗いのに不思議と怖く感じないのは、波音のお陰だろうか。




ザザ…ン
ーーーザ…ザン…





♪…♫…




鼻歌を歌いながら、夜の散歩。
昼間撮影した場所が、今はちょっと雰囲気が違って見える。

ーーー人魚の伝説。



「人魚…いるのかな」



どんな姿なんだろう。


「…金の…瞳と。銀の、鱗…」


あのメロディーを久しぶりに口ずさみながら。
ゴツゴツした岩礁地帯の方へ、何気無しに視線を向けた。





パシャン。




「!」



パシャ、チャパ。

バシャバシャン。



「ーーーえ、」



波音とは明らかに違う、水音。
水と戯れる。
まるで、そんな音だ。


パシャン…パシャン…。



イノランは、じっと岩場の方を見つめた。
暗がりだから、まだよく見えない。…けれど。

じっと目を凝らす内に、その輪郭が徐々に見えてくる。



「ーーーーーっ…」



それは、人物の姿。
岩場に座って、足を水に浸してパシャパシャと楽しそうな。

そして。



「……fu…fu fu……fu…u…fu fu………♪…」



波音と水音に混じる、微かな歌声。



「lu…la la la lu…la……fu fu………………♫…」




歌声に聞き惚れて。
それがムーンリバーだと気付くのに、少々時間がかかったけれど。

その歌声の主が、あまりに気持ちよさそうに歌うから。
邪魔しちゃいけないと。
今は音も立てずに佇むつもりが。



ジャリ…


(うっ、わ。ばか!)



うっかりだった。
波打つ砂利に足をとられて。
イノランは一歩を踏み出してしまった。


(こんな賑やかな音のする場所で…!)





パシャン。


歌声が止む。
その声の主が、こちらを向く気配が伝わってきた。
穏やかだった雰囲気が、縮こまる気配。


イノランは悔いた。…が、もうどうしようもない。





「ごめんなさい、邪魔しちゃって」



そこにいるひとに向かって、イノランは謝罪の言葉を投げかけた。

せっかくの歌を。
せっかくのいい夜を。

邪魔してごめん、と。



相手が躊躇っている感じがして、イノランはゆっくりとその隙間を詰めていく。

ザクザクと派手な音を立てても、相手は逃げる様子はなく。


じっと。
じっと、イノランを見つめる気配だ。



「………えっと、今さらなんだけど。こんばんは」

「ーーー」

「いい夜ですね。ーーー月も…まだ真ん丸じゃないけど、綺麗だし」

「ーーー」

「静かだし…。あと、さっきの歌も」

「ーーー……」

「ーーーー歌。すごくよかった」

「ーーーえ、」



初めて相手の反応があって。
イノランはごくりと息をのんで、さらに隙間を詰める。


ザク、ザク。



ザク。




「ーーーーーあ、」




岩場に座って、月明かりを浴びて。
夜風に髪を揺らしながら、じっとイノランを見つめていたのは、ひとりの青年。

一瞬で、イノランの心をとらえてしまった。




「ーーー君は」


「…隆一」

「隆一?」

「うん。ーーーあなたは?」

「ーーーーーイノラン」

「イノラン?」

「ーーーああ、」

「ーーーーー……」

「ああ、そうだよ」




名前を教え合ったら、その彼。隆一は、フッと肩を緩めて。

にっこりと、イノランに微笑みかけたのだ。




人魚か、そうじゃないか。
それはわからないけれど。

自分にとっての人魚。
惹かれてやまない、特別な存在。

そんなひとを、やっと見つけたと。

イノランは、熱くなる胸を抑えるのに。
必死だった。






「飲む?」



手にぶら下げていた飲み物。
その中でも内心、柄じゃねぇな…と自身に苦笑していたフルーツ牛乳。
初対面なのに、目の前で朗らかに微笑んでくれる隆一を見ていたら、彼のが全然似合うじゃん。…なんて思ってしまって。
月明かりで縁がきらきら光る牛乳瓶を。
スッと隆一に差し出してみた。






「ーーーあなたのじゃないの?」

「ん、まぁ…よく考えたら俺ひとりで三本は多いしさ」

「ーーー」

「せっかく出会えたし」

「ーーー」

「いい月夜だし」

「ーーー」

「素敵な歌声も、聴かせてくれたお礼」

「っ…」

「ーーーちょっとだけ、一緒にお茶しない?」



よく考えてみれば、この場に茶を使った飲み物など一切存在しないが。
それに、お茶しない?…なんて。
お誘いの常套句みたいな言葉を言ってしまったと。
イノランは後から照れくさくなった。



ぴと。


「!」



照れている間に、瓶越しに伝わってきた微かな振動。
ハッとして見上げると。
隆一がおずおずと手を伸ばして、牛乳瓶に触れたところだった。





「ーーーっ…あ、ありがとう」



たどたどしいけれど、感謝の言葉。
互いに伸ばした手の向こう側に、隆一のはにかんだ表情が見えて。
イノランは急激に嬉しくなって。
ぐっと、その瓶を。隆一の手に持たせてやった。



「どういたしまして!」











ザザ…ザン…。


パシャン。

ザザザン…ザー…

パシャ…パシャン。





隆一は相変わらず、裸足の足を海水で遊ばせる。
イノランはそんな隆一の座る岩の隣に膝を抱えて腰掛けた。



パシャン…パシャン…。


「ーーー」


冷たくないのかな。
冬の夜の海水。
足だけとはいえ、さすがに寒いだろうと思うけれど。

コーヒーを飲みながら、イノランはちらちらと隆一を見つめた。

メロンやオレンジやバナナのイラストが描かれたレトロな牛乳瓶を、さっきから口に運んでる。



コク。コクン。

小さな音。
飲む度に白い喉が滑らかに動いて、微かな息遣いが漏れる。


「ーーーっ…」



イノランはそんな様子が堪らなくなって、思わず唇を噛んだ。



(…なんだよ、俺)


顔が熱く、胸が高鳴る。


(見惚れてんじゃん。…隆一に)





ずっと見つめていたせいだろうか。
夜風に揺れた少し長めの黒髪を、隆一が耳元に掛けた時。
パチリ。
視線が合った。



「!」


突然の重なる視線に。
イノランは鼓動を大きく跳ねさせたものだけれど。
ーーー実は、それは隆一もだった。



ぎゅっと。
半分程に減った中身の牛乳瓶を握りしめる隆一。
受け取った時は冷たかったそれは、今は隆一の体温で温くなるほど。

実は、どきどきしていたのだ。




「なに?」


濃密になり始めた空気を、先に揺り動かしたのは隆一だった。
見つめるイノランに、同じように見つめて。
色んな意味を込めた、なに?


あなたは何処から来たの?
あなたはどんなひとなの?
こんな夜の海岸に、なんで来たの?
初対面なのに、なんで親切にしてくれるの?
なんでそんなに…見つめるの?



隆一の、無言の問い掛け。
ーーーしかしイノランには、伝わっていた。
目は口ほどに物を言う。
まさにそれだと感じていた。




「ーーー隆一…。隆は、さ?ーーーいつもここに来るの?」

「え?ーーーうん。側に、住んでるから」

「そっか、地元なんだ」

「…ん、うん。ーーーイノランは?」

「俺はそこのホテルの泊まり客。今日仕事で来たんだけど、この辺が気にいってさ。一泊して帰ろうかなぁって」

「!…ーーーそっか。…そうなんだ」

「ーーー」

「じゃあ、明日には…帰るんだね」




隆一の声のトーンが、少しだけ落ちた気がした。

その意味を、一瞬の間に色々考えて。
イノランは、自惚れることを決めた。


明日帰ってしまう事を、寂しいと思ってくれたのかな。…と。




それは、イノランもだった。













「連絡先とか、交換しないか?」

「え?」

「スマホのアドレス…とか」

「ーーー」

「せっかく出会えたし。…もっとホントはゆっくりここに滞在できたら一番なんだけど。…隆と、もっと仲良くなりたい」

「ーーー」

「これでさよならは、残念過ぎる…から」

「ーーーイノラン…」

「ーーーいいかな?」



ザザ…

ザ…ン。



パシャン…。



パシャン!



「俺も知りたい」

「…え、」

「イノラン…。イノちゃんの事」

「ーーー」

「もっと知りたい」



ごそごそとジーンズのポケットを探った隆一はスマホを取り出して。
少々たどたどしい動きで操作すると、目当ての画面をイノランに差し出した。


「交換しよ?」


月明かりのもとで、やっぱり隆一は笑ってくれた。

抑えきれないくらいの胸のときめきを感じながら、イノランも笑って頷いた。



差し出した、隆一の白い手首に。
きらりと透けて輝いたのは。
華奢な銀の鎖に繋がれた、美しい石だった。













ピコン。


「ん、?」


スタジオで仕事の合間。
テーブルに置いたスマホが、メッセージの着信を報せた。


ちょうど小休憩の最中だったから、イノランはすぐに画面を覗いた。


「!…隆から返事」

そうだったらいいな…と、心の中では思っていたのだろう。
表示された送り主の名前を見て、イノランは表情を笑みで崩した。



〝こんにちは、メッセージありがとう。
この前は、ご馳走様でした。


俺も、また会いたいです。 隆一〟


なんて事ない、実にシンプルな文章だけれど。
イノランにとっては、なによりも心待ちにした、嬉しいもので。

ホテル滞在から数日後に隆一に送ったメッセージ。
最初からあれこれ書き込むと隆一を困らせるかもしれないと思って。
出会えて嬉しかった事。
あの夜がとても楽しかった事。
そして、また会いたいと。

たった数行の、こちらもシンプルなメッセージを隆一に送ったのだ。


そしてその返事。
連絡先を交換したといっても、そこで終わってしまう可能性だって無いわけじゃなかったのに。
それがこうして、返事をちゃんとくれたのだから。


「ーーーやば。…こんな嬉しいんだ」


心底、心惹かれる相手からのメッセージ。
文章の長い短いなんて関係ない。
たどたどしくも繋がっていられる事が、今はそれだけで嬉しかった。




次に会えたのは、あれから二週間後の事だった。

行くと言っても、仕事を休むわけにはいかない。
仕事が早く終わりそうな日、翌日オフの日。
そんなタイミングを狙っていたイノランだったが。
内心は早くあの海に行きたくてやきもきしていた。

そして見つけた、早終わり~翌日オフ。
イノランは仕事を終えたその足で、あの海岸まで車を飛ばした。



ザザ…ン。
ザー…

ザザザ…ザン。



撮影をしたあの日よりも、季節は確実に冬に向かっていた。
到着したのは夕暮れ。
夕暮れとは言え、冬だからすでに空の向こうは夜の気配だ。


「っ…寒くなったなぁ」


今回はコートを着込んできたけれど。
それでも芯から冷える。
せめて末端だけでもと、あの自販機でホットコーヒーとココアを買った。
ココアは、隆一にあげるつもりだ。



ザザン…
ザ…ザン…。


ザクザクと砂浜を歩く。
目指すのは、以前隆一と出会った岩礁地帯だ。

もう寒いからどこか屋内で会わないか?
…そうメッセージの遣り取りで提案してみたのだが。


〝ごめんね。あの岩場でもいいかな〟


そんな返事が来た時、イノランは一瞬頭にハテナが浮かんだが。
会えるのならば、場所なんてどこでもいいと思った。
寒いのなら着込めばいいだけの話だ。

それよりもーーーーー


「会いたいんだ。隆に」


こんなに惹かれるのが不思議だった。
会いたくて会いたくて堪らない。
もっと知りたくて、声が聞きたくて。

ーーーそれって…


イノランはハッとする。

それって。


「ーーー恋、してるみたいだ」


否。
してるみたい…ではなく。
イノランはもう、隆一に恋していた。





ザザ…ン。


パシャン。


「あ、」


イノランは立ち止まった。

自然が生み出すのとはちょっと違う水音。


パシャン、パシャン。

水と戯れる。
そんな音。



チャパン、チャプン。
パッシャン!


「ーーーーー隆」


暗くなった岩場に向かって、イノランは呼んだら。
きっとそこにいると確信したから。



「隆一、いるんだろ?」


「イノちゃん、?」



隆一の声は、歓喜が満ち溢れていた。








「冷たくないのか?足」

「ん?」

「気温もだいぶ低いしさ。水温も…きっと」

「ーーーーーヘイキ」

「…でもさ、」

「こうしていないと、」

「え?」

「っ…あ、ううん」

「ーーー」

「ーーー落ち着くの。それだけ」

「落ち着く?」

「うん」

「ーーーーーそっか」


まだ言えない何かがあるのだろうと、イノランは察した。
それを話してくれたら力にもなるし、支えられるとも思ったけれど。
ーーーまだそこまでじゃないんだろうな…と、少しだけもどかしい。

もっと深い仲になりたいと、イノランは思う。


ザッバーンッ…‼


「わ、」

「うわっ、濡れた」



突然の大波。
暗くてすぐ気付けなくて、二人して服を濡らしてしまった。

ポタポタと雫を滴らせる隆一は、ひどく寒そうだ。(だって上着も着ていない)


「大丈夫か?」

「ん、ヘイキだよ」

「隆の服、もろに濡れたじゃん」

「イノちゃんだって」

「俺はコート着てるから平気だ。中までは濡れてない。それより隆が」


風邪をひかないかと、イノランはそれだけが心配で。
今夜の泊まり部屋のあのホテルに行けば着替えがあると思い出し。
隆一の手を握って、ぐっとその身体を引き上げた。



「っあ、わっ!」

「え、?…あ、っ!」


立ち上がらせた途端にバランスを崩す隆一。
足場の悪い岩の上だから、その身体は海側に傾いた。


「隆っ…!」

「ーーーっ…ぁ」


支えたのはイノランの腕。
咄嗟に隆一の身体を抱き寄せて、陸の方へと重心を向けた。

ふわん…と。
こんな時なのにイノランの鼻先を甘く擽るのは、潮の香り。
ーーーそれから、隆一の匂い。
どことなく甘い香りに感じるのは、海風を受けた髪のせいかもしれない。


(…でも、それだけじゃない)


ぎゅっと、抱きしめる両手に力を込める。


(ーーー俺今、隆…を)



「ーーーっ…ぁの、」

「ごめん。ーーーもう少しだけ」

「え、?」

「もう少しだけ、こうさせて」


隆一を胸に抱いていると、そう認識して。

イノランは、胸の鼓動を静める術を、知らなかった。






隆一を支えて、宿泊先のホテルまで歩く。

波を受けて、濡れてしまった隆一の服。
こうして触れると随分とぐっしょりと海水を含んでいる事がわかる。

大丈夫。

隆一はそう言ったけれど。
こんな寒空の下、濡れたままで放っておく事は出来なかった。



「ーーーっ、」


肩を支えながらイノランは気がついた。
隆一が、少し脚を痛そうにしていると。
数メートル歩く度に、時折足を止める。
そんな時は少しだけ眉を寄せる。

さっき岩場で挫いたりしたのかと思って、イノランは隆一に合わせてゆっくり歩いた。






「着いた、ここの部屋だよ」

「ーーーうん」



カードキーを挿し入れて、解錠したところで隆一を支えて部屋に入った。
出がけに緩く暖房を効かせて行ったから、部屋の中はほんのりと暖かい。
イノランはソファーに隆一を座らせると、タオルと着替えを隆一に手渡した。



「俺の服だけど。同じくらいの背格好だから、着られるよな?」

「ありがとう」

「ーーーシャワー浴びる?派手に海水被ったから、流したほうがいいとも思うけど。でも怪我とかしてないか?」

「…ん、うん。そうしようかな。怪我はしてない、大丈夫だよ」

「そっか、じゃあそれがいいよ。向こうがバスルームだ。タオルも多めに置いてあるから使ってな」

「うん、イノちゃんありがとう」



少々心許ない足取りの隆一を見送ると。
ひとり残ってイノランは内心落ち着かなかった。

それはそうだろう。

恋していると自覚したひととふたりきり。
ホテルの中で、相手は今シャワーを浴びて。
外は寒空の夜。
温もりが恋しい冬の夜。

整い過ぎたシチュエーションに、イノランの鼓動は忙しない。




「あれもこれもなんて、さすがにそんな事しないけど…」

できるわけがない。
だってイノラン自身、一緒にいるだけで今は満たされているから。
出会ったばかりの隆一を、大切にしたいと思っているから。







「ーーーイノちゃん、」


物思いに耽っていたイノランに、隆一がバスルームから声をかけた。


「隆、上がった?」

「うん。先にありがとう」



カタンと、ドアの向こうから顔を出す隆一。
黒髪が濡れて、頬が桃色に染まる。
貸してあげたイノランのシャツはちょうどいい。


どきん、。

イノランの胸が高鳴った。













じゃあ、今夜はありがとう。
そう言って部屋を出ようとする隆一を、慌てて引き止めた。

風呂上がりにこんな寒い外に出たら湯冷めしてしまう。
それにもう夜もいい時間だ。
急ぎの予定など無ければ、今夜はここで過ごせばいいと隆一に言った。



「ーーーでも、迷惑じゃないの?」

「そんな風に思ってたら最初から誘わない。 ーーーマジで風邪ひくから、今夜はここにいろよ」


明日の朝、またあの岩場まで送るから。
そんな風に説得したら、隆一はちょっと逡巡したけれど。
ついにははにかんで、頷いてくれた。



イノランもシャワーを浴びて、しばらく一緒にテレビを観て。
お茶を飲んで。
時計を見ると、だいぶ遅い時間になっていた。




「そろそろ寝ようか」

「ーーーうん、」

「ベッド一個の部屋なんだけど…一緒でいいよな?」

「う、うん。俺はいいけど…」

「ん?」

「イノちゃんはいいの?…俺と一緒で……」



ちらちらと、様子を窺う隆一。
何となく恥ずかしそうに唇を噛んで、上目遣いで。

そんな様子に、イノランはまたもや鼓動が忙しない。
ついさっき、あれもこれもしない…なんて思っていたのに自信が無くなってしまう。

ーーー勘弁してくれ…。
そんな盛大なため息をついて。



「さっきも言ったろ。迷惑とか、そんな事思ってたら最初から誘わないって」











部屋の電気を消して、ベッドの側の小さなライトだけ点けておいた。

イノランの隣には、隆一。
シングルサイズのベッドに、ふたりで潜り込んだ。



「ーーー」


疲れているはずなのに、ちっとも睡魔が来ない。
ーーーどきどきして、眠れない。
イノランも。
それから隆一も。

時折掠める、布団の中のふたりの足先。
すぐ側の息遣い。
互いの、匂い。



出会ってすぐなのに。
いつからかこんな瞬間を夢見てた。

イノランも隆一も。
ーーー本当はもっと。
もっと、触れたいと思い始めていた。





いつの間にか眠っていた。
誰かが隣にいると、暖かいものだ。



そんな体温を感じながら心地いい眠りに就いていたが。
夜半過ぎ、イノランは身動ぐ隙に目を開けた。
オレンジ色の小さな明かりが辺りを照らしている。
視界の端に少々癖のある黒髪が見えて、イノランは顔を綻ばせた。

そうだ。隆一が隣にいる。
一緒にいるんだなぁ…と、しみじみとした幸せ。


ところが、だ。



「…っ、ぅ」



ぼんやりした頭の端で、何か聞こえた気がした。



「ーーーん、っ…ぅ、っ…」


「ーーー?」


次第にはっきりしてくる思考。
その微かな声は空耳なんかじゃなくて、確かに聞こえてくるのだと…ーーーーー


「んっ…んぅ…」


「え、?」


がばっとイノランは起き上がった。
小さな明かりの暗がりでもわかった。
声の主は隆一。
シーツをぎゅっと握りしめて、苦しげに身体を丸くして。
眉を寄せて、痛みに耐えるように口を引き結んでいる。



「ーーーっ…隆⁉…お前、どうした⁇」

「……ぁ、ーーーーー」



意識が朦朧としていたのかもしれない。
隆一はイノランの声掛けに薄っすらと目を開けると、震える手を脚まで伸ばす。



「ーーーえ、脚⁇脚が痛むのか?」


そう言えば脚を引き摺るように歩いていた。
本人は大丈夫と言っていたが、あの時もっとちゃんと聞いてやればよかったとイノランは悔いた。
しかし今は過ぎた事を悔いている場合では無い。
痛がる隆一の脚に視線を向けて、それから摩ってあげようと手を触れた。


「⁉」


イノランはその脚に触れて、ギクリとする。

熱い。
火照るどころではない。
火のように熱い、隆一の脚。


「ーーりゅっ…」


今度は慌てて隆一の顔を見た。
すると今度は、薄く開かれた瞳を見て、イノランは息を詰まらせた。



「ーーー瞳の…色が」


金色の瞳。

初めて出会った日も、それからベッドに一緒に潜り込むまでも確かにその色は違っていた。
茶色がかった潤む黒い瞳。
月の光を受けてきらきらして、綺麗だな…と思っていたのだから。

それが今は違う。
鮮やかな金色。
闇夜に光る、獣の瞳のようだ。



「隆…」

「…っ…ん、イノちゃ…」

「あ、」


苦しげな隆一に、やっぱり今はそれどころじゃないと頭を切り替えて。
隆一が必死に何か言おうとしているのを、聴き逃すまいと顔を寄せた。



「ーーーーーみ、ず…」

「みず?水が飲みたいのか?」



しかし隆一はゆるゆると首を振る。
そして、脚に伸ばした手を動かして。
ーーーここに…と。


「濡らしてーーーーー脚を…」

「っ…!」



隆一の言わんとする事を理解して。
イノランはバスルームに駆け寄ると、バスタブに勢いよく水を出す。
そして水が溜まり始めるのを確認すると、今度は隆一の元へ。



「もうちょい、頑張れ」


起き上がれない隆一を横抱きに抱えると、イノランはバスルームに連れて行く。
バスタブにはすでに三分の一程度の水。
そこにゆっくりと、隆一を浸してやった。







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