短編集・1





水と泡と人魚の想い












いつもの海に立ち寄ると、少し離れた波間に、ポツンと人影。

それが俺のここへ来た目当てのひとだとわかって。
思わず…

微笑んでしまう。




会いたかったから。













天気のせいなのか(曇天…。時折、小雨) 海岸に人影は疎ら。
しかし素人目に見ても波乗りには良さそうな今日の海。
俺は仕事を終えてから、その海岸へ立ち寄った。
砂浜を見ると、見覚えのある荷物がちょこんと置いてあったから、荷物番がてら俺はそこに腰を下ろした。

久しく波には乗っていないと言っていた恋人(隆ね)が、懐かしいボードを引っ張り出してきたのは数日前の事だ。








ザザ…ザン…

ーーーーーザザ…




すいすいって、言って良いのかわかんないけど。久々のくせにその身のこなしは流石だと思う。
気持ちよさそう。
水の上を走るって、どんな気持ちだろう。

…なんて、遠くの隆をじっと眺めながらそんな事を考えていたら…だ。






ザップンッッ…



「…っ、」





波音とは違う甲高い水音が響いたと思ったら、海面上にボードが勢いよく宙を跳んだ。
そこにすでに人影は無い。
リーシュコードに繋がれた足首が一瞬ちらっと見えただけ。



「…ぇ、」



ーーーこれって…。




ひっくり返った?
思い切り逆さで。
水飲んだんじゃないか⁇


久々といえサーファーだった恋人だ。
ひっくり返るなんて日常的にあったんだろうけど、やっぱり心配になる。




「りゅ、」



ザザ…ッ…


「隆…っ…」


ッ…ザ…ザザ…ン…





「隆ちゃん…!…」







「ぷぁ…っ…」


バシャ!って、まるでイルカが水面から顔を出すみたいに現れたのは…隆!
それがさっき潜ってしまった場所よりも波打ち際に寄ってきていて思わずビビる。
…そっか。
なかなか顔出さないと思ったらこっちまで泳いで来てたのか。
冷静に観察すれば、隆と繋がれたボードも一緒にこっちに寄って来てたんだから…

…だめだなぁ。隆の事になると。





「っ…はぁ、」


ぽたぽたと水滴を落としながら隆は砂浜に上がって来た。
当たり前なんだけど、ずぶ濡れで。
曇天のせいか濡れた身体が寒そうに見えて、俺はタオルと上着を持って立ち上がる。






「隆ちゃん」


「ーーーイノちゃん、」

「お疲れ。ーーーはい」

「ぁ、ありがとう!」



一瞬俺がいた事に目を丸くした隆だったけど。
俺の差し出した物を受け取ると、はにかんでタオルに顔を埋めた。
















「隆、やっぱすごいね。ブランクとか全然わかんない」

「そんな事ないよ。今日は人がいない海だから久々でもできたんだって」

「そ?でも、めちゃくちゃ気持ちよさそうだったよ」

「気持ちよかった!久しぶりに海に入って、水に身体を浮かべて。やっぱり良いなぁって、懐かしかった」

「そっか。ーーーじゃあ、また始めんの?」

「サーフィン?ーーーーー…ぅー…ん」

「ん?」

「…は、とりあえずまた暫くはいいかな。ボードも久しぶりに海に入れて喜んでると思うから、また暫くはね…」

「ーーーそうなのか?」

「ーーーぅん、」




そう言って隆は、思い切りよく立ち上がる。
曇天の空の向こうは相変わらずどんよりしたグレーだけど。
隆の海を眺める目は。



きらきら。




「ーーーーーあのね、イノちゃん」

「ん、?」

「久しぶりにサーフィンして、水に入って思い出したの。ーーー昔もそうだったんだけど、水に入った時だけ浮かんでくる気持ちっていうか…」

「ーーー」

「胸に込み上げてくる想いっていうか。ーーーそうゆうのがね、あって」

「ーーー」

「今日それを、久しぶりに思い出したの」






今俺の運転する隣の席では…。

隆がくったりとクークー眠ってる。
久々に海に入ったから疲れたんだろう。
海岸のシャワーを浴びて着替え終わった隆は、確かにぼんやり…ふわふわしてた。












「ーーー空いてんなぁ…」



これは俺の独り言。
海岸線を走り抜く俺の…(実はこの車は隆の。俺は仕事から海岸までタクシーで来たし、水上がりで気怠げな隆に代わって俺が運転手だ)…運転する車は信号以外では止まる事なく滑らかに進む。

こんな平日で時々小雨な海岸にはあまり人は来ないんだろうな。








「ーーー」



ちら。
一瞬、助手席の隆を横目で見る。
シャワーで海水を流しただけで乾かしてもいない髪は、しっとりと隆の輪郭に沿って流れ落ちる。

濡れた隆。
黒髪のせいか、めちゃくちゃ艶っぽく見えて。…アノ瞬間を思い起こしてしまいそうで。
俺は慌てて運転に集中した。
…見惚れるから。
…堪らない気持ちになるから。





「無防備すぎだよなぁ…」



これも俺の独り言。
多分、苦笑いしながら。

これが隣にいるのが他の奴だったら、こうじゃないんだろうか。
微笑みを浮かべて、少なからず壁を作って。
深くまで踏み込む事を、許さないのだろうか。
だから、こうして隣で眠ってくれるって事はさ。
隣にいるのが俺だから…って、自惚れてもいいのかな。
平気で寝顔を見せて。
手を伸ばせば容易く触れられる場所で。
こんな姿。




「ーーーそうだったらいいな」


俺だけにって。


「そうだったら、嬉しいな」


かと言って、独占欲とか庇護欲とか、減るわけでは無いと思う。
もっともっとって、欲深くなるんだと思う。


ーーーけれど。





「ーーーぁ、信号、」




前方の信号が赤に変わって、久しぶりにブレーキを踏んだ。
ホッとひと息。
その途端だ。





〝イノちゃん。…あのね?〟




さっきの海岸で、隆が俺に話してくれた事。
それがじわじわと思い出されて。
その意味を、味わうように、じっと。

考える。






〝イノちゃん。…あのね?〟

















ザザ…ザ…ン…

ーーーザザザ…ザー…





さっきの海で。







「あのね、イノちゃん」


「思い出したんだ。久しぶりに海に入って、海水の中で、ゆらゆら揺られて」





「なに、?」




「ーーーーー内緒にしてた事。ーーーずっと、」








海の中は細かな泡と水で満たされて。
それはその日によっても様々で。
緩やかな流れも、気を抜けばあっという間に沖に流されてしまうような激しい流れも。
ひとたびそこに身を浸せば、それに受け入れてもらうだけ。
抗いは無意味で。

ただ。

水に身を任せる。

そんな時俺は、とても謙虚な気持ちに包まれる。

今こうしてここにいられるだけで。
それだけで。


だって、

生きているから歌う事ができる。

ここにいられるから、水の冷たさも、太陽の温もりも感じる事ができる。

生きているから、様々な感情を持つ事ができて。

ーーーーー好きとか、愛してるとか。

思う事ができる。






あのね?イノちゃん。

初めてサーフィンを始めた頃から、海の中に入る時。

思う事があるの。

それはずっとずっと続いてて。

海に潜って、泡と水に包まれる時いつも感じてた。

ーーー久しぶりだったけど。

今回もそうだった。








こぽ…ぽ…


とぷん…





〝ーーー…くる…し…〟

〝ーーーーーーーーー息…〟





こぽこぽ…ぽ…




〝ボード…は、どこ…?ーーーーー海面…は…〟






波に掻き回されて、手を伸ばしても、海面に指の先すら届かない時。
俺は不思議と怖さよりも、焦りよりも。
もっと違う感情。

胸に秘めてた想い。
もしかしたら自分でも気付いてもいなかった想い。
それが、

枷を外したみたいに、溢れるんだ。






〝ーーーーーイ……ノ……………ちゃ………………〟




俺が心から好きなひとのことが。


















ざああああああ…




運転している間に、本降りになってきた。
車窓に雨粒がぶつかって、バチバチとすごい音だ。



「………」


隆は…




すー…すー



「よく寝てんな」


よっぽど疲れたのかな。
久しぶりの波乗り。
まぁ、水泳の授業の後とか、めちゃくちゃ眠かったもんなぁ。




ざあああああ…

しかしすげぇ雨。
海にいる間にこんな雨に遭わなくて良かった。

海でも濡れて、雨でも濡れたら。
流石に風邪でもひきそうだ。







「さて、どうするかな」



走ってるうちに隆が目覚めて、そのまま飯でも行こうかと思ってたんだけど。
走る方向間違えたかな。
飲食店らしき影がどこまで行っても見えない。
それどころか、辺りはどんどん霧にまかれて霞んでいくし。
分厚い雲のせいか薄暗いし。(まだ暗くなる時間じゃないよ)
ーーー極め付け、隆は起きないし。



「うーん…」


とりあえず対向車も後続車もいないから、道の端に車を寄せて停車する。
ちょっと止まって考えよう。
うーん!と伸びをして、運転席で身動きした瞬間だ。




くっ…



「ぁ、」



俺のシャツの端を握りしめる、手。
白くて綺麗な、隆の手が。



「隆、ちゃん」




いつの間にか、隆の寝顔はこっちを向いていた。












〝海に入る度、水の中に潜る度。
水と泡に包まれて、苦しくなって海面に手を伸ばす時。
ーーーイノちゃんの事、いつも想ってたよ?〟








ざああああああああ




隆に服を掴まれたまま、隆の寝顔を見つめながら。
隆の言葉を噛みしめる。
平静を装ってるつもりだけど、そんなのは無理だ。






「…すげぇ言葉をくれたって、わかってるか?…隆」




だってさ。
俺はサーフィンの事も、海中で波にまかれるって事も。
隆に比べたら全然わかっていないと思うけど。
でも。
そんな…波にまかれている最中って。
実際は息継ぎするのに必死な状況だろうに。
焦って取り乱したって、不思議じゃないだろうに。



でも。
…でも、隆は。




〝イノちゃんの事、想ってた〟



〝イノちゃんの事、それだけ〟











ざあああああああああああ










「…ん、ぁ。ーーーイノちゃん、」

「起きた?」

「ぅん。すっかり寝ちゃった。ごめんね」

「なんで。謝る事ないだろ?」



水に浸かった後の眠さってのは、抗えないんだから。
そう言ったら、隆はふんわりと微笑んだ。




「飯食いに行こうかと思ってたんだけど、」

「わぁ、いいね!賛成」

「…無くてさ。飲食店。選んだ道誤ったかも」

「あぁ…。ーーーーー」

「隆ちゃん、めちゃくちゃ腹減ってる?まだ待てるようならもうちょっと探すし、空腹で倒れそうならどっかコンビニでも、」

「いいよ」

「ん、?」

「待てる」

「ん。じゃあ、もうちょっと走ろうか」

「うん」



頷く隆鼻歌でも混じりそうなくらい、ご機嫌で。
隆、楽しい?って訊くと、ぎゅっと手を伸ばして抱きついた。





「イノちゃんがいてくれるから」

「!」

「それだけでいいんだよ?」




隆はじっと俺を見上げて、狭い車内で、ぎゅっとくっ付く。
寝起きのあったかい身体と、まだ湿っている髪とか。
ーーー微かに残る、海の匂い。




「隆、」

「ーーー」

「飯の前に、少しだけ」

「ーーーーーーっ…」

「誰もいないし、いいよな」



「…ぁ、」




ヒクンっ、と。
隆の身体が震える。
さっきシャワーを浴びたばかりで、さらさらした肌に触れる。


「ーーーーーりゅ、ぅ…」

「ぁっ…あ…」



舌先で、指先で。
愛撫する。



「ーーーーーー…っ……ん、」

「ーーーーー隆っ…」



「…ぁ、 ぁ…っ… イ ノ …ちゃ……」







狭い車内で、隆に覆い被さって。
衣擦れの音と、隆の小さく漏れる声を聞きながら。
海から攫ってきた人魚を抱く。

またいつか海に戻って。魅せられて、そのまま海に帰ってしまわないように。








「俺も、ずっと…っ…」



隆を想うよ。







end



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