フォレスト スノー







降り積もる、白。

植物性プランクトンや、生き物の死骸の細かな破片が海底に降り積もるマリンスノーとは異なる、フォレストスノー。

深い森の木々の隙間を縫って降り積もるそれは。
プランクトンでも、死骸でも無く。






「音の粒子です」






そう微笑んで、教えてくれたのは。
この深い森の中でピアノを奏でる、ひとりの青年。



それから…

それから。







「ここ、何?」

「見ての通りです。深い深い、滅多に人も来ないような森の奥です」

「俺、来たじゃん?」

「滅多な事が起こるなぁって、びっくりしています」

「ふぅん?」

「ーーー何か気になることでもありますか?」

「や、余裕あんなぁって思って。ーーーアンタ」

「ーーーああ、それは…」

「こんな場所でピアノ弾いてんのも俄かには信じがたいんだけどさ」

「仰る通りです」

「ーーーー」

「あなたが初めてです」

「ーーー」

「ここへ来たひとは」








白く積もる。

雪のように。
辺りのものを覆うように。






「ーーーえっとさ、聞きたいことが山ほどあるんだけど」

「はい、僕でよろしかったら何でもお答えいたしますよ」

「 (アンタしかいないじゃん)…そりゃどうも」

「はい」

「じゃあまず…名前は?ーーー俺はイノラン」

「イノランさん!ですね?ーーー僕は葉山…といいます」

「葉山くん。そっか、どうぞよろしく」

「こちらこそ」

「ーーーーーん…。ここはさ、」

「はい」

「もう誰もいないのか?」

「ーーー」

「葉山くん、ひとりでこの森で暮らしてんの?」

「ーーーーー」

「ーー?」

「ーーーーーーーいいえ、」

「ーーーーーん?」

「…実はまだいるんです。訳あって今はこの場には来られないのですが…。もうひとり」

「ーーー訳?」

「はい」

「ーーーーーそれって、俺が聞いてもいいのか?」




ちらちら…


白く積もる。





フォレストスノー。





葉山は、イノランの問いかけににっこりと微笑んだ。



「もちろんです」



彼の穏やかな声を聞きながら。
プラチナの緩やかなウェーブのかかった葉山の髪や、黒のビロードの仕立ての良いジャケットの肩に。

ちらちら…

白くかかる、フォレストスノー。
それがとてもよく似合うと、イノランは思った。
















さく、さく。

ーーーほわほわほわ…





葉山に連れられ、道すがら。
森の道を歩く度に白い粒子がほわほわと舞う。
一歩一歩踏む感触は、今までイノランが体験したことの無いもので。

雪とも違う、砂とも違う。
踏む度に粉々に砕ける氷の粒が、砕けた瞬間に綿毛のように軽く舞う感じだろうか。





「ーーーこれ、なんつったっけ?」

「え?」

「ーーー白い、」

「ああ、フォレストスノーですか?」

「そう、そうだ。フォレストスノーって、初めて聞く言葉だからさ」

「実際にある言葉ではないです。僕達がつけた名前です。元になったのは海底に積もるマリンスノーに似せた言葉なんですが、積もる物質は全然異なりますね」

「ーーー音の粒子…って、言ってたな」

「はい。ーーーここの森は、ちょっと特殊というか。音が全て物質化する不思議な森なんです」

「…物質…化?」

「簡単に言えば、音が手で触れるようになるんです。ーーー例えばさっき僕が弾いていたピアノの音も、実際にあの場所に粒子として降り積もっていましたし…」

「ーーー」

「あ、信じてませんね?」

「や、そうじゃねぇけど。ーーーだってさ、」

「ーーー」

「それって、何で?」

「それは僕達にもわかりません。僕達も最初からここで生まれたわけでもないので、この森の起源や成り立ちはわからないんです」

「ーーーふぅん?」

「すみません。僕で分かる事なら聞いてくださいと言ったのは僕の方なのに」

「ああ、いや。別に気にしてないよ。ーーーそれよりさ、」

「はい」

「さっきから、葉山くん。僕達、僕達って言ってるけどーーーーーそれって、」

「はい。先程言った今ここにいないもうひとりの事です。彼とは…そうですね。ーーー音旅、とでも言いますか」

「音旅!」

「はい、僕はピアノ。彼は歌。ふたりで音楽を追求する旅をしていたんです」





イノランよりも少し長身の葉山は、穏やかな口調ながらも的確にイノランの疑問に丁寧に答える。
決してなだらかな足場では無い森の道も、迷いなくイノランを連れて歩く。


ーーーそれは、この温和な青年から、どこか切実めいたものが見え隠れしているようにも思えた。
滅多に誰も来ないこの森に物怖じしなく踏み込んだイノランに、何か託したいものでもあるように。





さく、さく。


ぽわ…ほわほわ…







降り積もり、雪の華のように舞うフォレストスノー。
その風景の向こうに。

小さな、石造りの家。
葉山はそれを指差すと。





「あれが僕達の過ごしている家です。ーーー彼も、」

「ーーー」

「そこにいます」





彼、とは。
歌を歌うという彼とは、どんなひとなのか。
この時イノランは。まだ純粋に初対面をする人物への興味と、緩やかな期待と緊張しか、持ち合わせていなかった。

ーーーこの時までは。




こんな森の奥に建物がある事が不思議だった。


この森の、ここまでイノランが迷い込んで来た道には。
鬱蒼とした…という表現がぴったりな木々や葉が生い茂った、まさしく〝森〟の風景だったが。
白く積もるフォレストスノーがちらほらと視界に入るようになる頃には、どこか別の森に踏み込んだような、水彩画のような淡いグリーンが目立つ植物が多くなっていた。
葉山と初めに出会ったピアノの鎮座する草原や、今ここにいる家の周りは、そよめく風に柔らかく揺れる葉や小さな花も見てとれた。
それが真っ白なフォレストスノーに埋もれる様子は、雪の季節を越えた初春の野の風景にもイノランには思えた。




「ーーー壁に花が、」

「野薔薇だと思います。詳しい種類は僕もわからないんですけど、ここへ初めて来た時から刺々の蔓がいっぱいで」

「ふぅん…。って事は、ずっと手入れもされて無かったんだろうな」

「そうですね。ツタや蔓がはびこり過ぎると壁を傷めるから取りましょうかって提案したんですけどね」

「ああ、うん」

「もうひとりの彼に反対されまして」

「え?」

「花が咲くのを見たいから。せっかくこんなに伸びてるのに可哀想。だからこのままにしておこうよって」

「ーーー」

「説き伏せられました」

「ハハッ!ーーーそいつさ、」

「?」

「頑固者?」

「おや、よくわかりましたね」

「なんとなく」

「それでいて喜怒哀楽が豊かで」

「ーーーーー」

「お喋りも大好きなのでよく話をしてくれるんです」

「ーーーーー」



「ーーーーーーーだから、」





かちゃり。




言いながら、葉山はその家のドアの前に立ち。
銀色の少々錆びたドアノブをゆっくり回して扉を開く。

ーーー部屋の中は真っ白で。
白い壁、白い木の家具、白いカーテン…
まるで部屋の中までフォレストスノーが降り積もったような光景に、イノランはホゥ…と立ち尽くしたが。


葉山の。
先程までとはちょっと違う。
穏やかなだけれど、悲痛な感情が滲み出た…そんな声で。




「だから、」


コツコツと、部屋を進み。
カーテンのその向こうの、ここは寝室だろうか。
白いシーツの、その上に。
イノランは、そこに横たわる人物を見た。



「イノランさん」

「ーーーーーこいつ、」

「どうか」

「さっき葉山くんが言ってた」

「彼を、どうか」

「ーーーーーもうひとり、の…?」



「彼を助けてください」






白いシーツの上にいたのは。
それと真逆の色を艶やかに散らした、ひとりのひと。
漆黒の髪を持つその、彼…は。
まるで夢を見るように、静かに、穏やかに、瞳を閉じてそこにいた。







「ーーー寝てん…だよな?」

「ーーー」

「ーーーーーーー…え、」

「ーーー」

「まさか死ん…」

「…でません!縁起でも無い事言わないでください」

「だって葉山くん黙ってるからさ。ーーーでも良かった」




ベッドに横たわる彼の胸の辺りをじっと見つめると、軽く掛かったタオルケットが微かに上下している。
イノランはそれを見て、なぜだか心底安堵した。

(眠ってるだけだって、そうわかっただけで何でこんなにホッとしてんだ?…俺)


でも初対面のひとでも、生きていてくれたらそれに越した事はない。
この安堵感はその表れだと思うことにして、イノランは傍の葉山に問いかけた。




「ーーーさっきの、助けてって。どうゆう意味?」

「ーーーーーー見ての通りです」

「だって彼は眠ってるだけなんだろ?そのうち目が覚めるんじゃねぇの?」

「もう、ひと月です。彼が眠り始めて、もう…」

「ひと月…」

「僕も最初は思っていました。きっとよく眠っているだけだって。明日になればいつものよう起きるだろうって。ーーーでも、」

「ーーーひと月も眠ったまま…か」

「はい」

「ーーーーー」





コツ、



イノランはそっとベッドに近付いた。
たった今シーツの上に散らしたばかりの様な黒髪は、無造作でありながらも艶やかで。
イノランは思わず手を伸ばすと、彼の黒髪を指先で撫でた。

さらさらと、しっとりと。
それはイノランの手に馴染む。



(肌が白いな)

(けど、頬っぺたは桃色)

(睫毛)

(長…)

(なんだっけ、こうゆうの)

(ーーーああ、)

(プリンセス スノー ホワイト?)





「名前」

「え、?」

「こいつ…。彼の名前は?なんていうんだ?」

「ああ、」

「ーーー呼んでやりたいしさ。名前」

「はい。ーーー嬉しいです。ーーー彼の名前は、隆一です」

「隆一?」

「僕はちょっとだけ歳下なので、隆一さんって、呼んでます」

「ーーーそっか、」

「イノランさんとは、同じくらいでしょうか?」

「ああ、そうだな。ーーーそうかもしれない」

「はい」

「ーーーじゃあ、隆一。ーーーーーー隆、」

「!」

「隆」

「ーーーーー」

「起こさないとな、お前を」

「ーーー」

「ってか、起きて欲しい。ーーー起きて、聞かせて欲しいよ」

「ーーーー」

「歌」





眠る隆一に、語りかけるイノラン。
その言葉に、葉山はパッと顔を輝かせた。




「ーーーじゃあ、イノランさん」

「ん?」

「受けて下さるんですね、彼を…」

「ーーー」

「目覚めさせること」

「まぁ、」

「ありがとうございます!」

「葉山くんがあんまりにも悲痛な顔してるから」

「え、」

「ーーーって、それもあるけどさ」

「ーーー」

「俺もそうしたいって思ったから。ーーー」

「ーーー」

「隆一を、助けてあげたい」






「なぁ、葉山くん」


葉山と隆一が滞在する森の家のリビング。
そこに設られたウッドチェアに腰掛けながら、イノランはキッチンにいる葉山に問いかけた。



「はい」



トレーにコーヒーを乗せてやって来た葉山は、イノランの前のテーブルにカップをすすめて、返事をする。
空のトレーをテーブルの端に置きながらイノランの向かいに腰掛ける葉山。その所作でいい匂いの白い湯気がゆらりと揺れて、白が基調の室内がいっそう白く見えた。


(外も部屋も…真っ白だな)



「隆一がああして眠り続ける直前までは、いつも通りだったのか?」

「ーーーええ、そうですね。お話したように、僕達は音旅…旅の行程の最中でしたので…。この森に立ち寄ったのも、急な雨に降られて偶然見つけたこの場所で雨宿りをする為だったんです」

「じゃあ住むつもりでここにいるんじゃなかったんだ?」

「…そりゃ…そうでしょう。だってここはご覧の通りなにもありません。それこそ店も無いし、まわりに人家も無い。何の準備も無く、旅の荷物しか持たない僕達にここで暮らすのは無理です」

「そっか、」

「この食器はここにあった物を使わせていただいています。多少の物がここにあったのは幸いでしたが…それもいつまでも凌げるわけではないので…」

「まぁ…そうだよな」


そう考えると、この一杯のコーヒーも貴重だろう。


「美味いよ」


味わって、頂く事にする。



「…あのピアノは?ーーーまさか葉山くん、抱えて旅…」

「できるわけないでしょう⁉ピアニストって言ったって力は人並みです!」

「はははっ、だよな」



そりゃそうだと、イノランは自身の放った言葉に苦笑い。そして、



「じゃあずっとあの森の真ん中にあるって事か?あのピアノ。それにしちゃ随分綺麗だったよな」

「そうですね。それは僕達も見つけた時は驚きました。調律も乱れていないし、鍵盤に汚れも無い。どんな楽器もそうですけど温度湿度に敏感なものなのに…」



葉山と隆一がこの森の中で偶然この家とピアノを見つけて、その鍵盤に最初の一音を弾いた時。

ぽーん。

…と。それは耳に馴染む、とても良い音が森の中に響いたのだ。



「ーーー」



一体誰が置いたものなのか。
イノランはそれが不思議だった。
普通ならば雨晒しの屋外に置かれたピアノが、あんなに綺麗な状態なのは有り得ないからだ。



(…なんか、おかしなものじゃないだろうな)

(音が物質化するっていうのも気になるし)

(特殊な森…ったって、特殊過ぎだろ)



「ーーーーーーー」


それから、やはり目を引くのは森を覆う白だ。
フォレストスノー。

綺麗だけれど。
白に覆われる景色というのは魅力的だけれど。



(隆の…今の状況)

(関わりがあるんじゃないか?)


閉ざされた森と。
ピアノと。
フォレストスノー。





「ーーーイノランさん…」



葉山の少々心配気な声でイノランはハッとした。
考え込んでいたのだろう。
パッと顔を上げたイノランは、目が合った葉山にニッと笑うと。




「大丈夫だ」

「イノランさん」












隆一を助けたいと、葉山の懇願を受けて、その上でそう申し出たイノランは。
ひとり、昼間の森へ出た。
動かなければ何も物事は進まないのだから、情報収集だ。




サクサクサクサク

ほわわ…ぽわ、





相変わらず、緑の上に降り積もる白。
イノランが足を踏み込み度にふわふわと舞う。



「ーーー綺麗だけど…な」



雪に似た、その白い堆積物。
二人はフォレストスノーと名付けたようだが、それは雪ではなくて。



「音の粒子。ーーー手で触れられる、音…?」


音楽に身を浸す者として、それを聞けばなんて不思議なんだと、その魅力に引き込まれそうになるけれど。
イノランは綺麗だと思いつつも、どうにも違和感を感じてならなかった。
それはこのフォレストスノーだけではなくて、この森の奥に踏み入った瞬間から感じていた何か…だ。
そしてそれは、葉山が奏でていたピアノの存在を知ってますます強まった。



「ーーーあの二人がこの森に来る前からずっとあるピアノだとしたら…。あの状態を保ってるって、有り得ないよな」



木でできた楽器の多くは、取り巻く環境に敏感だ。
とてもじゃないが、屋外に放置していいものではない。
それがああして弾くことができる状態で森の中にあったという事は。



「誰かが管理してる…か。ーーーそれか、」

「ーーーーーーあんま考えたくないけど…」

「ワケありピアノ…か」



昔から楽器にまつわる不思議な話は絶える事はない。
例えばあのピアノもそういった類のものだとしたら…。



「隆、の。あの状態を見ると…」

「否定はできないんだよな、」



隆一が眠り続ける理由と、フォレストスノーと、ピアノと。
何か関連があるのでは、と。イノランはそう考えていた。














食事を作っていますので、イノランさんもゆっくりしていてくださいね。


葉山はそう言って、さっきからキッチンで忙しい。
手伝おうか?と申し出たイノランの言葉を、寝室の方を指差すことで断った葉山。
隆一のところにいてやってください、という事だ。




「葉山くんがさ、今キッチンで奮闘してるから」

「俺はお前のそばにいるからな」

「ーーー」


返事はやはり無いけれど。
イノランは椅子を引き寄せると、ベッドの隣で腰掛けた。



「ーーー隆、」




「お前の声はどんななんだろうな?」




イノランは眠り続ける隆一に語りかける。
返事してくれたらいいな、と思いつつも。
やはり期待通りにはならなくて。
目の前に無防備に晒される白い喉をじっと見つめて、そこから発する声を。歌を。
イノランは、渇望した。



「こんなよくわかんない森なんかサッサと通り抜けたいんだぜ?ホントはさ」

「ーーーでも、できないんだ」

「なんでかわかるか?」




ーーーツ。


指先で、白い首筋に触れる。
はじめは人差し指で。
その後、中指、薬指…手のひらで。
隆一の白い肌にかかる黒髪に指先を埋めて、撫でるように今度は頬に。




「ーーーあったかいんだな、ちゃんと」

「…って、そりゃそうだ。生きてるんだもんな」

「眠っているだけで、」

「ーーーなぁ、」










〝ーーーーーーあ…〟





「え?」



ピタリ。
イノランの指先の動きが止まる。
瞬きも止めて、息をひそめて。

ーーー何かが聞こえた気がしたからだ。




「ーーーーー気のせい?」



気のせいだという事にすれば、なんて事なくその場は終わりにできそうな些細な事。
でも、イノランには些細な事で終わらせることは出来なかった。



「なんか、聞こえた?」

「ーーーーー声…みたいな」



あまりに隆一の声が聞きたいと願っているから幻聴か?とも思ってしまうけれど、そうでは無い気がする。




「ーーーーー隆?」



イノランは再び隆一の頬を…なでなで。
さっきよりももう少し図々しくなって、横たわる彼に覆い被さるように側に寄って。
シーツの上に投げ出された隆一の手に手を重ねると、まるで恋人同士みたいに指先を絡ませた。



(ーーーこの構図は葉山くんに誤解される感じか?)

(ーーーーーでも。別に誤解されようが、いいんだけど)

(したいからしてるんだし)

(ーーーじゃなきゃ、ここへ留まったりしない)

(ーーーーーーこんなよくわかんない事に首突っ込まない)

(だから、それってさ)

(ーーーーーーー隆のこと、)






キシッ…



「…隆、」





こつ。


額と額を、軽く擦り合わせて。
至近距離に見える隆一を、鼻先に掠める緩やかな吐息を感じながら。
イノランは、自身の感情を確認した。




(ーーーーーすげ、)

(惹き込まれる)

(ヤバい、)



「ーーーーーーりゅ…」



目眩を起こしそうな、込み上げてくる感情に。
イノランはもう抗う事が出来なくて。
初めて見た時から目を引いて仕方のなかった、隆一の赤みを帯びた唇に。
わずかに顔を傾けて、唇で触れようと…した。







「お食事ですよー」




「ーーーーーーー」




笑顔と共に軽やかにイノランを呼びに来た葉山の手には、トレーに乗ったパスタ。バジルグリーンのソースで絡めた、湯気の立つ美味そうな。
貴重な少ない食材で腕を奮ってくれたのだろう…が。





「ーーーお預けか…」





















「さっきは無粋な事をしてしまいまして…」



ブフォッ!




食後のコーヒーをゆったり味わっている最中に。
向かいの席の葉山がいつもののんびりした口調で言った…ものだから。
イノランは何の事を言われているのかを瞬時に理解して、思わずコーヒーを吹きそうになった。



「大丈夫ですか?」

「ーーーーー葉山くん…」

「はい」

「あのさ、」

「ーーーああ、さっきはお邪魔してしまったなぁ…って、気にしていたんです」

「…や。まぁ、いいんだけどさ」




にこにこと、しかし少々申し訳なさそうにする葉山に、イノランは苦笑するしかない。
側から見れば隆一に迫っているように十分見える場面だっただろうに、葉山は別段そこを気にする様子はなかった。
それよりもそんな場面を邪魔してしまった己の行動に申し訳ないと頭を下げる。



「つか、それ以前にさ。もっと突っ込むところあるんじゃない?ーーー俺と隆とは同性どうしとか、眠ってる人間に襲いかかるな…とかさ」

「え?ああ、そうですね。ーーーーーそうなんですか?」

「そうだろ。普通、そこ指摘するとこじゃないの?」



すると葉山はちょっと考えて。
手に持っていたカップをテーブルに置くと、にこ…と微笑んでこう言った。




「僕は隆一さんとは随分長い付き合いですけど」

「ーーーうん」

「僕は大歓迎です」

「え、?」

「隆一さんに、イノランさんが…って」






ーーー隆一さんは本当はとても寂しがりなので…。



コーヒーの席で葉山が言った言葉をイノランは思い返していた。
それに対し、ずっと葉山くんが一緒だったんだろ?そう、今度はイノランが問いかける。



ーーー僕は隆一さんのパートナーです。ずっと一緒にいますし、これからも一緒にいるんだと思います。けれど、それは音楽をする上での…ということです。僕がピアノを弾き、隆一さんが歌う。もちろんそれぞれが個別で行動し音楽活動をする事も出来ますが、僕たちは一緒にいる事を選んだんです。

ーーーただ…今も言いましたが、それは音楽のパートナーとして。それは音楽家としての互いの力にはなり得るかもしれませんが、彼の本質の部分を満たしてあげる事は、きっと僕にはできていないんです。ーーー隆一さんの本質。寂しがり屋で、誰かと一緒にいる事が好きで、安心できて…


それを言ったらやっぱり葉山くんだってその役目を果たせてると思うけど…。
イノランは、そう思ったままを言った。
けれども葉山は穏やかに微笑んで首を振った。


ーーー僕は今まで様々な困難な状況を隆一さんと過ごしてきました。ゲストだと呼ばれたコンサートで肩すかしを食らったり、夜になるまでに宿に辿り着けずその日眠る場所がない時もあったし、旅の途中で資金が尽きた事もあります。そんな中でいくつもの夜を二人で迎えてきましたが…

ーーー僕たちはいつだって一緒に眠るだけ。旅の仲間として、音楽の相棒として、寄り添って朝を迎えるだけです。眠る前にはおやすみなさいと言って、起きたらおはよう!と言う。そして一日が始まる。ーーーもちろんお互いが尊敬し合っているし、かたい絆と友愛で結ばれていると感じています。でも…

ーーーイノランさんが、ひと目で隆一さんに抱いた…んだろうなぁ…っていう感情は。きっと、僕と隆一さんの間にはないんです。
これまでも、この先も…






「ーーー俺が隆に、ひと目で抱いた感情」




そんな風に葉山に言われるまで、じっくり己の感情を分析しようとは思わなかったけれど。
イノランは実直に、思ったのだ。

隆一に触れたい、と。

身体も、心も。
全部。

ひと目で隆一に惹かれてしまった。






ーーーだから僕は大歓迎なんです。
イノランさんが、隆一さんを…って。

きっと隆一さんも、イノランさんを気にいる気がします。
そこは長年一緒にいる僕が確信しました。

お二人が惹かれ合って、気持ちが通ったら。
隆一さんはもっともっと、素敵な歌を歌えると思うんです。

僕はそんなお二人といられたら、最高に幸せだなぁ…と。





「買い被りすぎだっての。…葉山くん」

「俺まだ、隆の声も聞けてないし」

「面識すらないんだぜ?」




ーーー僕は大歓迎です。



「…でも、」

「目覚めさせてあげたいって言ったのは本心だし、」

「ーーー隆に一目惚れしたのも、誤魔化しようのない事実だし…」

「ーーー実は葉山くんの事も相当気に入っちまったし、」






さく…さく、さく



ほわ…ん、




「やるしかねぇじゃん?」






フォレストスノーが降り積もる森を、イノランは再び歩く。
この森の謎を解き明かすため。
眠り続ける愛しいひとと、心優しい親友のため。


イノランは自身がずっと肌身離さず持って旅してきた大切な…ある持ち物をしっかりと抱えて。
真っ白な森の真ん中で立ち。

スッ…と、目を閉じた。











目を閉じると、それまで聴こえていなかったモノの〝声〟が聴こえてきた。








〝クスクス…クスクス…〟

〝ククク…〟




「ーーーーー笑い声?」




〝ーーーピ……ァ…………ノ…〟



〝ゥ…ツ……クシ………ィ………〟


〝……ウ……タ…………〟







ーーーイノランの耳は、何モノかの声を聞き取って。
それらが啜り笑うように、ある言葉を言っていると感じた。



〝ピアノ〟と〝うつくしい うた〟



イノランの脳裏に瞬時に浮かぶのは、この森で出会った二人の青年。葉山と隆一。
尤も隆一とはまだ目も合わせてい無いし話もしていない状態だけれど。

ピアニストの葉山と、歌をうたう隆一は。




「ーーーーーまさに…じゃないか」



森の木々がざわめく様に、木々の隙間を通り抜けるような微かな声。

その声は、二人の事を言っているーーーーー⁇






ザワザワ…ザザ…




〝……クク…ク………ピ…ァノ………〟

〝キョウ……モ………キ…カセ………テ……ョ…〟

〝………ゥ…タ…………キキタ……ァ…イ……〟

〝ハハハ…ハ…〟





「ーーーーーーっ…」















バタンッ!!!!




「葉山くんっ…!」

「っ⁈あ、はい⁈」




急にドアを蹴破る勢いで部屋に飛び込んできたイノランに、葉山は目を丸くする。持っていたカップを思わず落としそうになって慌てていたが、イノランはそれどころじゃなかった。
葉山にどうしても確認しなければならない事ができて、ピアノが置いてあるあの森から駆け込んで来たのだ。

ゼイゼイと息急き切っているイノランにただ事じゃ無い何かを感じて、葉山は玄関先で佇むイノランに寄り声掛けた。





「ど…しました、何か…」

「ーーーっ…葉山くん、」

「ーーー何か、あったんですか?ーーーーー」

「ーーーーっ…」

「森、で?」



ハアハア、と。
イノランは次第に呼吸を落ち着けて。
こめかみを滑り落ちる汗をぐっと手の甲で拭うと。
目の前で心配そうに見つめてくる葉山に、聞きたい事を直球で問い掛けた。




「ーーー葉山くんは、あの森に毎日行くのか?」

「え、?」

「行って、毎日ピアノを弾く⁈」

「ーーー毎日…?」

「あと、隆…も」

「ーーーえ、」

「俺は隆はずっとああして眠っているんだと思っていたけど。ーーーほんとは起きている時間があるのか⁇」

「ーーー⁇…何、を…」

「ーーーーー」

「言っているんです…か?イノランさん」

「ーーーーー」

「僕達はずっとここにいます。僕は時折あのピアノを弾く事はありますが、あの日イノランさんに出会った日に弾いていたのは久々の事です。現にイノランさんがここへ滞在し始めたからは行っていませんよ。ーーー隆一さんも、」

「ーーー」

「イノランさんも見ているでしょう?ずっとああして眠り続けていると。ーーー起きて欲しいと、目覚めさせて、助けて欲しいと貴方に願い縋ったのは僕です」

「ーーーごめん」

「ーーーーーっ…」

「ごめん、葉山くん。疑ってるわけじゃないんだ。ーーーただ、確認がしたかったんだ」

「ーーー」

「ーーーけど、疑いを向けられてると感じてしまったら、ごめん」

「ーーいいえ、そんな」

「ーーー」

「僕はイノランさんを信じていますよ。そうじゃなきゃここへ招いたりしません。隆一さんをお願いしたりしませんよ」

「ーーーああ、」

「はい、」

「ありがとう、葉山くん」




本題に戻るけど…

そうイノランは言い置いてから。
もう一度、問い掛けた。



「あの森に降るものが音の粒子だって、なんでわかったんだ?」

「え?」

「当たり前に考えたら、空から降る白いものなんて雪か雹か霰あたりだろ?何でそんな音の粒子だって思ったんだ?」

「ーーー」

「誰かに聞いた?」

「ーーー誰かって、そんな…」

「ーーー」

「誰がいるんですか、この森に」

「ーーー」

「尋ね事をできる人なんて、ここで会ったこともないです」




隆一と葉山が名付けた、森に降る白い…フォレストスノー。
それが何であるか何処で知ったのか?というイノランの疑問に葉山は答える事が出来なかった。
まるでそんな事は考えもしなかったという様に、イノランの問い掛けは葉山を混乱させた様だ。
葉山にとっては、この森は特殊な森で、雪や雹以外にも降り積もるものがあって。
それが音の粒子であって。
この森では音が手で触れる事ができるのだと、当たり前の様に受け入れて。
そして。
森に降る雪…フォレストスノーという名前を付けたのだ。

美しく、ひっそりと存在するこの森をあらわすような。
どことなく、寂しさも感じる名前。
雪は春が来ればとけてしまうけれど。
音の粒子は、降り積もってもとけなくて。
いつかはこの森も白く塗り替えて何も無くなってしまうのだろうか…?
ーーーここで眠り続ける隆一と、彼に寄り添う葉山もろとも。

真っ白に。



「っ…」



そんな想像をしたら、イノランはつい背筋が震えた。



(無かったことにしろって?)

(ーーー無理だろ)



葉山も隆一も。
もう、イノランの中で大きな存在になっていたから。




「イノランさん?」



不意に、思わず唇を噛み締めていたイノランを、葉山が呼んだ。



「え、?あ、ごめん。ぼーっとしてた」

「あ、いいえ。ーーーところでイノランさん、手に抱えているお荷物って、」

「ん?ああ、コイツ?」

「ーーー楽器…ですか?」

「まぁね。俺も一応さ。アーティストってことで。まぁ、ギター」

「ギタリストだったんですね⁈」

「まぁ、ね?」

「それなら尚の事、隆一さんはイノランさんの事気に入りますよ!」

「そうなのか?」

「隆一さんはギターも大好きなんですよ。そのうち自分のギターが欲しいって言ってたくらいなんで」

「ふぅん?」





葉山の話を受けて、イノランにひとつ是非叶えたい予定ができた。
ーーーそれは隆一にギターをプレゼントして、ギターの弾き方を教えてあげたいというものだ。



(叶えられたらいいな)



ベッドで今も眠る隆一を思い浮かべて、イノランはそっと顔を綻ばせた。











何か手掛かりを、と。
イノランは太陽が昇り明るくなると森の中を探索する。
そして陽の落ちる直前まで、森の様子を見ていたイノランは。
木々の隙間に夕陽が見えなくなると、明かりの全く無い森の中、見渡す事も困難だから。
今日は仕方ないと、二人の待つ家に戻って行った。

ーーー本当は、今すぐにでも原因を突き止めてどうにかしたいのだけれど…








その夜。





元々小さな家だ。
部屋数も多くなく、客間と呼べる部屋も無い。
テーブルやキッチンのあるリビングと、隆一が今眠っている小さな部屋。それから葉山の寝室にしている小部屋がもうひとつ。





「僕の使っていた部屋をイノランさんが使ってください」

「ーーーでも葉山くんは?」

「僕はリビングの椅子で」

「は?」

「椅子を…こうして。ーーー三脚繋げればベッドサイズになりますよ」

「だめ」

「え、」

「そーゆうのはだめ。その気持ちは嬉しいけど…。あ、やっぱ嬉しくない。誰かが我慢して解決させんのは嫌だよ」

「でも、」

「だいたい葉山くん背が高いんだからさ、そんな椅子ベッドで眠れるわけないっての。ちゃんとベッドで寝なきゃダメ」

「ーーーーーでも、それじゃあイノランさんは?イノランさんに我慢を強いるのは僕が嫌ですよ」

「大丈夫」

「ぇ、?」


「えっと、あのさ」










ーーーーそんなイノラン滞在初日の経緯があった寝室事情。


窓からさしこむのは緩やかな月明かりだ。
全体的に白く統一された部屋は、光のあたる部分は淡く黄色に照らされて。夜闇に染まる周囲は水の中の様な青だ。
ここは隆一が眠る部屋。
窓際に置かれたベッドでは、今も隆一がくーくーと穏やかに眠る。
ーーーその、ベッドの端に。
葉山から手渡してもらった毛布を掛けながら、隆一の隣のスペースを拝借する…イノランがいた。
どちらかと言えば大柄ではないイノランと隆一。普通サイズのベッドでも、横になるだけなら二人一緒でも充分だった。




「ーーー隆と一緒に寝てもいいかな」


そんな申し出をイノランはしたのだが。
流石にそれは葉山も反対するかも…と思ったのだけれど…
葉山の反応は、微笑み付きの了承だった。

あまりにあっさり頷いた葉山に、少々拍子抜けしたのも事実…。



「ーーーわかってんのかな…。葉山くん」

「俺が隆にって、」

「ーーーーー無理やりなんてしないけどさ」



したいけど…。と、小さく呟いたのは内緒。
でも、嬉しかった。
信頼してくれているのかな…とも思えたし。
それから。

まだ話す事が叶わない隆一と、少しでも側にいて存在を感じたかったから。





「ーーーもうちょっと、待っててな」



絶対に目覚めさせてみせるから、と。
イノランは誓いのように隆一の頬に触れた。





「隆…」




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