短編集・1









《水の上を走る鉄道》













カタン…カタン…


ぱしゃ…っ…







緩やかに進む鉄道。
線路を滑る心地いい感覚と音の隙間に時折聴こえてくるのは…。

水の音。

線路はすれすれまで水で満たされている。
水の上を走る鉄道。
だから時折、水を舞い上げる。
飛沫が上がって、窓硝子に水玉が飛ぶ。



空は薄水色。
ミルク色の太陽。
白い雲がゆっくりと流れてる。
それをそっくりそのまま水面に映すこの鉄道の走る風景は。
明るく青い世界の、その真ん中を。
銀に光る鉄道だけが、線を描いて進んでいくように見える。








僕はひとり、この鉄道の…ボックス席の窓際に座ってる。
見たところ誰も乗客はいない…らしい。
らしいっていうのは、他の車両を見ていないから。
ーーーでも、話し声も聞こえないし、線路と水の音以外物音も聞こえない。


気がついたら乗っていた。
何処から乗ったのか、なんで乗ったのか。
自分がここから何処へ行くのか。
全部、わからないまま。


カタン…カタン…と。
鉄道は水の道を進む。







〈ーーーーーーーーー〉



鉄道が止まった。
駅なのかな。
簡素ながら、ホームらしき物が見える。
標識は無い。
よく聞き取れなかったけれど、アナウンスらしきものも聞こえた気がする。



ーーーーーーカタン…カタ…カタン…



また。走りだす。
ほんと、この鉄道はなんなんだろう?
物語にあるような、銀河鉄道みたいな。
ああいう体験だったりして。
…だとしたら、足掻くのは無駄な気がする。
なるようになれって感じで、身を任せるのがいい気がする…けど。


ーーー帰れるのかな。
ちゃんと。
僕が住む街に。
僕の家に。

帰れないと、それはそれで困る。
仕事もあるし。
僕の仕事は、僕だけでは形を成さない。
ピアノという、相棒がなければならないのだから。

ーーーーーなんだろう。
何か意味があるのかな。
今、僕がここにいる。
穏やかに鉄道に揺られている、訳が。






ーーーと、その時だ。








「ここ、いい?」


「ーーーぇ、?」





「座っていい?」

「あ、」

「他の席にひとりで居てもいいんだけどさ。なんかマジでこの鉄道誰もいないみたいだし」

「ーーーそぅ、ですよ、ね」

「そしたら君がいたから。ひとりだとつまんないし。ーーー相席、いい?」

「ーーーあ、はい!」





にっ、と。
その彼は人懐っこい顔で(でもちょっと意地悪そうな顔も見え隠れさせて)
笑った。






「俺はイノラン。君は?」

「あ、葉山…です。イノランさんですね、」

「よろしく。なんかね、俺どこまで行くのかわかんないんだけど」

「こちらこそ。ーーー僕もよくわからないんです」

「ハハハッ、なんだ」



同じ!って、彼はまた明るく笑う。
近い境遇で、親近感。


窓から差す光が彼の胸元のクロスに反射して鈍く光る。
明るい茶色の髪とか、笑顔とか、太陽みたいで。
他者の声とか音とか気配が、ここでようやく感じられて。
僕はなんとなく、ほっとした。















カタン…カタン…


カタン…









ぱしゃん…っ…





「ーーーーー海水なんだな」



イノランさんは半分ほど開けた窓から手を差し出して、跳ね返る水を手のひらで遊ばせている。
水滴で濡れた指先をぺろりと舐めると、しょっぱい!って言って笑った。

あまりにもどこまでも凪いでいる水面だから、一見すると海とは思えないのかもしれない。

天気がいいからな。
こんなに波もなく、穏やかな水面。




「ーーー気が付いた時からずっと天気が良いんですよね。青空で、暑すぎず寒すぎず。ーーー穏やかで」

「でも日が傾いてきたよな。なんとなくさ、午後の気配っていうか」

「夜になったらこの鉄道はどうなるんでしょうかね。何処かの停車場で停まってしまうのか…。それとも夜行列車みたいに走り続けるのか」

「ぜんっぜん、わかんないんだよなぁ。そもそもなんで俺ここにいんのかもわかんないしさ」

「ーーー同じです。ーーーそれもそうですし、帰れるのかなぁって、やや心配です」

「やや?」

「さっきまでは大いに困っていたんですけれど、イノランさんが登場してからちょっと気持ちに余裕ができました」

「ハハッ、同類が来たって?」

「そう、僕だけじゃないって」




こんな非常時?は、些細なことでも気持ちが安らぐ。
誰かがいてくれるだけでも、こんなに違うから不思議だ。




「でもさ」

「はい」

「見たところ辺りは海しか見えないし。店なんて何処にもなさそうじゃん?ーーーこの車両内にも何も無いしさ」

「…はい」

「腹、減らない?」

「!」



向かいのイノランさんは、お腹に手をあてて少々苦笑い。
…空腹なのかも。
っていうか、僕もそうだ。
なにも飲み食いしてない。



「ーーー確かに、このままだとそれは困りますよね」

「かなり」

「生命維持に危機が…」

「…海水じゃ飲めないしな…」



うーん…と。二人して思案する。



「次に何処かで止まったら、一度降りてみますか?」

「…降りても、結局周りが海しか無かったら降りる意味も…」

「…ですね」

「マズいね…」

「はい」




なす術なし。
ここにきて、焦りみたいなものが顔を出す。
ひとりだったら取り乱していたかも…





「ーーーーー雨でも降りませんかね」

「雨?」

「雨でも雪でもこの際いいです。海水以外の水を」

「ああ、なるほど」




そんな、サバイバル生活みたいな事まで考え始めた時だ。




ふわん。



「ぇ、」


一瞬香る、いい匂い。
香ばしい、焼きたての…







そして。







「ぁ、あのぉ…」

「ーーーーーえ、?」

「ここ、」

「っ…!」

「ーーーいいですか?」





イノランさんと、僕は。
目を丸くして通路側を凝視する。
ーーーいつからいたんだろう?


そこにはひとりの…



「ーーーここ、ご一緒してもいいですか?」



華奢だなって、まず第一印象。
肌が白い、綺麗な黒髪の。
はにかむ姿が…




「いいよ、もちろん!」



僕が現れた彼の観察をしている間に、イノランさんはサッと立ち上がって、窓際の席を彼にすすめた。
ありがとう、と。恥ずかしそうに微笑む彼は、僕の正面に座って。彼の隣に、イノランさんが座る。



ふわっと、彼が動くたびに香る。
爽やかな海の香りと、それから。



「ーーーパンの匂い…」




彼が大切そうに抱えていた物があって。
抱える程の大きさの紙袋。bakeryと書いてある。…多分、焼きたてのパン。
香ばしい香りが、空腹を刺激する。

ーーーえ。
車内販売とか?






「ーーーーーあの、あなたは」

「あ、ごめんなさい。お席を空けてくれたのに」

「いえ、」

「俺は隆一っていいます」

「隆一…さん?」

「はい!」

「そうですか、僕は葉山といいます。こちらの彼は…」

「ーーーーー」

「ぁ、えっと…。イノランさん?」

「ーーーーー」

「ーーーあの、イノランさん」

「え、あ。ーーーごめん、」

「…ぼんやりしてました?あの、隆一さんに自己紹介をと…」

「!ああ、そうだよな。ほんと、ごめん!ーーーえっと、俺はイノラン」

「よろしくおねがいします、隆一です」

「隆一」





ーーーどうしたんだろう?
イノランさん、ぼんやりしてる?ーーーって思った時。
ピンときた。
そうかって、頷いた。
イノランさんの表情が、さっきまでとちょっと違う。
隣に座る隆一さんを見る表情が、とても柔らかく優しい。


ーーーこれって、きっと。






「よかったら一緒食べませんか?焼きたてなんです」

「ーーー美味そう。」

「有り難いです!どうしようって思ってたので」

「よかった!」

「ーーーでも、隆一…隆は。なんでそんなもんを持ってんの?いつからこの車内にいたんだ?」

「ーーーん、それが…」

「?」

「よくわかんなくて…」

「え?」

「気がついたらここにいたんです。ーーー俺さっきまで、仕事の…」

「仕事?」

「はい。お昼の差し入れにって、一緒に仕事してる人たち用のパンを買って、職場であるスタジオに帰る途中…だったはずなんですけど、」

「…そのパンってわけですね」

「ーーーなんでこんなとこにいるのか、ちょっとわけわかんなくて暫く端っこの車両で呆然としてて」

「ーーーまぁ、そりゃそうだよな」

「で、ようやく冷静になってきて、車内を歩き回ってたらおふたりを見つけて、」

「そっか」

「ひとりじゃなくて安心しました」



にっこりと笑った隆一さんは、ふんわりした印象。
春の薄紅色の桜とか。
冬の粉雪の…やわらかな。

そしてそんな隆一さんの話を丁寧に頷きながら聞くイノランさんは。
相変わらず、優しい眼差しで彼を見ていた。








隆一さんがくれたパンは美味しかった。
それから袋の底から取り出したパック入りのコーヒー牛乳も。
お世辞じゃなく、今まで食べた中で一番に。
それに同意を求めてイノランさんに言ったら、彼も大きく頷いて。
そんなやりとりを見ていた隆一さんは、良かった!と言って微笑んだ。









あたりは日が落ちて、夜の気配。
じっと車窓から外を眺めていた隆一さんが、空を見ながら…あ、と呟いた。






「ーーー雨」

「え?」

「ほら、見て」




隆一さんが指差すのは、車窓。
そこにパラパラと小さな水玉。
一瞬、跳ね返った海水かと思ったけど、これは空から降ってくる。




「ーーーほんとだ、雨だ」

「ね?」

「ここにきて、初めて天気が変わったな」

「うん」




初めシトシトしていそうな雨だったのに、鉄道が進むごとにその雨脚は強くなる。


さああああ…


という、新たな音が加わった。








「ーーーーーぁ、ふ…」



隆一さんが、窓の外を見ながら小さく欠伸した。
眠そう…。
でも、それはそうだ。
こっちへ来てから、気持ちの休まるタイミングも無いだろう。




「眠い?」

「ぇ、え…ぁ」

「寝てていいよ。ーーーほら、」

「え」

「肩貸してあげるからさ」

「ーーーーイノラン、の?」

「いいよ」

「っ…」



うっかり、目の前で繰り広げられる様子に。
ちょっと照れくさくなってしまったのは内緒だ。

















カタンカタン…カタン…

カタンカタン…








夜の海。
雨の夜。
鉄道の黄色いライトだけが、青と黒の景色の中に光の線を放つ。



「静かな夜だなぁ…」



ポツリと呟いた独り言。
誰に聞かせるわけでもないのは、向かいの二人は眠ってしまっているから。
眠たげな隆一さんに肩を貸したイノランさんも、程無くして眠ったようだ。
二人肩を寄せ合って眠る様子は、出会ったばかりとは思えないくらいに仲むつまじさを感じる。

ーーーまるで恋人同士みたいだ。





「っても、イノランさんはきっと、」




きっと。
恋に落ちたっていう瞬間を、僕は見たと思うから。




「ーーーーー見てしまったものなぁ…」












カタンカタン…


カタン…




「それにしても…」

「ほんと、どこまで行くんだろう」




終着駅が、この鉄道にはあるのだろうか。
景色ばかりが美しい。
この鉄道。
穏やかな晴天や、暮れ行く夕日や、夜に降る雨。
空の移り変わりをじっくりゆっくり観察して堪能するには、この鉄道はもってこいかもしれない。


「ーーーーー空…。天気、か」



住んでいた街にも、それらは確かにあったけれど。
建ち伸びる建物で、その空は切り取られて歪だった。
こんなに何も障害の無いまっさらな空の景色。



これってある意味すごく…





「贅沢なのかもな、」




鉄道という特等席から、空を味わうために。
例えば目の前にいる、(もう恋人同士みたいな) 二人の時間を重ねるための。



この鉄道は。そんな意味を持っているーーーーー?







カタンカタン…


カタン








「ーーーぁ、」






そんな事をとりとめなく考えていたら、急に…だ。







トンネルを出たみたいに。
今まで雨の夜の景色だった外が。




「っ…」



眩しくて。
昇ったばかりの太陽みたいに。


僕は思わず、ぎゅっと目を瞑ってしまった。






















「ーーーーーーー…や…くん」



「葉…」





誰だろう?
鉄道の中にいるはずなのに。
唯一の乗客の二人はよく眠っているし。




ここは、天気と海だけの場所なのに。






「葉山っち!」

「ーーー寝ぼけてる?」

「ーーーーーーーーぅ、」

「葉山くん?ヘイキ?」

「ぁ、」

「リハ、始まるよ?」

「ーーーーーーーーーはい、」







眩しい眩しいと思っていた目をゆっくり開けると。
そこは慣れ親しんだ、いつものスタジオ。
僕の顔を覗き込んでいたのは隆一さんとイノランさん。

あの凪いだ海と空と鉄道は…


どこにも無い。







「ーーーーー戻ってきたんだ。ーーーーーーーそれか、夢?」



あまりに心地いい時間だったから、その感じがまだ思い出せる。
イノランさんと。隆一さんと。
僕と。

三人での鉄道旅。





「あ、それって、」





この僕たちの、ユニットみたいな時間だった。




鮮やかな天気の空は。
色合いを変える僕たちの音楽によく似てたから。








end






.
1/27ページ
    スキ