白と黒の羽根の重なる場所で
「ーーー好きなひと?…悪魔の…って、」
「ーーー」
「隆一さん、それはどうゆう…」
葉山が困惑しているのがわかったけれど。
でももう、誤魔化したり隠したりはしたくないと思った。
「俺、魔界へ行ってきたんだ」
「ーーーいつ、」
「先日。葉山っちと世界樹の観察に行かなかった日があったでしょう?」
「ぁ、」
「あの日。上から下の世界を覗いていたら行きたくなっちゃったの」
「行きたくなったって言っても、そんな簡単に…」
「行けちゃったんだ。幹伝いに降りて行ったら、魔界に降りられた。ーーーそこでね、悪魔のひとの…」
「ーーー」
「イノランっていうひとに出会えたの。見張りの鳥達に襲われてた俺を助けてくれて、安全な家の中に入れてくれて…」
「ーーー」
「ーーーすごく、優しくしてくれた」
「ーーー」
「全然怖くなかった。こっちに戻らなきゃいけなくなっちゃったから、ゆっくり話すことはできなかったけど、」
「ーーー」
「イノランは言ってくれたんだ。会いに行くよって」
「…ぇ、」
「世界樹のそばで待っててって。会いに行くからって」
「ーーー」
「あの時一緒にいられた時間はほんの少しだったけど、でもね」
「ーーー」
「俺もまた会いたいんだ。ーーー会って、今度こそゆっくり会って、」
「ーーー」
「伝えたいんだ」
あの時はありがとう。
また会えて嬉しい。
別れたすぐ後にはもう会いたいと思っていたから。
次に会えたら伝えたかった。
好き、と。
「ーーーだから俺は、前よりももっと長い時間ここにいたいんだ。イノランがいつ来るかもしれない。俺がいない間に来てくれて、待たせてしまうかもしれない」
「ーーー」
「出迎えてあげたいから」
葉山に打ち明けた隆一は晴々していた。
悪魔であるイノランと会いたいと望むことは、誰もが受け入れてくれるのものではないとわかっているから。
でも隆一にとって一番身近な存在である葉山に打ち明けられたことはとても重要な事なのだ。
「ーーーーーはぁ、」
暫しの沈黙ののち。
葉山の溜息がもれた。
しかしそれは落胆を含んだものではなくて、呆れの感情が大きかったかもしれない。
呆れと、苦笑。
やれやれ…。
そんなため息。
「会うなって言っても会うんでしょう?隆一さんは」
「!」
「ーーーその、悪魔の方も。来ないでくださいって言っても、あなたに会いに来るんでしょう?」
「ーーーっ…」
「反対する理由なんて僕には無いです。だってこれは隆一さんの事だから」
「ーーー葉山っち、」
「ーーーこれで世界樹が枯れたとかなら話は別ですけど。今はその反対、明らかに木は成長しているし、蕾は開いてきている」
「ーーー」
「隆一さんが魔界に行ったタイミングで、です」
「ーーー」
「絶対関わりがあると思います。隆一さんが魔界に降りて悪魔と関わりを持った。ーーーきっと、」
「ーーー」
「世界樹もそれを応援しているって思います」
「!」
にこっ。
葉山が見せてくれたのは隆一が見慣れた葉山の微笑み。
それが嘘ではなくて本物だって事は、長年の付き合いでわかる。
「僕も同じです。このまま世界樹の成長も見守って、どんな花が咲くのか見てみたい。それにはきっと、隆一さんが必要なんです」
「ーーー俺?」
「天界と魔界。これがひとつになる事もゆめじゃないかもしれませんよ」
葉山が上を見上げて、葉先の蕾に視線を向けた時だ。
「俺もそう思うよ」
ばさっ、
大きな羽音を響かせて。
白い光が注ぐ天界の世界樹の下に降り立った黒い影。
隆一は。その聞き覚えのある声と艶やかな黒い影に胸を高鳴らせた。
「ぇ、」
バサッ、バサ。
降り立った姿を見て、葉山は怖がるどころか目を見開いた。
その黒い羽根の大きさに。
真っ黒な格好は寧ろ、彼にとても似合っていると思った。
隆一は、瞬きどころじゃなく。
その彼から目線が外せない。
だってそれはそうだろう。
会いたかったのだから。
「ーーーーーーイノラン…?」
「隆ちゃん。久しぶり」
「ーーーっ…」
「…つか、先日ぶりだな」
「っ…、う、うん!」
「約束通り、会いに来た」
「ーーーうん、」
イノランがいる。
本当に天界まで会いに来てくれた。
そう思うと、驚き半面。嬉しくて、照れくさくって。
そして、そうだ葉山に彼を紹介しなくてはと振り向くと。
さっきまでここに一緒にいた葉山の姿が無かった。
あれ⁈と、隆一は辺りを見回したけれど。
世界樹の観察ノートも一緒に消えていたから、これは葉山が気を利かせてくれたんだと気が付いた。
自分には気をつかわずに、会いたかったひとと話をしてください、と。
(ーーーありがとう、葉山っち)
でもその内きっと。葉山にもイノランを紹介したいと思うのだった。
「ーーー隆、?」
「ぁ、」
もの思いに耽っていたら、ハッとした時に目の前にイノランの顔があって隆一はヒクンと肩を震わせた。
(ーーーびっくり…した)
(いきなり目の前にいるんだもの)
(ーーーっていうか、イノラン…)
隆一は視線を彷徨わせてしまう。
直視できなくて。
「ーーー格好いい…」
「ん?」
「ぇ、?…ぁ」
「隆?」
「ぅ、ぅうん!ーーーあの、」
咄嗟に誤魔化した。
漆黒に包まれたイノランが、とても素敵で。
この光に溢れた天界で、黒を纏う事は無いに等しい。
天使たちは白い羽根に揃えて、白い服が基本だから。
「隆ちゃん、」
「ーーーイノラン、」
「会いたかった」
「ーーーぁ、」
「あの日から、ずっと」
「約束通り、ちゃんと用意してきたよ」
「ーーーー用意…?」
「そう。あの時はばたばた急かされてて、そんな雰囲気もつくれなかったしさ」
「そ、だね。ーーーね、あの後大丈夫だった?大変な目に遭わなかった?」
「ああ、平気だよ。今思うとあんなに急いで隆ちゃんを逃す必要もなかったくらいで」
「え?」
「まぁ、そんくらいなんて事なかったってこと。ーーーでもね、一度離れたからこそ、気持ちをちゃんと見直せたっていうかね」
「っ…イノランも?」
「ーーーーーこれ、」
「ぇ、?」
ポケットを探ってイノランが大切そうに取り出したのは純白のひとつの羽根で。それはイノランの部屋に落としてきた隆一の羽根だ。
「わかるか?隆の羽根だよ」
「…ん。」
「ずっと大事にしてた」
「俺も、イノランの羽根。ーーー身体につけて帰ったみたいで、」
「!」
「ーーー俺も大事にしてる。だってとっても綺麗だし」
「ありがとう。それを言うなら隆の方だよ。白い羽根って、やっぱり特別って思うよ」
「ーーーそっかな」
「うん」
イノランは羽根を大事そうにしまうと、隆一に向き直ってちょっと真剣な顔でいいはじめた。
一文字ひと文字、隆一へ伝わるように…
真っ白な天界の光の下で見るイノランは、ブラウンの髪の縁が透けて光って。
隆一は、思わず目を細めて見つめた。
ここは天界。
悪魔はいない。
ここにいる者は皆、白い羽根と白い衣に身を包む。
だからそれとは正反対の格好をしたイノランは目立つだろうなぁ…とか。
誰かに見つかって騒がれる前に匿ってあげなきゃ。自分が魔界に降りた時にイノランがそうしてくれたように…とか。
考えて行動しなきゃいけない事はいっぱいあるだろう、けれど。
でも。
「ーーー隆一、」
「…うん」
「今更だけど、さっき一緒にいた彼はいいの?」
「ーーーぁ、葉山っち…?」
「俺が来たから…悪いことした」
自分が現れたと同時にその場を去って行った葉山を、イノランは気にしていたのだろう。隆一から視線を離さずに、一歩一歩距離を詰めながら訊ねてくる。
重なる視線は真剣で、そらせなくて。
胸がきゅうっと詰まって。
隆一からしたら、葉山の名を口にするので精一杯だった。
「ーーーだいじょ、ぶ」
「ーーー」
「大丈夫」
「ーーーそっか、」
大丈夫、という言葉だけでは上手く伝わったかわからないけれど。それでもイノランは口元で微笑んで、頷いてくれた。
「そっか、」
そしてもう一度頷くと。
そっと手を伸ばして、前みたいに、隆一の白い羽根に触れた。
ぱさっ。
ぱさ、ぱさ。…ひら…
隆一の肩が小さく震えたのにつられて、羽根も小さく揺れる。風が葉を揺らすようなささやかな音をたてて、隆一の羽根はふわふわと羽ばたきをする。
このくらいの羽ばたきでは舞い上がることはできないけれど。
イノランの心をざわめかせるのには、じゅうぶんだった。
「ーーーやっぱり、すげぇ綺麗」
「ぇ、?」
「魔界で見ても、ここで見ても。ーーー隆ちゃんはさ、」
「ーーー」
「すごく綺麗。天使中の天使って感じだ」
「っ…中…?」
「そ」
「ーーーっ…じゃあ、イノランも」
「ん?」
「悪魔中の悪魔。すごく格好いいもの」
「ーーー中…。ーーーマジで?」
「ぅ、うん!この間魔界であった時も素敵だったけど、今はもっと、さらに」
漆黒の仕立ての良い服装に身を包むイノランは格別だった。
でもそれは、イノランもめかし込んで来たのだから。
「ーーー隆に会うためにさ」
「ーーー」
「今日は隆に、ちゃんと伝えなきゃって、思ったから」
「ーーーっ…」
「ーーー早朝から、かなり気合い入れた」
「…ぅ、ん」
いつの間にか、二人の距離は触れ合うほどに近く。
二つの世界を見下ろす世界樹の巨大な幹は、隆一の背を受け止めた。
もうこれ以上隆一が後退できない場所で、イノランは隆一の手をするりと絡め取ると、世界樹の幹にやんわりと押さえつけた。
「っ…ぁ、」
逃げ場も片手の自由もイノランに奪われて、隆一は真正面が見られなくてとっさに俯いた。
見ず知らずの誰かにこんな事されたら恐怖しか無いだろうが、今はそうじゃなくて。
イノランにされる拘束が、この先の期待と照れで隆一を落ち着かなくされる。
「ーーー隆、」
「っ…」
「こっち見てよ」
「ーーーっ…で、でも」
「隆。…ーーー俺のほう、」
「ーーーーーーっ…」
「見て?」
請われて。
さっきまでとは全然違う、甘い声音のイノランの言葉で。
隆一は震えてる唇をぎゅっと噛み締めて、意を決して視線を上げた。
ーーーその、瞬間に。
「好きだよ」
「ーーー…ィ、」
「ーーーもぅ、この前から。ーーーずっと。隆のこと、忘れられなかった」
〝恋しないんですか?隆一さん〟
いつかの葉山に言われた言葉を、また思い出す。
あの時は急ぐものではないと思っていたことだったけれど。
ーーー今は、
今はどうだ?
目がそらせない。
捕まえられた手を振り解く事もできない。
言葉にならない。
声が出ない。
どくどくと、心臓の音しか聞こえない。
ーーーー打ち震える心で、脚が震える。
それをそっくりそのまま葉山に伝えたら、微笑まれて喜ばれそうだ。
〝隆一さん、恋してますね〟と。
ーーーが、実際はそんな悠長にしている場合ではない。
「隆、」
イノランとの距離がぐんぐん狭まる。
きっともう躊躇もするつもりもないのだろう。
気持ちを決めて、境界を越えて会いに来てくれたのだから。
「ーーー隆、」
「ぁ、」
「急かしたくないし、慌てるもんじゃないってわかってる…けど、」
「ーーー?」
「ーーー返事、くれたら嬉しい」
「っ…返、事」
「ん、」
好きの、その答え。
イノランは待っている。
一見、平静に見える彼だけれど。
隆一にはわかってしまった。
(…ぁ、イノランの、手)
熱く温もりを帯びて、震えている。
イノランも緊張しているのだ。
好きになったひとに好きと伝えて、その返事をじっと待つ。
簡単なようで、すごく覚悟も勇気も愛情も必要なのが告白だ。
それを真っ直ぐに見つめて実行してくれたイノランに。
きちんと自分の気持ちも伝えなければ、と。隆一も覚悟を決めた。
「ありがとう、好きって、言ってくれて」
「ーーー」
「嬉しい」
「ーーー」
「…すごく、」
「ーーー」
「ーーーーー俺も。好き」
「ーーーっ…」
ばさっ、
隆一の答えを受けて、イノランの黒い羽根が隆一を包む。
好きなひとを抱きしめるのに、両手だけでは足りなくて。
隆一は目を閉じた。
イノランに抱き寄せられて。
悪魔の羽根に包まれて。
それがあまりに心地良くて。
「ーーーすごいね」
「…何が?」
「イノランが」
「俺?」
「うん」
「ーーー何が、?」
「ん、あのね?ーーーこうしてくれてると、気持ちよくて。何も怖いものなんてないって思える」
「ーーー隆」
目を閉じてぎゅっとイノランの胸に擦り寄る隆一。
こんな事今までした事もないのに、こんな場面ではこうしたいと自然と思えるのが不思議だった。
そして隆一は、イノランに話して聞かせたいと思った。
世界樹のこと。
「ーーーイノラン、」
「ん?」
「あそこ、世界樹の葉っぱの…上の方にね」
「ーーー世界樹?」
「そう。ーーーここからはよく見えないんだけど、蕾が生まれたの」
「ーーー蕾?」
「ーーーん。…蕾ができるって、初めての事で。俺は…さっき一緒にいた葉山君と世界樹の観察を任されていたの」
「ーーー」
「ーーーでも、ずっとずっと何の変化も無くて。硬くて青くてまん丸の蕾のまま。それがずっと続いていたんだけど…」
「ーーー」
「ここ数日。急にね、蕾が緩みはじめたんだ」
「ーーーん、」
「急に何でだろう?って、二人で不思議がってたんだけど…。でもね、なんかわかった気がして」
「ーーーわかった?」
「ーーーん。蕾が変化を始めたわけ。俺が魔界に降りた頃から変化が始まったみたいで…。それってね、」
「ーーー」
「俺が魔界に降りて、そこで初めての悪魔の…イノランに出会えて。天界と魔界、天使と悪魔が重なった瞬間なんじゃないかって思えて。ーーーだとしたら、世界樹はそれを待っていたんじゃないのかな…って、」
「ーーーーー天使、と」
「うん」
「悪魔が…?」
「ーーーぅん、」
「ーーーーー隆と、俺」
「ーーー」
「ーーーって、事か?」
「ーーーっ…うん」
出会えた事は偶然なんかじゃ無くて。
二つの世界の境界を越えたいと願っていた二人が出会えた事は、きっと必然で。
世界樹は、そんな二人が出会う事を待ち望んでいたのだと。
天界と魔界。
天使と悪魔が同じ世界で暮らせたら。
お互い知らない互いの世界を知る事が出来て、出会うべきなのに出会えていない者同士が出会えたり。
認め合って、受け入れて。
閉鎖的ではなく、もっと世界が広がる気がする。
「ーーーホントだな」
「ぇ?」
「俺も思うよ。その通りだと思う」
「イノラン」
「幸運にも俺はさ、こうして隆のそばにいられる。ーーーでも、それは最初に隆が勇気出して魔界に来てくれたお陰で出会えたわけだし。ーーー来てくれても、俺と隆が出会えたのだって色んなタイミングが合ったからだし」
「うん、」
「俺らみたいに、世界が違っても出会うのを待ってる奴らがたくさんいる気がする。ーーーそれなのにこのまま世界が分かれていたらさ、出会えないまま終わっちまうって事だろ?」
「ーーー…ん」
ぎゅっと、イノランに縋り付く隆一の指先が彼の服の裾を握り締める。
ーーーちょっと怖くなったのだ。
出会えたから良かったけれど。
イノランに出会えないままの一生も有り得たのだと思うと。
「っ…」
そんなのは、もう今更無理だと首を振る。
だって心奪われてしまった。
夜空に溶けるような漆黒の彼に。
自分には無い、艶やかな悪魔の羽根。
でも、とても優しい悪魔。
「ーーーそんなのやだ…」
「ーーー隆、?」
「やだよ…」
ぐす。
「ーーりゅ、」
鼻を啜る音と、潤んだ声で。
イノランは、隆一が泣いているのだと気がつく。
もしも出会えてなかったら…?というもうひとつの自分達の在り方を想像して。
涙を零している。
「ーーー隆、」
イノランは、隆一の涙を見るのは二度目だな…と微笑みながら。やっぱり綺麗だと思える隆一の涙にも見惚れつつ。
泣く程に想ってくれる事に、震えるほどの喜びが込み上がる。
ーーーでも、その想いはイノランも同じなのだ。
泣く事はせずとも、激しい気持ちでぐちゃぐちゃになりそうだ。
隆一を愛したいという想いだ。
「ーーー隆」
「…ん、」
「じゃあ、もっと成長させればいいよな」
「っ…?」
「世界樹。花が咲くくらい養分をあげて。二つの世界の境界をぶっ壊すくらい、世界樹を成長させたらさ」
「ーーー!」
「もう、魔界も天界も関係ない。天使と悪魔が一緒になれるんだから」
隆一は目を丸くしてイノランを見つめる。
ぱちぱちと瞬きする目元は涙で濡れていて、イノランは苦笑して指先でそれを拭いてやった。
「ここで」
「…ぇ、」
「お前を愛してあげる。ーーー隆、」
「っ…イ…」
「世界樹に必要な養分。ーーーきっと、」
「ーーーーーぁ、」
「俺らがあげられるんだ」
俺らしか、できないんだ。
ーーーそう言いながら。
イノランは隆一を抱き上げると、世界樹の蕾があるという葉の茂る上を目指して羽ばたいた。
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