白と黒の羽根の重なる場所で














天使と悪魔。


果てしなく広い天界に暮らすのは、白い羽を背に持つ天使。

広大な魔界の隅々までを統治するのは、黒い翼を背に持つ悪魔。



二つの世界は隙間に強固な壁を隔てて、天と地とに分かれていた。
ーーーもうずっと…何千…何万年も前から。
もしかしたらこの二つの世界が出来上がった瞬間からそうだったのかもしれない。




見た目には何も見えない壁だった。
手を伸ばせばすり抜けられそうな程にクリアな壁。
天界と魔界を分けるもの。
硝子のようで、氷のようで。
力づくで壊してしまう事も出来そうだと思えるような、その壁は。
しかし触れるだけで、その者身体を傷付けてしまう強固で強力な力が込められて張られたもの。
下手をすれば命を落としかねないその境界の壁には。
天使も悪魔も、敢えて近付こうとする者はいなかった。





実際にその姿を見たことは無かった。
出会う機会ももちろんなかったし、出会う必要も無いとされて教えられて大人になるのだから。
天使も悪魔も。
お互いの本当の姿を知らない。
学校の教科書に初めて、その姿が小さく載るくらい。




「天使」

「悪魔」



それはどんなひと?

誰もが一度は疑問に思う、互いの存在。
敵対しているのか?
これ程の長い時間、世界を隔て続ける理由はなんなのか?
白い羽根はどんなだろう?
黒い翼はどんな?

そんな疑問は一度は浮かぶが、大人になるにつれ、それへの興味は薄れていって。
互いの存在は、遠く…遠く…。










天使の隆一。
悪魔のイノラン。


この二人も、例に漏れず互いの存在は知らなかった。
天使、悪魔。
その違いの興味は無いわけではなかったが、そもそも出会えないのだからどうしようもない。


ーーーどうしようもないと思っていた。




世界樹の。
この世界でたったひとつの、二つの世界の壁の隙間が存在する場所で。
全てを視界におさめることは不可能な程に大きく高い樹の、その場所で。


天使と悪魔。
隆一とイノランが出会うまでは。











隆一は天使だった。
生まれた時から、その背には白い羽根が生えていて。
ちんまりと、自身を宙に浮かすのに精一杯だった子供の頃の羽根から比べると、大人になった今では堂々としたものに変化していた。

美術館で微笑む天使の像のように。
教会のステンドグラスに象られた、慈愛に満ちた天使のように。

大人になった隆一は、元々併せ持つその性格も重なって。
控えめだけれど、ほぅ…と見惚れてしまう魅力をもっていた。


そして。
隆一は歌う。
歌をうたう。

天使の歌は祝福で、その歌声には喜びや祈りが込められていた。









「葉山っちー」




隆一はピアノの前で譜面とにらめっこしている葉山に声をかけた。
葉山も天使。
というか、隆一のいるこの天界の世界には白い羽根を持つ者しかいない。
ピアニストである葉山の背にも大きな翼がはえてえいる。

葉山はじっと眺めていた譜面から漸く顔を上げると。
声の方の隆一を振り返って、にっこりと微笑んだ。





「はい、隆一さん」

「すごく熱中してたね。ーーーちょっと休憩しない?」

「あ、」



隆一に言われてピアノの上に置いた時計を見ると、ここへ腰掛けてから随分時間が経っているのに気がついて。葉山は、そうですね。と、ピアノの前からやっと立ち上がった。








「ーーー進みましたか?」

「ん?」

「曲」

「ーーーああ、ぅん…」

「…イマイチですか?」

「ーーーーーーーあぁ。…ぅん、」




歯切れの悪い隆一の返事に、葉山はちょっとだけ目を丸くして。
それから宥めるようにもう一度微笑んだ。




「根を詰めるのは良くないです。ゆっくりやりましょう?」

「ーーーん、」

「僕も自分の方がひと段落したらお手伝いします」

「ん、ありがとう。ーーー」

「ーーーーー」

「ーーーーー」

「ーーーーーーーーーーなにか思うところがある感じですかね?」

「ーーーーーう…ん。ーーーなのかなぁ」




隆一と葉山は。
音楽が仕事だった。
隆一は歌。
葉山はピアノ。
その秀でた能力をかわれて、ある大きな仕事を任されていたのだ。


それは世界樹の管理。
魔界の地に根付いた巨大な樹は、何億年…もっともっと…気が遠くなる程の時間をかけて天界まで成長して。
ついにはその二つの世界を隔てる壁を突き抜けて、天界に広く葉を茂らせたのだ。

ーーーその、唯一。
二つの世界を隔てる壁に、僅かながらの隙間が生まれた場所がこの世界樹の幹の周り。
樹の成長とともに、ゆっくりだけれど、壁も少しずつ押し広げられていって。
それにより隙間が、ここにだけ存在する。

二つの世界にとって、それは最も警戒するべき場所で、最も危険に満ちた場所でもあって。(いつ天使と悪魔が鉢合わせになるかわからない)
普通に暮らしている者なら誰も近寄らない、未踏の地のようになっていた。


そんな世界樹に。
ある日。
ぽっ、と。
ひとつだけ、蕾ができた。

まだまだぎゅっと押し固められたような、青く硬い蕾。
ひとの拳程の大きさの、たったひとつの蕾。
今までの記録で、そんな蕾が生まれたことはたった一度も無かったのに。
それが何を意味しているのか。
この蕾が開いたら何が起こるのか。
それは誰にも分からず。

だれも恐れて関わろうとしない、その蕾の観察と、世界樹の管理。

それを任されたのが、隆一と葉山だった。











悪魔にその蕾の存在が知られる前に、その秘密を解き明かしてほしい。

隆一と葉山がこの天界を統治する者達に呼ばれて告げられたのは、そんな言葉だった。
大きく成長した世界樹が葉を茂らせているのは天界の領域。
蕾も、その枝の先端につくものだから、当然天界の領域にそれはある。
それ故に、悪魔はまだその存在を知らない。
天界側も、それを敢えて告げず。寧ろその存在を隠すように極秘裏に調査を始めることにしたのだ。


敵対しているわけではない。
けれども、友好的、協力的に手を結んでいるわけではなかった。
天界と魔界。
天使と悪魔が隣同士に並んだことは、もう長い間無い事だった。









「ーーーあのねぇ、葉山っち」

「はい」




漸く休憩、と。
世界樹を目の前にティーカップを傾ける二人。
屋外だからテーブルなど無いが、小さなシートを広げて簡易的な寛ぎスペースを作って座り込む。
葉山が持参したミニバスケットの中には、チョコレートやタルトが鎮座する。
世界樹の観察に毎日通う二人は、いつもこうしてティータイムをとるのだった。




ぱく。

むぐむぐ。




ラズベリーの乗ったミニタルトを頬張る隆一は、美味そうに口元を綻ばせながらも眉間には皺を寄せる。そんなアンバランスな表情を見ながら、葉山は肩を竦めて。



「隆一さん、付いてます」

「む、」



ペーパーナプキンで、ベリージャムの付いた隆一の頬を拭ってやった。



「ーーー美味しそうにするか、悩むかどっちかにしてください」

「…ん、」

「詞ができなくて悩んでるんですか?」

「…ちがう」

「ーーーじゃあ、メロディーの方?」

「ぅうん、ちがうの」

「ーーーーーーーじゃあ」

「ーーーーねぇ、葉山っち」

「はい」



さっきと同じやりとりだと思いつつ、葉山は隆一の言葉の続きを待った。
隆一の白い羽根が飛ぶでもなくぱたぱたと羽ばたきをする。
そんな時はいつも、彼が言葉にしたい気持ちを持て余している時だと葉山は知っていた。


気持ちは胸に。
しかし言葉にしたい想いはすでに羽ばたいているかのように。









「ーーーーーなんでダメなんだろうって、思うんだ」

「…ああ、」

「ーーー」

「ーーーーーーー世界樹…ですか?」

「…うん」



コクンと頷く隆一を見て。
葉山は小さくため息をつきかけ…飲み込んで。
いつもの想いか…と、頷いた。




「ーーーいっつも思うことだけど。なんでダメなんだろう。なんで教えちゃダメなんだろう?」

「ーーー」

「悪魔のひとたちに、なんで教えちゃいけないんだろう?」

「ーーー…」

「根付いてるのは魔界の土なのに。それが無ければ、天界にまで成長することも不可能なのに。俺たちばかりが、秘密を握ってるみたいで…。ーーーーそれってさ、」

「ーーーはい」

「ーーーーーずるいな…って、」

「ーーーーーそうですね」





ここへ来るといつも隆一の胸にこみ上げる想い。
世界樹の秘密を天界ばかりが独り占めしているような罪悪感。
敵対していないのなら。…仮に敵対していたとしても、両方の世界に跨がる世界樹は両者が自由に触れられるものの筈なのに。
それができないもどかしさ。
いつもそれが隆一をモヤモヤさせた。






「ーーーねぇ、葉山っち」

「はい」

「葉山っちはさ、ある?」

「?…何がですか?」

「ん?ーーー何って、」

「ーーー」

「会ったこと」

「…ぇ、」

「ーーーーーー悪魔のひと、に」


「ーーーーー隆一さん…」






唐突な質問に。
葉山は思わず目を見開いて隆一を凝視した。

悪魔に会ったことはあるか?

それはもちろんNOだ。
そもそも会える機会は無いし、二つの世界を隔てる壁が、会えないようにしているのだから。




「会ったことはないです。あるわけないじゃないですか」

「ーーーん、だよね」

「生まれた時から、僕達はそうゆう環境にいたでしょう?」




会えない。
姿も見られない。
話せない。
触れ合えない。
心を…通わす事も…






うたう歌も天使の歌。
清らかで、明るくて、光に満ちて。
これが正義。
ーーーそんな歌ばかり。

作曲もするけれど、幼い頃から聞いてきた音楽がそれだから。
それ以外を知らない。




「ーーー生まれた時からこの世界にいたから」

「ーーー」

「この世界しか知らないから…」





けれども隆一は、それが少し窮屈だった。
音楽は大好きだけれど。
幼い頃から聞いてきた音楽も大好きだけれど。


この世界樹の仕事を請け負ってから。
唯一、二つの世界に僅かな隙間をつくるこの世界樹に日々通うようになってから。





「葉山っち。ーーー俺はね、」

「ーーー」

「内緒だけど。バレたら怒られるどころか大変な事になりそうだけど」

「ーーーーーはい、」

「ーーーーー会いたいんだ」

「ーーーーー」





隆一が微笑んでいる。
その表情がすごく綺麗だと葉山は思った。

白い羽根を羽ばたかせて、そのまま魔界まで降りていきそうな。






「ーーー悪魔のひとに、」
















世界樹の観察は隆一と葉山の日課だ。
まだまだ解明しきれていない事が多い、この世界樹の生態や成り立ち。
ふとした事で何が起こるかわからないし、何が判明するかわからない。
だから日々休まずに世界樹の元を訪れる。


ーーーとは言ってもだ。

世界樹といえども、植物であり樹であるのだから。
そうそう大きな変化を日々発見できるわけでもない。
世界を跨ぐ程の大きさもあるから、ちょっとやそっとの成長は気付けない。
しかも肝心の蕾ときたら、ぎゅっと固まってビクともしない。




「ーーーこれって本当に蕾なのかなぁ…」



ツンツン、と。
隆一は唇を尖らせて、青く丸い蕾を指でつついた。
つついても変化無し。
じっと観察すれば、薄いガクが何層にも重なっているのが見えるから、植物であることには間違いなさそうだけれど…。
あまりにも丸く固まっているから、隆一にはそれが卵かボールにも見えるのだった。



ばさっ…


隆一は羽根を羽ばたかせて、蕾が付く樹の上の方から降り立った。
観察を終えて、それをノートに記録する。



「変化、無し。…と」


変化無し。
変化無し。

葉山と交代で書き綴る観察記録は、何ページ遡っても書いてある事は同じだ。
変化無し。
そう、ずっと変化が無い。
二人がこの仕事を任されてから、ずっとだ。





「…はぁ、」




パタン、とノートを閉じて。
隆一は世界樹の幹に身体を預けた。
世界樹の幹といっても、隆一が寄りかかるのは太く背の高い世界樹の真ん中より上の方だ。
ちょうど幹の真ん中あたりに、世界を分ける透明で強固な壁が張り巡らされているから、この下を覗けば魔界が見える…



「…けど、今日は見えないな」



魔界の空は晴れることがない。
常に薄く暗雲や霧がかかっていて、世界を隔てる壁が無色透明でも、天界から魔界を見る事はなかなか難しい事なのだ。




「ーーーあーぁ…」



隆一は残念そうに呟いて、再び幹に寄りかかる。
いつもは、どうしました?と返事をくれる葉山も今日はいない。
彼は今日はピアニストの方の仕事でこちらには来られないのだ。




「ーーーつまんないの」



ひとりでティータイムをしたって仕方ない。
誰も好き好んで来ようとしない世界樹の周りでたったひとり。
話し相手も今日はいないし、世界樹は相変わらず変化が無いし。



「ーーー」



ーーーこんな時。
隆一はいつも思うのだ。



「会えないのかな」



この先も、ずっと。
この世界の下にも、もう一つの世界があって。
そこには沢山の、まだ会ったことのないひとたちがいるのに。

羽根の色が違うだけ。
白と黒。
それだけなのに。




「どんな音楽があるんだろう?どんなひとがいるんだろう?」



ひとりでこの世界樹を訪れる時。
隆一はいつも、この世界の下を覗きたくて仕方がなくなるのだ。







トクン。



「…ぇ?」



隆一は、ハッとして顔を上げた。
何か聞こえた気がした。
それはたった今自分が観察していた、蕾の方から。



「ーーー気のせい?」


しかし。




トクン、トクン…



「違う。ーーー今度はちゃんと、」


小さな鼓動のように聞こえた。
やはり、蕾の方から。



トクン、トクン
トクントクン…トクン…



「ーーーーーぁ、あ…」



ふんわり、やんわりした光が蕾のあたりで光って見える。
隆一は見上げながらもそれから目が離せずに。
じっと。
そこを見つめ続けていると。



とん、と。
背中を押された気がしたのだ。
それは実際に触れて押されたという意味では無く。
ーーーー勇気をもらえた…という意味でだ。




「ーーーーー行って、」

「おいで、って?」

「この世界の、下の…世界に」

「ーーーーーー魔界、に?」




ひとつ、ひとつ。
言葉を確かめながら、隆一は誰に言うでもなく、自分に言い聞かせるように、言葉を口にしたら。
それを言い終わる頃には、気持ちが決まっていた。




「ーーーそうだ、そうだよね」

「行けばいいんだ」

「会いに行けばいいんだ」

「このままずっと、知らないまま」

「後悔するのは嫌だもの」

「だって行く方法は知ってる。それは見つけた」

「世界樹の隙間から、壁をすり抜けて」




ばさっ…!


隆一は思い切り、羽根を広げた。





「会いに行けばいいんだ!」












魔界は広大だ。

それを言えば、天界も引けをとらないけれど。
どこまでも光に包まれて、あまり目立つ建物や地形が存在しない天界に比べると、魔界は様々な地形が存在していた。
山や崖や森。
湖、海、川。
それから人びとが密集する街。
小ざっぱりとした天界に比べると、そのヴァリエーションから広大に感じるのかもしれない。





パシャッ。




昨夜は雨が降った。
イノランが歩く森の側の道も、至る場所に水たまりができていた。


バシャッ。
ビシャン。


しかしそれを避けようとはせず、景気良く水たまりを踏みつける足元は優雅な革靴だ。
先端にいくほど細く尖るドレスシューズは、イノランによく似合う。
足首が僅かに覗くくらいにロールアップされたレザーパンツに、腰元にはシルバーのチェーンが掛かる。

せっかくの革靴が汚れそうだが…?と思うが。
ケアやメンテナンスも含めて、彼は靴を服を愛していた。





「眠…」



独り言。
小さく欠伸をしたイノランは、うーん!と今度は伸びをする。
その反動で、背中の羽根…。
漆黒の大きな羽根がバサリと広がった。

イノランは悪魔。
この広大な魔界の、森の側の。
世界樹が根をおろす、すぐご近所に居を構えていた。



そんな彼は、今眠いらしい。
明け方まで仲間と飲んでいたからだ。
仕事柄、帰りが翌朝になることもよくある。



ピチャン、



帰ったらまず何をして、あれをして…と。
ベッドに潜り込むまでの順序を頭でくるくる考えながら。


「ふぁ、」


またひとつ欠伸して。
森の木々の隙間に家の屋根がチラリと見えてきた時だった。







がさっ!



「…ん?」



イノランは立ち止まって、耳をすませて目を凝らした。








気配がして、イノランは立ち止まったが。
その後にはけたたましい鳥の鳴き声がギャアギャアと響く。



「!」



イノランは踵を返すと、その音の中心をじっと見据え。
今歩いてきた道の、大きな水たまりを飛び越えて。
黒い大きな羽根を広げて。


鳥たちの騒ぐ…そこへ。
一気に飛び上がった。






バサバサバサバサッ
ギャギャッ‼
ギャアギャア‼


辺りの木の枝には無数の黒い鳥。
鋭い嘴と爪を持つ彼らは、テリトリーに踏み込んだ侵入者に容赦なく襲いかかる。

ギャアギャアッ、バサバサバサバサ


ーーーその鳥たちの中心に、誰かいる。
ここが何処かと、なにも知らずに入り込んだ誰か。
それは魔界の黒い森と、雨上がりの霧がかかった空気と、辺り真っ黒に染める鳥たちとは対照的な。

真っ白な羽根を持つ…



隆一だ。


世界樹の幹伝いに壁を越えて。
本当に魔界の地まで降りてきた天使だ。
鳥たちはその見慣れない眩しい程の白い色に警戒して、一斉に隆一を攻撃してきたのだ。




バサバサバサバサバサバサッ!

ギャーア‼ギャアギャア!








「ーーーっ…待っ、」



ギャギャッギャギャッ
バサバサバサバサ



「痛いっ…」



白い羽根で自身を守るように、ぎゅっと地面の上で蹲る。
鳥たちが騒ぐ度に水たまりの泥がはねて、隆一の白い服に飛び散った。



バサバサバサバサバサバサッ!


「ーーーーーっ…やめっ…」










「こっちだ、」




痛みに耐える、その時だ。
唐突に。
グッと腕を掴まれて、その次は浮遊感。
浮き上がる感覚は、いつも自身が飛び時の感覚と似ている。



「…ぇ、」



でも隆一は羽根は動かしていない。
なのに飛んでいる。

その瞬間に視界に黒い羽根が映って。
隆一はここでやっと、顔を上げた。








「ーーーーーーぁ、」




黒い羽根。
漆黒の。
ーーーそれから、知らない誰か。

その人が。
隆一を抱えて、飛んでいる。






「ーーーーーあ、ぁの、」


「ここを何処だと思ってる」

「ーーーぇ」

「魔界だぞ。ーーーーーお前みたいな白い羽根を持つ者がいたら襲われるに決まってる」

「っ…」

「あのままじゃ食い殺されてた」


ぎゅっと、抱えられる手に力が入ったと思った。



「ーーー誰かに見られてたら、」

「ーーーーー」

「やっぱり追いまくられて、殺されてたぞ」



じゃあ、あなたは?
俺を殺さないの?


純粋に浮かんだ問いかけ。
言葉にはしなかったが、抱えられる腕の中で隆一は思った。






「ーーーーーぁの、」

「ーーー」

「あなた、は…」






黒い森を、もっと奥まで。
鳥たちの気配が途絶えた場所で、隆一を抱えていた彼は、漸く地面に降り立った。







「イノランだ」










イノランと名乗る、その彼に抱きかかえられたまま連れて来られたのは、一軒の小さな建物だった。
木々の間に建つその建物は、平らな石を組み立てたばかりのシンプルものだ。
でもそのシュッとした人工的な佇まいが、この野趣溢れる魔界の景色に妙に似合っていた。







「どうぞ」

「ーーーここ、」

「ん?」

「あなたの…家?」

「まぁね。ーーー狭いトコロですが、」

「え?ぅうん」

「ーーー」

「素敵、」

「そ?ありがと」










「怪我、見せて」

「え、」



部屋に入るなり隆一をソファーに下ろすと、イノランは言った。
初対面にもかかわらず…と、隆一が面食らっていると。
イノランは隆一に手を伸ばした。



「さっき襲われた時に負っただろ、傷」

「っ…ぅ、」

「ほら」

「ーーー…ぅん、」



指摘されると忘れていた痛みにも気付くものだ。
唐突な事の連続でそれどころでは無かったのだろうが。
隆一は急激に身体のあちこちに痛みを感じるようになった。

黒い鳥たちに囲まれた時に受けた傷はなかなかに多い。





「ーーーだいたいは嘴で突かれた浅い傷が多いけど…」

「…ん、」

「ここ。腕とか、羽根のとことか。この辺は深い」

「…ぇ」

「多分、鋭い爪で抉られたんだ。血もだいぶ出てる。ここはちゃんと手当てしないとな」


ちょっと待ってな、と。隆一から離れて奥の部屋に行ってしまったイノランを視線で追いつつ。
どうりで、と。隆一はズクズクと痛む腕を見て思う。
空気に触れてるだけで痛い。
イノランの言うように白い服も羽根も、その部分だけ赤く染まっている。



「…はぁ、」



ため息。
痛みからのものか、壁と屋根に囲まれた場所に避難できたことからの安堵のものか。
ーーーそれから。

さっきから、隆一は自分が変だと自覚していた。

息苦しい。
胸が詰まったみたいで、うまく呼吸ができていない気がした。




(ーーーなんでだろ…)


魔界の空気に馴染めていないのだろうか?
初めての場所に来て、胸がどきどきしているのだろうか?



(…わかんない)



ぎゅっとソファーの上で膝を抱える。
白い羽根を動かして、コートのように自身を包んだ。









「ーーーおまたせ。傷、見せて」



奥から戻ってきたイノランの手には、包帯と薬の瓶。
それらを持ってきたイノランは、ソファーの上で膝を抱える隆一を見て、一瞬。
瞬きも忘れて、隆一を見つめた。


ーーーけれども。
今は。





「深い傷、手当てするよ」

「ーーーっ…ぅん」

「ちょっと我慢な」

「ぅ、」



抉られた傷にイノランは傷薬を塗り込む。
ビクンッと跳ねる隆一の身体。
痛むのだろう。そりゃそうだと、イノランは手を止めずに思う。




「ーーーアイツらはさ、見張りなんだ」

「…っ、ぅ…見張…り?」

「痛いよな、もうちょいだから」

「ーーーっ…ん、」

「ーーーーー世界樹の見張りっていうかさ。ーーー上の世界と、こっちの世界と。境界のある場所でもあるじゃん?ーーーだから」

「ーーーーーぅ、うん」

「魔界に生息する中でも攻撃力の強い奴らなんだ。ーーーきっとね、お前のその匂いとか白い色とか、そーゆうのに反応したんだよ」

「ーーーーーん、」

「ーーーーーーーお前さ、」




ペタリとガーゼを貼って、そのあとを包帯でくるくると固定する。
血で汚れた白い羽根は綺麗に拭いてくれて。
汚れた服は仕方ないな。着替え貸すよ。

そう言いながら。



イノランは包帯を巻き終わると、真っ直ぐに隆一を見て言った。





「ーーーお前、なんでここへ来たんだ?」








「会ってみたかったから」

「ーーーーー」

「悪魔のひとに」




何故ここへ来たのか?という問いかけに、隆一は素直に答えた。
真っ直ぐに視線を合わせて告げる隆一の言葉に嘘は感じられなくて、イノランもそれを素直に受け止めた。




(綺麗な目だな)

(…真っ白な羽根もそうだけど)

(ーーーこいつ全部が、すげぇ綺麗なんだ)




出会って僅かな時間なのに。
日々何気なく過ごす中では得られない、新鮮な弾む気持ちをイノランは自覚しつつ。
そしてそういえば、と気付く。




「名前、」

「え?」

「ごめん、聞いてなかったな」

「…ぁ、」

「よく考えればそれからだよな、色々…」

「ーーー」

「お前に聞くのはさ」



隆一もそう言われてハッとする。
名乗る前なのにこんなに手当てまでしてくれて、こちらこそごめんなさいと、謝って。





「隆一です」

「ーーー…隆一」

「ーーーはい」

「隆一」

「どうもありがとう。手当てとか、それから助けてくれて」

「ホントだよ」

「ぇ、?」

「あんな薄暗い森で、真っ白な姿でウロウロしてたら目立つだろ」

「ーーーーー…はい…」

「襲ってくださいって言ってるようなもんだ」

「…ぅ、」

「ーーーでもお陰で、俺もすぐに見つけてやれたんだけどな」

「!」

「ーーーーーーー俺も初めて会った」

「ーーー」

「会いたいと思ってた」




そっ…と。
イノランは隆一の羽根に触れる。
羽根は天使にとっても悪魔にとっても大切なものだから。
本来ならば初対面の見知らぬ相手に羽根を触らせるなんてしない事。
けれども隆一は、いいと思ったのだ。
目の前にいる悪魔、イノランになら。




「ーーーすげ、綺麗」

「っ…それを言ったら、あなた…イノランも」

「ん?」

「漆黒の羽根」

「ーーー」

「素敵だよ?」




もっと、もっと…触れたくて。
お互いを知りたくて。

今度は羽根じゃなくて、互いに伸ばした指先は相手の指先に触れる。
トン…と、軽く触れただけなのに、指先が心臓になったみたいにどきどきして。
隆一のよくわからない息苦しさはますます強く。
爪の先から指の付け根まで指先が滑っていって。
そのまま、スルリと指先が重なって絡まった。





「っ…」

「ん?」

「ーーーぁ、あの」



隆一は知っていた。
こんな風に手を繋ぐ仲の呼び名。
誰とでもするものじゃない。
特別な相手とだけだと。





〝恋しないんですか?隆一さんは〟




いつだったか葉山に言われた言葉をこんな時に思い出した。
あれは通りすがりの恋人たちを何気なく眺めていた時だったと思う。
葉山の目から見て、よっぽど隆一が人恋しそうにしていたのかもしれない。

でも、誰かを好きになるとか、恋するとか。
そんなのは急いでするものじゃないと思っていたし、焦ったって仕方ないと思っていた。


そうゆうのはきっと、急になんだ、と。







(ーーーどうしよう…。葉山っち)

(もしかしたら、俺)




「隆一?」

「イノラン、」




ーーーその後に続く言葉は、まだ言えなかったけれど。


二人の今いる、ずっとずっと上の方で。
あの丸く固まった世界樹の蕾が。

どきどきと高鳴る二人の鼓動に合わせるように。
トクン…トクン…と、葉を緩ませている事を。

まだ、知らないでいた。






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