桜雨







「ーーー痛いんだけど」

「あ、?」

「ーーーーー腕」




咄嗟に掴んだ相手の腕だったが。
よくよく考えてみれば随分乱暴なことをしているとJは思い始めてきて、慌ててパッと手を離す。



「馬鹿力…」


ふぅ…、と溜め息つきつつ肩を竦める様子がそばで感じて。
Jは苦笑して、悪りぃ。謝った。




(あ。)



腕を掴むということは、初対面ながら随分と側に寄ってしまっていた。
相手の動くたびにふわりと香るのはフレグランスだろうか。
そしてそこに見え隠れする煙草の香り。


(香りの事は隆一には聞かなかったけど)


隆一の言う彼の風貌と、この香りは。
それはとても似合っているように思えた。




「ーーーー」


Jは珍しく迷っていた。
Jにしてはこんな事は珍しい事だけれど。

でも、目の前にいる人物が、隆一のずっと探している彼だとすれば。
隆一が、会いたくて会いたくて堪らなくて。
身ひとつで人探しの旅に出るくらい、恋い焦がれた相手だったとしたら。

Jの出かたひとつ。
対応ひとつで。
再会という事に結びつくかどうかが決まる、とても責任あることに思えて。

本当ならばさっき掴んだ腕を離さずに、ぐいぐい引っ張って隆一の元に連れて行って。
こいつがお前の探してる奴か⁇と訊いてやりたいくらいだったが。



(…さすがにできないじゃんか。ーーーそんなさ、)


何事にも順序はある。
Jは努めて落ち着きを払うと、彼の傍らの荷物を指差して言った。




「ーーーその中さ、」

「ん?」

「ギター?」

「あ、これ?ーーーまぁ、そうだけど」

「ふぅん。なぁ、俺も楽器やるんだけどさ」

「そうだろうな、」

「…なんでわかんの」

「ーーー背負ってんじゃん。ギグバッグ」

「あ、」



自分がベース入りのバッグを背負っている事すら一瞬忘れるテンパりよう。
Jはバツが悪そうに乾いた笑いをしつつも、質問を続けた。



「俺はベースだけど、ギターもすげぇ好きでさ」

「ーーー俺もベースも好きだよ」

「!ーーー俺のベースも見せてやるからさ、お前のギターもちょっとみてもいいか?」

「…俺の?ーーーまぁ、いいけど」



音楽好き、楽器好き同士なら。
初対面でも名刺がわり、楽器の見せ合いも珍しくはない。
Jの言葉に彼も特に警戒する様子もなく、ギターケースを引き寄せてロックを外した。



(ーーーすげ…。〝F〟のロゴの、ギターケース)


楽器好きなら、憧れる。
憧れの工房の、楽器。

彼が誰なのか、その手掛かりの為にギターを見せてもらうはずが。
Jはいつのまにか、そのギターを見ること自体にわくわくしていた。





カタン。


ハードケースの蓋が開く。
内側の赤いビロード。
そこにも、金の細い文字で〝F〟


「ーーーこれ、」


(ーーーうわ、)




その堂々とした機体に、息をのむ。

彼が取り出したのは、黒いギター。
滑らかな曲線の艶やかな黒のボディは所々弾くことによって生まれる傷がついて。
ピックガードは夜闇でもわかる、白金色のもの。
そして独特のシェイプのヘッドには、ここにもやはり〝F〟の刻印。



「ーーー!」


憧れのギター。
そのルックスと、最高峰の音で。

そしてJは気付く。




(ーーーこれ、このギター…)

(色は、真逆だけど…間違いない)



隆一が抱えていたギター。
それは白。
目の前の彼が持つギター。
これは黒だが。


同じ形。〝F〟の刻印の真隣に刻まれた、同じ文字。
それは同じモデルである事を示している。





さぁっ…



夜風が吹いた。
花びらがさっと散って。
空の薄い雲も流れて行って。
さっきまで薄ぼんやりとしていた月明かりが、クリアになって。

彼の姿を、鮮明に映し出す。






「ーーーーーお前さ、」

「?」



間違い無いと思った。

彼が、隆一の探す…





「イノちゃん…か?」


「ーーーーーーーー」



目の前の彼が、ひゅっと息を飲むのがわかった。





「ーーーなんで」

「ーーー」

「その呼び方…」




アタリだ。
Jはそう確信して、内心でグッと拳を握った。
間違い無い。
彼が隆一の探し求めていた、失踪した恋人なのだと。

Jは、一瞬の間にあらゆる事思いを巡らせた。
失踪した理由はわからない。
恋人である隆一すら知らされていない。
こいつに間違いない、見つけた!といっても。
こんなタイミングで何もかも曝け出して根掘り葉掘り訊いたりしたら、またここから何処かへ行ってしまう可能性だって無くはない。
だってどんな事情を目の前の彼が抱えているかわからないのだから。

ーーーけれど。
訊かずにはいられない。
あの雨の夜から見てきた隆一の様子を思えば。
一途過ぎる様を見せられたら。
一刻も早く隆一に会わせてやりたくて、堪らなくなった。


(いざとなったら紐で括っても担いでも何しても連れてってやる)


Jは一歩一歩、間合いを詰めながら。
相手に、告げた。







「そのギターと同じモデルの…白い機体を持ってる奴を知ってる」

「…!」

「それから、さっきアンタが歌ってたメロディー。それと同じメロディーを俺は聞いた」

「ーーー」

「そいつと出会ったのは数日前の雨の夜だ。ーーー上着の中に白いギターを隠して、濡れないように必死に雨ん中走ってきた」

「ーーー」


「いなくなっちまった大切な奴を探してるって。残してくれたギターを抱えて、一年もの間旅してきたって」

「ーーーーーっ…」

「ーーー並大抵の覚悟じゃ出来ねぇよな。身一つで、ギターだけ抱えて。何処にいるとも知れない恋人を探す旅なんてさ」

「ーーーーー」

「フィールドが世界規模の、手掛かりナシのめちゃくちゃ難易度高い人探しだ」

「ーーーーー」

「なぁ、それってさ。そいつ…ーーーーー知ってるだろ⁇」

「ーーーーーーーー」

「そいつは〝イノちゃん、イノちゃん〟って呼んでた。ーーー雨に濡れて熱出してぶっ倒れた時も、うわ言みたいにその名前だけを呼んでたぜ?」

「ーーーーーー」

「なぁ、」

「ーーーーーーー」

「お前なんだろ?ーーー〝イノちゃん〟」

「ーーーーーーー」

「〝隆一〟を、知ってるな?」































「Jの奴そろそろ帰って来てもいいのにな」

「Jは今夜はライブなんでしょう?遅くなるって、出掛けるときに言ってたよ?」

「そうだけど、いくらなんでも遅くねぇ?もう日付も変わっちまう」



ちらちらと数分おきに時計を見やるスギゾーを見て隆一はくすくすと微笑んだ。
気がそぞろなのか、さっき淹れたコーヒーもあまり減っていない。



「二人は仲良しなんだね」

「ん?」

「スギゾーとJ。いっつも一緒にいるから、いない時が落ち着かないんでしょ?」

「ーーーそん、な…事は、ないと思うけど…」

「そんな事あるんだよ。ーーーだってね、」

「?」

「一緒にいて、ずっとずっと一緒にいる相手って。無いと窒息しちゃう空気みたいで、しなきゃ死んじゃう呼吸みたいで。ーーー水の外に放り投げられた魚みたいに、苦しくなっちゃうんだよ」

「ーーーーー…隆一、」

「それが家族でも、仲間でも、友達でも…恋人でも…」

「ーーーーー」

「ーーーーー苦しいんだよ」


「ーーーーー隆…」





会いたいのに会えないもどかしさ。
闇雲に探しても仕方がないのに、探す宛の無い旅。
出口の見えない寂しさ。


隆一の今の言葉には、それらがぎゅっと込められているようにしか聞こえなくて。
スギゾーはそれが切なくて。
立ち止まって探すこともできる、協力は惜しまないと言ってはみたものの。
それを何をどうすれば隆一の為になるのかわからなくて。


ーーー誰か助けて!
ーーー寂しい、苦しい。
ーーーどこにいるのか教えて!
ーーー会いたいの。
ーーー会いたいだけなのに。


隆一の無言の懇願が、スギゾーを揺さぶった。





「ーーーごめん、」

「ぇ?」

「ごめんな、隆一」

「ーーーなんで?なんでスギゾーが謝るの?」

「うん。ーーーとにかく、なんてゆうか…。ごめん」

「っ…」

「でも、隆一」

「え?」

「ーーーお前見てると、チカラが湧くよ。ーーー頑張んなきゃって、思えるよ」

「ーーー俺、を?何で…」

「ありがとう」

「ーーー」

「ありがとな、隆一」



スギゾーが願い請うのは、手の届かない存在じゃなく。
自分も、Jも、隆一も。ーーーそれから、ギタリストであるという、隆一の大切なひとも、きっと愛しているであろう…音楽の。
音楽の神様。


どうか隆一と彼が、もう一度奏で合う事ができますように…と。
スギゾーは願った。









と、その時だ。




バタンっ!


スギゾーの店のドアが、騒々しく開かれた。









一年前の桜の季節だった。

イノランが、ある人物と出会ったのは。




その人物とは会話をする事は今まで無かったが、その存在は知っていた。
音楽イベントや番組なんかじゃよく見かける存在だったし、雑誌なんかでもその人物のインタビュー記事を見たこともあった。
音楽を仕事にしている者なら、恐らく一度は見知ったことがあるのだろう。

ーーーそんな人物…彼が。
イノランの控え室のドアを叩いたのは、桜が間も無く咲き始める、とある日だった。


この日は隆一とは別行動をしていたから控え室はイノランひとりで。
どこかに所属する事なく隆一と共にフリーランスで音楽を仕事にしていたイノランだから、同行する専属スタッフも決まった者がいるわけでは無くて。赴くステージの会場スタッフ達に当日のフォローを依頼するという事が常だった。
ーーーだから今も控え室はイノランだけ。急な客人の対応も自身の仕事だ。
隆一と組んで音楽を始めた当初は、細部に渡る実際の音楽以外の仕事の多さに驚いて専属スタッフを雇った事もあったけれど。イノランと隆一の音楽スタイルが、ひと所に留まらない…旅暮らし。気の向くままに二人で流れて、そこで音楽を奏でる。いつ何処に行くかはわからない。
そんな二人だったから。
その流浪の旅暮らしに付いて来られるスタッフはなかなか現れず。
結果、それなら全部二人。何をするのも、何を決めるのも二人。
全部全部、自分達でやろうと。
そう決めたのだ。
ーーーそう決めたら、大変な事も、二人一緒なら平気になれた。







その人物は始終にこやかだった。
口調も、堅苦しいわけでもなく。
悪い印象は、初めは受けなかった。ーーーけれど。

話しているうちに、次第に。
イノランは自分が、作り笑いをしている事に気がついた。
何故。

怖かったから…だと、思う。


イノランや隆一よりかは年上の男性。
彼がイノランの控え室を訪れ、言う内容はこうだった。

要するに。
どこにも所属せずに、専属スタッフもいないのは色々と大変だろうと。
音楽に集中できていないんじゃないかと。
本当はもっと、広いスタジオで、最新鋭の機材に囲まれて作曲するのが幸せなんじゃないか、と。
どうだろう。
うちに来ないか、と。
彼の本職はプロデューサーだった。



「俺は隆一と自由に一緒に決めてやるスタイルが気に入っています。だから、ご好意せっかくですが…」



イノランはまずはやんわりと辞退した。
控え室をわざわざ訪れてくれたと言うことは、自分たちを気にかけてくれていたからだろうと。
ーーーしかし、食い下がらずに。
今度は少々強引だった。




「ギタリストを探してる。ーーーあと、ヴォーカルもだ」

「…ぇ、」

「私のプロデュースする二つのグループのギタリストとヴォーカリストだ」

「ーーー」

「…二つ?l

「どうだろう?そろそろここいらで、それぞれ別の道に進むのは」

「ーーーーー別?」

「これがあるんでね」

「ーーーーーぇ、」



スッ…と。
彼がテーブルに置いたのは一枚の紙だ。
世間一般での白いA4サイズの…だが。この時のイノランは、そんな事はどうでもよかった。

釘付けになる。
テーブルの紙に書かれた文字と…サインに。

そこには無機質な黒のタイプされた文字。
契約書

間には何たらかんたら…読み進める度に呼吸が止まりそうになる文。
要約すれば、目の前の人物とアーティスト契約を結ぶというもので。
何よりも一番イノランを唖然とさせたのは、契約者欄の…見覚えあるサイン。


「…俺の、字?ーーーまさか、」

「そう。君のサインだね」

「うそだっ‼そんな…こんな契約にサインするはず無いだろ‼」

「嘘では無いよ。これは正真正銘、君のサインだ。ーーーまぁ、これを書いた時の君はどうだったかわからないが…」

「ーーーそれはどういう…」

「ミュージシャンからサインをもらう機会なんて幾らでもあるだろう?」

「それは…っ…ファンに向けてのサインであって契約の為に書くものじゃないだろ!」

「それでもさ。ーーーまぁ、難しい事では無いと言う事だ」


イノランの表情から、作り笑いすら消えた。






従う気など毛頭無い。
あの書類のサインが真実自身のものだとしても、イノラン自身がその認識をもってしたものでは無いのだから。

ギターと荷物をを抱えてスタジオを飛び出したイノランは。振り返りもせずに駆け抜けた。
あの人物が追ってきそうな感覚。
透明で強固な鎖で繋がれてしまった感覚。



「ふざけんなっ…‼」



自由が無くなる感覚。
そして何より。
隆一が。
自分にとって唯一無二の存在。
自分にとって、ただひとりの歌うたい。大切なひと。愛おしいひと。
それが、繋いだ手が…離れてゆく感覚。




「ふざけんなっ…ふざけんなふざけんなっっ…」




隆一と離れると言うことは。
生きている感覚を失くしてしまうことなのかもしれない。




「隆一…っ…」

「りゅうっ…隆、隆っ…」





ゴッ。

抱えたギターケースが、地面に落ちた。
さほど高い場所からではなかったから、平気だろうとは思うけれど。
大切なギターケースを取り落としてしまう程に。
イノランは、絶望と怒りと焦りとで。
その地べたに、膝を落としてしまう。







「ーーーーー…」







桜の蕾。
薄紅色の花弁が覗く。
間も無く桜の季節。






……あと一週間後には咲いてるかなぁ

ーーー桜?

ん、

満開まではいかなくても、きっと咲いてる

うん、

ーーー見に行くか?

ぇ、?

桜。ーーー二人でさ

っ…うん







約束



ついこの間の、約束。









「ーーーごめんっ…隆、」

「ごめんっ、な…」






誰かの手によって裂かれるよりも。
それならいっそ…と。




イノランは、姿を消したのだ。




好きなひとを守りたかった。
好きなひとの歌は隣に在って欲しかった。
汚されたくなくて。
自分達の意思ではなく、誰かの手によって自分達の在り方を変えられるなんて。
そんな事を受け入れることは、到底イノランには無理だった。






「ーーー…」



眠る隆一。
いつものように、イノランと共に眠る、ひとつのベッドの中で。
影を落とす程に長い睫毛に隠れた目元は、どこか微笑んでいるように見える。
今にも笑い声が溢れそうな口元も同様に。

イノランがいるから。
側にはいつも、どんな時も。
愛するひとの温もりがあると信じて疑わないから。





「…ん、」

「隆?」

「ーーーん…。ーーーィ、」

「ん?」

「ーーーーーイノ…ちゃ、ん…」

「ーーーりゅ、」

「ーーーふふっ」

「っ…りゅう、」



夢の中でも一緒なのかもしれない。
眠りながらも呼ぶ名前。
眠りながらも微笑む相手。

それが誰なのかがわかるから。
イノランはぎゅっと唇を噛んで、血が滲むまで拳を握りしめて。

自分を愛してくれるひとを。
イノランはこれから、ここへひとり残しておいて行く。
身を切られるような想いで張り裂けそうだ。




「ーーーっ…くそ!」


他に方法は無いのか?
本当にこれしか無いのだろうか?
混乱する頭で、イノランは必死に考える。
けれども。
万に一つでも、隆一に何か災難が降りかかってしまう可能性。
それを想像するだけで血の気が引く。


「…っっ…‼」



イノランが導き出した方法はひとつ。
何かが起きる前にこちらが行動する事。
幸いにも二人はどこかに所属する身ではない。
さらに旅暮らしのようなスタイルを選んでいた二人は、この数年の間にも様々な場所に居を構えては、また流れて…を繰り返してきた。
それ故に最新の住まいを特定しにくい。
そして隆一においては、例の人物と実際には直接の面識も無い。

ならば。

自分が姿を消せば、あの人物が隆一と接触する機会はぐっと減る。
契約(した覚えの無い契約だが) といえど、当の本人である自分がいなければアーティスト契約もバンド加入もなにも、向こうは進めることが出来ない。
ビジネスの絡む事に相手はきっと辛抱強く待ったりはしないだろう。
自分や隆一に目を付けたのも、どこにも所属をしていないフリー状態だったというのも一因だと思う。



ーーーならば向こうが諦めるまで。それがいつかはわからないけれど、きっと匙を投げて契約も切るはずだ。
そう、イノランは考えたのだ。







「ーーーーー起きたら、隆はどうするかな」

「ーーー泣くのかなぁ…。ーーーまぁ、泣くよな」

「ーーーーーーー泣かせるのは俺か…」

「ーーー…俺…か」




きし…。


イノランは、隆一の眠るベッドに手をついた。
ーーーじっと、その寝顔を見つめる。
目に、焼き付ける。
今まで幾度もこうして見つめては愛してきた。



「ーーーりゅ、う…」


恥ずかしそうな顔も。
強請るように微笑む顔も。
めちゃくちゃに愛する度に見せてくれる、艶やかに濡れる顔も。
怒った顔も。
真剣に歌う顔も。
幸せそうに、側にいてくれる時の顔も。

全部全部。

本当は、見続けていきたい。
これからもずっと。
おいていきたくなんかない。
当たり前だ。



「ごめんっ…隆、」

「ーーーーーごめん…っっ…」







自身の持つ、最愛のギター。
隆一と同じくらいに、大切な。
白と黒。

イノランはずっと、白の方は隆一にも似合うと思っていた。
今までたくさんの曲をこの白いギターで生み出し、ステージに立ってきた。
大切なギター。
それを、眠る隆一の隣に。
起こさないように、そっと。





「ーーー頼む。お前は俺の代わりだ。隆を…」

「ーーー泣いてたら、なぐさめてやってくれな」




まるで生けとし者に語りかけるように。
イノランは白いギターに微笑んだ。




「ーーー隆、」

「俺は行くよ」

「本当は行きたくないけど。隆とずっと一緒にいたいけど」

「ーーー少しだけ、待っていてくれ」

「コイツをおいてくよ。俺のギターを隆に預けるよ」

「好きに弾いてな。ーーーステッカーも、まぁ…隆の好きなの貼ってもいいよ」

「コイツは目印だ。いつかまた隆と俺が再会した時にわかるように。俺の黒のギターと、お前の白のギターがきっと呼び合うよ」

「ーーーっても、絶対わかる自信あるけどな?」

「何年離れても、お前が隆だって。俺は絶対わかるから」

「ーーーずっと、想ってるから」

「ーーーーーーだから、」





「ばいばい、隆」







無理やりの微笑みと、別れの言葉と。
それから。

去り際に、イノランは隆一の唇にキスをして。
隆一の傍らの白いギターを愛おしげに撫でると。




イノランは部屋を出て行った。









ーーーこれが。
一年前の桜の季節の出来事。













勢いよく入ってきたのはJだった。
ベースを背負ったまま、肩で息を切らせて。

そのあまりの様子に、スギゾーも隆一もぽかんとJを見つめて。





「なんだよJ、騒がしいな」

「おかえりなさい!J、帰るのいつかなぁ…って、二人で待ってたんだよ?」

「飛び込んで帰ってくるくらい今夜のライブは良かったって事か?」



「っ…ち、がう」



「…ぇ、違うの?良くなかったの?」

「違うって!そうじゃねぇよ、ライブは大成功だ、めちゃめちゃ良かった!」

「!ーーーなぁんだ、それじゃあ良かったね!」

「血相変えて帰ってくるからてっきりな、な!隆」

「ね、ふふっ」



「ーーーーーっ違うって、隆一…‼」

「ーーーーーー⁉」



ちょっといつもとJの様子が違うと、ここで漸くスギゾーと隆一は気が付いた。
ただの騒がしい帰宅じゃなくて、ライブの成功を喜んでいる浮き立つ気持ちじゃなくて。

そうじゃないって。

つかつかと隆一の側まで寄って、ガッ!と、Jが隆一の両肩を掴むと。
隆一はごくりと息をのんで、傍のスギゾーも言葉が出なかった。




「ーーーーーーいいか、隆一」

「…ぇ、あ……」

「隆」

「ーーーーーーーは、い…」






「外、見てこい」



「ーーーぇ、」

「あのギター抱えて、店の側の…桜の木の下だ」

「ーーーーーーーー桜の…?」















さぁっ…




「わっ、」




何が何やら、Jの勢いに押されて。いいから行ってこいって、白いギターもぐいぐいと持たされて。
飛び出したのは、春の夜。
店のドアを出た途端、少々強めの春風が桜の花びらを舞い上げながら隆一をもっともっと外へ…と誘い出す。
隆一は振り向いて店の戸口を見ると、行って来い‼とばかりにJが顔を覗かせて手振りしている。その横で⁇マークいっぱいのスギゾーも顔を出すけれど。




「ーーーなんなんだろ。…J」



珍しい、と。
思って。
Jと過ごし始めた時間は、まだそれほど長くはないけれど。
あんな風に周りを取り込んで、わーっと騒ぐのは無かったから。(寧ろスギゾーの方がそんな感じだったから)
隆一は首を傾げながらも、店の外の道に続く桜の木の方へゆったりゆったり、歩いて行った。





ちらちらちらちら…




「ーーー綺麗」


青空に桜…は、胸膨らむ気持ちでいっぱいな感じだし。
雨の日に桜…も、淑やかで清楚で、静けさに満ちた感じがする。


「夜桜…は、」


いつかの春の夜に。
彼と二人で散歩した。
今夜みたいに、ちょっと風が強くて。
散っていく桜が、雨みたいで。




〝隆の黒髪に桜の花びら〟

〝超、綺麗〟



〝夜に似合う〟




「ーーーーー言ってくれたっけ、」



もう今では、とても遠い二人の想い出みたいに思える。
離ればなれになって、彼とのひとつひとつの想い出が貴重で。
忘れかけてしまいそうな想い出も、忘れないように引っ張りだして。
あの。
歌を口ずさんで、想い出を乗せて歌って過ごしてここまで来た。
歌に乗せれば、絶対に忘れないから。
彼の言葉ひとつひとつ。
彼の表情も、全部。




「ーーーーーあと、どれくらい…」

「待て、ば」

「ーーーーーーーーー会えるかな」




ぎゅっ、と。

隆一はギターを抱きしめる。
あまりにも寂しさで負けそうな時は、こうして。
彼を想う。




「ーーーーーーイノちゃん…」


「ねぇ、」




「俺はあと、どれくらい待てばいい…?…」








ひときわ花をつける木の下で、隆一は上を見上げて。
はらはらと顔に触れる花びらの感触に目を閉じた…。
ーーーその時、だ。






「ーーーっ…」


温もりが、隆一の背後から包む。
隆一は唐突のその感触に、思わず息を止めてしまったけれど。
次に呼吸をした時に感じたのは。知っている香り…匂い。
ほのかなフレグランスと、煙草と。
その奥に混じる、肌の匂い。
隆一を背後から抱きすくめた両腕は、ギターごと優しく包んで。
でも、ぎゅっと、力強くて。

どくん…どくん。
隆一は鼓動は、うるさいくらいに響いた。





「ーーーぁ、」



知ってる。
この、温もりを。
知っている。

この匂い、感触。

だって今まで、何度も感じてきたから。




言っていいのかな…と。
隆一の唇は震えた。
ただ一言、口にしたい語は…言葉じゃなくて、名前。
それを言っていいか。
間違っていないか。
期待して、その名を口にして。
もしも間違っていたら。
きっとすごく、自分で自分を傷つける気がする。
だってそれほど望んだから。
待って、探して、ここまできたから。



「ーーーーーっ…ぁ、」


言ってもいい?
呼んでもいい?



あなたの、名前。





「ーーーいいよ」

「っ…」

「ーーーーーーいいよ…ーーー最初はお前が、」

「ーーーーーっっ…」


「呼んで」




「ーーーーーーィ…っ…」

「ーーーーーん、」

「…っ…イ…ノ、」

「ーーーーーーーーぅん、」




ぽたっ…ぽたん。



涙が落ちる。
堪え切れない嗚咽に混じって。
隆一はやっとの事で、呼んだ。



「ーーーーーイノちゃん…っ…」


溢れた涙の止め方なんてわからない。
ぅうん、きっと止める必要なんて無いのだ。


桜の季節から、桜の季節まで。
ずっとずっと、焦がれていたのだから。




寂しくて。
苦しくて。
潰れるくらいに切なくて。
ずっと恋しかった。







やっと、会えた。













「ーーーっ…ぅ、んっ…くっ、」



しゃくりあげる度に、イノランの目の前の隆一の肩が不規則に震えてる。
背中から抱きしめて、懐かしく恋しい恋人の匂いを存分に感じて。
まだ目も合わせていないのに、泣き崩れる隆一が愛おしくてならなくて。




「隆」



イノランはやっと、恋人の名前を呼んだ。






「隆」

「んっ…ーーーーん、」

「ーーーーーごめん、」

「っ…」

「ホントに、ごめんな」




隆一の首筋に顔を埋めて、くぐもったイノランの声が小さく響く。
くり返される、謝る言葉。
それは隆一に何も言わずに姿を消したことへの謝罪。
心配させて、寂しがらせたことへの謝罪。
イノランにももちろん事情はあったのだろうし、実際今この場面では、謝る事しかできないのだろうけれど。

隆一、は。



「ーーーっ…なん、で」



謝罪なんかいらなくて。
自分に謝る恋人の姿なんか見たくなくて。
ーーーそうじゃなくて。



「一緒にいたかった…っ…」

「ーーー隆、」

「どんな時も、何が…あっても、怖くても、追われても、逃げなきゃいけなくても…っ…」

「ーーー」

「住む…場所も、何も…無くなっても。ーーー」

「ーーー」

「俺はイノちゃんがいればいいのにっ…‼」

「…っ、」

「イノちゃんの側…が、俺の居場所なのに…」

「隆…っ…」

「置いて…かない、で、よぉ…」

「りゅ、」

「ーーーーーおねがい、」

「りゅ、いち」

「ひと、り…に、しない、で」

「ーーー隆…っ…」

「ーーーーーっ…ぅ、うぅ…」

「隆、ーーーっ…」






震える肩を引いて、反転させて。
今度は真正面から、イノランは隆一を見つめた。
恋人の泣き顔は、とても久しぶりだけれど。
自分だけに見せてくれる無防備な姿を見るたびに揺さぶられる気持ちは、ずっと変わっていなくて。


この一年、後悔していたのは自分だ、と。


再び出会えた奇跡を、噛みしめた。






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