桜雨







暫くここにいなよと誘われて。
隆一は、先に続く道に一瞬視線を向けたけれど。
長い間、ひとりで旅をしてきて。
気を張って、ここまで来て。
それは確かに隆一を疲弊させてきて。

ここにいなよと、言われたことは。
自分ひとりでは選ぼうとは思わない、立ち止まって休息するという選択だった。





「ありがとう。ーーーお言葉に甘えて、少しの間お世話になります」

「やった!」

「ーーースギ…。そんな喜んでるけどな、隆一の人探しもちゃんとやるんだからな」

「わかってるって。それもあるけど、隆一と暫くいられるの嬉しいじゃん?」

「え?」

「Jもでしょ?」

「ん、まぁな」

「嬉しいです。俺に出来る事があればちゃんとお手伝いします」

「マジ?ーーーじゃあね、まずはその…敬語はいらないよ」

「敬語?」

「隆一がここにいる間はさ、三人で飯食ったり、買い物行ったり、音楽聞いたり!だからいいよ、ラフでいいよ」

「っ…はい」

「ん?」

「ぁ。…うん!」







仕事終わりにバーに行って飲もうと言い合っていたスギゾーとJだったが。
隆一が現れた事で、その晩のバー行きは延期になったのだ。
そのうち是非隆一も連れて行ってあげたいと思うバーなのだが…。
まだ熱が下りきっていない隆一だから、全快するまでは暫しお預けだ。







「隆一はどうやって今まで過ごしてきたんだ?」

「一年って言ったら徒步での旅とはいえ、旅資金もかかるでしょ?」

「ん、」

「…バイトとか?」

「ーーーなのかなぁ。ーーー俺はもちろん今まで貯めてきたお金があるけど。でも、この旅がどうなるかわかんないし、いつイノちゃんに会えるのかわからない。ーーーだから貯金にはなるべく手をつけないで、歌…で」

「歌?」

「俺は歌を歌う。この旅でも、路上やレストランなんかで歌ってお金をもらって生活してきた」

「歌…かぁ、」

「いいな、そのうち聴いてみたいな。隆一の歌」

「ーーーありがとう。ーーー俺は歌、イノちゃんがギターを弾いて音楽をやってた。曲も一緒に作って、ライブをしたり…」

「ーーーそっか」



うっかり、イノちゃんの話になると。
隆一はじっと想いに耽って、少し…元気を無くしたようになってしまうから。
二人は努めて、明るく振る舞った。




「まずは早く治しな。それから俺とJオススメのバーで飯食おう。ーーーそれからだ」


そう言って、スギゾーは部屋の隅の楽器や機材がつめこまれている一角をガサゴソ探って。
J手伝ってー。なんて言うから、Jはいよいよその人使いの荒いスギゾーに肩を竦めて。(それでもちゃんと協力するのがJの優しいところだ)
暫く荷物の山と格闘した末に二人が引っ張り出してきたのはギターケースだった。
新品とは言えなさそうな状態だけれど、ボロいというわけでもない。
前オーナーが大事に使ってきたのだろうと思わせるヴィンテージ感が漂う品だ。

ーーースギゾーがそれを隆一に差し出した。…それは。



「ギターケース…?」

「これを隆一に」

「っ…ぇ、」

「その白いギターと同じ〝F〟のロゴがついてるでしょ?貰い物なんだけど、ずっと中に入れられるギターと出会えなくてさ。せっかくだから、同じ工房で生まれたギターを入れてあげたくてさ。ケースもすげぇ良いものなんだけど、空のまま仕舞いっぱなしだったんだ」

「ーーー」

「んで、出会えたからさ。まさにぴったりのギターに」

「ーーー白い、ギター?」

「そう、そいつの為の席を空けてたって感じしない?これって偶然じゃなくて必然って感じがする。ーーー隆一のギターを入れてあげたいんだ」

「ーーースギゾー…J、」

「だから隆一にあげる。隆一なら、ギターと同じに大事にしてくれるってわかるから」

「ーーーーー」




ケースの中でも、これはハードケースだ。
それだけでも価値がある品だ。
しかも〝F〟のロゴが堂々と飾る。

隆一は、すっかり恐縮してしまう。





「こんな、上等なもの…」

「でも、隆一なら上手く使ってくれるだろ?」

「違うよ!そうじゃなくて…こんな立派なケースを頂いてしまうなんて」

「いいんだよ」

「ーーーでも、」

「な。J」

「まぁ、スギゾーがあげたいって思ったんだからいいんじゃね?」

「そう!ってことで、隆一に」





白いギター。
ケースの中にそっと入れると、それは隆一のギターをぴったりと受け止めた。
同じ工房で生まれ、それがそれぞれの歴史を刻んで、今ここにある。
偶然じゃなく、必然。
それはスギゾーとJが隆一と出会ったのと同じなのだ。





「ありがとう。大切にします」






それから二日もゆっくり休養すると、隆一の熱はすっかり下がって元気になった。
隆一が寝込んでいる数日間降り続いた雨も今朝には上がって、スギゾーと共に隆一が早朝の店の外に出ると、空は綺麗に晴れて春の陽気だった。




「ーーー桜、まだ残っててくれた」

「雨が続いたけど咲き始めだったから、全部は散らなかったんだな」

「うん、」


清々しい久しぶりの晴れの空気を隆一はいっぱいに吸い込んで。ちらちらと舞い落ちる桜の花びらを髪にいくつも乗せながら。


「こんなにゆったりした気分はホントに久しぶりかも」


そう、自分に言い聞かせるように呟いた。
それを聞いたら、やっぱり隆一をここへ留めて良かったとスギゾーは思った。



「じゃあ今夜はさ、隆一の快気祝いと…それからちょっと遅れたけど歓迎会を兼ねて、どう?」

「え?」

「行きつけのバーで、三人で晩飯!」

「っ…あ、」

「Jは今日は夕方まで仕事に行ってるみたいだから、その後に。行こうよ!」

「うれしい、どうもありがとう」



ひとりでは無く、仲間と一緒に過ごす時間。
誰よりも大切な恋人…〝イノちゃん〟と過ごしてきた時間は、何ものにも代えられないけれど。
ひとりじゃない。
それだけでも、今の隆一には。
有り難くて、嬉しくて。
親身に接してくれるスギゾーとJに、隆一は心から感謝していた。












そんな晴れの日の午後。
スギゾーと隆一が、Jの仕事終わりを待っている頃。
Jはとあるライブハウスでライブを終えて仲間と軽い打ち上げをしていた。
もともとJは参加予定では無かったのだが、Jはここら界隈や、周辺の街でも知られているベーシストだから。是非ゲスト参加を、と。急遽ステージに上がる事になったのだ。
通い慣れたステージでも、初めての仲間たちとでもライブはやはり楽しくて。
小さな楽屋で、ライブの成功を喜んで。
小一時間ほどの打ち上げの後、そういえば、帰りに寄ってよとスギゾーに言われていたのを思い出し。(Jも隆一が気になるし)
残ったグラス一杯の酒をグッと飲み干すと、じゃあお先に!また是非一緒に演ろうね!と約束し合い。
Jはベースを担いで、ライブハウスの階段を駆け上がって出口に向かった。

足取り軽く、鼻歌を口ずさみながらJは夕暮れの外に飛び出した。
ライブの余韻と酒で火照った身体に春の外気が心地いい。


「♪~」


そんな、さて帰るか…という時だ。




「ーーーーーっ…」



ハッとして。
Jは思わず足を止めた。



地下にあるライブハウスの細い階段を駆け上がった、その地上に。
春の夕暮れの通りの、Jの目の前を通り過ぎて行く、ひとりの人物。

黒の中折れハットを被り。
黒のジャケット。
スラリとしたダメージのあるデニムと、ブラウンカラーの革靴。
髪は頬を隠すように伸ばした、襟足辺りではねる明るい茶色。
ーーー表情は、見えなかったけれど。

Jは見つけた。
彼が背負うのは黒のギグバッグ。
ギターだろうか、中身はもちろん見えないけれど。

〝F〟のロゴ。
少しそのプリントも擦れている部分もあるが、間違い無くて。

Jは、ここ最近よく見かけるな…と、この時は純粋にそう思っただけだった。

〝F〟

隆一の持つギターと、目の前を通り過ぎて行く彼の荷物と。



「ーーー」


それだけの事だけれど。
Jは何故か、彼が突き当たりの通りの角を曲がるまでその背中を眺め続けた。
どうしてなのかは、この時は分からなかったけれど。

ーーー実はこの数日後、さらにその数日後にも。
Jは彼の姿を見かける事になるのだが。

それはまだ、この時は知る由もなく。




Jはベースを担ぎ直すと、スギゾーの店目指して歩き出し。
ぼんやりと、呟いた。



「隆一に聞いておくかな」

「探してる奴の背格好とかさ」


隆一に協力するなら、それは必須だろうと。


「ーーー…」


もう一度振り返り。
もう見えない、先程の人物を。
脳裏の中の片隅に、その面影を焼き付けた。















「お、よう!」

「真矢、空いてる?三名」

「空いてるよ~!いつだって空いてるよ!でも三名?珍しいなぁ、今日はJと二人じゃないんだ?」

「そうだよ、ニューフェイス。ーーーほら、こっち座んなよ」

「ーーーこんばんは、お邪魔します」

「俺とJの間に…隆一ね」

「ぅ、うん!」




慣れた様子でカウンターの席を引き寄せて。
二人の間に隆一。
快気祝いと、歓迎会。
今夜の主役は隆一だからと、スギゾーが隆一を連れて来たのは店舗兼自宅から近いレストラン・バーだ。
そこはスギゾーの幼馴染の真矢が店主の店で、昼間はレストラン。夕方からはバーも兼ねる店だった。

隆一の登場に真矢は目を丸くした。
長身のスギゾーが大柄なJと連んでいる場面ばかり見ている真矢にとって、隆一は華奢にも見える上に可愛らしく思えたのだ。



「なんだよオマエら、いつの間こんな素敵な友達を…」

「数日前だよ。ちょっと出会った時に風邪ひいてたから、暫くうちで滞在する事になってね。風邪も無事治ったし、快気祝いと歓迎会」

「そうなんだ!ーーーこんばんは、俺はここの店の真矢っていうんだ」

「はじめまして、隆一です。ーーー少しの間、この街でお世話になります」

「ゆっくりしてってよ!ここにもいつでも来てね!」

「ありがとうございます!」



朗らかな真矢の人柄に隆一はすぐに彼のことも気に入って、彼の店も料理も美味しくて嬉しくなった。










カラン…



強いお酒はあんまり得意じゃないんだと言う隆一の為に真矢が作ったのは、桜のシロップの入ったカクテルだ。
底に行くにつれピンク色のグラデーションが美しい、今の季節にぴったりのカクテルを、隆一は顔を綻ばせながら美味しそうに口に運ぶ。

ーーーその隣で、Jはウィスキー。
すでにライブの打ち上げでだいぶ飲んできたからと、一杯のグラスをちびちびと傾ける。
そして、そういえばと。隆一に問いかけた。





「ーーー隆一の探してるひとってさ、」

「ーーーーーイノちゃん?」

「ん、なんかさ。聞いとこうと思って。背格好とか、よくする服装とか」

「ああ、そうだよな。隆一の人探し、俺らも協力したいしな」

「ーーーありがとう。本当に、親身に接してくれて」

「遠慮すんなよ。ここにいる間は、何でも話してな」

「うん!ーーーイノちゃんの背格好…かぁ。ーーー背は…俺と同じくらいかな…」

「うんうん」

「ーーー髪はね。よく色んなヘアスタイルをするひとだから、今がどんなのかは、ちょっとわからないけど。ーーーでも一番多いのは明るい茶色の髪。それに黒のハットをよく被ってる」

「ーーーえ、?」



隆一の説明に、Jは思わず素っ頓狂な相槌を打ってしまった。


(…明るい茶髪。ーーー黒のハット…)

(ーーー背は、隆一くらい……?)



ちょっと待て。
俺は見たぞ、そんな奴。
しかもついさっき…だ。



「それで⁈」

「ぇ?」

「例えば持ち物とか」

「持ち物?ーーーうー…ん。ーーーイノちゃんはギタリストだから、ギターケースはよく持ち歩いてるかなぁ…」

「ーーー」




Jは何故か。
あの夕暮れの通りで見かけた彼を思い出していた。
パッと冴える頭の端。
刻みつけたその背格好。
何よりも。
勘というのか、よくわからないけれど。
曲がり角に消えるまで追い続けてしまった視線のわけが、隆一の語る言葉に耳を澄ませれば結び付くような気がして。



「ぁ、のさ。ーーー」

「ぅん?」

「ーーーその、そいつ…」




さっき、そんな奴を見かけた。ーーーと、言おうとして。

ーーーーー言いかけて…。Jは口を噤んだ。



「……」



確信が持てなかったから。
何かピンと引っかかる感覚はあるものの、それが確かだと言い切れる自信がなかったから。

一年間もの長い時間を、たったひとりで彼を探してきた隆一。そしてそれは、彼を見つけるまで続くのだろう。
その孤独感や、気の遠くなりそうな感覚や。
時には絶望にも似た感情も持った事だろうと思う。

そんな隆一に。
一途過ぎる隆一に。
軽はずみに、見かけたかも…。なんて言葉は言ってはいけない気がしたのだ。

探す時間。想う時間が、長ければ長いほど。
歓喜と落胆の振り幅は、大きなものになる筈だから。



「や、ワリ。ーーーなんでもねぇ」

「?」



カラッ…!


Jは一気に飲み干した。


(ーーー今はまだだめだ。不用意には言えねぇ)

(ーーーアイツ。今日の、アイツ。ーーーもう一度、何処かで会えないかな)


もう一度。
もしももう一度見かける事が出来たら。
そうしたらもっと。
もっと集中して、記憶させて。
それからもしも話しかける事が出来たら…


隆一の人探しの、大きな進展になるかもしれない。





「なんでもない。ーーー飲もうぜ!」

「え?」

「真矢くん!隆一に付け麺‼」

「まいど‼」

「美味いぜ!真矢くんの麺料理」




ニヤッと、人懐こい笑みを向けながら。
Jは人知れず、拳を握りしめていた。











ーーーその翌日だ。




Jは道路のこっち側。
そして道路の向こうの、橋の上を。


「…っ…また、いた!」


服装こそ、少々違うけれど。
ギターケースを持って、颯爽と向こうの方へと歩いて行く人物。
あの時の奴だと、Jは慌てて向こう側へ渡ろうとするけれど。
天下の公道。
行き交う人々。
日中の、人通りの多い道。
あろうことか、Jは彼を見失ってしまい。

人を掻き分けて、ようやく彼が歩いていた道に出るも。





「ーーーっ…ぁあ、くそっ」


もう彼の姿は、見えなくなっていた。

























……………………




「イノちゃんのギターはイノちゃんにぴったりだね」

「ん?」

「すごくよく似合うもの」






壁側のスタンドに立て掛けられたのはギター。
イノランのギター。
〝F〟の刻印がヘッドに刻まれた、白と黒と。
二本のギターだ。

リビングに設えられたスタンドの中央二箇所は、この白黒の二本のギターの定位置だ。
だからいつも隆一だって見慣れている筈なのに、まるで真新しく見つけた!とでも言うように、ギターを見つめる隆一の瞳はきらきらしている。



「同じ形だけどカラーが違うでしょう?音もちょっと違うよね?白いのも黒いのも、どっちもイノちゃんによく似合うね」

「隆にそう言ってもらえると、すげぇ嬉しいな。ーーーどっちのギターも思い入れがあるし、めちゃくちゃ大事で大好きなギターだからさ」

「ふふっ、うん!」




いつかの、二人の住む家で。
小さいながらも、二人一緒にいられるこの家が何よりも落ち着けて。
好きなひとと、好きな楽器達と。
イノランと隆一は、幸せな日々を送っていたと思う。





「あ、でもね。隆ちゃん」

「ぅん?」

「こっちの白の方は、隆ちゃんにも似合うと思うよ」

「ぇ?」

「だって俺の中の隆のカラーは白だからさ。ーーーこいつを隆が持って弾いたら…って思うと、」

「ーーーー俺…が?」

「やばいよ。想像するだけで萌えて悶えそう」

「っ…萌…⁇」



そんな会話をしては、イノランはにやりと微笑む。
冗談なんだか本気なんだかわからない事ばかりいうのはイノランの常だけれど。
冗談だとしても、隆一をおおいに照れさせるのには充分で。
そんな隆一の反応を見ては、イノランは内心で愛おしさを募らせる。

そう。

イノランは隆一を誰よりも愛していて。
そして隆一も、イノランを愛していた。



「くくっ、」

「あ、なに笑ってんの⁈」

「ーーーくっくっ、ーーーいや、もぅ…可愛いなぁって」

「っ…イノちゃん、」

「悶え死にそう、勘弁してよ。ーーー隆、」

「…ぁ、」

「おいで。ーーーほら」



お世辞にも広いとは言えない家で。(音楽をする二人は、広さよりもしっかりとした防音の効く部屋のある家を選んだ)
リビングはテーブルと椅子と棚を置いたらいっぱいな部屋で。(でもイノランの希望で無理矢理二人掛けソファーは置いた)
二人で充分使える小さな冷蔵庫と、食器棚。
中に入れる食器も、大小の皿と小鉢の器と、マグカップ、カトラリー。それがそれぞれふたつずつ。
寝室だって、ベッドがひとつ。
そこでいつも寄り添って眠る。
窓にかかるのは薄いブルーのシンプルなカーテン。
その窓辺には、隆一が花屋の片隅で忘れられていた小さな鉢に植わったグリーンがちんまりと飾られて。(店頭にあった時は枯れかけだったグリーンは、今やシャキッと若葉をつけている)

ーーーそんな二人の棲家で。

イノランは、ギターを熱心に眺めていた隆一の腕を引いてーーーーー




キシッ…



ソファーに倒れ込む。
隆一を抱きしめたまま。



「ーーーん、やっぱちょっと狭い?」

「っ…狭…とか、そーゆう場合じゃ、」

「俺に押し倒されてるから?」

「っっっ…ハッ、ハッキリ言わないでよ!」

「照れてんだ」

「ぅぅ…」

「そーゆうのが可愛くて堪んないのに、幾ら言っても気付かない隆が可愛い」

「可愛い可愛いって、可愛いしか言えないの⁈」

「だって仕方ないじゃん」




…ギッ、



「愛してんだから。ーーーお前を」



「っ…イ、」



…ノちゃん、と言い終わる前に。
隆一の言葉はイノランの唇に飲み込まれてしまって。
まるでリップを塗るように隆一の唇を舌先で触れると、イノランの腕を掴む隆一の指先は熱くなって震えた。



「ーーー可愛い、」

「んっ…ぁ、」

「好き。…隆、ほら、」

「ーーーふぁっ…ん…」

「…は……りゅう、」

「んっ、ぅん…ぁ、」




深く唇を重ねて。
狭いソファーの上で、イノランは器用に隆一の服をはだけさせてゆく。
白い肩を撫でて、ゆっくりと、シャツを脱がせて。
露わになった鎖骨から胸まで、何度も何度もキスをおとす。



「…っ…ぁん、」

「ーーー隆、」

「んっんん…」

「わかるか?…ほら、」



服越しに隆一のそこに押し付けてくるイノランのモノは、苦しそうな程に主張していて。
それがわかって、濡れた目で見つめる隆一を、イノランは優しく微笑む。



「イノちゃん…」



それが隆一の返事。
ーーーいいよ。
その意味で。

イノランは、隆一の脚を割り開くと、熱い互いのそこを繋げて、緩く激しく動いた。







キシッ…ギッ、

小さいソファーが軋む。
二人で寝転んだら、隙間なんてできない場所で。
ーーーでも、それがいいのだろう。
二人にとって、たった一瞬でも温もりを感じていることが、この上ない幸せだから。



「ぁ っ… あ、イっ……」

「ーーーっ…りゅ、」

「あ ぁ んっ… っはぁ 好…」

「…隆っ…」

「ーーーっ…き、ぃ…」

「俺、も…」



愛してる。
あいしてる。



音楽も、君も。

それだけが、イノランと隆一の、全てだった。
















夕暮れ。


窓から見える桜の木は、膨らみ始めた蕾でいっぱいで。
身体を重ねた後の、はだけた格好で。
気怠げにイノランの腕の中で外を見つめる隆一は、呟くように言った。




「……あと一週間後には咲いてるかなぁ」

「ーーー桜?」

「ん、」

「満開まではいかなくても、きっと咲いてる」

「うん、」

「ーーー見に行くか?」

「ぇ、?」

「桜。ーーー二人でさ」

「っ…うん」



隆一が気怠さも忘れて、パァッと破顔すると。



「約束」


そう言って、イノランは恋人にキスをする。
最初から深く重なる唇。
すぐに再び、身体が熱くなる。


「っ…んっ、」

「ーーー約…束、」

「ふ、ぅっ…」

「…な?」

「ーーーんっ…ぅん、」




春夏秋冬。
二人で、いつも。

手を繋いで、気持ちを重ねて、音楽を奏でて。

離れるなんて想像もしなくて。



約束した桜も、絶対に一緒に見られると思っていた。








ーーーでも。














その数日後。
朝、目覚めた隆一の側には、イノランはいなくて。
そこに在ったのは、白いギター。
彼が愛する、白黒の片われ。



「ーーーーーイノちゃん…?」









桜の季節。
その日から。
隆一のひとりきりの旅は始まったのだ。










…fu…la la…la…♪




隆一が歌っている。
スギゾーの店の前を箒で掃きながら。

掃除や買い物。
それらは隆一が申し出た事で。
ここにいさせてもらう間の、せめてもの…と。
しかし実際は、買い出しやら調理やらは全てJ任せだったスギゾーだから。
隆一の手伝いの申し出は、スギゾーよりも寧ろJの方がより喜んだ。





lala…♪


そして歌う。
歌…というか、ハミングだ。

散ってしまった、地面の上をピンク色に染める桜の花びらを丁寧に集めながら。



la…la la…la la…♪


そして時折、青空に映える、まだ盛りと咲き誇る桜を見上げながら。



…la la…




この曲は、なんの曲なのだろう?
そんな様子を、隆一に付き合って店頭のベンチに腰掛けるJはぼんやりと眺めていて。


カコン。


隆一が買い出しで買ってきてくれた炭酸飲料の空き缶を、ベンチの脚辺りに置いた。





「J」

「んー?」

「…空き缶、」

「わぁってるよ。ちゃんと持ってくって」

「ーーーポイ捨てかと思っちゃった」



くすくすと箒を抱えながら微笑む隆一を見て。
ポイ捨てなんかするかっての…。と、Jは肩を竦めて、置いたばかりの空き缶を手に持ち直した。




「ーーー…」



la…lala…♪



そして、再び始まるハミング。
やはりこれは、さっきと同じ曲。
同じ曲だとすぐにわかるのは、それだけ耳馴染みの良い曲ってことで。
ーーーそして。
初めて聴くJにとっても、心に残るメロディーなのだろう。




la……lala…la……lala…♪



なぁ隆一。
それは何の曲だ?



ーーーJは、そう問いかけようとして。


「……」


聞かなかった。


歌う隆一の邪魔をしたくないと思ってしまったから。
何故ならその雰囲気が。
ここにはいない、隆一の言う〝イノちゃん〟との逢瀬の瞬間のように思ってしまったから。

桜と、青空と。
恋人達と。

この曲は、二人のものなのかもしれない。




だからただ一言だけ。
掃き終わりの隆一に、Jは呟いた。



「いいメロディーだな」



隆一は嬉しそうに、そしてちょっとだけ恥ずかしそうに笑った。




















ライブだ。

今夜はJが籍をおく地元のバンドのライブで。
J達の他にも、何組かのバンドやミュージシャンが演奏をするプログラムになっている。
街の外れの小さなライブハウスには、夕方からアーティスト達が集まって盛り上がっていた。




順番はクジ。
仲間達から背中を押されてバンド代表でクジを引く事になったJだったが。
引き当てたのは、なんとトップ。
だれもがトリを望む中での…一番最初。
Jは悪りぃ…と、苦笑い。
しかし始まってみれば順番なんて関係なくて。
J達のバンドはおおいに盛り上がって出番を終えた。










「おつかれ~」



最後までステージを楽しんで。
ほかのアーティストとも握手を交わして。
またどっかで演ろうな!と、約束も交わして。
深夜ちょっと手前の時間には、荷物をまとめてライブハウスを出る。





「…ぅー。やっぱまだ夜は冷えるな」


春の夜は、日中どんなに暖かくてもまだ寒いものだ。
背負ったベース入りのバッグのお陰で背中は温かいけれど。
Jはジャケットの襟元に鼻先を埋めて夜道を歩き出した。













la…lala…♪




「ん?」



じゃり、

Jは足を止めた。
アスファルトの砂利音が小さく響いてしまって、ぐっと爪先に力を込めて立ち止まる。


ーーー聴こえたから。

誰かの、歌だ。
ーーー低く落ち着く、声で。



ーーーla……lala…la……lala…♪



「…ぇ、」



Jは、その微かに聴こえる歌…。ハミングに。


「ーーーこれ、」



聴き覚えがあって。



la…lala…





この、歌。
この…メロディー。



昼間の、桜と青空と。
微笑む隆一の姿が。



Jがたった今視界に捉えた。
暗がりの桜の木の、小さな街灯の下に佇む…
誰かの、姿と、歌声が。




la…la…lala…





「ーーーーこの…メロディー…」




Jには、重なったのだ。




ーーーイノちゃんの背格好…かぁ。ーーー背は…俺と同じくらいかな…



ーーー髪はね。よく色んなヘアスタイルするひとだから、今がどんなのかは、ちょっとわからないけど。ーーーでも一番多いのは明るい茶色。それに黒のハットをよく被ってる。


ーーーイノちゃんはギタリストだから、ギターケースはよく持ち歩いてるかなぁ…















夜道に連なる桜の木の…その陰に。
Jはそっと、音をひそめて身を隠す。

背中に背負ったベース入りケースがぴょこんと木の陰から飛び出している事に気がついて。Jはそれも隠すように身を縮めた。






la…la la…♪



例の人物はJに気付くことなく歌う。
こんな夜更けに、人通りなんて無いと思っているのかもしれない。
夜道を照らすものは街灯しかないけれど、その人物が木の根元に凭れて腰を下ろしている事はJにもわかった。




ーーーlala…♪…



「ーーー」



Jはじっと、その歌に耳を傾けた。
やはりそれは聴いたことのあるメロディーで。
隆一が、あの時に口ずさんでいたもので。

もしかしたら。
Jがたまたま知らなかっただけで、既に世に出ている名の知れた曲なのかもしれないけれど。
ーーーでも、きっとそうではないと思う。
Jの、勘。

桜と青空の下で歌っていた隆一は、そのメロディーをまるで壊れ物のように密やかに大切に歌っていたように思えたし。
ーーーこの、木の根元にいる人物も。
低く、優しく。
まるで恋歌のように、このメロディーを愛しんでいるように思えて。
春の空と、ちらちらと散る桜がひどく似合って。



(チャートを賑わす曲とか、人気誰それの曲…とかじゃなくてさ)



もっともっと、大事なもの。
言葉の代わりに贈り合い、語りかける。
愛を囁くような、そんな曲。






(ーーー聴いちゃ悪いかな)

(それに俺。…こんな身をひそめて見てたりすると)

(…探偵かよ…?みたいな、)



桜の木の陰で、一人ツッコミ虚しく…。
気になるとはいえ、こそこそしてんのは柄じゃないと、そう思った時だ。







「ーーーそこで聴いてんの、誰?」



ギクリ。


「さっきからそこにいんの知ってる。ーーー誰?」

「っ…」

「ーーーーーー名探偵…とか?」







じゃりっ。




「ーーーや。悪りぃ。ーーーつい、」

「背、高いのに。よく隠れられてたな」

「ーーーまぁ。器用な方なんで」

「器用?隠れんのに器用不器用って関係あんの?」

「んー。ほら、不器用よりは、」

「あぁ、まぁ。そっか」



よくわかんねぇ会話だな…って、言ってる自分に苦笑しながら。
でも、そんなわけわかんない会話にちゃんと返事してくれる相手に、Jは早速好感を持ってしまって。
姿を晒したんならもういいかと、遠慮なく、Jは相手との距離をぐんぐん詰めた。





「ーーーーーあのさ、」

「ん?ーーーぅわ、お前近くに来るともっと背、高く見えるな」

「お前がしゃがんでるからじゃねぇの?ーーーまぁ、デカい方だとは思うけど」

「そっか。…一日中歩き回ってたから疲れてさ。座ったままで勘弁な」

「別にいいよ。ーーーーーーーーあのさ、」

「ん、?」

「さっき歌ってた曲、」

「ん、あぁ」




「いいメロディーだな」




さぁっ…



ちらちら…ちら…





一陣の夜風が心地よく吹いて。
一瞬の間ののち、雨のように花びらが散る。



いいメロディーだな。
それはJが。青空の下で隆一にも言った言葉だ。
ーーーこのメロディーに対する感想を、同じ言葉で。
伝えたいと思ったから。





「ーーーーー…」



ちらちらちらちら…



しゃがむ人物。
ーーー彼の髪に。
桜の花びらがいくつも落ちる。
それをJは目で追いながら、彼の様子をじっと見つめた。



(ーーー髪、茶色だな。ーーーガタイは、多分…座ってるからおおよそしかわからんが…デカいって方じゃない。ーーー黒のジャケット。ーーー)


そして街灯の小さな明かりに目を凝らして見ると、傍のコンクリートの上に黒のハット。ーーーそれから、





「ーーーーーそれ、ケース」

「ん?」

「楽器、ギター…か?」




Jは彼の側に置かれた大きな荷物。
それが楽器を入れるケースだとわかると、目当てのものを探す。
ケースの表面に、擦れてはいるけれど…見つけた。
〝F〟のロゴ。
まるで火花が散ったように、ここ数日の事の点と点が繋がる感覚を覚えて。




(ーーーそうだ、コイツ…間違いない)

(あの、俺の前を通り過ぎた…)




何も聞いちゃいないし確認も何もしていないのに。
もう、そうだとしか思えなくて。
Jは目を見開いて、背筋が武者震いして。

このタイミングと。
与えられたチャンスを逃すわけにはいかないと。




「っ…ちょ、何、」

「なあっ…‼」

「ーーーっ…な、に…⁇」



Jは、まだ名乗り合いも、はっきりと顔も見てない相手の腕を。
ぎゅっと。
渾身のチカラを込めて。
逃すまいと、掴んでいた。






〝ーーーイノちゃん…〟




隆一の、切なそうに微笑む顔がJの脳裏を過ぎったから。




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