桜雨










彼は託した。
愛する者に、愛すべき印を。
遠く離れても、どれほどの間、会えなくとも。
いつか再会が叶う時の、目印として。











ざああああぁぁ…



ばしゃっ!
ぱしゃぱしゃぱしゃっ…




「…っ…はぁ、はっ…」



誰かが駆けてくる。
今夜はひどい雨だ。
その、雨音ばかりが聴こえる夜道を。
咲き誇り始めた薄紅の花の道を。
雨に濡れて、散ってしまった花弁に染まる道を。




ばしゃっ…ばしゃばしゃ…



「ーーーーーはっ、ぁ…はぁっ…」



息急き切って。
傘もささずに、濡れるのも厭わずに。



「はぁっ…ぁ、」

「ーーーーーっ…はっ…」



雨で滲む街灯の下。
その者…彼は。
ドッと脱力するように街灯の柱に背を預けた。
ずっと走ってきたのだろう。
身体はずぶ濡れになり、髪の先からは水滴が滴っている。
整いきれない呼吸の隙間から、春とはいえ雨で冷え切った外気に白い息を吐き出した。


ーーーなのに。
そんな状態でありながら。
彼は自身の羽織るロングコートをぎゅっと抱きしめる。
ーーーコートの中の…懐の辺りに何か隠しているのだろうか?
ここからは見えないが、それだけは決して濡らさないとばかりに抱きしめる。
自分はどれだけ濡れようが…だ。



「ーーーはぁっ…ぁ、」


「ーーーーーーは…ぁ…」



ーーー次第に落ち着いてきた呼吸。
俯いていた視線を、ようやくゆっくり上へあげる。

ぽたん…ぱたん…。


水滴が彼の前髪から頬を伝う。
綺麗な黒髪だ。
街灯の僅かな明かりでもわかる、上気した頬。
やはりずっと走ってきたのだ。


ぽたっ…


伝う水滴は、まるで彼の涙に見える。
ーーー泣いてはいないけれど。
でもこの時の彼は、心の中では啜り泣いていたのだ。


ーーー会いたくて。

それだけを想って、彼は駆け出していたのだから。
あてのない、終わりの見えない。
そんな旅を、たったひとりで。
























スギゾーはこの街の、たった一軒の楽器店の店主だった。
主に自身が集めた楽器を並べる店。
スギゾーの性格から、拘りに拘り抜いた逸品ばかりが並ぶ店だから。
それ故にマニアック過ぎる物も多く、日々の来客数はさほど多くはなかった。




「俺の店は売り上げ重視じゃないんでね」



負け惜しみかよ。…と、いつのまにかこの店の常連になっていたベーシストのJが、客のいないガランとした店内を見回して肩を竦めた。


「お前がいるじゃん」


スギゾーは手に入れたばかりのギターのボディにワックスをかけながらニヤッと笑う。
Jも初めてここへ来た時は胡散臭気にスギゾーに話し掛けていたものだ。
それがこうして常連になるようになるまで大して時間もかからず。


「気にいる奴が気に入ってくれれば、俺はそれでいいの」


それがスギゾーの口癖だった。


「俺だって別にいつも〝お買い上げ〟するわけじゃねぇだろーが。実際お前経営成り立ってんのか?」

「お前に俺の経営がどーの言われる筋合いないの。だから言ったでしょ?ここは俺と音楽が居心地良い場所であればいいの。それに共感して通ってくれる奴がいれば、それでよし。ーーーお前みたいにね」

「ーーーあ、そー」




機嫌良さげにギターの手入れをするスギゾーを眺めながら、Jはもう一度肩を竦める。
この店も、スギゾーも。Jが気に入っているのは確かなのだ。




「しっかし、ホントに客こねぇなぁ」

「まぁ今日雨も降ってるし、もう夜も遅いしね」

「そろそろ店仕舞いか?」

「そうだね。ーーー飲み行く?いつものバー」

「いいね。飯もまだ食ってねぇし」

「じゃあこれ終わったら行こうか。J、悪いけどcloseのプレート出しといて」

「ーーはいはい。人使いの荒い店主で…





バタンっ!



「ぇ、」



「すっ…ーーーすみま…」

「ーーーっ…?」

「すみませんっ…!ーーーまだ、」

「ーーーーーー」

「開いてますか⁈…お店、」

「ーーーあ、あぁ、」

「っ…良かっ…‼ーーーここ、楽器屋さん…ですよね⁈」

「…そ、だけど、お前…」

「ーーー良かった…っ…」

「ずぶ濡れじゃないか… 。傘もささずに走って来たのか?」

「ーーーーー俺はいいの、俺のことはっ…いいんです」

「…ぇ?」

「雨で濡れて…濡らしてしまった…っ…」




突然、スギゾーの店に駆け込んだ来たのはひとりの青年。
この雨に打たれてきたのか、ずぶ濡れで。
白いコートの中に大切に抱きかかえてきたのか。
そっと、コートを広げて。
抱きかかえていたものを、取り出した。




「ーーーギター…?」




縋るような表情の青年。
彼が抱きしめていたのは、白いギターだった。

















だいぶ使い込んできたのだろうか。
レリックが荒々しく入ったボディ。
けれでもゆったりした曲線が輪郭をかたどるその白いギターは、こんな雨の夜にパッと明るく目に映った。




「ーーーっ…お願い、雨で濡らしてしまったの。壊れていないか、確かめたいんです」



その青年はぎゅっと抱きしめていた白いギターを二人の前に差し出した。
楽器屋で寛ぐ二人は、この彼にとってはここの店員に見えたのだろう。



「おいスギゾー、見てやれよ。お前楽器のメンテナンスもお手のもんだろ」

「そりゃそうだけど…。ーーーん…いいよ、ほら貸して」

「ありがとう!ーーーお願いします」



ぽたっ…


「ーーー」


スギゾーがギターを受け取ると、最初に触れたネックの部分が温かかった。ーーーそしてボディも…。
彼がずっと抱え込んできたからだろうが。ーーーけれども対照的に、ギターを預ける際に伸ばした彼の袖口からは水滴が落ちた。

ぽたっ…ぽたん。

今もなお、彼の足元に水玉を作る。



「J、奥の部屋に新しいタオルがあんの。持って来てくれる?」

「おまっ…人使い…ーーー。ーーーまぁ、いいけど」

「ん。ありがと」



Jが立ち上がる間に、スギゾーは手早く側にあるアンプを引き寄せる。
シールドをギターの方にも繋ぐ。その作業の隙間で。

ちら…。

スギゾーは彼をそっと見た。


心配そうな顔してる。
まず、そう思った。
それほど大切なギターなのだろうか?と思うと、今預かっている白いギターの重みが増した気がした。


(華奢だな。ーーー白い肌、綺麗な黒髪。ーーー目、でっかい。ーーー唇とかさ、そこら辺の女より…)



「あの、大丈夫そうでしょうか…」


(声も。ーーーなんとゆうか、色っぽい…っていうのか)


「ーーーぁ、あの」


「ああ、平気だよ。ちょっと待ってね。ーーーん、ほら」



スギゾーは弦を弾いた。
するとギターは、ギターにしか出せない音を鳴らす。
それは即ち、白いギターの健在を示していた。

彼の顔に安堵の色が浮かぶ。
ホッとしたのだろう、ぺたん…と。脱力したように床にへたり込んだ。



「ちょっ…平気?」

「大丈夫です、ごめんなさい!安心したら、力抜けちゃって」

「ーーーちょっと雨に濡れるくらいじゃギターは死なないよ。ーーーホントに、」

「え、?」

「大事なんだな、このギター」


こくん…と、素直に頷く彼に微笑みながら、スギゾーはギターもじっくり観察した。
ヘッドに〝F〟の刻印を見つけた。
ここも随分擦れているけれど、この刻印をもつギターがどんなものかスギゾーも知っていた。
そのルックスと、その生み出す音で。
その工房で大切に作り上げられるギターを愛するギタリストは多く、憧れる者も多い。

しかし…と。
スギゾーは首を捻る。



「お前…裸のまんまのギター抱えてたの?ケースは?」

「っ…ぁ、」

「持ち運びはケースに入れた方がいいぜ。故障の防止にもなるし、何より…」

「ーーーっ…」

「ーーーーー?…どうした?」

「…あの、」

「うん」

「ーーーーー持ってたんです、最初…は」

「ーーーえ?」

「…俺、この街。ーー初めて…来て、」

「ーーー」

「ーーー知らなく、て」

「ーーーーーーーお前、もしかして」




この街の治安は良いとは言えなかった。
昼間はそれでも人通りも多く、パトロール中の警官もよく見かけるから平気なのだが。
こと、夜になると話は別だった。
スギゾーの店のある表通りの、奥の通り。
そこは隣街からこの街を通り、さらにその次の街へと通り抜けられる抜け道になっていた。
そこは夜になると悪漢共の溜まり場になり、夜間も移動を続ける他所者達を狙っている場所でもあった。



「なんかされた⁈怪我とか、何か盗られたとかない?」


スギゾーはその可能性を感じて、その彼に詰め寄る。
見たところ外傷は無さそうだが、こんな雨降りの夜に飛び込んできたところを考えると…




「ーーーギター…。盗られ…そうに、なって」

「ーーーっ…」

「向こうは大勢、で。ーーーでも、」

「ーーーん、」

「このギターだけは、絶対、渡すわけにはいかないから」

「ーーー」

「隙を見て、ギターだけコートに隠して。ーーーケースは、その時」

「そうか、」

「その後は、どこをどう走ってきたのか覚えてない。ーーーでも、絶対にこのギターは守らなきゃいけないから。服に隠して、濡れないように。アイツらに、捕まらないように、走って。ーーー夜の、くらい道に」

「ーーー」

「このお店の、看板が、見えて」

「musicって、見えて。ーーー駆け込んだんだ」




するりと、彼の指先がギターの弦に触れる。
微かな音を響かせたギターは、その無事を彼に伝える。


ぽた…


彼の頬を雫が伝った。
それは雨粒か、それとも…

スギゾーがなんとも言えない気持ちで彼を見つめる中で。




ぐらり。


彼の身体が傾げた。
思えばさっきから頬が赤いと感じていたけれど…



「おい!」


スギゾーは彼を咄嗟に受け止める。
片手ではギターを落とさないように、もう片手で彼の肩を支えた。


「っ…はぁ、は…」


呼吸が荒い。
さっきよりも頬がさらに赤く見える。
スギゾーは彼の額に触れた。
びっくりするほど熱くてスギゾーは息を飲む。



「雨ん中、走ってきたからっ…」


そのタイミングで。
奥からJがのっそり戻って来た。


「スギ、お前の部屋わかりずれぇよ。タオル一枚見つけんのどんだけ…

「J!追加!着替えと毛布!あとコイツ寝かせるから散らかったソファー片付けてきて!」

「あぁ…⁇」




安堵と。それから冷えと、ここまでの心労で。
彼…隆一は、熱を出して倒れてしまった。

ここは安心できる場所だと、本能で悟ったのかもしれない。






















ーーーイノちゃん…



ねぇ、イノちゃん…








いま、何処にいるの?









会いたい…よ…










彼の指先はいつもそうだった。
繊細にギターの弦を爪弾き。
焦らすように隆一の裸の肌に触れた。
愛するものを輝かせて悦ばせる、それが最高の方法だと知っていたように。





「ーーーっ…イ…ノ、ちゃ…」


「イノ…」



「…ぁっ…はぁ…」












倒れ込んだ彼…隆一は、スギゾーの店のソファーに寝かされて…熱に浮かされていた。
雨の中を濡れながら走り抜けた隆一は熱を出してしまったのだ。

















「ーーー下がんないね。…熱」



スギゾーは傍のJに呟いた。
Jは、ああ…。とだけ返すと、キッチンから新しい氷を持ってやってきた。
先程から隆一の額の氷を何度も交換してもすぐに溶けてしまう。
しっとりと水を含んだタオルをぎゅっと絞って、新しい氷と共に隆一の額に乗せる…を、二人は小一時間も繰り返していた。



「ーーーんっ…」

「…辛そうだな」

「しかもさ。ーーーさっきから、なんか…」

「っ…イ、」

「ーーーほら」

「ぁ…っ…は、ぁ…イノ…ちゃ、」

「ーーーうなされてんだ」

「ーーー〝イノちゃん〟って、誰だろうね」




寝かせてから、度々隆一の口から溢れる、誰かの名前。
それはもちろん、うなされて、無意識のものなのだろうが。
無意識だからこそ、偽りの無い気持ちのこもったものなのだろう。

〝イノちゃん〟

その名前が隆一の唇から溢れるとき、隆一の表情は切なく泣きそうに歪む。
眉根を寄せて、形の良い唇をぎゅっと噛み締めて。




「…ぁ?ーーー」

「どうした?」

「ーーーこいつ、」


「っ…ん、ぅ」


「泣いてる」




閉じた瞼に、丸く水滴が生まれて、それが目尻を伝って落ちる。
涙。
こうして眠りながらも、泣かなければならない理由があるのだろうか?と、スギゾーもJも、ただ隆一を見つめるしかできなかった。








夢幻なのか、実はまだ現実の、桜咲く雨の中を走っているのか。
熱で朦朧とした隆一には、今は判別ができなかった。

ただ、夢の中でも。
追いかけるので精一杯で。



〝隆〟

〝隆一〟

〝お前に預けるよ〟

〝俺のギター。俺が心底愛してるギター〟

〝ひとでは隆が一番だけど、ものでは、このギターが一番〟

〝愛してるから〟

〝お前もギターも、愛してるから〟




「…イ…ちゃ、」



〝だからさ〟

〝俺は絶対、見つけられるよ〟


〝離れていても〟


〝この世界で、俺が一番愛してる存在だから〟
























「ーーーぁ、」



真夜中だろうか。
隆一は、ゆっくりと瞼を開けた。



「…ここ、」


見慣れない天井。
小さな照明ひとつが、部屋を温かく照らしている。


「ーーーっ…ぅ、」


周りを見渡そうと動かした頸部は、気怠さで呻き声をあげた。
高熱が出たから、節々がまだ痛むのだ。
その痛みで、隆一は徐々に思い出す。

雨の中を走って、その行き着いた先は楽器店。
濡らしてしまったギターの無事をどうにか確かめたくて駆け込んだのだと。
そしてそこの店員に、大丈夫だよと言ってもらえて。

ーーーなんだか急にだ。
ホッとして、ドッと疲れが押し寄せて。



「ーーーそ、だ。…俺、」


「熱…」



気怠さをおして、それでも向いた横。
そこには。
ずっと付き添ってくれていたのだろう。
ここへ来た時に初めて出会った、二人の青年が。
テーブルに突っ伏して眠りこけていた。







スギゾーはフト、目を覚ます。
視線を感じて、突っ伏して微睡んでいたテーブルから顔を上げた。

ーーーすると。




「…あ、」



ぼんやりしていそうだけど、でもしっかりと見つめる目。
さっきソファーに寝かせた、例の彼が。
横たわったまま。スギゾーとJの方を向いていたのだ。





「おはよう」

「ぁ、」

「具合はどう?すごく熱が出てたんだぜ」

「ーーーだいぶ、いい…です」



うっすらと微笑んでいるように見えて。
スギゾーはゆっくり立ち上がって、彼の元へ寄ると。
ちょっと触るよと、前置きをして。
彼の黒髪を分けて、ヒタ…と。その白い額に手を当てた。





「ーーーん、まだ熱いけど…」

「熱い、ですか?」

「でもさっきよりはずいぶんいいね。倒れた直後は、何度も氷を交換してもすぐだめになってたし」

「ーーーぁ、」

「?」

「…ご迷惑をお掛けしてしまって、」

「ああ、いや」

「貴方のお友達も…。見ず知らずの俺にこんなに親切にしてくださって、ありがとうございました」

「ううん、全然」

「…でも、」

「放っておけないでしょ?こんな雨降りの夜にさ」

「ーーー」

「俺も、まぁ…それからアイツ、Jっていうんだけど。あ、俺はここ店主のスギゾーね。アイツは常連客でいつもここに入り浸ってるベーシスト。ーーー俺らこんな一見怖そうなビジュアルだけどさ」

「え?…そんな怖くは…」

「でも外歩いてたら避けたいなぁって思うような感じでしょ?ーーーでも自分たちで言うのも何だけど、こう見えて心根は優しいからさ」

「!」

「自分で言うなって!感じだけどね?でも君がここに飛び込んできた時助けたいって思ったしさ。君の持ってたギターも、君のこともね?」

「ーーー」

「まだ全快じゃないんだから、良くなるまではここでゆっくりして行きなよ」

「っ…そん、」

「いいの」

「ーーーでも、」

「いいんだって。ーーーな?J」



スギゾーは後ろで寝ているJにさも当たり前のように声をかける。
先程までのスギゾーと同じようにテーブルに突っ伏すJに…だ。
まだ寝ている様子…だが。
そうではなくて。





「ーーー寝てる人間に普通に話しかけんなっての」

「でも起きたでしょ?」

「起こされたんだよ!お前に!ーーーったく…」



ぼりぼりと金髪を掻きながら、Jはのっそり起き上がる。
そしてソファーの側まで来ると、やはりその派手なビジュアルには意外?な、人懐こい笑みを浮かべて言った。



「まぁ、そんなわけで俺はJってんだけど。ーーーお前は?」

「ぁっ…ーーー俺は、」

「ギタリスト?」

「…いえ、いいえ。ーーー俺は、隆一っていいます。ーーーギタリストではありません」

「そうなんだ?ギター持ってたからてっきり…」

「…少しはギターも弾くけど…俺は歌うほう、で。ーーー」

「‼そっか!お前…隆一の声を聴いた時に思ったんだよな。いい声!って」

「あ、ありがとう」

「ーーーん。じゃあ、その白いギターは?」

「っ…」

「すげぇ大切そうに抱えてたもんな。確かにそのヘッドの刻印見ればめちゃくちゃいいギターだってわかるけど。ーーーでも、それだけじゃなさそうだよね?」

「ーーー」

「もっともっと、大切にする理由が…あるんじゃない?」




もっともっと。
大切にする理由。



二人からの問い掛けに、隆一はぎゅっと唇を噛んで。
ソファーのすぐ側の壁に立て掛けられた白いギターを見つめると。

ーーー次第に。




ぽろ…



瞼が熱くなって。
視界が潤んで。
堪えようと、無理に何度も瞬きをするけれど。
我慢ができなくて。


ぽろ、ぽたん。


次々と、隆一の瞳から溢れた雫は。
頬を伝って、毛布をぎゅっと握りしめる隆一の手の甲に落ちた。



「ぅわっ…泣い…」

「お前っ…スギが泣かせたんだからな⁈」

「ええっ…俺のせい⁈Jだって!」

「ひとのせいにすんじゃねぇよ!」

「お前こそ!」



突然涙を零す隆一を目の前にして、二人は大慌てで。
ーーーけれども。

二人の優しさに触れて、白いギターの姿を改めて見た時に。
隆一は込み上げる胸の熱さと、溢れる涙を。
止める術がわからなかったのだ。










「ほら」

「ぁ、ありがとう」




店舗の中のプライベートエリアとはいえ、スギゾーの店の奥のこじんまりとしたダイニングキッチンには、ここにも所狭しと楽器が並ぶ。
テーブルセットとソファーと。
小さなカウンターキッチンと…楽器がずらり。
スギゾーもJも背が高い上に、今夜はここに隆一も加わるものだから。
なんだかものすごく、ぎゅっと楽器たちに包まれている気がしてならない。

ーーーそんなダイニングの、テーブルに。
家主のスギゾー…ではなく。常連客のJが淹れたコーヒーが美味そうに並んだ。



「いる?これ」

「あ、はい!いただきます」

「ん」



二人は基本使わない、シュガーとミルクをJは隆一にすすめる。
隆一は目を丸くして、ミルクに手を伸ばした。




「ーーー美味しい。…ホッとする」

「そ?そりゃ良かった」

「悔しいことにここのキッチンにあるものはJのが詳しくてね」

「…マジでなんでだよ?って感じだけどな。スギゾーがしなさ過ぎなんだよ、キッチンの…。俺が補充しなきゃ食材も揃わねぇしよ」

「Jが上手いから預けてんだよ。お前の淹れるコーヒー美味いしさ。ーーーあ、飯も美味いぜ!明日の朝食楽しみにしとけ」

「…あのぅ…俺帰れねぇの?ーーーま、いいけど」



いつの間にやら宿泊決定させられたJはやや苦笑い。
しかし隆一の様子も気になるから、Jはすぐ様スギゾーの言葉に頷いた。



「ーーー仲が良いんですね、スギゾーさんと、Jさん」

「いいよ、呼び捨てで。そんな歳も変わんないでしょ?俺らも隆一って呼ぶからさ」

「っ…ぁ。ーーーはい、じゃあ」

「うん」

「ーーースギゾー、と。J」

「はいよー」

「まぁ、音楽がくっつけてくれた悪友同士って感じ?」

「別に悪さはしてないけどさ」

「常に音楽談義、楽器のアレコレで。まぁ、楽しいけどな?」

「ハハッ、そうそう」



「ーーーーー」



そんな二人を見て、隆一はぎゅっとマグカップを握りしめる。
淹れたてのコーヒーの温度が隆一の手のひらを熱くさせるけれど。
それ以上に、隆一の胸の内はじん…と熱くなる。

ーーー懐かしくて。
楽器に囲まれながら、仲良さげに、時には冗談も言ったり…そうゆうのが。





「ーーー仲良いんだ。ーーー二人」



隆一はもう一度言った。
そしてそれを聴いた二人は、今度は隆一の話聞かせてよと、請う。



「隆一は、どこから来たの?ーーーこんな雨降りの夜にさ、ギター抱えて、自分は濡れても、ギターは守るって…なんで?」

「スギゾーお前、ズケズケ聞きすぎ」

「だって気になるでしょ?Jだって気になるだろ?楽器を愛するヤツの事は放っておけないじゃん」

「ーーーまぁ、」

「知らなきゃ、協力も出来ないでしょ?」





白いギター。
それはどう見ても新品ではなくて。
かと言って、乱暴に扱われたという意味でもなくて。
たくさん弾いて、ケアとメンテナンスを繰り返して、愛されてきたギターだとわかるから。
剥げた塗装も、擦れたヘッドの刻印も、それ故にだと。
ーーーそしてそれを抱える隆一は、スギゾーから見ても、深い愛情に包まれているように思えてならなかったのだ。







ざぁあああ…



外の雨音がひときわ激しくなった。
雨の音が、大きくなる。

これじゃあ、咲いたばかりの桜も辛かろうと。
ぼんやり、そんな事がスギゾーの頭をよぎった時だ。



ぽつり、ぽつり。

隆一が、少しずつ。
話しはじめた。

自分の事。
ギターの事。
ーーーそれから





「あのギターは、俺のじゃないんです」

「ーーー」

「ーーー俺の、」





ざぁぁああああぁあ…




「俺の…好きなひと、の」

「ーーー」

「ーーー恋人の、ギターなんです」




「恋人…?」



それを聞いて、二人は。
あぁ、そうか。と、納得した。

自身が濡れるのも厭わずにギターを守っていた理由や。
隆一を纏う、必死さや、切なさに似た雰囲気が。

〝恋人〟というものが関わっているのだとわかると。
それだけで、この雨の夜の出来事に大きく頷く事が出来たのだ。








「ーーーその、恋人はさ」

「ーーーはい」

「ギタリストなんだな?」




こくん。
隆一は、スギゾーの問い掛けに素直に頷いた。



「ーーーそれってさ、」

「ーーーはい、」

「〝イノちゃん〟?」

「っ…‼…ぇ、」

「なんで知ってんの?って?ーーーずっとさ、隆一が熱で寝ている間に、うわ言みたいに呼んでたから」


ーーー泣いていたから、とは。
スギゾーは言わなかった。
なんとなくそれは、触れないでいてあげた方がいいような気がして。


「熱にうなされてまで呼ぶ名前って、大切なひとの名前なのかなぁ…って、思ってさ」

「ーーーっ…」

「イノちゃん、イノちゃんって、呼んでたよ。ーーーそいつが、その白いギターをくれたんだ?」

「ーーーーー純粋に、くれたんじゃ…ない、ん…だと、思う」

「え、?」

「あげるって、言われたわけじゃない。そうじゃない、」

「ーーー」

「ーーー朝起きたら、いなかったの」

「…いない?」

「俺が眠っていたベッドに、イノちゃんのギターが置いてあった。ーーーこの白いギターが。ーーー書き置きも無い、イノちゃんと一緒に眠る前にもいつもと変わった事も無かった。ーーーそれなのに、イノちゃんが目覚めたらいなかった」

「ーーー」

「彼の愛用の鞄も、靴も、帽子も…無くなってた。ーーー彼はミュージシャンだから、急に演奏の仕事が入ったのかと思って暫くは帰るのを待ってた。ーーーでも、帰ってこなくて」

「ーーー」

「ずっとずっと、帰ってこなくて」





ぽたん。

…ぱた。




ぎゅっと握りしめた隆一の拳。
頬を、再び涙が伝う。




「俺は、色んな可能性を考えた。はじめは事故とか、そうゆうのもすごく心配したけど。警察とかからの連絡も無かったし、じゃあなんだろう?って考えて」

「ーーーうん、」

「そのうちに、俺とイノちゃんの事が原因なのかなって、思うようになって。ーーー俺はイノちゃんの事が大好きだし、愛しているし。彼も、俺にそう囁いてくれて、愛してくれていたと思うけれど。ーーーでも、」

「ーーー」

「嫌いになったのかなぁ…とか、実はずっとずっと俺の存在が迷惑だったのかな、とか。ひとりの部屋にいると、そんな事ばかり考えてしまって。…苦しくて、悲しくて、会いたいのに、話したいのに、イノちゃんはいなくて。泣き過ぎて、もう涙なんかこれ以上…って思うのに、涙は枯れなくて。ーーー考えて考えて、堪らなくなって」

「ーーーっ…」

「俺はギターを抱えて、外に飛び出したんだ。ーーーそしたら、」

「ーーー」

「ちょうど、桜がね、」

「ーーーー桜?」

「俺が…俺とイノちゃんが一緒に住んでいた小さな家の側に桜並木があって。ーーーそれが、俺が家に閉じこもっている間に満開になってて」

「ーーー」

「毎年春にイノちゃんと散歩しながら桜を見てたけど、その時はひとりで…ギターを抱えてぼんやり歩いた。ーーーその時、思ったんだ」

「ーーーうん」

「ーーー自惚れていい…って。ーーーこのギターは、彼が心から大切にしていたものだから。ひとつとして、この世に存在しない白いギターだから。ーーーそれを俺の隣に残して姿を消すって…。それって、」





ーーーあなたが大切だからだよ。

ーーーだから大切なものを、大切なあなたに託したんだ。





「ーーー変だけど、幻聴だと思うけど。ーーー桜の声が聞こえた気がして。ーーーそしたら、ああ…そっか、って」

「ーーー」

「いなくなった理由は、わかんないけど。ーーー生命みたいに大切にしてたギターを預けてくれたんだから、それを持つのに相応しくなんなきゃって。ーーーお前はイノちゃんに大切に思われているんだからしっかりしなさいって、会えなくても愛し愛されているんだって、自惚れていいんだって。ーーーそう思えて」

「ーーー」

「飛び出したんだ。ギターを持って、彼を探す旅に」

「ーーー…」

「ーーーちょうどそれがね、一年前の、桜の季節」




「一年前…」


一年間もの長い間。
隆一はずっと旅をしてきたのだと思うと。
二人は、かける言葉がなかなか見つからなくて。
苦労も、きっとものすごくあったのだろうと思うけれど。

ーーーけれども。


隆一は、とても綺麗だと思った。
見た目だけじゃなくて、多分、心持ちが。
それはやはり、相応しくありたい。次に恋人に会えた時に、より良い自分でありたいと心に決める意志の表れだろう。






「ーーー隆一は強いね」

「ぇ、?」

「すごく、」

「ーーー」

「綺麗だし、凛としてて、素敵だよ」

「っ…そん、」

「なぁ?J」

「ん?ああ、」

「ーーー」

「…まぁ、なんつぅかな。ーーーとにかくさ」

「…?」

「しばらくは、ここにいろよ。ーーーずっと旅してきたんだろ?もし隆一が、ここは…俺らは信頼できるって判断してくれたらさ」

「ーーー」

「ちっとここで、羽休めていいんじゃねぇ?な!スギゾー」

「ーーー家主そっちのけで話進んでるけど…。そうだよ隆一、それがいい。そうしなよ」

「…で、も」

「頑張り過ぎて身体壊しちゃしょうがないでしょ?休める時は休む。ーーー立ち止まって探す事も出来るでしょ?」

「ーーー立ち止まって、探す?」

「彼はミュージシャンなんでしょ?だったら俺らはアーティストの繋がりで音楽の事もよく情報を持ってる。どこでライブがあるとか、新しいミュージシャンの話題とかさ」

「!」

「協力するよ。ってか、協力したい。ーーーいい?」

「ーーースギゾー、J…」

「隆一がさ、もうこれ以上…」

「ーーー」

「悲しくて、泣かなくていいように」







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