歌う、その君は。







「ただいま」


ーーーぱたぱたぱた


「お、」


ーーーたぱたぱたぱたぱたぱ


ぎゅうっ!


「隆」


ぎゅうぎゅう。


音を聞きつけて駆けてきた。
ぱたぱたぱたぱた。
そして両手を伸ばして、抱きついてきた。
これはもう、習慣だな。
ぎゅうぎゅうと、俺の胸に擦り寄って。
ひとしきり頬を擦り付けた後、じっと俺を見つめてくる。


「お待たせ。留守番ありがとな、隆」


そう言うと。
隆は見せてくれるんだ。
ふわっと、花が開くような微笑みを。



「ーーー隆」



沁み入るような微笑みを向けられては、抱きしめ返さずにはいられない。
玄関先で、隆を腕の中に捕まえた。




恋人じゃない。
多分…恋人じゃない。

もしかしたら、もっと…
大切な存在なのかもしれない。

だって、微笑みだけで満たされるなんて。
初めてなんだ。










仕事が休みの日。
加えて今日は雨模様。
さらには冬の寒さが堪える一日。
部屋をあったかくして、今日は朝から家でゆっくりしてる。


俺が出掛けないとわかったのかも。
時間になっても支度を始めない俺を、隆は気にしている様子で側にいたけど。


「今日は家にいるよ。休みだからさ」


そう言ってあげた途端、隆はぱっと目を輝かせて……ぎゅっ。
お馴染みの、ぎゅっ…だ。


「ーーー」


そんな姿を見ると、ちょっと切なくなる。
仕事に行ってる間。やっぱり寂しい思いをさせているのか…と。


「ーーー」


ーーーう…ん。そうだよなぁ。
しかし仕事に連れて行くわけにはいかないし…。
かと言って、人形だから我慢ばかりさせるってのも、可哀想にも思う。
だって隆は生きる人形で、感情だって持ち合わせている存在なんだから。


「んー…。そうだなぁ」


俺が悶々と考え込んでる間にも、隆は俺にくっ付いてにこにこしてる。
一緒にいるだけでこんなに喜んでくれるんだ。
ーーー嬉しいけど、ちょっと罪悪感。

愛情が栄養なんだもんな。
やっぱりもっと、一緒の時間を作ってあげたい。
ーーーそれに俺も、一緒にいたい。




「な、隆?」

〝なぁに?〟

「毎回は難しいし、仕事の内容にもよるんだけど。ーーーひとりでスタジオに篭って曲作りする仕事の日もあるんだ」

〝スタジオ?〟

「その時はさ、別に誰かに気をつかうとか必要ないから。ーーー隆も一緒に行くか?」

〝!〟

「お前を外に出してはダメって言われてないんだし。人が少なくてゆっくりできる所はたくさんあるよ。隆が気にいる場所を見つけるのも楽しそうだろ?ーーーだから、手始めにまずスタジオの日に一緒に。…どう?」



抱きついていた隆が顔を上げたから、じっと覗き込んで、瞳を見つめた。
どう?…と問いかけたら、瞬きも忘れたみたいに目を丸くして。
それから数拍おいて……ああ、ほら。

にっこりと、あの極上の微笑みを。
言葉は無くとも、その微笑みに隆の気持ちが全部込められてるって思える。


〝嬉しい、嬉しい!
一緒にいたいよ
一緒に連れて行って
本当はずっと側にいたいの
あなたが大好きだから
それだけでいいんだよ?〟



「ーーーーーイ…」





「え、?」



え。ちょっと待って…。
今なんか聞こえなかったか?
小さな声で、たったひと言だけど…



「ーーー聞き間違い?」


それか空耳…



まさか隆?って、思ったけど。
プランツドールは喋らないって聞いてるし。
ごく稀に声を出す子もいるらしいけど……まさかな?

まさかと思いつつも、まさか本当に隆か?って憶測がおさまらず。
もう一度じっと隆を見つめるけど、本人は至ってただただご機嫌な様子。
にこにこして、声を出す様子はない。


ーーーやっぱり空耳かなぁ。

まぁ、そうだよな。
ごく稀な存在がいきなりここにいるわけ無い。
それに俺にとっては、ごく稀じゃなくても隆の存在が大切なんだ。



「にこにこして。じゃあ決定!ちょうど明日はスタジオに俺だけだから一緒に行こう。そのついでにどこか行こうか。天気が良ければ、どっかのんびり散歩してもいいし」



コクコクコク。にこにこにこ。


すごい勢いで頷いて…笑ってくれてる。
そんなに楽しみにされたら俺まで楽しみになってくるよ。



「じゃあ明日は、初デートだな?」



言って、自分でちょっと照れて。
ーーーそうかって、気付く。

誰か、他の存在と一緒にいるという事。
それが例え、プランツドールという存在でも。
気持ちを通わせて、一緒にいる事が気持ちいいならば。

その相手が、かけがえのない存在になっているという事だ。











翌朝。



せっかくスギゾーの店から隆サイズの綺麗な服をいっぱいぶん取って…頂戴してきたってのに。
出掛けるから着替えようなって言った途端に隆が掴んで離さないのは俺の服だった。


「隆、お前の服はコッチ。新品のいっぱいもらってきただろ?」


ぶんぶんぶんっ!

ーーーものすごい勢いで首を横に振ってる。
表情も難しいカオして…不満気だ。


「ーーー自分のは嫌なの?え、俺のが良いって?」


コクコクコク!

今度は何度も頷いてる。
ーーーなるほど。俺のが着たいわけか…

まぁ確かに、スギゾーの店から貰った服はどっちかというと日常的な感じではないかもしれない。ステージなんかや、特別な時に映える服装だ。
人形に映えるって観点で揃えられた服なんだろうなぁ。
そんな格好の隆ももちろん良いけど、隆は違うのかな。


「ーーーいいよ。俺のクローゼットから好きなの選んどいで。背格好はほぼほぼ同じくらいだから大丈夫だろ」


そう言ってやると、隆はパッと顔を上げて、ソファーの上に畳んで置いてある俺の服一式を指差した。
それは洗って置いておいた、黒のニットとジーンズだ。


「これが良いのか?」

こっくん!

「そっか」



この服装は、初めてあの人形の店で隆と出会った時に着ていたものだ。
だからなのかな。


「いいよ。ーーーほら、着替えておいで」


ぽん、と。隆の手に畳まれた服を渡してやると、嬉しそうに微笑んだ。






着替えを待つ間。
隆に飲ませるミルクを温めて、スープ用のサーモボトルに注いだ。
それと砂糖菓子は小さな容器に入れ替えて。
これは出先で隆に与える為。
本当は一緒にカフェやレストランなんかに行けたら楽しそうだけど、まだ初めての外出だしな。それに人間用の飲食物を大量に与えるのは良くないと言っていたから。嗜む程度なら…って言ってたけど、何しろ加減がまだわかんない。
ーーーまぁ、慌てない。
隆との楽しみ方は、これからゆっくり探していこうと思う。

用意したショルダーバッグに隆のランチ一式を詰めて、玄関で隆を呼んだ。




「りゅーう、もう出られる?」


そう声をかけたら、向こうの部屋の方でパタンとドアの閉まる音。
それから…コトコトコト…。足音が近付いて来る。


「ーーー隆?」


サッとリビングのドアの陰に隠れた気がして、もう一度隆を呼ぶ。
すると、おずおずと…照れてんのかも。
着替えを終えた隆が玄関までやって来た。



ーーーーー可愛…


〝どぅ?…かな〟


そんな台詞を言ってそうだ。

どうもこうもない。
似合う。

ぶっちゃけ俺は、スギゾーの店で貰った服の隆より、こっちのがより好きだ。
こんな普段着を着ると、人形だなんて忘れてしまう。
それくらい自然に無理なく、隆はここにいてくれる。



「似合うよ。すごく似合う」

〝っ…!〟

「ーーーつか、かなり…だ」



髪も自分で梳かしたのかもしれない。
後ろの辺りがちょっとだけはねてる。
そんなところも可愛い。

はねてるよって言いながら、隆の髪を撫でてやる。(半分、口実な?)
それだけで、ほら。また嬉しそうに微笑んでくれる隆。
そして見惚れる俺。

いかんいかん。
これじゃいつまでも出られない。
せっかくの隆との初めての外出。
早く出かけよう!



「行こうか」


こくん。


靴を履いて、手を繋いだ。
地下の駐車場まで、まるで恋人同士みたいに。









いつものスタジオに到着。
自家用車で来る時に停める利用者専用の駐車場に車を置いた。



「着いたよ」


そう言って助手席側のドアを開けてやると、隆はきょろきょろと外を見渡してから、そっと車から出た。
見慣れない場所で警戒してんのかな。無理ないか。
何しろスギゾーの店から俺の家までの距離しか、今日までの間に外に出てないんだから。

少しでもリラックスして欲しいって思って、隆の手を繋ぐ。
それから、大丈夫だよって声をかけてやると、隆は繋いだ手にぎゅっと力を込めて微笑んだ。
安心してくれたなら、嬉しいよ。





きょろきょろ。

建物に入っていつも使うスタジオの部屋に行く間も、隆はずっと辺りの観察に忙しいらしい。
機材とかいっぱいあるからな。気になるのかもしれない。



「さ、ここだ」


ギッ。

少々年季の入ったドアを押し開けると、スタジオ独特の空気感。
そうだな…。防音の、外の音がシャットアウトされたような感覚と。
あとは学校の音楽室みたいな匂いだ。


「おいで。こっち」


部屋の入り口の所で立ち尽くして、ほぅ…ってカオしてる隆を招き入れる。
おいでって手招きしたら、すぐにとことこ側に来た。


「俺はさ、ミュージシャンなんだ。一応ね?ーーーで、ここで音楽を作ってる」

〝っ…〟

「ーーー音楽ってわかるかな?…ん、とね。ーーーじゃあ、」


百聞は一見にしかず、だ。
俺は機材スペースの奥に並んだスタンドからアコースティックギターを手に取った。
隆の前で手早くチューニングをすると、その様子をじっと見てる。


「ん。…こんなもんかな」


ジャンジャン、鳴らすと。
隆の目が丸くなる。
いい反応!


「楽器を演奏したり、歌をうたったり。そうゆうのが音楽だ。俺はそんな音楽を作って、演奏して、歌うのが仕事。ーーーっても、仕事だけどそれだけじゃない」



「音楽が好きなんだ。音楽は俺の全てなんだ」


ーーーとと。
ついつい語ってしまった。…音楽の事になると、つい…な。
隆も、ほら。ーーーちょっと引いてないか⁇

って、思ったら。




「ーーーえ、」




「ーーーぁーーあーーーーーららら…ぁ…」



「…りゅ、」


「ららら…らら…あぁぁーーーーー」




歌っ…て る?

歌 を。
プランツドールが、歌?

しかも…なんだ?この歌声…
なんて綺麗な声で歌うんだ。


ーーーけど。
ごく稀なんじゃ…ない のか?
声を発する…プランツドールって…


















「スギゾー‼」

『おや、こんにちはイノラン様。お電話いただけるなんて嬉しいですね~!隆一は元気にしてますかね?』

「元気元気!毎日ミルク飲んで良く寝て笑ってくれて元気一杯だ!もう仕事終えて家に帰るのが待ち遠しいったらーーーって、それどころじゃないんだ!」

『ははは!もうべた惚れじゃないですか。…で、どうされました?』

「歌った!」

『はい?』

「隆が歌ったんだよ!一緒にスタジオに連れて来たら、突然に!」

『ーーーーー歌……。なんと、それは…。ーーー素晴らしいですね』

「え、?」

『こんな短期間でそこまで心を開くプランツドールも珍しい。ーーーきっと、本当にイノラン様と相性が良いのでしょう』

「ーーーそ、なのか?」

『イノラン様を慕って、信頼して、心を開いているからこそです。要するにあなたの事が大好きだから、あなたが好きな事を共有したいと思ったのでしょう』

「ーーーっ…!」



俺が音楽が好きって、言ったからか?
だから隆も、一緒に…って?


『好きなひとと同じものを好きになりたいって、そういう気持ちも生まれるんですねぇ。こんな例は私も初めて聞きますよ。ーーーいじらしいじゃないですか!本当に本っ当に‼隆一はイノラン様の事が好きなんですね』



まだ電話の向こうでスギゾーが興奮気味に色々言ってるけど、もう耳に入んない。
傍らでにこにこしてる隆から目が離せない。

ーーーもっと聞きたい。隆の歌声。
一緒に音楽を楽しめたら、どんなに素敵だろう?

ーーーそれから、聞きたい。
もしも呼んでくれるなら、隆の声で、俺の名前を。
…って事は、家で聞いた空耳だと思った声は、隆の声だったのかもしれない。




跪いて、隆を見つめた。

「なぁ、隆?ーーー聞かせてくれるか?…もっと」





スタジオで仕事を終えて、車に再び乗り込んで。
俺は隆を連れて、海岸に向かった。
家からもスタジオからも、一番近くて静かな砂浜だ。






ザザ…ザー…
ーーーーーザ…ザン…




さくさくさく…。

二人分の足跡が砂浜に続く。
隆の足跡が、俺のにぴったり寄り添って跡をつけているのが微笑ましい。
そうだ。
こんな砂の上を歩くのは、隆は初めてだ。



「ーーーどんな感じする?」


「ん?ーーーああ、」


「靴に砂が入る?ーーーハハッ、」



靴を指差してちょっと困ったカオをする隆を見て、多分そうだろうなって事を言った。
上手く歩けばあまり入らずに済むんだけど、砂浜初体験じゃあ難しいか。
数歩歩いては、トントン靴を鳴らして気にしてるから。
砂出しするか…と、浜の向こうを指差した。



「あそこに大きな…おもしろいカタチの岩みたいなのあるだろ?テトラポットって言うんだけど、あそこまで頑張れ!あそこに腰掛けたら、靴を脱いで砂出そうな」


そう言って隆の手を引いて歩く。


「ゆっくりでいいよ。砂はよく踏みしめて歩かないと、足をとられて転ぶからな?」


こくん。


隆は素直に頷いて。
転ぶって単語に警戒したのか、俺の腕にぎゅっとしがみ付いた。
ーーーこれって、腕組んでるってヤツかも…。
すぐ側にいるから、歩く度に鼻先を擽る。
甘い甘い隆の匂い。
砂糖菓子を食べてるから、尚の事。











白い、所々欠けたテトラポットに隆を座らせた。
靴を脱がせてひっくり返すと、サー…と、砂時計みたいに落ちていく。
こんなに入ってたら、そりゃ歩きにくいだろう。
再び靴を履かせていると、隆がくしゃみした。

一回、二回。…三回。



「寒いか?あったかいミルクあるぞ。飲む?」


こっくん!


「ん、了解」



持ってきたサーモボトルを手渡してやる。
白い湯気がふわん…と漂って、隆は少し目を細めた。
そんな些細な仕草も滑らかで、ぎこちなさなんて無くて。


「くしゃみもするし、はにかんだり、嬉しがったり。ーーー人形だなんて忘れるくらいだ」


つい、溢れた本音。
隆はボトルを抱えたまま、きょとんとしてる。


「おまけに歌まで歌えるなんてさ。ーーー本当に、人間みたいだよ」



けれども隆はプランツドール。
生きる人形。

俺は隆の何だろう。
親代わり?
兄弟?友達?
それともただの同居人?

それか、恋人?


ーーー恋人じゃない。
多分…恋人ではない。

…ではないけど。


もしもだ。
もし隆が人形じゃなく、人間だったなら。

俺は隆に、恋してた。
それだけは言い切れる。
あの店で隆を見た時から、俺の心を掴んで離さない。

阿呆みたいに高い値段も。
なにやら色々大変な世話も。

そんなのを飛び越えて、俺の腕に飛び込んできてくれたんだから。





ザザ…ン。
ザ…ザザ…ザン…。




コクコク…コクコク…。


波音とミルクを飲む音が、妙に重なり合って心地いい。
ずっと聞いていたい。
望めばお前と、いつでもここへ来られるように。



隆。
ーーーーー隆…

俺たちは…そうだな。
恋人同士じゃないけど、きっとそれに近いんだ。




「好きだよ。ーーー隆」


抑えきれずに、また出た本音。
一度言ってしまえば、もうあとは波のように。
禁断の…なんて、言いたい奴には言わせておけばいい。




「愛してる」




コクン。
ミルクを飲み込む音が、まるで肯定の頷きに思えた。






初めて二人で出掛けた、その日の夜。
いつもみたいに自分の寝床に潜り込んだ隆だったけど。

その時は、いつも通りだと思ったけど。



翌朝、いつもの時間になっても隆は目覚めなかった。


最初は疲れたのかな…って思った。
昨日は初めての外出。楽しそうにしてたとはいえ、気疲れもあっただろうって。
だからいつもよりぐっすり眠っているんだろうって、そんな風に思ってた。
起きたら、腹空かせてるだろうから、すぐにミルクをあげようって。
キッチンに準備もして、目覚めるのを待っていた。

ーーーけれども隆は。
昼になっても、午後になっても、夕暮れになっても、また夜を迎えても。
一向に、目覚める気配はなくて。
ここまでくると、さすがに心配になって。
この時間ならもういるだろうと。
俺はスギゾーの店に電話をかけた。





隆が眠ったまま目覚めないんだ。


そう電話越しに伝えると。
スギゾーはすぐに、ここまで来てくれた。












「ーーーこれはこれは…また一段と綺麗になりましたねぇ」



「え、?」



ベッドで眠る隆を見た途端、スギゾーはそんな事を言いながら微笑んだ。
ーーーって、今はそうじゃなくてさ。
それどころじゃないんだよ。
もちろん隆が綺麗なのは当然って思うけど、この人の妙にゆったりした語り口には調子が狂う。


「それどころじゃなくはないんですよ。大アリです」

「⁇」

「ーーー何かありましたか?」

「え?」

「昨日初めて二人で出掛けたと仰いましたが…。歌を歌ったとご連絡いただいた時は私も驚きましたが…何か特別な事…この子が体験したり、見たり聞いたり…何かそんな事が」

「ーーー特別な事…」




特別な事…。
俺の服が良いと、はっきりした意思を見せられた事。
車に乗って、初めてのスタジオで歌った隆。
スタジオの後に向かった海。
靴に砂が入ったと、困惑してた隆。
初めて外で飲むミルク。
そんな一日を振り返って、どんな仕草もいちいち可愛いって気付いて。
口から溢れた。
好きだよ、愛してるって。
そんな俺の気持ち。



「ーーー本来なら人形相手に言うべき言葉じゃないよな…。ーーーでも、本当にそう思ったから」

「ーーー」

「嘘じゃない。勢いで言ったんでもない。あれは俺の本心だったけどーーーーー」

「ーーー」

「…隆を困らせただけだったかな」




せっかく俺を選んでくれたのに。
俺だけに…微笑んでくれたのに。

けれども俺の言葉が重かったのなら。




「ごめん、隆」

「ーーー」

「もう言わない。ーーーもう言わないから、」

「ーーー」

「目覚めてくれるだけで…もう…」



鼻の奥がツンとする。
俺は泣くのかもしれない。
そう思った時だ。



「ーーーーー大丈夫ですよ。何も謝ることなんかありません」

「…でもさ」

「この子の綺麗になった姿を見ればわかります。どれだけあなたに大切にされ愛されているか。ーーー言ったでしょう?何よりの栄養は愛情だと」

「ーーーああ、」

「歌った事も、綺麗になった事も、そして今こうして眠っている事も。おそらくきっと、あなたの為です」

「ーーー俺の?」









休眠状態なのだろうと、スギゾーは言った。

例えば植物の球根のようなものだと。
花を咲かせ、その内に花と葉は枯れても。
土の中で球根は眠る。
腐りも枯れもせずに、次の芽吹きの時期を待つ。
土の中で太陽は浴びずとも、養分や水分をいっぱいに蓄えた球根は。
また美しい花をいっぱいに咲かす。

隆一は、きっとその眠る球根のような状態だと。






ーーー眠っていても一日に一回はミルクを飲ませてくださいね。スポイトで少量でも構いませんから。


スギゾーの指示を受けて、夕飯どきにミルクを与える。
ベッドで眠る隆の上体を起こすと、唇の端から少しずつミルクを飲ませた。

コクン、コクン。

眠っているのに小さく喉を鳴らす隆。
ミルクを飲むという行為は、もう無意識なのかもしれない。




「ーーー無意識にも起きてくれないかな…」


いきなりこんな事になったから、心の準備も何も無いままで。
もう会えないって訳じゃないんだけど、気持ちは落ち着かない。
いつ起きてくれるのか。
それは誰にもわからないから。

原因がわかれば、目覚めの手助けになるのかな…。



「…っても、スギゾーにもわからないって言ってたしなぁ…」


ーーーこの子は想定外な事の連続ですねぇ。こんな例は今まで私も経験が無いので、はっきりしたお答えができなくて申し訳ないです。



「ちゃんと起きるよな?」


そんな俺の切実な問い掛けに、スギゾーは困ったように笑ったけれど。
帰り際に、こうも言った。



ーーーもしもこの子が何らかの理由で〝枯れて〟しまうのなら、今こんなふうに美しさを保っている筈はないと思います。だからきっと、この眠りは悪いものではない。ーーーもっと違う、生まれ変わろうとしているようにも見えるんです。


「ーーー生まれ変わり…」


ーーー球根の休眠期のように。次の開花のタイミングをじっと待っている。…私にはそんなふうに思える。そこにどんなキッカケや理由があったのかは隆一にしかわかりません。…でも、あなたが隆一にあげた言葉が理由なんじゃないかと思えてならないんです。


「ーーー俺が隆にあげた…」


「ーーーーー言葉」




好きだよ。

愛してる。



もしもスギゾーの言う事が本当なら。
隆は俺の言葉を受け止めてくれようとしているのだろうか。
自分の中で、それを養分に変えて。
次に目覚める時に…なんらかの変化を得ようとしているのだろうか。

長い冬を終えて、初春に咲く花みたいに。

今は眠りの時期なんだろうかーーーーーーー





そうだと思えば。ーーー楽しみだ。
もちろん寂しさはあるけれど。

次にまたお前の笑顔を見られる日が。
早く来る事を今は祈ろう。










「隆、夕飯のミルクだよ」



今夜も俺は、仕事を終えて、スギゾーの店で新しいミルクを買い。
それから通りの店で一輪のピンク色の薔薇を買う。
急ぎ足で帰宅すると、自分の飯より先にミルクを温める。


抱き起こすと感じる温もりに安堵して。
小さく動く白い喉に見惚れる。

黒髪はますます艶やかに。
滑らかな頬は薔薇色に色づく。



「いつ起きてもいいよ」


その瞳が俺を再び見つめる日を楽しみに待つ。


「待ってるから」


焦りは無いと言ったら嘘だけど。
ゆっくり待つよ。
お前が目覚める瞬間を。


コクンと嚥下した振動で、ミルクが一筋隆の唇を滑り落ちた。
すぐに枕元のタオルに手を伸ばしたけれど…手を止めた。
惹きこまれて。
俺は初めて、その唇に触れた。









季節は移り。
隆が眠り続けたまま、春が来た。

俺は相変わらず、毎日、隆の為にミルクを温める。





くつくつくつ…

白いホーローの小鍋は隆専用だ。
マグカップで飲んでいた頃は、この鍋の半分上まで注いでいたミルクだけど。
今はスポイトでほんの少しだから、温める量もごく僅か。
レンジであっためる事もできるけど、敢えてそれはしない。
ミルクを温める時間。
その時間は、こうして隆が眠り続ける今。
大切な時間になっているから。


もうすぐできるよ。
少し冷ますから待ってな。
なぁーーーそろそろマグで飲みたくなんない?

そろそろさ、起きないか?


最後のは切実な本音。
いつまでも待つ覚悟はしたけれど。
ーーーでも、いつまでこのままなのかな…。
もしかしてずっとこのままーーー?

そんな不安だって、無いわけじゃないんだ。




ぽちゃん。

温めたミルクに一粒の砂糖菓子を落とした。
たまに入れる。
隆はこの砂糖菓子を美味そうに食べてたから。
カラカラ…とかき回すと砂糖が溶けて、甘いミルクが出来上がる。



「ほら、できたよ」


起こすよ。
そう言って、隆の上体を抱き起こす。
すると、カクン…と。
隆の頭が俺の肩に寄りかかってきた。


「…と。ずり落ちんなよ」


さらさらと流れる黒髪が俺の鼻先を擽る。
すると、ふわんと、あの甘い匂い。
あの日、店の外の通りで足を止めた。
あの日と同じ、いい匂い。



「ーーーっ…」


あの日からずっと一緒にいるんだ。
初めて出会ったのに、隆に惹かれて。
人形なんて興味もなかったのに、そこでサヨナラなんて嫌だと思った。

あの日から。

隆が俺に微笑んで、選んでくれたあの日から。


ずっとずっと一緒にいるのに。
ーーーなんでなんだ⁇

一緒にいるのに…




「ーーーーー隆…」

「ーーー…っ…りゅう…」


「起きてくれよ…」



「もう…頼むから…っ…」





「もう一度っ…目覚めてくれよ…‼…」


ただ見たいんだ。
俺だけに向けてくれる微笑みを。
嬉しそうに、美味そうにミルクを飲む姿を。
ーーーたった一度だけ聞いた、お前の歌を。
どうか、どうかもう一度。



「隆っ…」


「ーーー隆…」




「愛してるんだ」











ピクン…。
抱きしめた隆の身体が、一瞬震えたように思った。

でも、俺が揺らした振動かと思って。
そのまま抱きしめ続けたけれど。

ーーーまただ。

抱きしめる身体が、心なしか熱を帯びた気がする。
それに俺の耳元あたりにかかる隆の呼吸が、さっきよりも…
深く…しっかりと…




「ーーー」


ここでようやく俺は、少しだけ身体を離して隆を見た。


「ーーーっ…あ、」


思わず目を見開いた。
だって隆の頬に赤みが差して、目元も唇も艶やかに潤っている。
明らかに違う。
その変化。


「ーーーーりゅ…う、?」


俺の心臓がばくばくしてる。
僅かな期待で、壊れそうに。


「隆一…。」



そう呼んだ途端だ。
まるで初めて出会ったあの時みたいに。

ぱっちりと。
隆の瞳が開いたんだ。




大きな瞳が見上げてる。
それは久しぶりに見た隆の瞳。
唐突すぎて、嬉しい筈なのにリアクションが上手くできない。



「ーーー隆…?」



じっと見てる。
この感じはあの時と同じ。
スギゾーの店で初めて目を合わせた時の…あの…ーーー


「隆一?…起きたか?」


「ーーーおはよう。…お前、どんだけ長いこと眠って…」



そっ…と。
隆の手が俺の頬に触れる。
白くてあったかい、隆の手で。



「隆…?」


「イノラン」


「ーーーーーぇ、」



俺はきっと間抜けな顔してただろう。
だって仕方ないよな?
だって隆が…いきなりだったから。

微笑みに乗せて、俺の名前を呼んでくれたなんて。






「ーーーイノラン」



「りゅ…う?…お前、」


「おはよう」



「隆」




もう、隆は人形なんだか、人間なんだか。
人形に間違いはないんだろうけど、俺にとっては。
大切なひとだ。




「あいしてる」




そう言ってくれたんだから。
















「そうですか!それは良かったです」



スギゾー、こいつも何だかんだ心配しててくれたから。
久しぶりに隆と一緒に店に顔を出すと、それは大層喜んでくれた。



「しかし名前を呼んだとは…。歌も歌うわ、お喋りもするわ。隆一は特別なプランツドールかもしれませんねぇ」

「…まぁ、今更珍しいから返せって言っても返さんけどな」

「そんな事言いませんって。隆一はあなたじゃなきゃだめなんですから」

「っ…すっげえ…それって」

「はい?」

「運命の相手じゃんか」

「そうですとも!だって隆一は、あなたを選んだんですから。ーーー世界中の、誰でもない。唯ひとり、あなただけを」





お祝いです!
そう言ってスギゾーはミルクと砂糖菓子を格安で売ってくれた。
プレゼントって言わないあたりが商魂逞しいアイツらしい。
…まぁ、いいけどさ?



「だから俺がプレゼントやるよ。目覚めの祝い。…そうだなぁ」

「?」

「ーーーじゃあ、お前に似合いそうなアクセサリーでも。ーーー探しに行こうか」

「!」



この時、嬉しいって思ってくれたのかもしれない。
元々手は繋いでいたんだけど、その手を離したと思ったら。
ぎゅっと抱きついて、間近でにっこり笑ってくれて。



「イノラン」


俺を呼んでくれる心地いい声と。
それから…


「っ…」


俺の唇に触れた、隆の、柔らかな…。
甘いミルクの味の、唇で。



「だいすき」

「隆…」

「これからは イノランに うたを うたうから」


「ーーーーーっ…隆、」






ーーーあの日、あの店に行って良かった。
胡散臭い店だって、嫌厭しないで良かった。

だってさ。
お前はずっと待っててくれたんだもんな。




俺と、出会ってくれるのを。









end




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