自由な歌











焦がれて、望んで、求めても手に入れられないことと。

一度それを手にしたものの、手を離してしまうことと。




いったいそれはどちらが堪えるだろう。







「俺にとって隆はなくてはならない存在」

「その声も表情も姿も全部。佇まいも想いも全部」

「俺を虜にして止まないひと」

「俺が愛して止まないひと」


「ずっとそばで支えたいと思う。隣で音色を奏でたいと思う」






例えば。
もしもその手を離すことがあるとしたら。
それはどんな時だろう。

そんなのあり得ないと思うだろう。
しかし何が起きるかなんて誰にもわからない。






「有り得ないな。そうならないように努力をするだけだ。隆に相応しくあるように。愛し続けることだ」






「ーーーただ…」





「ーーーーー俺の存在が隆の負担になってしまったら。俺が側にいる事で隆が自由に歌えなくなってしまったら。ーーーーーその時は…そうだな」


「考えたくもないけれど」







その時は、身を引くのかもしれない……























〈 自由な歌 〉









柔らかな春が過ぎて、梅雨時を間近に控えたある晴れた5月の日。
昼下がりのとあるスタジオ。
数ヶ月前から取り掛かり始めたルナシーのアルバム用の曲制作。
各々が長い年月の間に書き留め、音を残し、いつか形になるその日の為にあたためてきた楽曲たち。
今回のアルバムの為に選ばれた曲達は既にバンドの音が出来上がり、残すところは隆一の歌を録音して最終的なアレンジをするところまできていた。
そんな隆一の歌のレコーディングの最中だが…







「ーーーちょっと…止まってもいい?」

「ごめんなさい、今のフレーズからもう一度」

「ーーーーーごめん、」

「あたまの部分から歌っていいかな」

「ーーー…もう一度」







繰り返し繰り返し。
スタジオ内に隆一の言葉が響く。


レコーディングとくれば、良い意味で力の抜けた集中力で近年の隆一の歌入れは即OKで終わる事が多かった。何テイクもの中から選ぶ歌よりも、たったワンテイクの歌に込めた想いや空気、気合いや覚悟を全てそのままパッケージングしたいという隆一の願い。
録音ブースの中の隆一の凛とした表情が、ふにゃりと朗らかな笑顔に変わる時。
側でそれを見守るメンバーもスタッフ達も、隆一自身がその歌を楽しんだ瞬間だと悟るのだ。







「ーーーごめんなさい、もう一度最初から…」



だからこそ今の状況に、そこにいる者達は皆、どこか心配気に隆一を見守るばかりだった。
午前中早くから始めたアルバム用のレコーディング。
今日は3曲分の歌を録る予定だが、午後になった今もまだ1曲目の録音も終わっていない。
これで何テイク目だろうか?ブースの中の隆一は、疲弊と焦燥に駆られたような顔をしている。
こんなのは珍しい。
しかし思い返せば、それは午前中からそうだったと、そこにいる者は皆思っていた。

身体の不調もあるだろう、気分が上手く乗らない時もあるだろう。
生身の人間である以上、良い時も良くない時もある。それはどうしようもない事でもあるのだ。
隆一とてそれは例外ではなく、それで責められることは無いはずなのに。
(とはいえ音楽に関わる事にはこの上なくストイックな隆一だから、プロとして上手くこなせない自身を責めることもあるのだろうが…)

しかし今日は様子が違うようにも思えた。
それはつまり単なる体調不良のせいとかいうものではなくて、もっと違う…






「隆」




いつ終わるとも知れない緊張感でスタジオ内の空気がピリピリとし始めて暫く経った頃、それまでじっとソファーに腰掛けてブース内を見つめていたイノランが7静かに隆一を呼んだ。
途端にびくりと隆一の肩が揺れる。
ヘッドフォンの端に添えられた隆一の指先は、血色を失ったみたいに白い。





「ーーー隆ちゃん」




イノランの声が再び響く。
静かという形容がぴたりと当て嵌まるようなイノランの声。
低く落ち着いた、そしてどこか気遣いがこもる声。
表情も同じく。
怒りや落胆などは微塵もなく。
憐れみなんかもなく。
ただただ静かに、隆一を真っ直ぐに見つめて彼の名を呼ぶ。






「少し…」




視線は逸らさずに。
静かに。
いとおしさを込めたまま。




「ーーーーー休憩しよっか」



























「ーーーーーごめん、」



「ん?」






スタジオの休憩スペース。
いつもは談笑しながら寛ぐ年季の入ったベンチに…今日は隆一は座らない。
ゴトン、ゴトンと、自販機で缶コーヒーとミルクティーを買うイノランの背後で、隆一は俯いて呟いた。
買い求めた内のホットミルクティーを隆一に差し出しながら、イノランはやはり静かな声と表情で短い返事をする。
ーーー差し出されたミルクティーを隆一はなかなか受け取らず。イノランが自分を見つめているのを肌で感じながら、もう一度呟いた。





「ごめんなさい」

「ーーーーー謝んな」

「っ…」

「謝ることなんかないでしょ?」




え、?と、隆一はここで漸く顔を上げた。
怒っていると思ったから。
失望されたと思ったから。
朝から何度も何度も歌い続けたのに、満足のいくものが録れなくて。
その度にスタッフにも、同席したイノランにも。
やり直しに付き合わせてしまって。
プロなのに、もう幾度もレコーディングだって経験しているのに。
今更こんな…呆れているだろう。
そう、思っていたのに。

イノランからの返事は、ひどくあっさりしたもので。
隆一はなんて言葉を続ければ良いのか、口篭ってしまった。
でも。




「ーーー歌。…俺、全然」

「隆の歌はいつだって俺は一番だって思うけど」

「…そん、な…こと…」

「隆の歌は俺は一番好きだと思うけど」

「ーーーーー……イ…ノっ…」

「今日の歌だって、俺はすっげぇ好きだなって思うテイク、あったよ?」

「ーーーーーっ…」




優しい表情と声音でそんな風に言われて、隆一はますます口篭って俯くばかり。
自身が納得していないから、頷くことができない。
今までだったら歓喜で心が震えていたイノランの言葉に、嬉しいと思える余裕が今の隆一には一欠片も無かった。

ーーー俯いてしまった隆一を見つめて、イノランは一瞬苦しげな表情を浮かべるも。
次の瞬間にはそれを消して、俯く隆一に視線を合わせるように腰を屈めて視線を重ねた。






「でも、」

「ーーー」

「多分…隆は違うんだよな?」

「…っ、」





ギクリと、隆一の表情が強張った。

今日、レコーディング予定の曲は。
ニューアルバムの中の内、イノランが作曲したもの。
原曲者は隆一のレコーディングに立ち会う事が多く、イノランは朝からスタジオで隆一を見守っていた。
今日のレコーディングの為に用意された3つの譜面。
そのメロディに込められた想いは、いつだって歌えば隆一の心に響いた。
隆一の歌声が世界一美しく映えるように。
仲間であり、戦友であり、尊敬し合う親友であり。
そして誰よりも愛する恋人へ。
時には言葉より雄弁に、イノランは隆一への想いを譜面に込めた。
それこそ、いま自分たちが進む音旅と同じように。
深い情熱も愛情も枯れる事なく。
果てのない想い。


眉根を寄せて、グッと唇を噛んでしまった隆一を見て、イノランはそっとため息をついた。
実のところ、最近隆一を見ていてずっと感じている事があったから。
言うまいかどうかと、悩んでいた事を。
今日の隆一の様子を見て、このままでは打開は困難だと判断して、イノランは問いかける事にした。






「隆」

「…ん?」

「ーーーあのさ、隆」

「ーーーぇ、」

「俺の見当違いだったら否定して全然いいし、何言ってんだよ!って怒っていい」

「ーーーーー」

「ふざけんな!って、俺のこと殴っていいよ」

「…」

「…でも、ちょっと最近思う事。ーーー言うよ?」

「ーーーな…に?」





とん。


ミルクティーのペットボトルをベンチに置いて。
隆一に触れようとした手を…引っ込めて。
その手をぎゅっと握り締め。




「俺はお前のことが好きだし、愛してる。この気持ちはずっと消えることは無いって思える」

「ーーーーー」

「難しい恋だってことはとっくに承知してる。覚悟決めて隆と一緒にいる。思うようにいかないことだってあるし、隆のこと泣かせてしまうこともあったし…。でもそれ以上に一緒に歩む時間は幸せで、かけがえがなくて」

「ーーーーー」

「隆のこと手放せない。それくらい俺にとって大切な恋だよ」

「っ…」




自分の作り上げた曲を隆一が生き生きと歌い上げてくれる時。
イノランは胸の奥が抉られるような愛おしさが溢れて、どうにもできなくて。
愛しくて。
壊れそうで。
何度も言葉で愛を伝えて、気持ちも身体も重ねてきた。

ーーーしかし、もしもそれが…と、考えてしまった。








「重荷か?ーーー俺の気持ち」

「好きだって、愛してるって」

「果てが見えない俺の気持ち」

「俺がつくる曲」

「それを隆に歌ってもらいたいって願うことは」

「隆の負担になっているか?」





「ーーーーーーっ…」







くっ…と、隆一が息を詰めた。
絶望の表情をサッとはりつけて。
まるで突如、足の一歩先に底が見えない巨大な海溝が口を開けたように。























結局この日のレコーディングは隆一本人からの申告で別日へ伸ばす事になった。
集まってくれたスタッフ達と、それからイノランへ、隆一は頭を下げて詫びた。
しかし今日は調子が良くなさそうな隆一からの申し出にスタッフ達は安堵した。
レコーディング期間はまだゆとりがあるのだし、恐ろしいほどレコーディングに時間を掛けていた過去を知っているスタッフ達ばかりだから切迫するような焦りはないのだった。



スタッフ達を送り出して、がらん…としたスタジオ。
あとはイノランと隆一が退出するばかり。
当初、夕方まで時間を取っていた今日の予定が延期になった今。
外はまだ昼間の気配。
午後の気怠るい空気。
のろのろと覇気の無い表情で帰り支度をする隆一をイノランはゆったりと待って。
戸口の側で待つイノランの方に隆一が視線を向けたところで。







「送るよ」






イノランは車のキーを片手で持ち上げながら、そう言った。
















「どうぞ」



通い慣れたスタジオの駐車場。
イノランの車。
隆だけの特等席って、いつも座らせてくれる助手席。
そのダッシュボードの中には小さなお菓子が入ってるって知ってる。
肌触りのいいブランケットが掛けてあるって知ってる。



「ーーー隆?」


いつもの駐車場の風景。
惜しげ無く用意される優しさ。
乗らないの?って顔して、ちょっと心配げに首を傾げるイノランに、隆一の心はぎゅっと軋んで。
乗車の為の一歩が出せないでいた。
乗る資格なんか無い気がして。
そうしたら、イノランはドアに添えていた左手をダラリと落として。
反動で彼の手首のブレスレットがチャリ…と小さな金属音を響かせる。
ーーーその一連の間もイノランは隆一から視線を逸らさない。








「ーーーーーよく言うじゃん。陸に放り投げられた魚みたいって。息ができなくて、苦しそうな…って」

「ぇ、?」

「俺には、今の隆がそんな風に見える」

「ーーーっ…」

「心ん中がぎゅうぎゅうに詰まって、苦しくて苦しくて息が上手くできなくて。もがいて、歌えなくて、罪悪感で、辛くて、今にも泣きそうで」

「ーーーーーーー」

「でも、隆がそんなふうになっているのが何でなのか。…わかった」

「っ…な、」

「その原因は、俺だろ」

「ーーーーーーーイ…ノ……」

「隆に好きだよって言って、隆もそれに応えてくれた時。本当に、嬉しかった。嬉しかったなんて言葉だけでおさまらないくらい、心が震えた。隆と恋人同士になれて、この恋は絶対に壁だらけの恋だって覚悟したよ。でも隆の側に居続けられるように努力して、俺の全部を使って隆を愛していくって決めた。それくらい、大切な恋だ」

「ーーーそれ…は……俺も…同…」

「ん。隆も俺を想ってくれてるってすげぇわかる。それが嬉しいし、幸せだ」

「…っ…ぅん」

「ーーーでも、最近の…今の隆見てて、思う。ーーーーー」

「ーーーぇ、」

「重いのかなって。俺の隆への気持ち。日々お前に囁く言葉も、曲に込めた想いも。ーーーさっきの魚の話みたいに、苦しそうだって」

「…っ…そん…」

「隆が歌えないで辛そうなのは、俺は嫌だよ。隆には体調のコンディションが良い時も良く無い時も、気持ちだけは自由に歌っててほしい。マイクの向こうの景色を見て、きらきらした表情で歌っててほしい」

「ーーーーーーっ……」

「俺の隆への気持ちがお前を締め付けてしまって、それで隆が自由に歌えなくなっているんだとしたら……ーーーーーーー」






ーーーーー俺の存在が隆の負担になってしまったら。俺が側にいる事で隆が自由に歌えなくなってしまったら。ーーーーーその時は。


その時は、








「終わりにしよう、俺達」



身ヲ 引クノカモ シレナイ。












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