四角な空と、ローズガーデン
「さようなら。今までありがとう」
あなたに未練なんてこれっぽっちも。
背中にそんな薄笑いを貼り付けて、その人は去って行った。
さようなら。
さようなら。
感情も篭っていない別れの言葉は、何度か俺の頭の中でくるくる回って。
怒りも悲しみも後悔も感じる事なく。
こんなもんか、と。どこか解放されたような気分でホッとしてる自分を自覚しつつ。
そのあとは呆れるくらいアッサリと今の状況に頷いている自分がいた。
恋人と、たった今別れた。
でも、未練も無いんだ。
せめて追いかけて挨拶のひとつでもしようと踏み出した足が、その場で止まったままなのが確かな証拠だ。
〝恋人同士〟という間柄に僅かな期間でもなっていた筈なのに。
それがこうして終わりを迎えた今なのに。
俺の感情は酷く冷めて分析なんかしてる。
恋愛感情は…あった筈だから一緒にいたんだろうし。
楽しいと感じた瞬間も確かにあったと思うのに。
ーーーなのに。今の俺はどうだ。
「好きなんて、」
本心からのその感情は。
きっと無かったんだ。
《四角な空と、ローズガーデン》
「…お前なぁ」
「ん?」
「パーティー主催者が遅刻って何考えてんだよ」
「ーーーああ、」
「しかもずぶ濡れで会場到着って、」
「仕方ないだろ。途中で雨降ってきたんだし」
「ってか、どこ行ってたんだよ⁈こんな大事な日に!俺がいなかったら来客対応はどーなってたと思ってる⁇」
「悪りぃ。ーーーでもJがいるってわかってたからさ。俺もまぁ、恋人に振られた後も慌てず騒がずこうして安心して到着できたわけだし」
「ああっ…⁈」
「ははは」
「ははは、じゃねぇ!なに。…振られたって、お前」
「ははははは。ついさっき」
「ーーー笑いに笑いがこもってねぇよ。ーーーイノ」
「まぁ。悲壮感は無いから安心してよ」
「…でも、振られたんだろ?」
「ーーーんー…」
「恋人に」
「そうなんだけど。…でもね、」
「あ?」
「こんな事言う俺は大概酷い奴だと思うんだけど。…ホッとしたっていうかさ」
「…」
「解放されたって、いうかさ」
「…」
「今はそんな感じ。ーーーJはさ、そうゆう事ない?」
俺が妙にサッパリした変なカオしてたのかも。
俺の問い掛けにJは急に真面目な顔して(こーゆうところ、Jはちゃんとしてんだ)…ちょっと考えて。
まぁわからなくはないけどよ。って。
お前が身支度整えてくるまで俺が来客対応してるから早く来いよって。
俺の肩を叩いて、Jはロビーの方へ去って行った。
「ーーーありがとう、助かるよ」
せめて、Jの背中に感謝の言葉を投げ掛けた。
俺はイノラン。
このオフィスビルに自社を置いている。
地下階には音楽スタジオと楽器や機材専用の倉庫。
その上の階には音楽関連のショップとショールーム。
それらを経営しながら、住まいはここの最上階。
地下のスタジオに比べれば小さな自宅スタジオも兼ねて、そこで自身のアーティスト活動もしながらビルの中を行ったり来たり。
俺の一日の生活はほとんどがこのビルの中で成り立っている。
今日は夕刻からショールームでちょっとしたパーティーを予定していた。
このショップ兼ショールームの周年祝いってことで、親しいひとたちを招待したカジュアルなパーティーだったけど。
ーーーその、例の恋人に振られた出来事が直前で起きてしまったから。
(しかもこのタイミングで雨も降って来るし)
遅刻しないように急がなきゃって思ってたのも事実だけれど。
どこかやっぱり…ぼんやりしてたのかも。
雨に降られて気に入りのスーツも濡れて、挙句に遅刻もしてしまって。
仕事での俺のパートナー(にして、幼馴染み)のJには迷惑をかけてしまった。
長い付き合いだからあんな態度もとってしまったけど、申し訳なかったと反省…。
まずは手早く着替えて整えて早く来客に挨拶に行かねば。
今日の俺は主催者失格だろうけれど、リカバリーはせめてしっかりしよう。
そしてJにも。
後日飲みに行ったら奢ってあげようと思う。
「ーーー…」
ーーーと、ここまで慌てた勢いで支度をこなしていた俺だけれど。
新しいスーツを羽織りながら、手が止まった。
「ほら、やっぱりもう忘れてる」
今の一連の間。
つい二時間も前の恋人との出来事を。
なんでも無かったみたいだ。
こんなにもあっさりした別れだったから。
ーーーでも、相手はきっと。考えた末に今日の言葉を俺に伝えたのだろうから。
もう俺とはいられないと、決めたのだろうから。
「ーーーーー悪い事したな…。あのひとには」
さようならも、俺は言わなかったから。
だから。
人生の中の、一瞬でも一緒にいてくれた事に。
せめて。
「ありがとう。ーーー幸せにな」
ここから。
どうか。
俺は出会うのかな。
いつかちゃんと、何をおいても、手放しても、なりふり構わずとも、求めてしまう相手。
自分の中の燃えるような気持ちを初めて気付かせてくれる相手。
見つめているだけで、一日があっという間に過ぎてしまうような。
「ーーーーー」
そうだな、そうしたら。
もしもそんなひとと出会えたら。
真っ新な空の下で伝えたいと思う。
ビルの地上から見上げるような四角く切り取られた空じゃなく。
空と、雲と、木々と、花と。
そんな場所で、愛の言葉を。
「ーーーあ…」
遅ればせながら会場に到着した俺がまず口にした言葉。
ーーーそれは挨拶でもなく…
あるものに目を奪われた俺は会場の端に設られた物の方へ足が引き寄せられる。
そしてその前まで来るとなぜだかそれから目が離せなくて。
じっと、それを見つめた末に俺が溢したのは感嘆のため息だった。
もちろんそれは主催者としては良くないだろう。
来客への挨拶を後回しにするなんて(それにそもそも遅刻もしてしまっているわけだし)
そんな俺を見てJは眉を顰めて俺に耳打ちした。
「イノお前なぁ、遅刻しといて何してんだよ。いいからまずはゲストに挨拶だろうが」
「ーーーぁ、ああ…」
「初めまして、の人がいない堅苦しいパーティーじゃないからいいけどよ。でもだからこそ親しき者にも…だろ」
「悪りぃ。そうだな…」
「っ…たく、」
「ーーーっていうかさ、なぁ…」
「あ?」
「J」
「ーーーなんだよ?」
「これ、」
「ーーーこれ?…」
「この、花」
「ーーーーー贈られてきた花束…か?」
それがどうしたんだ?とJは花よりも、それどころじゃねぇとばかりにますます眉間を寄せる。
そうかもしれない。
常の俺ならJと同じだと思う。
贈られた花に感謝はもちろんするし、眺めて良いもんだなとも思うだろう。
でもゲストをほったらかしてまでする事じゃない。
ーーーけれども。
今はなぜか、そうじゃなくて。
部屋の隅の花台に置かれたひと束の花から目が離せない。
パッとした鮮やかな色合いの花じゃない。
燻みがかったオレンジやピンク。灰色を混ぜ込んだような赤とミルクティー色のバラ。
添えられたグリーンも艶やかというよりも艶消しの効いた大人びた雰囲気の。
それらをまとめ上げるのはくしゃりと皺の入ったクラフト紙と大雑把に裂いた黒いリボン。
それが今日のカジュアルなパーティーのイメージにも似合っていると思ったし。
それ以上に。
「ーーー花って、」
「…イノ?」
「こんな惹き込まれるものだっけ」
祝いの席や、彩りを添える存在としてしか、正直俺の中では花は存在していなかったけれど。
そんな俺の意識をひっくり返すような存在感。
声無き声で語りかけてくるような目の前の花たちから。
俺はやっぱり、目が離せなかった。
雨降りしきる夜もいい時間になってきた頃。
ゲストに一人一人礼を言って見送った。
今日一日、俺よりもてきぱき動いてくれたJに、後日奢るよって感謝しつつ。
会場を片付けて、ひと段落ついて。
自宅であるこのビルの上階に向かう俺の手には…あの花束。
「柄じゃなねぇよなぁ」
なんて。
ひとりエレベーターの中で苦笑しながらも、手に持つ花束から目が離せない。
ーーー本当。
不思議でならない。
花に魅せられている自分。
お前いつから花なんか愛でるようになったんだ⁇って、帰りがけにJにも茶化されたけれど。
彼のいうとおりだ。
ホント、どうしたんだろう?俺。
それから、不思議な事がもう一個。
誰がこの花束を持ってきてくれたのか?
ゲスト一人一人に訊いたけど、誰も首を振るばかりで。
誰も知らないって、Jも、いつからそこにあったか覚えてないって。
「そんなことあるか?」
自宅に帰り着いて、着替えるよりも先に、棚の中にしまい込んでいたフラワーベースを久々に取り出して。
ラッピングを解いて、水を満たした瓶の中に挿してやる。
ぎゅっと束ねられていた花々が、自由になったみたいにふんわりと広がる様子がいいなって思って。
(こんな事思う俺も自分自身信じられんが、)
部屋に中で一番目につきやすい、窓辺の棚の上にコトンと置いて。
じっと。
やっぱり俺は、見入ってる。魅入ってる。
ーーーなんかさ。
花相手にこんなのは変かもしんないけど。
「好きなひとに、」
出会ったばかりで、一目惚れしたひとを。
見つめてるみたいだ。
翌日は昨日から引き続きの雨模様。
でも今日はオフ。
いつも休日の朝なんかはのんびり起きたりする事もあるけれど。
今日は早くから目が覚めて、雨降りだけど家にいるのが勿体無いなって思ったりして。
朝食がてら、早々に支度を終えて外へ出たんだ。
行きつけのカフェの開店時間を外で待つなんて初めてだ。
五分前には店のドアの外へ着いたから、中で開店準備に忙しそうなスタッフを目で追いつつ、そのまま外の風景を眺める。
昨日から降り続いている雨は六月の朝の空気をひんやりとさせて、薄着で来てしまった事にやや後悔。
でもまぁ、蒸し暑いよりはいいなぁ…なんて思いながら、朝食に選びたいあったかそうなメニューを思い描いていたところでドアが開いた。
「おはようございます、いらっしゃいませ」
俺の他にも数人、開店と同時に思い思いの席へと散っていく。
俺は窓際カウンター席。
雨の日は特に、ここが好きだ。
「おはようございます、ご注文はをどうぞ」
「ブレンドコーヒーとクロックムッシュ」
「サイドメニューは」
「じゃあ、ヨーグルト」
だいたい選ぶ、いつものセット。
出来立てのそれらを受け取って、さっきのカウンター席へ落ち着いて。
至福の朝のひととき。
「いただきます」
熱々のコーヒーをじんわり味わったところで、だ。
「おはようございます!お届けにあがりました」
レジカウンターの方で、元気な声。
と言っても、決して朝のゆったりした店内音楽を邪魔しない、それに重なる心地いい挨拶の声。
明るくて朗らかで、それからすごく…綺麗だなって思った。
たった少しの声を聴いただけなのにこんなに分析している自分に苦笑して、その声の主が気になって。
俺はカップを持ったまま、声の方へ視線を向けた。
「ーーー!」
手、いっぱいに。
花。
そこにいた彼は(俺と同じくらいの歳かも)きっと仕事用なんだろう、黒いエプロンをして、両手に抱えるほどの花束を持って立っていた。
対応しているカフェの店員とにこやかに会話して、持っていた花束をレジ横の大きなフラワーベースに生け始めている。
あっという間に形よく整えた花々は店内に入ってすぐの空間をパッと華やかにした。
それから短くカットした花を生けた小さな一輪挿しを店内のあちこちへ手早く飾っている。
彼の、そのてきぱきした動きに思わず見入っていたら。
「ーーーここ、置かせていただいて、」
「ぇ、」
「雨の日に一番よく似合うバラなんです。飾っていいですか?」
「ーーーぁ、ああ」
「よかった」
いつのまにか俺の隣からさっきの彼の声がしたと思ったら、小さなフラワーベースを持った彼がにっこりと微笑んで俺に話しかけていた。
手には生けたばかりの一輪のバラの花。あまり見たことの無い色合いで、窓越しの雨の風景に重ねると確かによく似合うって思う。真っ白じゃない、生成りっぽい色の花びらの重なる部分だけが淡く青く見えるようなバラの花だ。
それに小さな丸い葉が連なるグリーンを生けたフラワーベースを、コトンと俺の目の前の窓際に彼は置いた。
ーーー置かれた花。
まただ。
俺は、その小さな花から目が離せなくなって。
それから。
彼の声も。
初めて聴くのに、もう俺の頭の中で繰り返し繰り返し心地よく響いて。
すぐそばで見た、彼の微笑みに。
柔らかそうな黒髪が印象的で、すぐそばでいい匂いがして。
なんて言うか…ーーーそうだ。
昨夜の、あの不思議な花束を見た時に感じた…それに似てる。
一目見て目が離せない。
花だけじゃなくて、彼のことも。
「お食事お邪魔しました」
俺がそんなことを考えてる間に、彼はスッと俺の隣から身を引いて、小さなお辞儀をするとその場を去って行ってしまった。
「ーーーーー声、」
「かければよかったな…」
せっかく早く起きた朝。
こんな良い雨降りの朝の出会い。
〝出会ったばかりで、一目惚れしたひとを。
見つめてるみたいだ〟
彼の去った店内をぼんやり眺めながら、俺はやっぱり、夕べ自分が感じた事をもう一度思い出していた。
朝の出来事を心地よく携えながら、オフの日だからこそ片付けられる用事をこなしていく。
買い物メインで、こんな雨降りは季節柄しばらく続くだろうし、帰ったら洗濯もこまめにしなきゃなぁ…とか考えながら。
でも。
頭の中では、行ってみたい場所を決めていた。
ジャケットのポケットを探って取り出したのは小さなメモ。
これはさっきのカフェで、帰りがけに店員からもらったものだ。
それを傘の下で見つめる。
透明なビニール傘の表面についた水滴が、そのままメモの文字の上に丸く可愛く潤んだ影を落としていて。
たったそれだけの事なのに、それがこの先の展開を幸先良いものにしてくれているみたいで。
俺は多分微笑んで、書かれた住所の方角へ顔を向けた。
〝さっきのお花屋さんですか?〝
〝ええ、いつもお花を卸してくださっていて〟
〝店長さんだと思います。あの方がいつもいらしてくれますよ〟
食事の帰りにカフェの店員にたずねてみた。
さっきここへ来た彼の事。
花屋さん?と訊くと、そうだと言う。
彼の持ってきた花の雰囲気が気に入ったんだけれど…と言ったら。
店の名前と場所のメモを渡してくれた。
その人も一度行った事があるのだとか。
とても素敵なお店でしたよ、と教えてくれた。
好きな花は何?と訊かれたら。
花の種類は…実はそれほど詳しくは無い。
でも、どちらかと言えば…だけれど。
鮮やかすぎる色彩の花よりも、白やグリーンや少々燻んだ色彩の花の方が好みなのかもしれない。
でも結局は込められた気持ちだと思う。
一輪の花でも、豪華な花束でも。
〝雨の日に一番よく似合うバラなんです〟
さっきの彼みたいな、雨の日を愉しむ気持ちにさせてくれるような…そんな。
ぱしゃ、ぱちゃん。
雨足は強くなって。
さほど遠くはない道程の間にも靴はだいぶ濡れてしまった。
帰ったら靴の手入れも必要だな…なんて思い始めた頃だ。
「あ、」
長い通りの、その表通りと脇道に分かれた、脇道の方。
道幅も人通りも少し控えめになったその道の途中に。
書いてもらったメモの店名と同じ文字を見つけた。
Rose Garden
〝CANON〟
決して大きくはないけれど、店の前に立った時の印象は彼の持っていた花々と同じだった。
もしかしたら目の覚めるような鮮やかさはないかもしれないけれど、控えめな可憐さや美しさをぎゅっと閉じ込めたような雰囲気。
ガラス戸越しに覗いた店内には所狭しと珍しい植物が並んで、壁にはカラリとしたドライフラワーで作られたスワッグやリースがかかっている。
「ーーーーー」
ドアにはOPENの文字。
俺は(実は内心どきどきしながら)ガラス戸を開けた。
「こんにちはー」
入った途端にふんわりと香るのは植物の匂い。
花の匂いだけじゃない。
最近は久しく歩いていないけれど、秋の林を散策した時の匂いに似ていると思った。
店内は誰もいなくて、でもドアが開いてたって事は開店中って事だろうし。
誰か来るまで興味深く店内を眺めた。
やっぱりここには、落ち着く色合いが多い。
灰を少しだけ混ぜたようなピンクや青の、そんな色の花が可愛らしくこっちを見てる。
「あ、すみません!」
花に見入っていた俺の横の戸口から、ぱたぱたと慌ただしい足音と。
それから。
「いらっしゃいませ」
さっき、早朝のカフェで、あの時一度聞いただけの声なのに。
再び聞いたその声に、俺はもうすでに懐かしさと心地よさを感じて。
それから、挨拶と共にむけてくれた、彼の笑顔に。
「一目惚れって、」
「ーーーぇ、?」
「ホントにあるんだな」
思わず口にしてしまうほどに。
俺はもう、好きになってしまっていた。
この店も。
ここの花も。
彼のことも。
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