リュウ







◻︎◻︎INO






ぱしゃっ…!



「ーーーっ、りゅ…」



隆の持っていたマグが手から滑り落ちて、瞬間に熱々のお茶が溢れる音がして。
新緑色の水玉が床やらラグマットに散らばる光景を目で追いつつも。
絶対に熱いだろうっていうそれが隆の脚にでもかかっていたら大変だと、俺は咄嗟に手を伸ばした。



「ぁ、

「平気か?かかんなかった?」

「ーーーーーぁ…ぅん」

「良かった」



どこかぼんやりしてる隆の前にしゃがみ込んで、隆の脚が濡れていない事を確認して。
そばのチェストからティッシュ箱を引き寄せてひとまず大雑把に床の水分を拭き取る。
するとそんな様子をやっぱりぼんやり見つめていた隆が、急にハッとしたみたいに目をぱっちりさせて焦った声をあげた。




「ーーーっ…ごめ…」

「ん?いや、こんくらい」

「イノちゃんごめんなさい!」

「大丈夫だって。よかったな、幸い小さいラグだから洗濯すれば平気だよ」

「っ…」

「隆は大丈夫か?火傷してないか?」

「ーーーへい…き」



降ってきた声が掻き消えそうで。
思わず俺は隆を見上げる。
きゅっと唇を噛んで…。ーーーなんていうか、ちょっと突けば泣き出しそうで。
そんなの見たら今度は俺が焦ってしまう。
隆だって別にこんな失敗のひとつやふたつ当たり前にあるんだろうし、それで咎めたられたりする必要なんてのも全然ないんだし。
…なんか。らしくないなって。
こんな事で泣きそうな隆が、すげぇ意外っていうか。
ーーーやっぱり本調子じゃないからなのかな。




「体調やっぱり良くないんだよな?ベッド行って横になった方がいい」

「ーーーイノちゃん…」

「ここはもう平気だからさ。着替えて寝な?俺の事は気にしなくていいから」

「……」





なんとなくしょんぼりとして、ソファーから動こうとしない隆。
でも、ここから見る隆の頬っぺたは気怠そうに赤い。
ーーー熱が出てきたのかも。

だったら、いつまでもこうしてるのは良い事じゃない。
さっきドラッグストアで買った風邪薬の箱を、隆に代わって俺が封を開ける。
裏面の服用量を見て、フィルムの中のカプセルをひとつ取り出して。
立ち上がって、キッチンからグラス一杯の水を汲んで来て、それらを隆に差し出した。



「ほら、これ飲んで」

「ーーー」

「飲んだら着替えてベッド行こう?」

「ーーー…」

「眠ったほうがいい」

「ーーーーー」



ーーーずっと、黙ってる隆。
やっぱり…こんな隆は珍しい。

珍しい…し。ーーー目が離せない…
本当ならずっと、ここに……。


けど。



「ーーー俺がいたらゆっくりできないよな」

「ーーーーーぇ、?」

「隆が薬飲めて着替えたの見届けたら、」

「ーーーーーー」

「帰るから」

「ーーー……そ…」

「な?」



終幕を迎えて疲れ切ってるのは隆もそうだろう。
メンバーだった俺がここにいたら、休まるものも休まらないのかもしれない。
今はまだ、隙間を開けたほうがいい期間なのかもしれない。
ーーー俺にとってはそうじゃなくても、隆にとっては……




「これ片付けてくるからさ」



俺がじっと見てたら薬も飲んでくれないかも…って思って。
隆が出してきてくれたマグカップをふたつ持ち上げる。
せめてこれくらい洗い上げて帰ろう、と。
そう、立ちあがろうとした時だ。







「ーーーーーーーーー……帰らないで…」




キッチンに繋がるドアの前で、俺の背に届いた声。
か細いそれは。
下手したら聞き逃してしまいそうに頼りなくて。
それは俺の知っている彼の声のどれにも当てはまらない。





「ーーーイノちゃん…」

「ーーー」





息をのんで、俺はその場で立ち止まる。

だって、この声は。

縋って、求めて、切実な。
弱々しいのに強い。




「ーーーーーお願い」



俺だけに向けられた声。
はじめて聞く、隆の声だったから。
























こくん。




「飲んだな?」

「ん、飲んだ」

「よし」



風邪薬が隆の白い喉の内側を流れる様を。
嚥下する動きが滑らかで。
…変な気持ちが顔を出しそうで、俺はそれを見てはいけない気がしたけれど。
目が離せなくて、保護者ぶる事で誤魔化した。

ちゃんと飲んだよ、って顔して。
空になったグラスを持って俺をじっと見てる。
その顔があどけなくて、これもまた初めて見る隆のような気がして。
やっぱりどうしても顔を引っ込めてくれない変な気持ちと格闘しながらグラスを受け取って。
ーーーちょっと考えて、隆の頭を。


なでなで。


それでどうにか気持ちを落ち着けた。




「薬飲んだからもう少し熱が出て汗かくかもよ。着替えて横になりな」

「ーーー寝なきゃだめ?」

「よくなりたいんなら」

「ーーーーー…よくなりたいけど、」

「ん?」

「ーーーーーーーーー寝ちゃったら…」

「ぇ?」

「その間にイノちゃん…」

「ーーー」

「ーーーーー帰…」


「ーーーらないよ」



一瞬、ちらりと寄越した隆の視線は潤んでた。
突けば泣きそうなのはさっきから変わらなくて。お願い…なんて、そんなの見せられたら置いて帰るなんてできないだろ。




ふにっ



「っ…」

「赤い顔して」

「ぅ、」

「柔らかい頬っぺたしてさ」



ふにふに、泣きそうな隆の頬を甘く摘む。
泣くな泣くなって思いながらも、心のどこかでは俺の前では泣けよって思ってる気がする。

ステージに睨むように歌う隆の姿はここにはない。
抉るように刺さるように叫び歌う隆もここにはいない。

いるのは。




「ーーーイノちゃん、」

「ん?」

「…ほん、と?」



柔らかくて、あたたかくて、いい匂いで。
潤んで縋る瞳と、甘くて頼りない声で俺を呼ぶ。
そんな隆。



「ああ、」

「ーーー」

「帰らないよ」

「…っ、ぅん」

「隆のそばにいるよ」



なぁ、それは俺だけ?



「ゆっくり眠りな」

「…ありがとうイノちゃん」

「ん?ーーーくくっ、」

「?」

「世話やけんなぁ、って」

「っ…ぅ、ごめ…」

「ってのは嘘で。ーーーいいんだよ」

「…」

「大歓迎だ、隆とこんなのは」

「…イノ、」

「ーーーーー……」

「……ちゃん?」



「ーーーここにいるから」




好きだから。…とは、喉まででかかって。
言わなかった。

今じゃないって。
隆と過ごす時間が始まったばかりだから。






.

3/7ページ
スキ