短編集・2
《風使いと彼の傘》
「葉山っち、これなぁに?」
「え?」
隆一のふとした問い掛けに、葉山は彼の指さす方を見た。
今日のスタジオ作業を終えて夕暮れ時。
帰り支度の最中。
日中、空の仕事からそのままスタジオまで飛んで来た隆一は、書き散らした譜面を片づけながらイノランと葉山の準備を待っていた。
あらかた自身の準備が済んだイノランは、先に運び込める葉山の荷物を車に運ぶと言って下階の駐車場に行っている。
本日は荷物の多い葉山は、テーブルや椅子の上を占領して荷物整理に励んでいたのだが。
その中の…隆一が指さす物。
綺麗に折り畳まれカバーに収納された…
「ーーー折り畳み傘…ですか?」
「折り畳み傘?え、傘なの?これ」
「え?ぇ、ええ。ーーーえ、隆一さん、もしかして」
「初めて見た」
じっとまじまじ、興味深そうに隆一が見つめるそれは。
なんて事はない、どこにでもありそうな黒い折り畳み傘だ。
隆一に聞かれるまで、葉山も流れ作業的に鞄に詰めるだけの、その存在を。
隆一は。
初めて見たという。
「ーーー傘自体、俺あんまり…っていうか、使わないんだ」
「え」
「雨に濡れるのは慣れてるし。雨が降ったら濡れるのが当たり前…って、そんな感じで過ごしてきたから」
「そうなんですね。ーーーでも確かに、空の方々は毎日色んな天候を、」
「うん」
そんな会話の間にも。
隆一は葉山の折り畳み傘から目が離れない。
よほど珍しいのかと、手渡してあげようと思った時だ。
「雨降ってきたよー」
「あ」
「イノちゃん」
「おまたせ。ーーーまだ小雨だけどね」
「手伝いありがとうございます。助かりました」
「ははっ、葉山くん今日荷物多いもんね」
「はい」
「ーーーどう?もう出られそう?」
「僕はもうちょっとかかりそうなので、イノランさんと隆一さんはよかったらお先にどうぞ」
「ん、了解」
「ーーー葉山っちも、もう帰れる?」
「はい、大丈夫ですよ。ちょっと今日は持ち込みの機材が多いんで…ゆっくりやります。ーーーあ、そうだ、隆一さん」
「え?」
「これ、持って行きますか?」
葉山が差し出したのは黒い折り畳み傘。
雨が降り出したという空。
あれほどまじまじと物珍しそうに眺めていた隆一だから。
こんな日にはちょうどいいのではと思ったから。
そしてそんな葉山と隆一の会話を聞いて、イノランは首を傾げて問い掛けた。
「折り畳み?なんで?」
「ああ、隆一さんが」
「そう。折り畳み傘ってね、俺初めて見たの」
「!」
「じっと眺めてるものですから、雨が降ってきたならちょうどいいかなって」
「ーーーそうなんだ」
「隆一さん、良かったらご遠慮なくどうぞ。僕は今日は車だし、使いませんから」
「ーーーいいの?」
「はい!」
「ありがとう!」
ぱき、ぱきぱき。
小気味いい音をたてながら、パッと開いた黒い傘。
隆一は嬉しげに顔を上げた。
「今日、車で来なくて良かったな」
「イノちゃんの車に乗るのも大好きだけどね?」
「そ?」
「うん!でも、今日は葉山っちの傘」
「傘自体をあんま使わないんだもんな?隆は」
「だから新鮮っていうか、なんか嬉しい」
にこにこと広げたばかりの傘を見あげる隆一を見ていたら。
たったこれだけの事でこんなにも喜ぶことができる隆一が、イノランは羨ましいと思ったし。
やっぱり可愛いと思った。
「な、実は俺さ」
「ん?」
「雨降ると思ってなくて、傘持って無いんだ」
「ーーーえ、」
にんまり。
イノランは、傘の柄を握りしめたまま振り返る隆一に…満面の笑み。
二の句が紡げずにいる隆一の隣にスッと身体を滑り込ませると。
「俺も一緒に入っていい?」
さあああああああ
雨足はそこそこ。
風は無いから、空から降ってきた雨粒は真っ直ぐ地上に落ちる。
さあああああ
パシャ。ばしゃばしゃっ。
ふたりの横を車が通り過ぎる。
濡れた夜のアスファルトは街の灯りや車のライトが反射して光の道のよう。
「ーーーーー」
「ーーーーー」
最初、まるではしゃぐように会話を交わしていたふたりだったけれど。
ひとつの赤信号で立ち止まった途端、ピタ…と鳴りを潜めて。
「ーーーーー」
「ーーーーー」
黙ってしまった。
ふたりして。
「ーーーーー」
「ーーーーー」
ふたりが揃って黙りこくるなんて珍しいことだが。
でも。
気が付いてしまったのだ。
今。好きなひととの、密やかなふたりきりの空間にいると。
イノランなんて、自分から隆一の隣に入ったくせに。
どうしてだか、急にどきどきしてしまって。
さあああああああ
ばしゃっ…ばしゃ
また、車が通る。
一瞬、イノランがちらりと横目で見た隆一は。
夜道なのにわかるくらい、照れた表情で。
ぎゅっと唇を噛んで、傘の柄を握りしめる事で気を紛らわせているようで。
「ーーーーー隆」
「…ぁ、」
「かして」
イノランは、隆一の手から傘を奪った。
「相合傘って、言うんだよ」
「っ…?」
「今みたいにさ、こうして。ひとつの傘に誰かと一緒に入るって」
「ふぅん?」
小首を傾げながら頷く隆一が目の前にいて。
それが凶悪なまでにイノランには可愛くて。
この雨を切り取る空間を作り出しているのが、葉山の傘だという事に少々照れ臭さも感じながら。
(葉山くんに見られてるってわけじゃないけど、なんとなくな)
これくらいは許してな、と。
向こう側の信号が点滅し始めたほんの一瞬。
傘の下で。
「っ…ん、」
「ーーー好きだよ」
隆一の顎を掬って、唇を重ねた。
end
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