短編集・2
霞んだ白と鉛色の空が広がるこの季節。
水色と白と薄紫の、水彩画みたいな季節。
日々の日常に、雨音が重なる季節。
ーーー梅雨が始まった。
《hydrangea》
夕方。仕事が終わって帰ってみたら、冷蔵庫に何も無かった事に気がついた。
買い物行くけど要るものある?って隆にメッセージを送ったら、程なくして返ってきたメッセージは。
『一緒に行きたい!あとご五分で家に着くから待ってて』
だった。
打ち間違いを見つけてしまって、思わずこぼれる笑み。移動中のタクシーで、慌ててスマホを弄る様子を思い浮かべて笑いが抑えられない。
急がないと置いてかれると思ったんだろうな…。
「そんなわけ無いのにさ」
できることなら、いつだって側にいたい。そう思っているのに。
それに。
置いてかれるとしたら、俺の方のような気がする。
何しろ、フットワークが軽い隆だ。
俺自身も、歳を重ねる毎に足取りは軽くなった自覚はあるけど。
それでも敵わないって思ってしまう。
たった今まで隣にいたのに、次の瞬間ぐんっ…と先まで走って行ってしまうかもしれない。
羽根を生やして、ぱあっ…と空へ舞い上がってしまうかもしれない。
「……」
隆の奇想天外な閃きや、囚われない自由さに。あり得なくは無いのかも…と、ちょっと気落ちする。
…けど。
ーーーいやいや。
なんだってこんな深刻に考え込んでんだ。隆の文字打ち間違いから、どこで思考がこっちに向いたんだ?
隆の事になるとどっぷりはまり込んでしまうのは今に限った事じゃない。
やれやれ…。と肩を竦めたタイミングで、玄関から賑やかな音がして、隆の元気な声が聞こえてきた。
「ただいまぁ!イノちゃん、お待たせ」
「隆ちゃんおかえり」
隆は荷物を置くとすぐに寄ってきて、にっこりしていつものキス。
ただいま、おかえりって。これはもう習慣だ。習慣だけど、キスの後に恥ずかしそうに微笑む隆は、いつ見ても可愛いって思う。
「買い物行くんだよね?」
「そう。何も無かったわ、冷蔵庫」
「昨日も帰り遅かったしね」
「明日も遅くなりそうだし、今日の内に買い出し行っとこう」
「うん!」
買い出し用の大きな布のバッグを肩に掛けて、足元はサンダル。もう暑いからね。傘は…ーーーと思ったけど、厚めの雲の隙間から太陽が覗いているから、平気だよなって。傘は持たずに、二人で外に出る。
向かう先は一番近くのスーパーマーケット。今日はお互いずっと車移動だったから、散歩がてら歩いて行く事にした。
隆はひと回り小さい保冷バッグを手にぶら下げて。鼻歌を歌いながら、ご機嫌な様子だ。
「お腹空いたねぇ、なに買って帰ろっか?」
「隆ちゃん、食いたい物ある?」
「んー…そうだな」
ーーーなんて会話をしながら。
スーパーで食材を買って、予想以上に重くなったバッグを持って外に出た。
「あー…」
「降ってきちゃったね」
ぽつぽつと細かな雨粒。地面に黒い水玉模様が出来ていて。でも空を見上げると、太陽の端っこが雲の隙間から見えている。
「通り雨かも。ひどくなる前に帰ろう」
「うん」
隆はコクリと頷くと、肉やら魚やらよりもアイスが容量を占めている保冷バッグを抱え直して、あのね?と窺うように言った。
「帰りは、こっちの道からでもいい?」
「…こっち?」
「うん。ほんの少しだけ遠回りだけど、通りたい所があるの」
「うん?いいけど…なに?」
「へへ、お楽しみ」
また何か悪戯を考えているのかわからないけど。にこにこご機嫌な隆と並んで、きた時とは違うもう一つの帰り道を進む。
黒い水玉は、いつの間にか地面を埋め尽くしていて。辺りの木々や建物もしっとり濡れている。
一歩前を軽快に歩く隆の髪も、細かい水滴が散って、光の加減できらきらして見える。
通りたい所ってどこだ?って思っていたら。隆は通りの一番突き当たりにある、大きな木造りの古民家の前で足を止めた。
雨に濡れて、ひっそりと静かに佇む古民家の木造りの塀の脇。そこだけ塀の高さが低くなっていて、庭の片隅が見えるようになっている。
「紫陽花」
しかも、かなりの広さの花壇だ。
「まだ色付く前だな。黄緑色で…」
「うん」
遠目からはブロッコリーにも見えなくはない、まだ黄緑色の小さな花の集まり。これが一斉に青や紫に染まったら、それはそれは壮観だと思う。
じっと紫陽花を見つめる俺に満足したのか、隆は相変わらずにこにこして言った。
「ご近所さんに、こんな紫陽花畑があるなんて知らなくて。見つけた時嬉しかったんだぁ。まだ緑だけど、これから色がついてくるでしょ?」
「そうだな」
「その時、イノちゃんと一緒に見られたらいいなぁって」
「ーーー俺と?」
「うん!だってひとりで見るのもいいけどさ?絶対綺麗なものが見られるってわかってるなら、最初に見るのはイノちゃんと一緒がいいもん」
「ーーー」
無邪気。純粋な笑顔。
もし仮にこれがわざとだとしても。隆の場合、決してあざとく見えないのがすごい。
健やかで、明るくて。
そんな隆に、俺はいつだって攫われて無中になるんだ。
「?」
俺の返答が無いのを訝しんだのか。隆は首を傾げて、じっと俺を見る。
ーーーそんな隆を目の当たりにしたら。
さっき出がけに考えてた事まで蘇ってきてしまって。
なんか隆に必死になって、夢中になってんのって俺の方ばっかりじゃない?
って、だいぶ捻くれた思いがこみ上げてきて。
そんなわけないのに。
隆だって、俺をめいっぱい想ってくれてるって知ってるのに。
この時、急速に捻くれた俺は。
止せばいいものを、誤解を招きかねない。ーーーというか。もしかしたら、隆に誤解させて、感情を揺るがせて、俺に夢中にさせたかったのかもしれない。
ーーーそんな言葉を。
俺は言ってしまったんだ。
「うん…。見られたらいいね…」
言ってしまって、ハッとした。
瞬時に笑みが消えた隆の表情を見たら。俺の曖昧な言葉を、悪い方の意味で捉えたんだってすぐにわかった。
〝うん…。見られたらいいね…〟
口調や表情によって。
希望があるようにも。
希望が無いようにも、聞こえる。
その言葉。
隆が時に頑なで、融通がきかなくて。そして恐ろしく純粋で素直だって事。
一緒に音楽始めた頃から知っていたし、恋人になって更に実感してたっていうのに。
ーーー俺の口調とか、言葉の間にも、滲み出ていたんだろうか。
俺の不純な動機。
薄くて透明な壁を俺との間に張り巡らせて。次に隆が見せてくれたのは、にこっとした笑顔だった。
ーーーでもそれは、不自然な笑顔だ。
「ーーー隆っ…」
「帰ろ?雨強くなってきた」
くるっと向きを変えて、家の方に歩き出す隆。
すたすたと、まるで俺を置き去りにするように。
「ーーーーー」
置いて行かれるのは嫌だなって。さっき切なくなって気落ちしてたのは自分なのに。結果的に自分でその原因をつくってしまった。
先を歩いて、時折振り返って俺を見ると、また進んで。ーーーそんな事を繰り返しながら、俺と隆は家に着いて。買ってきた物をしまうと、あんなに楽しみにしていたアイスにも手を付けず。疲れちゃった、ちょっと部屋で休むね。って、また微妙な笑顔を浮かべて、隆は自室へと引っ込んで行った。
ざぁぁ…
暗くなって。雨脚はすっかり強くなってきたみたいだ。
あれから俺は、夕飯を作るどころか頭の中が飽和状態になってしまって。
ギターに手を伸ばして爪弾くも、ため息と共に手が止まる。
「ーーーはぁ…」
ケンカ…と言うには、ちょっと違う気もするけれど。二人の間に生まれた見えない壁は確かに存在してる。
「…あんな事」
言わなきゃ良かったよな。
隆が一緒に紫陽花を見たいって。綺麗に色付いたら一番に俺と見たいって言ってくれた事。
好きな奴にそんな事言われて、嬉しくない筈無いんだ。
『オマエ、ドSだからなぁ』
前にJにボソッと呟かれたのを思い出して、苦笑いが込み上がる。
ドSの上に、今回は捻くれてて。寂しがりで、欲しがりで。
「なんかすげえ面倒くさい奴だな…俺」
自覚しただけ、まだマシだろうか…。
ーーーでも、それにしたって。隆にとってはいい迷惑だろう。
だって隆は何も悪くないんだから。
「ーーー」
ーーーーーーーーーーーー。こうしてたって仕方ない。このままの雰囲気で今日を終えるのは御免だ。
自分の撒いた種だけど、この際棚に上げて。プライドも全部投げ捨てて。
「ちゃんと謝ろう」
あんな言い方ごめんなさいって。
一緒に見たいのは、俺も同じ。
本当は嬉しかったんだよ。…って。
………
「隆?」
隆の部屋を、数回ノックする。
ーーーーーー……。
反応は無い。
「寝ちゃったかな」
ーーーそっとドアを開けて、中を覗く。電気が消えたまま、カーテンだけ少し開いている。
窓に雨が当たる音が響く中、ゆっくり部屋に進むと、そこに隆はいた。
ベッドでは眠らず、ベッドに背を預けて寄りかかって眠ってる。近くにはギターが置かれてて、同じ事してたんだって。笑みが溢れた。
傍らのギターを壁に立て掛けて。隆の隣に、俺も座り込む。起こそうとは思わないけど、ベッドに預けてた頭を、俺の肩へと引き寄せた。
「ーーーーーーーごめんな、あんな言い方」
眠る隆に、語りかける。
薄暗い部屋だけど。雨粒に反射した僅かな光が窓硝子から射し込んで。ふわっと、部屋の中が青白く見える。
「見苦しいから、言い訳はしない」
本心の話をするよ。
置いていかれるのは嫌なんて。
もっと俺を見て欲しいなんて。
かっこ悪いけど…でも言うよ。
「もっと俺に、夢中になって」
苦しいくらいに。
「ーーー夢中だよ?」
小さな声が、薄暗闇に溶けた。
「隆?」
寝てると思っていたのに。
「起きてたの?」
「うん。…イノちゃんが隣にきた時に、起きた」
「ーーーそっか」
…って事は、聞かれてたんだな。
後からもう一度ちゃんと話すつもりだったけど。不意を突かれたみたいで、ちょっと…照れる。
「ーーー嬉しい」
隆の、はにかんだ感じの声がする。薄暗いから、いまいち表情が解りづらいんだけど…ーーーわかるよ?
「嬉しい?」
「うん…。嬉しい」
「ーーーどうして?俺、あんな微妙な言い方したのに?」
「確かに、解りづらかったけど…」
「うん…」
「あの時のイノちゃんの言葉ね。〝隆が好きだから、絶対一緒に見られたらいいな〟〝隆が好きだけど、本当に一緒に見てくれるのかな…〟って。そうゆう風に聞こえたよ?」
「ーーーっ……」
「俺の事、ホントに好きでいてくれてるから、あんな言い方したんでしょ?それが嬉しかったんだよ?」
ーーー隆。
そんな捉え方してくれてたんだ。
じゃあ、あの不自然な笑顔も。素っ気ない態度も。
ーーー照れ隠し?
俺の捻くれた、面倒くさい言葉も。
隆にかかれば、なんて事ない。
明るさと健やかさに満ちるんだ。
ーーー完敗だ。
「イノちゃんって、そんな事考えるんだね?」
事の顛末を聞いた隆は、首を傾げて目をぱちぱちさせたと思ったら。今度はクスクス笑いだして、俺に抱きついてきた。
「だめだ俺。隆の事になると。不安にもなるし、欲しくなるし」
「ふふっ …」
「俺ばっかり隆に夢中みたいで、カッコ悪い…」
「そんな事ないよ」
「そっかな…」
「そう!だって俺、いつもイノちゃんの事考えてるもん。あの紫陽花だってそう。青くなったらイノちゃんと絶対見たいって思ったんだから」
「ーーー隆ちゃん…」
その言葉が嬉しい。
ーーーでも、やっぱり俺の方が欲に忠実な気がする。
夢中になって。
触れたいし、触れて欲しい。
愛し愛されて、とけあってしまいたい。
「ーーー」
「また、何考えてんの?」
また思考の奥に沈んでいた俺に、隆の軽やかな声が届く。
抱きついていた隆が顔を上げて、じっと俺を見てる。やっぱり暗いから、しっかり表情は解りづらいけど。
今度ははにかみじゃなくて。
「ね、イノちゃん」
確かな。情欲を滲ませた、表情だった。
今何時なんだろう。
多分もう、20時は過ぎたはず。
空腹感が無いと言えば嘘になるし、こんな事するにはまだ時刻も早い気がするけど。
我慢できなくて。
俺も隆も。
ベッドにも上がらず、フローリングの床で。
「っ…ん」
「は…」
「あっ …ーーーーぁ…」
「りゅうっ 」
引き剥がすように隆の服をたくし上げて、白い肌に吸い付いた。
隆の肌に、窓硝子の水滴の透けた影が映って。それをひとつひとつなぞるように唇を寄せる。
隆の熱に浮かされた声が、雨音に混じって心地いい。
誰にも邪魔されない場所で、雨が包んでくれてるみたいだ。
「ーーーイノ…っ」
「…ん?」
「もっ…と、足んな…っ」
「ーーー俺もっ …足りない」
両手をいっぱいに伸ばして、俺の背中に縋り付く隆。ちょうど首筋の所に隆の忙しない吐息が掠めて可愛い。
思わず溢れてしまう微笑みも隠さないで、隆に夢中な俺も隠さないで。
隆の脚を抱え上げて、一気に隆を貫いた。
響き渡る嬌声。
隆を揺する度、離れないように隆の手に力がこもる。
息遣いも不規則だけど、キスしたくて。隆に覆い被さって、繋がったまま唇を重ねる。濡れた音が聴覚を刺激して。目の前の、涙の滲む震える睫毛とか。汗ばんだ柔らかな隆の肌とか。セックスの最中の、隆の甘い匂いとか。隆とする、キスの味とか。
五感全部が隆に満たされて。
逆に隆も。全身で俺を求めてくれてるんだって伝わってきて。
「あっ …イノ…ちゃん…っーーー俺」
「っ…ン…なに?」
「ちゃんとっ…夢中…なんだから!ーーーイノちゃんに」
「っ …‼」
「あっ …ぁん っ…待っ…ぁ あっ 」
「隆ちゃんっ …!」
ぎゅっと隆の爪が、俺の皮膚を傷つけたのがわかったけど。
嬉しくて。
隆の言葉が愛おしくて。
さっきまで散々ぐだぐだ考えてた事も、もうどこかにいってしまうくらい。
俺も隆も、何も考えられないくらい、夢中になって交じり合った。
昨夜はあの後、空腹を押し切って。
いつまでも抱き合って。
空腹感もどこかに行っちゃって、その代わりに疲れて眠気が押し寄せて。
二人揃って目が覚めたのは翌朝だった。
「お腹すいたね」
「シャワー浴びて、飯食おうか」
「うん!」
今朝はやっぱり雨。
ーーーもう、梅雨入りだな。
張り切っていつもより多めに作った朝食。今朝は割と食べてしまったから、傘を差して散歩に出た。
腹ごなしだ。
どの辺歩く?と隆は若干、よたよた歩き。
「ーーー痛い?」
「ん…ちょっと」
「ーーー昨夜、激しかったもんな。…肩貸そうか?」
「ううん、大丈夫だよ。ありがとう」
「ーーー」
健気にも微笑んで首を振る隆を見て。それなら…って。
隆の手を引き寄せて、手を繋ぐ。そしてそのまま、ある場所へ。
「!」
「昨日のお詫び」
「イノちゃん」
「仕切り直し。もう一度見に行こう?」
「ーーー紫陽花?」
「そう。今度はさ、俺ももうぐだぐだ考え込まないから」
手を繋いで、昨日の古民家へ。
昨日より雨脚が強いせいか、よりひっそり静かに佇んでいる。
ーーー遠くから見ると、やっぱりブロッコリーに見えなくも無い。
でも近づくと、清楚な小花の集まりだ。
「あ…」
紫陽花を間近で見ていた隆が、微かに声を上げた。
どうした?…と、尋ねると、隆は黄緑色の紫陽花の一点を指差した。
そこには。
寄り添うようにたった二つの花が。
青紫色に、濡れて色付いていた。
end
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