白の牢獄〜あなたへ〜
月曜日。
リュウイチが歌う最後の夜。
「ーーーーー」
イノランは宿屋の部屋で身支度の最中だった。
夕刻から入浴し、髪を整え、町で見繕った新しいジャケットを羽織る。
ずっと旅を続けてきたイノランが、こんなにめかし込んだのはいつ以来だろうか。
仕上げのフレグランスをかけながら、その理由に想いを巡らせて苦笑した。
こんな事を自分がするなんて考えてもみなかった。
「ーーー柄じゃねぇよな」
太陽の下をガツガツ歩き回っていた時間が長すぎて、こんなのは照れ臭い。
しかしそんな自分を飛び越えて、今鏡の前にいる自分は彼にしてあげたい事があるからだ。
迎えに行く…と、約束した。
「たった三日間だけど…長く感じるもんだな」
リュウイチと離れていた時間。
様々なことを考える時間はじゅうぶんに取れたけれど、会えないのは…やはり寂しいものだった。
「ーーー行くか」
壁にかかる時計が出掛ける時間を報せる。
イノランはランプの火を消すと部屋を出て行った。
今宵のステージ。リュウイチはあのストールをシャツの上からふわりと巻いた。
柔らかな雰囲気のリュウイチを見て、似合いますね、とハヤマに言われると嬉しくて微笑んで。
誰にも見つからないように、そっとストールの端に唇を寄せた。
「ーーーーー」
今日、無事に歌い切れば白いギターを受け取ることができる。
その為に今ここにいる。
イノランが探していたギター。
渡したい…が、イノランは受け取ってくれるだろうか。
余計な事をするなと、怒りはしないだろうか。
「ーーーイノラン…見に来て…」
「……くれたらいいな」
三日間という時間はリュウイチにも考える時間と変化を与えた。
イノランと離れて暮らし、初めて仕事をした時間。
誰かの為に何かをしたいと行動することは、今までとは明らかに違う日々だったろう。
(自由って)
今みたいな状態なのかもしれないと、リュウイチは思う。
自ら考えて、行動して、自信を得る。
自信は羽根のように心も身体も軽くして、輝きを得て。
空も飛べそうな気がする。
イノランにそんな自分を見てもらいたい。
「会いたい」
「今すぐに、あなたに会いたい」
思えばイノランと出会って今まで、こんなに離れたのは初めてなのだ。
恋しさはいつだって募る。
会えたら何を伝えよう?
白の牢獄を旅立って、しばらくした頃。
リュウイチは一度だけ、イノランに問いかけたことがある。
〝何故、俺を選んでくれたの?〟…と。
持っていた中で一番価値のある宝石を手放してまで。
何の財産も持たない、世界のことをこれから知ってゆく、こんな俺なのに…と。
旅の途中の夕暮れの丘の上で。
小さな商店で買い求めたチョコレートを半分に割りながら、イノランはその片割れをリュウイチに手渡してこう言った。
「ほい、リュウ」
「ぁ、ありがとう」
「ーーー美味っ!」
「ふふっ」
美味そうにチョコレートの欠片を口に放り込むイノランを見ながら、リュウイチもその端に齧り付く。
美味しい!と嬉しそうに笑うリュウイチを見つめながら、イノランは呟いた。
「こうしたいのは、お前だけだから」
「ーーーぇ、?」
「そう思ったから、」
「ーーー」
「…じゃ、答えになんないかな…?」
「っ…ぅ、」
「ん?」
「ぅうん、そんな事ない」
「ん、」
「嬉しい」
イノランの答えは、素直に嬉しかった。
お前だけ、という言葉に。
どきどきした。
高鳴る心を静めるように夢中にチョコレートを齧るリュウイチを、イノランが愛おしげに見ていたことをリュウイチは知らない。
ーーーだから、風に乗って掻き消えたもうひとつのイノランの呟きも、リュウイチは知らない。
「愛してるから」
土日の夕刻に比べると客足は緩やかだ。
店内は空席もあるが、その分ゆったりした雰囲気が漂う。
リュウイチは出番までは厨房での手伝い。
完成直前まで皿に盛り付けられた料理に彩りのハーブの葉を乗せる。
デザート用のスプーンをデザートグラスにセットする。
食べ終えた皿を厨房の洗い場へ運ぶ。
明日の営業用に搬入された食材を冷暗所へしまう…など。
じっと出番を待つよりも、こうして動いていた方が緊張も紛れて良いと率先して手伝いを申し出た。
「ーーーほんとう…。リュウイチさんと仕事できるのが今日で最後なんて…」
「ハヤマさん、」
「残念すぎる。ーーー調理場の手伝いも正直本当に助かってますし…。一緒に音楽するの…楽しいので…」
「ありがとう、ハヤマさん」
「改めて、こちらこそありがとうございました。淋しさはありますが、最後の夜めいっぱい歌ってください」
「はい!」
ハヤマのピアノ音が優しく響く。
今夜の曲はあの白の牢獄の中でリュウイチが創り上げた曲だ。
あの頃はこんな未来は予想もしていなかった。
憧れも、恋しさも、自由も、何もかもが、別世界のものだと思っていた。
「ーーーーーla…lala…」
涙に種類があるなんて、知らなかった。
「Lulu…lala…la」
カタン…。
ショウが始まって、少しした頃。
そっと端の客席に座る姿があった。
リュウイチの真横だから、そのひとの来訪をリュウイチは知らないが。
ピアノに向かうハヤマは横を向いているから、その遅れて入店したひとに気が付いて。
ハヤマが小さく会釈すると、そのひとも会釈を返す。
イノランが観に来ていた。
リュウイチは依然として歌に集中している。
イノランには気付かない。
しかしイノランはそれでいいと思った。
なにものにも囚われずに歌うリュウイチを目に焼き付けたかった。
「ーーーlala…lala…lala…」
「…リュ……」
こんな姿は知らない。
こんなに美しく、艶やかに歌うリュウイチ。
宿屋の部屋で口ずさむ歌とは違う。
歌声を羽根にして、このまま高く遠く飛んで行きそうな…
自由な白い鳥みたいな。
「お客様、終演のお時間でございます」
「ーーーあ、」
「こちらのグラスは如何なさいますか?」
「ーーーああ、いえ」
「結構です」
来店時に運ばれてきたワイングラスは手付かずのまま。
ショウが終わるまで、そのまま…
………………………
「リュウイチさん、本当にありがとうございました、そしてお疲れ様です」
「ハヤマさん、こちらこそ本当にありがとう!」
「そんな、」
「ハヤマさんが力を貸してくれたから、そのお陰です」
「違いますよ。リュウイチさんの一生懸命さに僕が引っ張られたんです」
そして。
「約束のギターです」
「ーーーぁ、」
「受け取ってください」
「ーーーーーっ…」
「あなたが自分の手で得たんですよ」
両手にギターの重み。
長い旅を続けて来たのはこのギターも同じだろう。
塗装の剥げも、ボディの打痕も。
いつか主人が書き入れた文字も。
全てが誇らしくリュウイチの腕の中にいる。
愛するひとの宝物。
「ーーーっ…ありがとう…」
ぎゅっとギターを抱きしめるリュウイチの背をハヤマはトン…と押した。
今夜は片付けの手伝いは大丈夫だから、外へ…と。
「でも、」
「外でお待ちかねですよ」
「ぇ、?」
「ーーーリュウイチさんの大切なひとです」
「…寒い」
背中を押されるままに戸口の外へ出た。
冷たい夜風が通り抜けて、思わず肩を窄めてしまう。
抱えたギターも寒そうで、リュウイチは手のひらでヘッドを撫でた。
「ーーー喜んでくれたらいいな」
「イノラン、」
「宝物、見つけたよ?」
「ーーー少しは俺、」
「お返しできたかな…」
手元のギターを見つめていたから、目の前にいたひとに気がつかなかった。
気付いたのは、そのひとに。
「ーーーーーっ…リュウ、」
「っ…!?」
「リュウ…っ……」
柔らかく、優しく、抱きしめられた瞬間だった。
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