四角な空と、ローズガーデン














「あ、良い香り」

「え?」





隆と近くのレストランでの夕飯の帰り道。
時間もまだそこまで遅くなかったから、ちょっと散歩して帰ろうかって。
少しだけ大回りして、広い公園のある方へ足を伸ばして。
夜の緑の道を、他愛のない話をしながら隆と歩く。
ーーーその途中で。


隆の足が、ピタリと止まったと思ったら。
良い香りって。
柔らかく微笑んで呟いた。




「ーーー良い香り?…」

「うん。ーーー花の香り。ーーーーー多分…」

「ん?」

「ジャスミン…かも」



すん…。と、鼻先をちょっと上げて香りを追いかける隆にならって、俺も夜の空気を吸い込んだ。
すると確かに…


「香りするな」

「うん」

「夜に似合うな。良い香り」

「ね?」

「さすが隆。微かな香りだけで何の花かわかるんだな」

「…一応、花屋だからね。でも、イノちゃんだって音楽の事はそうでしょ?」

「ーーーまぁ、」

「きっとそれとおんなじだよ」

「…そっか、」




ジャスミンってどんな花だっけ?なんて、思いながら。
ご機嫌そうに俺の半歩前を歩く隆の姿をぼんやり見つめる。



(細い腰とか、首筋とか、華奢だな)
とか。
(柔らかそうな髪だな)
とか。
(シャツから覗く手首が白い)
とか。
俺はそんな事ばかり考えてる。

隆の事ばかり、考えてる。
ここ最近は、ずっと。


そう。



俺は多分、聞きたいんだ。




一方的もいいところなんだけど、秘めておく事ができなくて溢れてしまった想い。
バラの花と共に告白してしまった。
その答えを。





「ーーーーーーりゅ…」



ーーー言いかけて、口を噤んだ。
隆を困らせるだけかとか、そんな事を考えて。
そのかわりに、空を見上げた。
もうとっぷりと陽の落ちた空は当然ながら暗い夜空。
緑の茂るこの公園の夜空は、広がる葉の模様が縁取って。
透かし模様みたいに、向こう側に星が瞬いている。


いつか本当に好きな人と出会えたら。
真っさらな空の下で愛を伝えたいって、思ってた。

ビルの地上から見上げるような四角く切り取られた空じゃなく。
空と、雲と、木々と、花と。
そんな場所で、愛の言葉を。



(…っても、俺は隆の店の中で)

(花と香りに包まれた場所で)

(隆に愛を伝えたけれど)


もしもこれから、隆と心を通わせる事ができるなら。
その時は…






「ーーーーーちゃん…」

「その時は…」

「…イ……ちゃん?」

「隆、と」

「ね、イノちゃん!」



「ーーーーーあ。」

「ーーー大丈夫?」



しまった。
つい、



「ぼんやりしてる?」

「や、ごめん」

「疲れてるんじゃないの?もう帰る?」

「大丈夫だよ。疲れてんじゃない」

「でも…」

「そうじゃない」



不甲斐ない。
心配かけてしまった。
…でも。

今のままじゃ、いつまでもこのままな気がする。
俺の告白を、本気にしてくれてるのか、そうじゃないのか。
いつまで経っても、わからないままだ。
わからないから、悶々として。
結果的に隆に心配をかけてしまった。






「ーーー俺にできる事があれば言って」

「…ぇ、?」



言葉が紡げなくなった俺が、隆の言葉で顔を上げると。
目の前に、手を伸ばせば触れられるくらい近くに。
隆が側に来てくれていた。

やっぱり、心配そうに。



「せっかく仲良くなれたんだもの。悩みとか、相談とか。俺でよかったら、」

「ーーー」

「俺でチカラになれるなら、」

「ーーーーーー隆、」

「ね?」




〝ね?〟

その、俺を気遣ってくれる言葉と。
小さく首を傾げて、微笑むような。
隆の表情に。


我慢できなかった。
もう。







「…っ…ん」



鼻にかかる、甘い。
声。
ほのかの花の香りがする気がした、隆の前髪が触れる感覚に。
目眩がしそうなくらい気持ちいい…




「…ふ…っ…」





隆にキスしてる。
隆とキスしてる。





「…ぁ、イ……」



とん…。
胸の辺りに、隆が手をついた感触がして。
霞んだ思考をどうにか動かして。
ぐっ…と。
隆の指先が食い込んで。
俺はようやく、キスを解いた。




「ーーーーーりゅ、」


「…は、ぁ……」

「隆、」


「…っ……ぁ、あの…俺、」



精一杯、俺に両手を突っ張ることで距離をとろうとする隆を見て。

そこで気づく。

俺はまた、唐突な事をしてしまったと。
告白に次いで、キスまでも。




弁解なんてしない。
そんな事しない。
でも。
隆からしたら、唐突で、心の準備もなくて、乱暴なことにきっと違いはなくて。




「…隆」

「ーーーーーーーー…イ……ノ…ちゃん、」




声が震えてる。
指先が震えてる。



「ーーーーーーーあ…ぁの…」

「ーーー隆、俺…」


「…お、」



「ーーーーー」



「おやすみ…なさい…」




隆は俯いたままそれだけを言うと。
タッ!…と、駆け出した。

きっと、隆はそれが精一杯で。
去り際の言葉の時に、一瞬だけ合わせてくれた瞳は。
涙で潤んで、濡れて、いまにも溢れそうで。
そんな顔させたのは俺の所為なのに。
好きなひとなのに、泣かせたも同然で。
でも俺は。
その顔に、その瞳に。
その声に。
胸が高鳴って。
初めて重ねた隆の唇の感触とか、甘い吐息を含んだ声とか。
何度も反芻して。
…欲情してるって、気がついて。




「ーーーーー最低だ、」




せっかくの隆との出会いも、動き始めた二人の時間も。
全部。

ぶち壊したのは自分だと。



打ちのめされて。
動けなかった。
追いかけることさえも。
できなかった。






















「ひっでぇ顔だな、お前」



「ーーーほっとけよ」





自分の今の顔が(というかここ数日)酷い顔だと言うことは自分が一番わかる。
それをJに改めて指摘されたせいか、俺の返答は大層素っ気無いものだったと思う。

でもコイツはなんのそのだ。
無駄に付き合いが長いとこういうもんなんだろう。
楽しそうですらある。
俺の陥っている状況が。




「なに。また振られたか?」

「振られてない」

「じゃあ喧嘩でもしたか?」

「してない」

「じゃあなんだよ」

「別に」

「じゃあどうにかしろ、そのひでぇ顔」




ショールームに来る客にその顔で応対すんのは失礼だぜ。
…なんて。
Jのがよっぽど経営者らしい事言う。

わかってるよ。
わかってんだけど。
もう自分の中がひっちゃかめっちゃかになるくらいなんだ。
あの夜から。
激しい自己嫌悪と、それを上回る想い。
あの夜のキスと自己嫌悪は表裏一体で。
つか、それどころじゃないのに。
隆に会って、まずはちゃんと謝って。
その上でもう一度きちんと想いを伝えて…って。
そう思って隆の店に足を運んでいるんだけれど。

ーーー避けられてんのかも。

隆の店はここ最近ずっとクローズしてる。
行儀悪いけどガラス戸から中を覗っても店内は暗いまま。
隆は大丈夫か?植物は平気か?
俺にそんな心配する資格なんて無いのかもしれないけれど、それが気になって何も手につかない。

そんなここ数日の俺。





「あのさ」

「あ?」

「ーーー会いたいのに会えない場合って、どうしたらいい」

「は?」

「好きなひとに」

「ーーー」

「もう一度ちゃんと、会いたいとき」




Jにこんな相談してる俺。
相当行き詰まってんだ。




「ーーーそれって、物理的に?」

「ん?」

「それとも、気持ち的に?」




あんな言い草だけど。
Jって、やっぱ優しいんだ。




「ーーーどっちも、」

「ーーーどっちも?」

「ーーーーーああ…でも、」

「?」

「物理的な方が、今はもう大きいかも」



隆に会えたら伝えたいこと、もうしっかり抱えてるから。



「だったら、もう力技じゃねぇの?」

「ーーー力技?」

「ぶっ壊すとか」

「ぶっ壊す…?」

「その。会えない要因になってる対象物を」



対象物…ってことは。
隆の店ってことか?
閉じたままの隆の店のドアをってことか?
隆の大切にしている、あの花園みたいな店を…ーーーーー?


いやいや。
いくらなんでもそれだけはイカンだろ。



「……ぶっ壊すかどうかはさて置いて、」

「おう」

「相談にのってくれて、感謝」

「ん」

「また今度奢るわ」



そう。
ぶっ壊すことはできないけれど。
なんとしてでも、あの花園の中へ。
その機会を、努力して掴む。






現場百回とはよく言ったもので(事件現場じゃないけど)
俺はとにかく可能な限り隆の店に訪れた。
朝昼晩。
例えば店は開けていないとしても、ここで生活しているとしたら出てくる事もあるんじゃないかと。
…期待して待っているんだけれど。
さらに通い詰めて一週間。
隆とは会えないでいる。



「…ここでは暮らしていないのかな」


別に住まいがある可能性だってある。
そうなると、そこまではわからない。
隆について、実はまだ知らない事ばかりなんだな…。
それなのに告白して、キスをして。
しかもそれに欲情して…。
した事にもちろん後悔は無いけれど。
(だって本心だから)
後悔は、隆の気持ちに寄り添えていなかった事。


(あぁ…。早く隆に会いたい)




ーーーそんな事をとめどなく考えながら、今日も隆の店に向かう。
いつもの〝CANON〟の文字が見えてくると、俺の心臓はどきどきして壊れそうになる。



今日こそは会える?

俺に、会ってくれるか?







「ーーーーーー閉まってる…か、」



と、いつもの落胆。
でも、今日はちょっと違った。



「…あれ、」



開店している時は、ドア周りもたくさんの植物が並ぶ店頭も、今は寂しいものだけど。
ガラス戸の取手。
銅製の蔓植物を模したそれに、今日は…



「ーーーブーケ?」


小さな、手のひらに乗るくらいのブーケ。
小さな白い花が青いリボンで纏まって。
リボンの端がそのドアの取手に括り付けられていた。




「ーーー」



そっと手に取る。
…っても、誰宛かとか、なんでここに?とか。
そんなのはわからないけれど。
その小さなブーケの雰囲気が、これまで俺が惹き込まれてきたものと同じ気がして。

ーーー隆が作るブーケ。隆が飾る花。

俺が今までで唯一、好きだと思えた花は。
隆が手掛けた花達だったから。


「ーーー」



そのブーケを手にした途端。
ふわ…と。



「…あ。この…香り、」




〝ジャスミン…かも〟



一瞬で思い起こされる、あの夜のこと。
隆はその花の姿を見なくとも、その花の名前を呟いていた。
あの時の香りと、このブーケの花の香り。
同じものだと俺にもわかって。
ジャスミンって、こんな可愛い姿してんだなぁ…って。
小さな感動を覚えつつ。
これがそれなら、これは隆が、きっと。
きっと俺に。
何かメッセージをくれたんだって、そう自惚れることにして。


ずっと閉じたままで。
鍵がかかって、開くことのなかったドア。
今日はそうじゃないって、予感がした。

ひやりと冷たい取手に手を伸ばす。
いつもはここで開かずに終わる。
…けれど。




カチ…


「あ、」


開く。


かちゃ…

開く。
ひらく…




キィ…


ドアを開けた途端、外の音がシャットアウトされたみたいで。
シン…と落ち着いた空間。
懐かしさすら感じる。
この空気、この…植物たちの匂い。
電気はついていないから、薄暗い室内で。
植物たちはじっと息を潜めて、主の領域に踏み込む俺を。
じっと。
見定めているようで。
…俺は緊張しているみたいだ。

でも。

手に持つ小さな白い花が。
その清廉な香りで、後押ししてくれているよう。

白いジャスミンと、隆と、俺の。
あの夜の出来事。
それに関わるものだけが通り抜けることを許された、このブーケは通行証みたいなものかもしれない。




店のカウンターの奥にはまだ行ったことはない。
いつもこの作業台で隆と顔を突き合わせて過ごしていたから。
奥のドアの先に勝手に進んでいいものか…ちょっとだけ躊躇したけれど。
進まなければ意味がないんだ。





「…隆?」




名前を呼んでみる。
所狭しと花材や道具が置かれた細い通路を進むとカーテンが空間を隔てていた。
カーテンというより、空色の麻織りっぽいラフな暖簾って感じの。
その先はいかにもプライベート空間という雰囲気だけど、もうここまで来たら引くわけにはいかない。
そっと掛かる布に手を差し入れて、その先に足を踏み込む。

ーーーと。


薄暗かった通路から一変、柔らかい陽の光の室内。
視線の先の小窓から光が差している。
そのおかげで見渡せる、部屋の中。
シンプルな小さな木のテーブル、椅子。
壁に設られた棚。
飾られたドライフラワーのリース。
幾つものフラワーベースに飾られた花たち。
そして。
小窓の下に、ベッドがあって。

ーーーそこに…





「ーーーーーりゅ、」



そうだ。
ベッドの中で気怠そうに横たわるひと。
見間違うはずない。

俺がずっと、会いたかったひと。






「隆」



眠っている。
ゆっくり近づいても、その体勢は変わらずに。
どうしたんだろう…
具合が悪いんだろうか。

条件反射的に俺は手を伸ばして…
眠る隆の額に、そっと触れていた。




「ーーーーー熱…」


手のひらが拾う隆の体温は、何となく熱いと思った。
汗はかいていないみたいだけれど、頬は赤い。


「隆…りゅう、」


いつからだろう。
いつからこうして、体調を崩してた?
店が開けられないくらい。
ずっとこうして、ひとりきりで伏せっていたのか?

それって…
その原因ってさ。


俺の所為?





「ーーーーー…ん…」


額に触れた手で隆の前髪を撫でていたら。
その感触に気がついたんだろう。
少し掠れた声で、隆は瞼を震わせて目を開けた。



「隆、?」


「…ん、」

「平気…か?」




ぱち……ぱち…

数回の緩やかな瞬きのあと。
隆の視線は俺をとらえて。




「ーーーーーーーイノ…ちゃん…?」



久しぶりに。
俺の名前を呼んでくれたんだ。







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