長いお話 (ひとつめの連載)













出会ってからの、長い時を経て。
イノランと隆一が、結ばれて…ーーーーー

数年経った、ある日の朝の事。




二人の愛の巣ーーーーーもとい、二人の住居から。
早朝だというのに、賑やかな…声。…何やら拗れた言い争いが、聞こえてきた。







「知らないっ!もぅ知らない‼イノちゃんなんか絶対絶ーっ対!もう知らないから!」

「勝手にしろ。こっちだって毎度毎度、お前の我儘聞いてらんないんだよ」

「っ…我儘なんて言ってないよ!そうじゃなくて…だってイノちゃんが…」

「ナニ。また俺のせい?そうやって都合悪くなるといつも、イノちゃんが…って言うだろ」

「だっ…て、だって、ホントにイノちゃんが…」

「ホラまただ。いい加減にしろよな。俺だって別に適当な気持ちでやってんじゃないんだ。そこ、ちゃんとわかれよ」

「ーーーっ…わかってるもん」

「そう?そのくせ最近嫌がるじゃん。ヤダヤダってさ」

「だからっ…それは本心じゃないよ!そうじゃないの!イヤだっていうのはそうゆう…イノちゃんがイヤなんじゃなくて…」

「ーーー」

「ーーーーーっ…もぅ!そっちこそわかってよ!俺が最後まで言わなきゃなんないの⁈」




最後の隆一の言葉は涙声だ。
朝からいったいどうしたのか?

イノランは溜息をついて、ベッドにギシリと投げやりに腰を下ろして。
隆一は乱れた寝間着をサッと整えると、ぐいっと目元を拭いて、寝室のドアまで勢いよく進んだ。
ーーードアノブに手をかけて、一瞬後ろを振り返る。


「っ…」


けれども自分の方を見もしないイノランに隆一は悲しげに唇を噛むと。
振り切るように、思い切りドアを開けて。
部屋を出る際に、一言だけ、呟いた。




「ーーーイノちゃんなんか…嫌い」



潰れるような隆一の声は、すっかり涙を含んでいて。
あの伸びやかな歌をうたうヴォーカリストとは思えない、悲しい声の呟きだった。



パタン。




ーーードアが閉まると。
ベッドに腰かけたイノランは、シーツを掴んだ手をギリッ…と握り締めた。



「ーーーっ…」


向けた苛立ちは、隆一へのものでは無く。
自分自身。

そっちこそわかってよ!と言われた時に、すぐに応えてあげられなかった不甲斐なさ。
いつもは冷静なイノランが。
隆一の事になれば、それは違って。
目の前の最愛のひとに、夢中になって。
それは数年経った今でも変わらなくて。
寧ろあの頃よりももっと、愛情は深くなって。

見失ってしまう事があるのだ。

それは大切な約束を。














パタン。…とドアを閉じた後。
よろよろと自室まで辿り着いた隆一は。
部屋の壁際にトン…と背を預けると。
そのままずるずると床にへたり込んでしまった。


「ーーーーー」



ぱた。…ぽたん。


隆一の頬を伝った涙が落ちて、フローリングにいくつも水玉をつくる。


「ーーーっ…ふ、」

思わず溢れる声。
鼻の奥がツン…として、目も頬も熱を帯びる。


「ぅ…っ…う…えぇ…んっ…」


思いがけずに大きく溢れた泣き声に、隆一は慌てて、ぎゅっと唇を噛んだ。
いい大人が!とか、大の男が!とか、そんな言葉が脳裏を過るけれど。
悲しいものは悲しくて、溢れるものは間違いなく涙なのだ。
大人でも、男でも。
悲しい時は泣けてくるのだ。





「…っ…俺、」



イノちゃんなんか嫌い。


「ど…しよぅ…俺、イノちゃ…に」


イノちゃんなんか嫌い。


「ーーーっ…じゃない…よ」


嫌い。
嫌い。
どんなに言い争っても、喧嘩しても。
その言葉だけは言わないと決めていたのに。
だって本心じゃない。
素直になれなくて、勢いで言ってしまった言葉。
でも、言ってしまった事に変わりはない言葉。
自分で決めた禁句。



「ーーー嫌…っ…じゃない…のに」



でも。
けれども。
禁句を言ってしまう程の理由。
そこに至った理由。
確かにそれもあって。
それを思い出すだけで、隆一の涙は、今や止める術が無かった。














「うわぁ、また今日はどうしました?」



泣こうが喚こうが、仕事の時間は無情にもやってくる。
もう出勤しなければならない時間になって、どうにか体裁を整えて。
泣き腫らした顔も冷水で洗って、何とか誤魔化せるだろうと向かったスタジオ。

ーーーしかし、先に到着して機材の準備をしていた葉山には…
どうやら誤魔化しは通用しなかったようで。
時間ぎりぎりで現れた隆一を見るや否や…その台詞だ。



(…即バレた)


付き合いの長さが仇となる、数少ない瞬間だ。

そもそも人間観察力に長けた隆一の周りの人々だ。
葉山にしろ、イノランにしろ。
誤魔化しは最初から効かないのだろう。



「ーーー…」


ふぅ…。と、諦めのため息と共に、葉山の向かいの席に腰掛けた隆一。
その様子をじっと眺めていた葉山は、視線が合った途端にこう言った。



「…喧嘩でもしたんですか?…旦那様と」

「葉っ…もぅ!ーーー誰さ…旦那様って」

「え…。イノランさんじゃなかったら大問題じゃありません?」

「ーーーそ、だけど」

「イノランさんでいいんですよね?」


にっこりとした笑顔付きで葉山に念をおされた隆一は、誤魔化すのは諦めて頷いた。




「ーーーそうだよ。俺の旦那様…って呼んでいいのかわかんないけど。好きなひと、愛してるひとはイノちゃん」

「っ…」

「ん?葉山っち、なぁに?」

「いえ、その…」

「ぅん?」

「ラブソングじゃなくて、言葉で聞くと…どきどきしますね」

「ーーーどきどき?」

「字数合わせも、音合わせもない。ダイレクトに出てくる隆一さんの言葉が…ですよ」

「ーーーだって別に今のは歌じゃないし」

「そうですね。好き、愛してるっていう、素直な言葉ですもんね?」

「ーーーーーうん」




らしくなく、歯切れの悪い隆一を見て。
葉山はいよいよ、何かあったんだな…と、腕組みした。



「…で、どうしたんですか?…って、僕が聞いてもいいのかわからないんですけど…」

「ん…。いいよ?葉山っちなら」



ルナシーのメンバーだとちょっと恥ずかしいけど…。
そんな隆一の言葉に葉山は納得する。
それこそ大人になる前からずっと一緒にいるメンバー達に、イノランとの事で喧嘩だの何だのと打ち明けるのは抵抗があるのだろう。
その点で葉山はちょっとポジションが違うから。
付き合いの距離が遠い近いの問題ではなく、種類が違うのだろう。



「葉山っちには、逆に聞いてもらいたいって思う 」

「なんか嬉しいです」

「そうなの?」

「はい」



どんなになりたいと思っても、彼らと同じポジションには入れ替われないから。
自分だけに許してくれたこのポジションが、葉山はとても気に入っていた。

スタジオのポットで沸かした湯で、葉山はミルクティーを淹れて隆一に差し出した。
ふわん…とした白い湯気が隆一の頬を掠めると。
やっとホッとしたのか、ここでようやく隆一が微笑んだ。



「やっぱり葉山っちは落ち着く」

「光栄です」

「ーーーイノちゃんもなぁ…」

「はい、」

「ーーーーーイノちゃん…」

「ーーー」

「ねぇ、葉山っち」

「はい」

「葉山っちから見て、イノちゃんってどんなひと?」

「ーーーイノランさん…ですか?」



思いがけない質問だった。
葉山は目を丸くして向かいの隆一を見た。
難しい顔をして、テーブルに頬杖をついて。
片手でミルクティーの入った紙コップを弄ぶ様子が、なんだか恋の相談を持ちかける少女のようにも見えて。葉山は慌てて自身のブラックコーヒーを一気にあおった。



(ーーー目の遣り場が…)


お陰で考えが上手く纏まらない。
それでも答えを待ち侘びている雰囲気が隆一から伝わってくるから、葉山は一生懸命考えて言った。


「情熱的なひと…でしょうか」

「ーーー情熱的…?」



そう。葉山が初めて隆一の紹介でイノランと顔を合わせた日。
その時からだった。
ルナシーやソロのイノランとして、彼の音を通してしか触れてこなかったイノランの印象。
冷静、物静か、言葉少なに核心を語る…ような印象が。

あの日確かに、がらりと覆されたのだ。







葉山には、隆一が知らないイノランとの事があった。

もちろんユニットのメンバーだし、ソロでも一緒に活動したりと行動を共にする場面はたくさんあるのだから、そんなエピソードがあっても不思議ではない。

それでも、ルナシーイノランとしての姿が当たり前だと思っていた葉山が。
それが全く違うイノランの決定的な側面を見つけた時があって。
それはそれは新鮮で、今でもその時のことを思い出すのだった。








とある日のこと。
イノランと葉山は、バーカウンターに並んでグラスを傾けていた。

隆一はいない。
この日は別件の仕事でいなかったんだと思う。

で、夕方頃まで二人はスタッフと共にスタジオ作業をしていたのだが。
先にスタッフが帰ってしまうと、午前中からずっと集中して作業してた緊張の糸が緩んだのか。
どっちにしろ、明日は隆一も交えて作業の続きだし。
ぶっちゃけ、もう腹も減ったし終わろうか?って事になって。




「飯も食える酒も美味い、いい店あるんだけど。葉山君、どう?」



楽器を片付けながら誘ってくるイノランの声は弾んでいて。
イノランの馴染みの店なんて是非行ってみたいと思った葉山は、片付けの手のスピードをあげて大きく頷いた。




そんな訳で、夕暮れ時。
最早、腹がぐぅぐぅ鳴り出して耐え難くなった頃。
その店のカウンターに二人並んで落ち着いた。

成る程、なんて居心地の良い空間だろうと、入ってすぐに葉山はもうこの店が気に入った。
バーがメインなのだろう。
木の落ち着いた内装。
オレンジの照明。
ゆったりしたジャズ。
目の前に置かれているのは、マスターの手書きと思われる味わいのある小さなメニューだ。
ずらりと並んだ様々なアルコールのボトル達は、見覚えのある馴染みあるものから、レアだと窺えるような美しいボトルも並んでいた。

イノランはさも楽しげにメニューを広げると、隣の葉山にそれを指差した。




「隆が好きなんだ、この一品料理。いつも頼む」

「隆一さんもここへよく来られるんですか?」

「二人の時は、だいたい来るかな。一緒に出掛けることも多いから、夕飯ここで食ったり、酒だけ飲みに来たり」

「ーーー良いんですか?」

「ん?」

「そんな特別なお店に僕も連れてきていただいて」

「ーーー」

「お二人の隠れ家なんじゃ…」

「葉山君だから」

「え?」

「いいんだよ。アイツらには教えないかも知んないけど、葉山くんはいいんだよ。だから気にしないで楽しんで」

「アイツら…っていうのは、ルナシーのメンバーの皆さんですよね?…あの、彼らと僕とだったら、付き合いはずっとずっと彼らの方が長いでしょう?それが…」

「なんつうかな…。長さじゃなくてさ、そうじゃなくて。ーーー初めて隆に紹介されて、葉山君と出会って。あ、同じだって、思ったんだ」

「ーーー同じ?」

「隆と、葉山君と俺と。なんかさ、似てない?あ、見た目とかじゃなくて、雰囲気っていうか」

「ーーー薄らなま暗い、ほの明るい感じを好む感じ…ですかね?」

「ハハハッ!それもある!ユニットの世界まんまって感じだ。ーーーそれもあるし、なんていうかな」

「ーーー」

「同じ万華鏡の中できらきらしてる三人って感じ」


ーーー万華鏡。

その時イノランが選んだ言葉がひどく印象的で。
葉山はこの店に度々ひとりで寄るようになってからも。
カウンターに座るたびに思い出すのだった。

そしてこの後、運ばれてきたグラスを傾けながら呟いたイノランの言葉に。
葉山は目が覚めるような気持ちになるのだった。





「ーーー隆がね、」












あ、今から言うの独り言だと思っていいから。

そう前置いて言うイノランは、もう酔っているのかもしれない?
一瞬だけそう思った葉山だったけれど、彼がこのくらいの酒で酔う訳ないな…と思い直しつつ、頷いた。



「ーーー」


カラン…。


「ーーー」


カラ…。ーーーーーコト。




無言のまま数回グラスを口に運んで、それからテーブルに静かに置くと。
イノランは目の前に並ぶボトル達の方を眺めながら呟いた。



「隆がね。ーーー俺の曲を歌ってくれる時」

「ーーー」

「もう、これ以上ないや…ってくらい。幸せなんだ」

「ーーー」



カラン。


「ルナシーだと、ある意味取り合い…っていうか。大人になったから、もう殴り合いなんてしないけど。メンバーそれぞれ全然違う色合いの曲を生んで、それで隆を染めていくっていうか。…まぁ、それでも自分を崩さないのが隆のすごいとこなんだけど」

「ーーーそうですね」

「アイツらの色んな色に染まる隆はもちろん大好きだ。もっと見たいって思う。ーーーでも、俺だけの色に…って、思う事もあるんだ」

「それは…ーーー」

「すっげえ、独占欲でしょ?」



ちらっと流した視線と、ニッと笑った悪戯っ子みたいなカオで。
どう返答したらいいものか…と、口籠る葉山に隙を与えた。



「じゃあユニットは…?」

「ん?」

「どんなですか?」

「ーーー葉山君と出会えたのは隆がキッカケだけど。ユニットやろうよって発案したのも隆が最初だけど。でも出会うべくして出会った三人だと思うし、さっきも言ったけど、なんか似てる俺たちだから」

「喧嘩しない…って事ですかね」





シャラシャラと回る万華鏡の細かな宝石は。
反発する事なく、分離する事もなく。
寧ろ掻き回されて、混じり合って。
砕けた宝石はさらに親密に混ざり。



「それが俺らのユニットなんだと思う」




カラン…。

カラ。



「ーーー」

「そっか」

「うん」

「ーーーじゃあ」

「ん、?」

「隆一さんを捕まえたって事ですかね?イノランさんは」

「…葉山君」

「はい?」

「すっごい事言うね」

「だってそうでしょう?イノランさんの曲、隆一さんいつも歌っています」

「ーーー」

「すごく似合ってます」



葉山はグラスに残った酒を一気にあおって。
もう一杯同じのを、と。マスターに告げた。



愛しているんですね。
ーーーそう、喉まで出かかった葉山だったけれど。
相変わらずぼんやりとボトルの方を見つめるイノランの横顔を見たら、口を噤んでしまった。
なんでかって。
その横顔が言葉以上に雄弁で、ここにはいない彼への情熱を秘めているように見えたから。


この日から確信したのだ。
イノランの隆一へ向ける想いが、今まで知っていた彼からは想像できないくらいに、情熱的だと言うことを。







そんな事があった以前だから。
葉山は隆一からの問い掛けに、迷わず情熱的だと思うと述べたのだ。



「ーーーうん」


葉山の答えに、隆一は素直に頷いた。
きっと隆一にも思い当たる節があるのだろうと思ったし、何よりもこの隆一を攫っていったイノランだ。
好きなひと、愛してるひと…なんて隠しもせずに言ってしまえるくらい。
隆一はイノランに心底惚れているのだろう。




「ーーーどうしたんですか?本当に」



頷いたまま、また口を噤んだ隆一に。
葉山はもう一歩踏み込んで訊ねた。
聞いてもらいたいと言っていたから、迷惑ではないだろう。

隆一は弄んでいたミルクティー入りの紙コップからようやく手を離して。
一度だけ小さく溜息をつくと、やっとぽつりぽつりと話し始めた。



「ーーー約束をしたの。…イノちゃんと一緒になって、すぐに」

「約束?ーーーそれって」

「キスの約束」

「…キ」

「ぅん、」

「……あの…それは、僕が聞いても差し支えない話なんですか?」

「ん?うん、いいよ?」



なんで⁇ってカオして首を傾げる隆一に、葉山はまたもや目の遣り場に困ってしまった。
これから話されるであろう話題と、うっかり可愛いと思ってしまった事実にだ。



(イノランさんは日々この視線や仕草を見ているのか…)


すごいなぁ…と、思わず感心する。
無意識なのだろうが、隆一というひとは、庇護欲をかき立てられる。



「それで、その…。キ、キスの約束っていうのは…なんなんですか?」

「んー…。あのね」

「はい」

「呆れないでほしいんだけど」

「今更…」

「えへへ…。ーーーあのね、初めてしたのって、やっぱり忘れられないでしょ?」

「そうですね」

「あの瞬間って、特別だし。いつまでも忘れようがないと思うし」

「はい」

「イノちゃんと俺が初めて、ステージでのパフォーマンス以外でしたキスも、やっぱり忘れられない。あの時の風景とか、時間とか、気温とか…気持ちとか。今こうしてイノちゃんと一緒にいるようになってからも、すごく大切な想い出で。ーーーきっとこれからも忘れられないし、忘れちゃだめなんだって思う」

「ーーー」

「ーーーこの先例えば喧嘩しても、ムカついて家を飛び出しちゃっても。ーーーあのキスを思い出したら、きっとイノちゃんが恋しくなるんだと思う」

「ーーー…」

「あの日から、もう数え切れないくらいイノちゃんとキスしてきた。俺が記憶を失くしている間も、記憶を取り戻してからも、何度も。その間は何も考えられなくて…イノちゃんの事だけ。記憶を失くした不安も、そんなのわかんなくなるくらい」

「ーーー」

「…だから約束したんだ。イノちゃんと、キスの約束。日々を過ごす中の一日の節目にはキスをしよう。おはよう、行ってらっしゃい、行ってきます、ただいま、おかえり、おやすみ…。二人でいて、すごくすごくお互いが欲しくて、早く身体を重ねたいって気が急いても、最初のキスは大切にしようって」

「ーーーっ…」



葉山は。
やはり聞いて差し支えあるじゃないか!と、心の中で頭をおさえた。


(なんて話を僕に聞かせるんだ…)


しかしそんな葉山の苦悩なんて知ったこっちゃ無いとばかりに、隆一は続けた。




「ーーー今朝ね、ちょっと喧嘩した。…理由は…キス」

「ーーーーーーーキス。…ですか」

「うん。その時俺は、イノちゃんに絶対言わないって自分で決めてた言葉を言ってしまった。言い争いみたいになってたから、勢いで言ってしまった部分もあるのかもしれないけど…」

「……」

「酷い事言っちゃった。間違っても言っちゃいけない言葉だったのに。ーーーイノちゃんを傷つけた…。あんな事、本心じゃないのに…っ…」




イノちゃんなんか嫌い。



自分で言い放った言葉が、あの時から隆一の頭の中で鳴り止まない。



「隆一さん…」


話す隆一の言葉の語尾が震えていると気が付いて。
泣き出しそうな隆一が、あまりにも頼り無さげで。

葉山はすぐにでも、ここへイノランを呼びたくなった。















こんな時でも仕事の時間がやって来るのはイノランも同じだった。

朝の一件で、しばらくベッドに腰を下ろしたまま色んな感情でちょっと苛立っていたイノランだったけれど。
傍に置いたスマホのアラームが鳴り出すと、やれやれ…と思い腰を上げたのだ。

本当なら隆一との今朝のいざこざを先にスッキリさせたいところだけれど。
今日の仕事は遅れる訳にいかない。
取材と撮影。もうすぐマネージャーが迎えに来るだろう。



「ーーーシャワー浴びてくるか」


思い返せば昨夜は今の事態なんて想像もしていなかった。
二人とも翌日は仕事だけれど、夕方には帰宅できた二人 。
早めの夕飯を食べて、バラエティとニュースを観て。
昨夜もだった。
風呂上がりの隆一を、眠ってしまうまで抱いた。


「そういや隆…。シャワー浴びて仕事行ったかな…」


えらく怒っていた隆一。
彼があそこまで声を張り上げることも珍しい。
常の隆一ならば、どんなに時間が無くても身だしなみはきちんとするけれど。


「ーーー今朝のあの調子だと…」


どうかなぁ…?と、少しだけ苦笑がこぼれた。



ーーーイノちゃんなんか嫌い。



「ーーー」


脱衣場で服を脱ぎながら、あの言葉がイノランの頭の中でぐわん…と巡る。


「嫌い…か」


思えば、初めて言われた言葉かもしれない。
隆一がその言葉を言うまいとしている事を、イノランは知っていた。
一緒にいて、隆一を怒らせてしまう事も、喧嘩になる事ももちろんある。
けれどもその時々でも、隆一は〝嫌い〟という言葉だけは選ばなかった。
そしてそれは、イノランも。
喧嘩=嫌いじゃないから。っていうのはずっと言い続けている事。
好きだからこそ無関心じゃいられなくて喧嘩もするんだから、と。

ーーーけれども今回は。


ーーーイノちゃんなんか嫌い。





ザァァ…



熱いシャワーを頭から浴びながら、あの言葉を再び思い返す。

嫌い
嫌い

イノちゃんなんか


嫌い




「ーーーっ…堪えるなぁ…」



それくらい好き。
言われたたった一言がこんなに突き刺さるくらい愛してる。
結婚という誓いを交わして、その気持ちは深くなるばかりで。

わかってる。
隆一があんなに怒った理由。
側から見たら、そんな理由⁇って呆れられるかもしれない理由だけど。

約束した、大切な事だから。



「ーーー隆っ…」



ザァァ…




好きで好きで。
その約束を時折反故にしてしまっていると、そんな自覚はあった。




ザァァ…



目を閉じると、あの日の事が鮮明によみがえる。
冬の夜。
最後のレコーディングを終えた、スタジオの屋上。
凍てつく寒さの中で、伝え合った想い。
初めての恋愛感情を込めた抱擁。
初めての、キス。

優しく、冷たい唇を温めるように重ねた。
触れ合うだけで気持ちがよくて、思わず泣きそうになったキス。
キスの後の、隆一の微笑み。
なんて綺麗だって思った。



あの日のキス。
忘れてないか?



イノランは、そう自身に問いかけた。












触れたくて、めちゃくちゃにしたくて。
手に入れたというのに、全然足りなくて。
側にいたら、手を伸ばしてしまう。
交わした約束も忘れる程に。








ピコン。


「!」



悶々としていたイノランのスマホがメッセージの着信を報せた。
後で見よう…とも一瞬思ったが。
今朝の事があるから、万が一相手が隆一だったらと、イノランはポケットからスマホを取り出した。



「ーーー葉山君?」



通知は葉山からのもので。
そういえば隆一は今日は葉山とスタジオだと言っていたと思い出し。
ーーーだとすると隆一絡みかもしれない?と、イノランは手早くメッセージを開いた。




『イノランさん、お疲れ様です。
早速なんですが、今日こちらにいらっしゃれますか?
お仕事がひと段落してからでも構いません。
こちらは夕方頃までここにいますので。
いらしていただけたら幸いです。


葉山



追伸。


僕では隆一さんを泣き止ませられません。』





「っ…‼」



最後の一行で、シャンとする姿勢。
最後のたった一文で、向こうの光景が手に取るようにわかってしまった。

隆一は泣いているのだろう。
葉山は、そんな隆一に狼狽えているのだろう。



「マネージャー!」



撮影スタッフと打ち合わせしていたマネージャーは、いきなりイノランに呼ばれて一瞬目を丸くする。
そして、終わったら俺を送らなくていいよ、と。
夕方までに行かなきゃならない所ができたから…と。
少々鬼気迫る勢いのイノランに、マネージャーは勿論いいよと頷いた。

ありがとうと礼を言いながら、イノランは同じ都内のスタジオにいる隆一に想いを馳せた。



「ーーー」


今朝は言い過ぎたと自覚する。
隆一の状態を見て、自分は冷静になるべき場面だったのに…と今更悔やんだ。



「ーーーまた葉山君に心配かけたなぁ…」


そして今回のように間に入ってくれる葉山。
度々、ギクシャクしたイノランと隆一の仲を繋いでくれた。
有り難く、申し訳ないと思う。
でも葉山だからこそ、繋いでくれた仲を素直に受け入れたいと思うのだ。



「隆とちゃんと仲直りしたら、また連れて行ってあげよう。あのバーへ。今度は隆と三人で」


だからまず。
二人の元へ。
隆一の元へ。

ちゃんと謝ろう。
今朝はキツく言い過ぎた、ごめんなって。
それから隆一にも伝えよう。
嫌いって、言葉。
堪えるよ。
どうかもう言わないで。
俺も言われないように、努力するから…と。





自身の仕事をしっかりこなして、半ば駆け付けるように向かった二人がいる筈のスタジオ。
イノランにとっても勝手知ったるこの場所だから。
タクシーで乗り付けると、すぐに階段を登って二階の部屋へと向かった。

ここ最近ユニットの曲制作で、殆ど借りっぱなし状態になっているスタジオの一室。
軽くノックをすると、返事を待たずにイノランはドアを開けた。
ーーーするとそこには隆一と葉山の姿……は無くて。
さっき連絡をくれた張本人である葉山はいなかった。


「あれ…?」


拍子抜けしたイノランは、そのまま部屋の中に入ると、テーブルに置かれた小さなメモを発見して手に取った。
するとそれは葉山からで、急用が出来て待っていられなくなったと。
それについて謝罪の言葉と、それから…。


〝隆一さんがお待ちかねですよ〟



「隆?」


最後の一行でハッとして辺りを見回す。
無人だと思っていたけれど、部屋の隅に置かれた少々年季の入ったソファー。
そこに横たわる姿を見つけて呟いた。


「隆一…」


ソファーの下に綺麗に脱いで並べてある隆一の靴。
きゅっと丸まって、自分を抱きしめるみたいに横になる隆一。
遠目でじっと見つめると、肩が規則正しく上下しているから、眠っているのだと気がついた。


「ーーー」


起こさないように、なるべく静かに側に寄る。
イノランは目の前で立ち止まると、隆一と目線を合わせるようにソファーの前の床に躊躇いなく座り込んだ。



「ーーー」


くぅくぅ…と、穏やかに眠る。
その愛するひとの穏やかな寝顔に、思わずホッとして微笑みが溢れるけれど。
頬に薄く筋を描く涙の跡を見つけると、イノランはギクリと今度は顔を強張らせた。

ーーーそっと手を伸ばす。
今まで何度も触れてきた隆一の頬に。
泣いていた痕跡を指先でなぞると堪らなくなって、眠る隆一に覆い被さって抱きしめた。



「ーーーごめん」

「隆…悪かった」



いまだ眠る隆一を相手に、イノランの口をついて出てくるのは謝罪の言葉。
今朝の事の。
それから、隆一が怒った原因を作ってしまった事を。
目が覚めたらもう一度ちゃんと伝えるけれど。
まずはちゃんと言葉で。
ごめん、と。




「ーーーっ…ん」


イノランの腕の中で隆一がくぐもった声を出した。
まだ目覚めはしないようだけれど、きゅっとしていた手を伸ばして身動いだ。


「隆?」


イノランは少しだけ腕を緩めて、その表情を間近で見つめる。
いつ隆一が目覚めても、すぐに視線を重ねられるように、じっと。


「ん…」

「隆。…起きた?」

「っん…ーーー」

「おはよう」

「ーーーーーー…ぁ、」



数回、瞼が震えると。
小さな吐息とともに、ゆっくり瞼が開いていく。

隆一が目覚める瞬間。
何度見ても、イノランはその瞬間が大好きだった。
目覚め一番に隆一の瞳が捉えるものが自分だと思うと堪らなかった。


「ーーー…イ…?」

「うん」



寝起きでぼんやりと、舌ったらずの隆一の声が。
大好きだった。













二杯目のミルクティー。
今度はイノランが用意したものだ。







「ーーー美味しい」

「ん?そっか」


一口飲んで、柔らかな微笑みを浮かべる隆一を見てイノランは安堵した。
美味しいと言ってくれた、それだけで。

白い湯気を纏わせながらコクコク飲んでいた隆一だったが、ちらりと周りを見回して、おずおずと言った。



「ーーーね、葉山っちは?」

「ああ、葉山君は急用が入ったみたいだよ。メモがあった。待っていられなくてごめんなさいって」

「…そうなんだ」

「うん」


途端にそわそわとしだす隆一。
どうしたんだろう?と思ったけれど、イノランはすぐに察した。
今朝の事があるから、二人きりは居心地が悪いのかもしれない。

しかしこんな時こそ、自分がリードする場面だと。
イノランは隆一が持つ紙コップを奪い取ってテーブルに置くと、そのまま隆一をぎゅっと抱きしめた。



「うぁっ…」


びくん…と跳ねる隆一の身体。
いきなりのイノランの行動に驚いたのだろうが、ここですぐに離すイノランではない。
ーーー正直、口で、言葉で言うのは…難しい時がある。
言い訳がましくなったり、説明みたいに理屈っぽくなったり。
だったら、行動した方がいいと。
言葉を上回る、触れ合う事で伝わる気持ち。



「イノちゃ…ん」

「ーーーん、」

「ーーーイノ?」

「ごめん」

「っ…」

「今朝は、キツく言いすぎたし。それに、約束破った俺が悪い」

「ーーーーーっ…ぅうん」

「俺が悪かった」

「俺も!」

「ーーーん?」

「ごめんなさい…っ、嫌いなんて嘘だよ!俺、あんな事、言うなんて」

「隆」

「イノちゃん、ごめんね」









度々、隆一が口にしていた〝キスの約束〟は。
こういうもの。

あの寒空の屋上で、恋人同士になった、あの日の始まりのキス。
それをずっと忘れないようにしようねって約束で。
どんなに時を経ても、もしも愛し合う事に慣れてしまったとしても。(無いだろうけれど)
あの日を忘れないように。
毎日の最初のキスは、優しく。触れ合うだけで心が震えたような、あの時のように。

本人達はいたって真剣で、本気のもとに決めた約束だけれど。
側から見たら、呆れてしまう程。
ーーーでも、それは何て可愛らしい約束か、と。
皆、微笑んでしまうだろう。







「俺が朝からめちゃくちゃにキスしたからだろ?怒ったの」

「っ…だ、だって!明け方までえっちしてたのに、それなのにイノちゃんてばまたあんな…ぐちゃぐちゃにキスするんだもん!今朝だけじゃないしさ…。約束はなんなの⁇って思うでしょう?」

「悪かった。忘れてた訳じゃないけど、つい隆を目の前にして堪らなくなった。今朝だけじゃなくて、いつもいつも、だ」

「ーーーばか」

「いいよ、ばかで」

「葉山っちがいなかったら、どうなってたかわかんないんだからね!」

「ホントだな」



隆一だけだったら、怒りに任せてどっか行ってしまうか、悲しみに暮れて一人で膝を抱えていたかもしれない。

いつもいつも、時にはそっと、時にはぐいぐい背中を押して、寄り添ってくれる葉山。
今回ももしかしたら、急用なんてものは無くて。
二人を二人きりで引き合わせる為の口実だったのかもしれない。



「葉山っちにお礼言おうね」

「そう。ーーーあのバーにさ、三人で行こうか」

「あ、あそこ?いいね!」

「葉山君に奢ってあげないと」

「そうだよ!」




顔を見合わせて、ようやく笑い合う。
今朝だって、嫌いだから喧嘩したんじゃない。
好きだからだ。




「…ね、」

「ん?」

「仲直り」

「いいよ。もちろん」

「ごめんね?」

「俺も、ごめんな」

「イノちゃんのこと。好き以外無いよ」

「ーーー俺も、隆しかいないよ」




その言葉を合図に。
隆一の瞼が待ちきれなさそうに落ちた。
それを見て、すぐに全部を奪いたくなってしまうけれど。
イノランはぐっと我慢して。
あの日を思い出して。
一瞬触れ合うだけの、優しいキスをした。







end





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