長いお話 (ひとつめの連載)













「隆ちゃん、どう?」


「ーー…昨夜よりはマシかも」



加湿器の微かな音がする寝室。
一番小さな照明の灯りと、カーテンを半分引いた部屋は。まだ夕方と言うには早い時間だけれど、薄暗い。


イノランは手に持っていたスポーツ飲料のペットボトルをサイドテーブルに置くと。ベッドに横になっている彼。隆一の背をさすってやった。



隆一は、昨夜から寝込んでしまったのだ。







………

昨日の夕方、仕事から帰って来た隆一が妙にあったかくて。
まぁ、だいぶ陽気も暖かくなってきたから、眠いのかな?と。同じように仕事を終えて隆一の家に来ていたイノランは、ペッタリと張り付く隆一を抱きしめながら思っていた。

ところが。

なんだか食欲も無いみたいで、やたら水分ばかり欲しがる隆一に、さすがに変だと思って額に手を当てた。



「隆ちゃん…熱あるんじゃないの?」

「えー~?…」

「ちょっと待ってて」



そう言ってイノランは、勝手知ったる隆一の寝室の棚を漁って。体温計を手に戻ってきた。

はい、腕上げて。
と、隆一の脇の下に体温計を挟んで待つ事暫し。
電子音がしたところで、イノランは表示を見て眉を顰めた。



「38度3分。立派な熱」

「…そんなに?」

「そんなに。ここまで上がるとボンヤリして分かんないんじゃないの?ーーーまぁ、何でもいいけど早くベッドに入んなさい」

「んーー…」



イノランはソファーに座る隆一の手を掴むと、そのまま寝室へと引っ張って行った。



「隆の手。熱い」

「…イノランの手は気持ちいいよ?」

「冷えてるからじゃない?」

「うーん…そうなのかな」



ほら、寝間着に着替えて。と、着替えを手渡して、隆一が着替えている間にイノランはキッチンの冷蔵庫から水のペットボトルを持ってきた。

着替えたのを確認して、水を渡す。
隆一はすぐに、んっくんっく…と水分補給をして、半分程飲んだところでサイドテーブルに置いた。



「…イノ」

「横になってな。寝ないと治んないよ」

「ん…」



隆一は素直に頷くと、ベッドに潜り込んで身体を横たえた。



「ーーー…」


じっと、隆一はイノランを見つめる。
熱で潤んだ表情をしていると、本人は気付いているのか、いないのか。
その視線に、イノランは苦笑を浮かべて言った。



「あんま、見んなって」

「??…なんで?」

「やっぱり気付いてないんだ?…ま、気付かないか…」

「なにが?」

「隆ちゃん……。ーーー…いや、いいや。後でな?」

「え~?気になるよぉ…」

「いいから、気にしたまま寝てなさい」

「意地悪」

「はいはい。買い物してくるから、なんか食いたい物ある?」

「んー…プリンとか…ひっくり返せるやつ…」

「ん、わかった。後なんか適当に…。隆ちゃん、寝て待っててね」

「…うん」

「ーー…」

「いってらっしゃい…」



普段とは違う頼りない声に、イノランはなんだか切なくなってしまって。行きかけた足を戻して、その代わり。



「…さっきの、教えてあげる。ーーーーーー隆ちゃんさ…」

「ぇ。ーー…ぅん?」

「ーーーさっきの隆のカオ」

「ん?」



「ーーキス、待ってる時みたいだった」


「…っ 」


不意打ちに重ねられた唇。
びっくりした隆一の目に、伏せられたイノランの睫毛が間近に見えて。
隆一も慌てて目を閉じる。

冷んやりしたイノランの唇と。
熱く潤んだ隆一の唇が。お互いにとってすごく気持ちよくて。
くちゅくちゅと水音をたてる度、風邪が感染る…とか考えられない位、キスに没頭してしまう。



「ーーーーーんぅ…っ…」


小さな隆一の喘ぎ声がイノランの心を騒つかせたが。寸での所で抑え込んで、離した唇。



「っん…感染る…」

「感染んないから心配すんな」

「…だって今、キス…」

「俺は平気。隆を守んなきゃって思ってるから、感染ってる暇無いよ」

「えー~?」

「そーゆうもんなの。隆ちゃんだって、これで免疫力上がるかもよ?」

「そうなの?」

「好きなひととキスとかセックスすると、気持ち良くて安心して眠くなるじゃん。具合悪い時いつもよりしたくなるのって、身体が欲してるんじゃない?無意識にリラックス効果を求めてるみたいな」

「ふ~ん…。そっかぁ」



感心したように目を輝かせる隆一にイノランは笑みを溢すと。

はい。じゃあ今度こそ買い物行って来るから。と言って、少し乱れた掛け布団を掛け直して、隆一の髪をひと撫ですると、イノランは静かに部屋を出て行った。










昨夜はイノランが買って来たプリンを食べて薬を飲んで眠った隆一。
夜中も喉が痛いと言っては水分を摂って、その度にうとうとと眠たげに身体を揺らす。

イノランも物音の度目を覚まして、浅い眠りを繰り返していた。

イノラン寝てていいよ?と隆一は済まなそうに言うけれど、気になってしまうから仕方ない。

それに。

大事なひとが体調を崩した、こんな時くらい。いつもよりもっと、側にいてあげたいとイノランは思った。

ただ、今夜これからの予定に思いを巡らせると、イノランは小さく肩を落とした。








一年前。
隆一とイノランと葉山と。
初めてのユニットでのライブを成功させた。
三人と、サポートメンバーとの新しいステージ。
ルナシーとは全く別のものとして挑んだステージだったが。
それでもイノランにとって、隆一の隣でギターを弾くことに、懐かしさは拭えなかった。

隆一はどうだろう?と、イノランはライブの間に何度か様子を伺った。
同じステージに立つ事で、記憶の何処かに引っかかったりするだろうか…と少しの期待と心配をしたけれど。
当の本人は相変わらずの輝く笑顔と歌声で。ステージの上を楽しんでいた様だった。


そんなユニットのライブ。
後から知った事だったが、あの三人が来ていたらしい。
一部の知っていたスタッフによると。
当然、隆一とイノランに報告に行こうとしたスタッフに、三人は待ったをかけたのだと言う。
初めは遠慮しているだけかと思っていたスタッフも、あまりに三人が固くキツく止めるから。
遂に根負けして、隆一達に告げる事なくライブは終了したのだった。

後日、久しぶりにイノランは幼馴染に連絡を取った。
そして、顔見せれば良かったのに。と電話口で溢したら、Jは照れくさそうに言ったのだ。


『何の気も遣わせないで、オマエらのライブ観たかったんだよ』



それを聴いて、イノランは。
電話口でもバレないように、声を潜めて笑った。



『…笑ってんだろ、お前』

「あ。わかった?」

『なんか。空気が』

「はははっ」


電話越しにイノランの堪えた笑いに気付いたJは、こっちもバレないようにため息をついた。



「J、ため息」

『っ…!してねーよ』

「ふぅん?」

『(ホント勘のいい奴)ーーー…イノ』

「ナニ?」

『んー…』

「…なんだよ」

『ーーー…こないだのオマエらのライブ観た後な。…スギと真矢君と話したんだけどさ』

「うん」

『ーーーお前と隆は、どう思ってんだ?』

「…どうって、何が…?」

『何がって、分かんねぇ?』

「ーーーー」

『ーーーーーー五人でさ』


また。集まったら。








そんな話をJとしたのが、一年前。
イノランは、隆一にJとの会話の内容を伝えた。

途端に目を見開いて。やがて、溢れるような微笑みを見せた隆一。
言葉は無くとも、その笑顔が隆一の答えだとイノランにはわかった。



五人で会おう。


その約束を五人で交わして、一年。
今や五人それぞれが、様々な活動をしているから。
なかなか五人が揃う事は至難の技で。
一年経った今日。ようやく、その日を迎えたのだったが…。
隆一はこのタイミングで、熱を出してしまった。



「隆が良くなったら、またスケジュール合わせてもいいんだぜ?」



買い物に出た時に、イノランはスギゾーに連絡をとった。
無理をすれば、行くことは可能だが。
メンバーの中には、ソロライブを間近に控えた者もいる。
風邪をおして参加して、感染したりしたらいけない。と、きっと隆一は言うだろう。

かと言って。別日に変えるという提案も、隆一は頷かないだろうなぁ…とイノランは苦笑と共に思った。


今の、この。
同じ方向を向きつつある、五人の熱量。
数年を経て蓄えた、エネルギーと技量。
今このタイミングを、ほんの少しずらしただけで。
また、五人の距離に大きな隙間が出てしまう。

きっと隆一はそう考えて。
頑なになるだろう。


買い物を済ませたイノランは、スギゾーの言葉を隆一に聞かせた。
するとやはり、隆一は首を横に振って。そしてイノランに言った。



「イノラン、行ってきて」

「ーーー…」

「まずは今日。メンバーが集まる事。それが大事だって思う」

「ーーーーうん」

「俺は今日は行けないけど。残念だけどね?ーーーでも、今日があれば、きっと次もあるから」

「そうだな」

「俺の都合で、それを無くすのはダメだ。ーーーだから、イノランは行って?」

「ーーーん。わかった」

「次は俺も一緒に行くね」

「もちろん!」

「ふふっ…」

「隆ちゃんの想いは、俺がわかってるつもりだから。俺が隆ちゃんの分も伝えて来るよ」

「うんっ !」












終わったらまた来るから。
ちゃんと寝てろよ?


気怠げに横になる隆一にそう告げて。
そっと触れるだけのキスをすると、イノランは隆一の家を後にした。






待ち合わせは、都内のバーだ。

春の夜独特の。
冷たさと温さの混じった空気の夜道を、イノランはひとり歩いた。

ゆっくりした所で話したかったから。
照明も、雰囲気も落ち着いた店を選んだ。
木製の厚いドアを押し開けると、ドアベルの心地よい音色が響く。

カウンターの奥の、半分仕切られた席に四人は座って。それぞれ、好きな酒を選ぶ。
注文した物が運ばれて来たところで、四人は乾杯した。



「残念ながら隆は欠席だけど。でも、今日のイノは二人分だから…二倍喋ってもらうってことで。乾杯!」


スギゾーの音頭でグラスを合わせた。

カチリ…と軽やかな音が小さく響く。
イノランはそれを聴いて。
この音を聴けただけで、今夜は大成功だって。そう思えた。



「それで…どうよ?皆んな最近は」


真矢の変わらない。明るさの満ちた一言から、この夜が始まった。
















…………………



そっと鍵を開けて。
なるべく音を立てないように、イノランは玄関に入り込んだ。


出掛けた時と同じ。
廊下とリビングの小さな照明だけが点いた、ほの明るい室内。

イノランは上着を脱いでソファーに掛けると、そのまま寝室へと向かう。
静かに細くドアを開けると、微かな加湿器の音が聴こえた。


ベッドサイドの明かりが、暗闇を照らす。
オレンジ色の灯りが、横になっている隆一の肩にあたって。
目を凝らすと、呼吸に合わせて上下に動いているのが見えて。
それだけの事で、イノランは無償にホッとした。







風呂から出て。
イノランは再び寝室に入ると、ベッドの端にそっと座った。

隆一は、すやすやと良く眠っている。
出掛けの時は浅い呼吸だったのが、今はだいぶ落ち着いている。

手を伸ばして、額に触れた。

水分をたくさん摂っていたから、汗をかいたのかもしれない。
熱々だった額は、いくらか良いようだ。汗ばんだ額に、黒髪がはりついている。
側に置いていたタオルで拭いてやると、隆一が身動いだ。




「隆ちゃん?」



イノランの声掛けに、うっすら開いた目が瞬きをする。



「イノラン…」



掠れた声が弱々しい。
イノランは持っていたタオルで、さらに顔や首を拭いてやる。




「汗かいたな。おかげで熱、少し下がったかも」

「ん…。シャワー浴びたい」

「浴びてくる?」

「ぅん」



隆一の腕を引いて起き上がらせる。
寝間着が汗で湿っている。
これは確かにシャワーを浴びたくなるな…と、イノランは思った。


ふらふらした足取りで浴室に向かった隆一は。五分もすると、またふらふらと出てきた。
でもさっきより、すっきりした様子だ。

イノランは、隆一がシャワーを浴びている間にシーツを取り替えて、冷蔵庫から新しい水を取り出した。
そして隆一が出てくると、ソファーに座らせた。


上体がふらついて頼り無いから、イノランは肩を抱き寄せる。くっつく身体は、やはりもう熱くは感じない。



「途中であんまり喉が痛くて痛み止め飲んだ。そしたら、いっぱい汗かいて楽になった」

「良いタイミングで飲めたんだね。触っても、もう熱々じゃないね」

「うん」

「腹は?空いてない?」

「ヘイキ。ーーー…ね、イノラン」

「ん?」

「今日…皆んな」

「ん、元気だったよ?皆んな、隆ちゃん来れなくて残念がってた」

「…ホント?」

「うん。俺今日は二人分喋ったんだから」

「ふふっ…」

「根掘り葉掘り、アイツら容赦ねぇの」

「え?」

「俺と隆ちゃんのね?愛の軌跡を」

「ええー~っ」

「まぁ、言わねぇけどな。二人だけの秘密だし」

「ぅ…うんっ 」

「で、色々皆んなで喋って…ーーーー。でね」

「うん」

「ーーー次回は、絶対隆も揃って、五人で…って」

「ーーーーーーっ …」



「ーーー次の約束。して来たよ?」



隆一の瞳が、この間の様に大きく開かれて。そのあと、涙と共に溢れる程の微笑みが浮かぶ。

イノランはその微笑みを見て。
うっかり目が潤みそうになってしまった。


終幕したあの日から。
この日を一番に願って止まなかったのは、もしかしたら隆一なのかもしれない。

叶う確証の無い、小さな願いの種を。
隆一はあの日、言葉に乗せて五人の心に植え込んだ。

数年の時の中で、五人それぞれ色んな事があったけれど。それは確かに育っていって。
今回こうして、芽吹く事が出来た。

バラバラの方向を見ていた五人が。
また同じ方向を向いて、視線を合わせた。


そっと、見つからないように願い続けた。
花を咲かせて実を結ぶ日を。





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