長いお話 (ひとつめの連載)












隆一はその日一晩を病院で過ごすと、翌日には退院となった。



退院の時間になってもイノランは現れず、隆一のマネージャーが退院の付き添いをした。
マネージャーには、隆一が転倒による脳震とうで病院に来たという事になっており、どこにも怪我も無く退院出来る事に、安堵しているようだった。


イノランが朝、顔を出さなかった事に。隆一は正直ホッとしていた。



あの後。一人きりの病室で、隆一は心ゆくまで泣き続けた。
こんなに泣いたのはいつ以来だろう…と、思い出せないくらい。
泣いて…泣いて…。途中から泣いてる理由もよくわからなくなってきて、それでも涙は止まらなくて。
いつのまにか泣き疲れて、眠ってしまって。
朝、様子を見に来た医師は。泣きはらした隆一の目を見て驚いて、隆一も真っ赤になった目を鏡で見てびっくりして。医師と2人、顔を見合わせてくすくすと笑った。


気分が、すっきりしていた。


もちろん、まだ心の内は綺麗に整頓はされていないけれど。
昨日までとは違う、真新しい風が。身体の中を吹き抜けていくような。そんな気持ちが、隆一の中に芽生えていた。


病院を後にする時に、医師が言ってくれた。

「君も彼も、素敵だね。大事にし合って、精一杯生きている。…でも、息抜きも忘れずに」

そう言って。ちょっと遠いかもしれないが…。と前置きをして。いつでも困ったら話をしにおいで。と、プライベートの連絡先のメモを隆一に渡した。
医師は間も無く、此処での医師職務を終え。家族と共に海のそばの故郷で開業するのだという。

隆一は再び目元が熱くなるのを感じたけれど、笑顔を見せて医師に礼を言った。そしていつか、イノランと一緒に訪ねに行きます。と、握手をした。














マネージャーと共に自宅に帰り着いた隆一はホッと一息をついて。家の中の雑用をこなした後、もう一度外に出た。
退院したのは朝だったから、今もまだ午前中だ。
近所の並木の遊歩道を、のんびりと歩く。
穏やかな、明るい陽射し。
木漏れ日で、透ける葉が美しい。

隆一はこんなあたたかな陽射しが、とても久しぶりな気がした。

実際はそんな筈はないのだけれど。
きっと心持ちの問題なんだな…と。隆一は空を見上げる。



余裕が無かったのだろう。
考える事ばかりに意識が行って。
もう手が届かなくなってしまいそうな恐怖に、周りが見えなくて。

そのせいで、何より大切な人の目を見る事さえ、おざなりになって。
悲しませてしまった。





「ごめんね…」





イノランの顔を思い浮かべたら。
あんなに泣いたのに。枯れてしまったと思っていた涙が、また溢れてくる。
『泣き虫だな、隆は』
そんな事を言われそうだと思ったら。今度は微笑みが溢れた。


イノランに謝りたいと思った。
もうちょっと、ちゃんと気持ちを整理して。自分で全部、心の中で頷く事が出来たら。
彼に逢いに行く。

そうしたら、その時こそ。
あの言葉が言えそうな気がした。

この数年間、大切にしてきた感覚。
もしかしたら唯一、明るさを含んだものだったかもしれない。
何度も心の中で反芻して、忘れないようにしていた。

水族館のホテルのテラスで感じた、 あの感覚。今こうして思い出すだけで、胸の辺りがほんわかと良い気持ちになる。それは、イノランを好きだと思う時と、似ている気がした。

これは何なのだろう…?

逢いたくて堪らなかった人に、やっと逢える…。ずっと夢見ていたことが、現実になる。…そんな気持ちにも似ている。

…何か、以前の自分達は、約束をしたのだろうか。

それに近ずく度、あの心地良い感覚を、思い出すのだろうか?

散々回り道をしたけれど。この、あたたかなものに手を伸ばせば、今度こそ。何かを掴む事が、出来るのだろうか。










「隆一さん、何か…疲れてません?」



隆一の新曲の制作も大詰めを迎え、連日スタジオに籠っての仕事が続いている。
葉山は機材を弄りながら、視線の先に居る隆一に声を掛けた。
隆一はキョトンとした顔で葉山を見たけれど、次の瞬間には困り顔で笑って言った。



「ごめんね、昨夜も遅くまで作業してたから…寝不足」

「…まだ〆切まで時間あるんですから…無理しないでくださいよ」



葉山はそう言いながら、荷物をゴソゴソ漁って袋を取り出した。ーーー飴がいっぱい詰まっている。



「どうぞ!好きなのいくらでも。疲れたら甘い物って言いますよね」


ニコニコと飴いっぱいの袋を差し出す葉山に、隆一も自然と口元がにっこりしてくる。葉山のルックスに大量の飴というのが妙に似合っているような…
ああっ!ホントにリスみたいなんだ。と、今度は可笑しくなって、隆一はくすくす笑いだした。



「ありがとう葉山君、じゃぁいただくね」


キラリと輝くべっ甲色の飴。
日中の明るい陽射しに翳すと、一段と明るい薄茶色に輝いて、隆一は目を細める。

そして飴の欠片をコロンと口に入れた途端、ハッと気付く。

今の色は、陽の光の中にいる時の、イノランの髪の色だと。



「…………」



あれからもう今日で一週間が経つ。
イノランからは、連絡は何も無い。
向こうもソロ活動が忙しいのかもしれない。…それとも、愛想をつかされたのかもしれない。

本当は。とても会いたかった。
でも隆一はまだ、連絡する事はしなかった。
ここはじっくりと時間をかけるべきと、思ったから。
一人と一人になって、考える時間。


目の前の俺を見ろ、と。
良い時も悪い時も、愛する者の人生に関わって何が悪いのか、と。
イノランは堂々と隆一に言い放った。
今考えると、すごい台詞だと。思い出すだけで、隆一は顔が熱くなる。

そして、泣き崩れる隆一に。立ち去り際にした、優しいキスは。
ごめんな…。と、イノランの精一杯の謝罪と愛情が、込められていた。

好きな相手を想う気持ちは、痛いほどわかる。
でも、何もしてあげられない。
理由はどうあれ、泣かせてしまった。
そんなイノランの想いや葛藤が、あのキスから伝わって。
もしかしたら、あのキスを受けた時点で。隆一の心の中の決着は着いていたのかもしれない。



( 明日、もしイノランが了解してくれるなら。会いに行こうか…)


本当はレコーディングが全て終わったら、会いに行こうと思っていたけれど。


( 今すぐ、会いたくなったよ)


あのキスを思い出したら…。





「あれ⁉イノランさん‼どうしたんですか⁇」


唐突に葉山の驚いた声が響いて。隆一も、えっ?と、声の方を見た。



「よぉ!葉山君、元気⁉ユニットの曲出来てきてる?」

「順調に!」

「さっすが‼楽しみにしてんね」



葉山と軽快なトークを交わすイノランは、窓辺に佇む隆一の方にゆっくりと向いて。


「隆ちゃん、ちょっと付き合ってくれない?」

「え、」


会いたいと思っていた人が、突然現れて。どうにも呆然としてしまう隆一。
ぽかんと口を開けて立ち尽くしていたら葉山が言った。



「行ってきて大丈夫ですよ!ここまで出来てるんで。何パターンかもうちょっとアレンジしておきます。明日チェックしてください。マネージャーにも伝えておくので」

「葉山君ありがとう‼すっごい助かる」

「いえ…。っていうかイノランさん。隆一さん疲れ気味みたいなんで、来てくださって良かったです。どっかで休ませて来て下さい」

「了ー解っ!元気な隆一に戻して帰ってくんね」

「よろしくお願いします!隆一さん、行ってらっしゃい‼」


いつのまにこんな仲良くなったのかと思う程、スラスラと会話が進み。
隆一が口を挟む隙がないまま、葉山に笑顔で送り出されてしまった。
呆気にとられている隆一を、イノランは優しい眼差しで見つめて。



「隆ちゃん行こ?」


手を繋ぐと、駐車場に向かって歩き出した。








「どうぞ」


「ありがとう」



スタジオの地下駐車場に停めてあるイノランの車に乗り込む。
今まで何度も乗ってきたイノランの車。
しかし、車内という狭い空間にいる事が、今は少し、落ち着かなかった。



午後の青空の下。颯爽と車は走り出す。


「葉山君、本当に良い子だね。隆の事ちゃんとフォローしてくれる」

「うん…」


どこか気の無い隆一の返事に、イノランは窓を少しだけ開ける。
車内に涼しい風と、外の音が流れ込んで。隆一はようやく力を抜いた。


「隆ちゃん、少し寝てなよ。疲れてるでしょ?」

「ん…。どこ行くの?」

「…まだ、もう少しかかるから」

「ふぅん…」



行き先を言わないイノランに、隆一も何か思ったが。それ以上は何も言わず、窓の外へ視線を移す。
風に揺られながら景色を見ていると、隆一は次第にうつらうつらと微睡みはじめて。
高速の料金所渋滞で車が止まった時には、隆一はすやすやと寝息を立てていた。

イノランは穏やかな笑みを浮かべると、そっと隆一の髪に触れた。













「りゅう…隆ちゃん…着いたよ」





「ーーーーーー……ん…」



イノランの呼びかけに隆一はゆっくり覚醒すると。しばらく目を瞬かせていたが、ようやくイノランと視線が合った。


「おはよ。よく眠れた?」

「イノラン…ごめんっ。俺、ずっと眠ってた」

「いいよ。よっぽど疲れてたんでしょ?熟睡してたよ」

「うん…。でも、ちょっとスッキリしたかも」

「そっか、良かった」


やっと笑顔を覗かせた隆一にイノランは安堵して。隆一を車の外に連れ出した。



「ここ…何処?」



隆一は辺りを見まわした。
空はすっかり夕方の気配。
林を切り拓かれた岩場の上に車は停まっていて。その先に、木々に囲まれた道が続いている。



「こっち。行くよ」



イノランは左手で隆一の右手を掴むと、手を引いてその道を進んだ。



「イノ…何処に…」


手を繋いだまま、岩と土の道を黙々と歩くイノラン。隆一の問いかけには応えずひたすら前を見据える。



「………」



何も言わないイノランに、隆一も口を噤む。繋いだ手の温かさだけに意識を向けて、隆一も遅れないように足を動かした。
鳥の鳴き声がして、隆一が上を見上げると。木々の隙間から見える空は青空とオレンジ色のグラデーションだ。
陽が落ち始めている。


隆一はそっと、横を歩くイノランの横顔を盗み見た。
とくん…。と、それだけで心が騒めく。



(会いたかったよ?イノラン)



心の中でそう呟くと、繋いだ手にも自然と力が入る。その僅かな変化に、イノランは隆一を方を見た。
一瞬目が合ったら、イノランは柔らかく微笑んでくれた。





「着いたよ」

「!」

「目、閉じて?」

「ど…して?」

「いいから」


言われるまま、隆一は目を閉じる。
イノランに手を引かれ、ゆっくり歩を進める。
閉じた瞼の向こうが、明るくなった気がした。




「いいよ。目、あけて」




「ーーーーーーー……わぁ…っ…」



目を開けた隆一は、感嘆の声をあげた。
その景色に。
隆一の眼前に広がる、オレンジ色。
溢れる、金色の光。

高台の崖の上。
その前には海が広がって。
ーーーーーちょうど太陽が沈む時間。
夕陽が全てのものを、オレンジ色に染めて。
海面は夕陽を受けて、金色にキラキラ輝いていた。



「ーーーすごい……綺麗…」



隆一が心からの言葉を呟くと、イノランは満足そうに笑って、立っていた岩場に腰を下ろした。
そして。ここはとっておきの場所。と言いながら、隆一の手を引いて隣に座らせた。



「綺麗でショ?」


「うんっ…とっても」





会話が途切れる。目の前の光景から目が離せなくて、黙ってしまう。
ーーでもそれだけでもなくて。
きっと二人とも、上手い言葉が見つからないのだ。




「………」

「………」





「イノラン」
「隆」


「え?」

「ん…?」

「同時…。いいよ、イノランから」

「何だよ、隆から言えって」

「え~?」

「早く」

「うー…うん」

「ん。」



じゃれ合いのような会話が、なんだかくすぐったい。お互いがお互いを気遣いながら接しているのが、隣にいてわかる。
優しさを含んだ空気が、充満している。

隆一は恥ずかしい気持ちになってしまって言葉に詰まってしまうけれど。
イノランと会わなかったこの一週間で考えた事、言わなければと思った。



「ごめんね」









柔らかな隆一の声が、イノランに届いた。



「多分俺、色んな事考え過ぎて。余裕がなくなって、なんか…駄々っ子みたいになってた。…選べない…なんて。
そんなの、選ぶまでもないのに」

「………」

「でももちろん、どっちも大事っていう気持ちは変わらないよ?目の前のイノランも、過去のイノランの記憶も。それぞれが大事」

「………」

「ーーーーでも、両方を求めて、足掻くのは…やめた。過去の記憶は、いつか取り戻せたら…って思う事にした。無理しない、焦らない。自然の成り行きに任せる。いっぱい泣いて、イノランの言葉思い出して、先生と話して…午前中の空を見たら。…そう思えたんだ」

「ーーー…」

「ーーー欲しいのは…目の前のイノラン」

「隆…」



見つめてくる隆一の頬は、ほんのり色付いて。夕陽に照らされる表情が、艶やかに微笑む。
それが、あんまりにも綺麗でかわいくて。イノランは急く気持ちを抑えるのに必死だった。



「…あのね、イノラン」

「ん…?」

「俺、ずっと言いたかった事が…あって…」

「…うん」

「…今、それをすごく言いたい。言って…いいかな」


訴えかける声と瞳を向けられて。イノランは小さく頷いて、それを促す。

隆一はコク…とひとつ喉を鳴らすと。
おそらく以前から、ずっとずっと言えずに大事にしてきた言葉を、イノランに今、初めて言った。




「イノランを…愛してる」



「ーーーーーーー」



恥ずかしそうに見上げる隆一は晴れ晴れしていて、言えて嬉しい…という顔をしている。

イノランの両手が隆一を引き寄せて、ぎゅうっと抱きしめた。
隆一の手も、もう離したくないとでも言うように、イノランの背に回されて。

隆一がずっと大事にしてきた、水族館のテラスで感じた、あの感覚が。
閉じ込めていたものが溢れるように流れだして。
止まらない。

愛おしい。大好きで、苦しい位に愛してる。



「隆…覚えててくれたんだ」

「え…?」

「…約束したんだよ?あの日」



〝愛してるって。
いつか隆ちゃんが言いたくなった時、言って欲しいな〟



「初めて隆を抱いた日。その朝に、約束したんだ」

「ーーー…そ…だったん…だ…」

「隆ありがとう、俺も…お前を愛してる」

「ーーーうんっ…」

「ーーーーー…それから…ごめん。俺……隆を、めちゃくちゃ泣かせた」

「ーーー…」

「……本当に…ごめんな」

「っ ……いいのっ …!もう…いいから」

「ーー…ん、」





「ーーーーー……イノラン…」



隆一の瞳が物言いたげに揺らいでいる。じっとイノランを見ていた瞳がそっと伏せられて、イノランはその意味を理解した。





「ん…」

「……っ…」

「…ンっ…ふ…」



隆一の身体が熱を帯びて、縋り付いてくる。欲しがっているのがわかって、イノランは心が震えるようだ。



「隆ちゃん…」

「…なに?」

「今日は…帰んないで欲しい」

「ーーー…イノ」

「一緒にいたい」





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