長いお話 (ひとつめの連載)













連絡を受けたイノランが病院に着いたのは、19時を過ぎた頃だった。
駐車場に車を停めると、慌てて外に出る。外来の出入口はすぐそこだが、入院病棟の入り口はぐるっと半分行った所だ。イノランは小さく舌打ちすると、外周を駆け出した。


まだ面会可能な時間帯だったから、病棟の入り口から入って、指定された診察室を急ぎ足で目指す。
数年前とはいえ、通い続けた病院だ。
イノランは迷う事なく進んで行くと、一時入院の診察室の前で、当時の隆一の主治医が待っていてくれた。




「先生!」




イノランは息を切らして、足早に懐かしい医師の元へ急いだ。
医師の顔を見た途端、安心感からか力が抜けて足が縺れそうになる。



「先生っ…隆がまたお世話に…」

「まあ、まず息を整えて」

「すみません、大丈夫です。…あの、隆は…」

「心配しないで、幸いにも怪我も無い。気を失って倒れたようだ。今は良く眠っているよ。悪かったね、君の方にいきなり連絡してしまって…」

「いえ、いいんです。ありがとうございます……あの…先生」



平静を失くしている様子のイノランを見て、医師は穏やかに微笑む。



「まだ彼は眠っているから、その間にお茶でもどうだい?」

「…ええ、でも」

「良いお茶なんだ。それかコーヒーにするかい?…少し話もしたいしね」


そこまで言われては、断る事も出来ず。それに、話をしたいのはイノランも同じだったから、後ろ髪を引かれつつ、招かれた診察室へと入って行った。


























「…………ん…」




ゆらゆらした、白い天井が隆一の視界に入った。



ここは…?


…見覚えがある気がする。

えっと…何をしていたんだったか…

隆一はぼんやりした頭で考えて、必死に思い出そうとする。




「ーーーー……」


ええと…


「……………」

「ーーー……」

「ーーーーーーー……ぁ…」


( ‼ )



がばっ!と隆一は勢いよく起き上がった。
急速に、何故自分がここに居るのかがわかって、隆一は辺りを見回した。


(ここ、病院だ)

(…そうだ、俺…)


いつの間にか胸の前で重ねた両手が、カタカタと震えている。


(あの場所に行って…それで)


(それで…)


(もの凄く、胸が苦しくなって…)


(苦しくて、気が遠くなって…)


(……俺は…イノランを…)








「起きた?」





背後から突然、声がして。
隆一は驚いて声も出せず、ゆっくりと後ろを振り返った。

上体を起こした隆一からは見えなかったけれど。ベッドヘッドの横の壁に身体を寄り掛からせて、腕組みをして。隆一の方を真顔で見ていたのはイノランだった。



「ーーー…イノラン」



隆一が名前を呼んでも、イノランは表情を変えず、何も言わず。
ただじっと、隆一を見つめている。



「ーーー…っ…」



イノランが怒っていると、隆一は直感で感じとった。
何に対して…なんて事は、わかりきっている。

主治医の言葉を無視して、あの場所に行ってしまった事。

それで、記憶が戻っているならまだしも。隆一には、何の変わりも無くて。

結局。心配と迷惑を掛けるだけの結果になってしまった。


余りの不甲斐無さと、色んな事への絶望感で。隆一は脱力して、涙が滲む。
…でも。謝らなければと思った。




「ごめんなさいっ…イノラン」


「………」

「ごめんなさい…」

「………」

「あの…俺」

「…それさ」

「っ …」

「ーーー何に対して、謝ってんの?」

「……ぇ…?」




イノランの声が、聞いたことが無いくらい、張りつめていて。酷く静かな声なのに、恐ろしく鋭い。

隆一は身を竦ませるけれど、それでも言った。



「……俺が、先生の言うこと…聞かないで。イノランにも…いっぱい迷惑かけて、それで…」



「違うだろ」



隆一が言い終わる前に、イノランの声が言葉を塞ぐ。
その威圧感に、隆一は言葉を紡げなくなってしまった。










「そうじゃない」



「ーーー…」


「隆がそうしたいと思ってした事なら、すればいい。心配はするけど、俺は止めない。」

「……っ」

「そうじゃなくてさ。ーーー…何で」

「ーーーーー」

「何で俺に、言わないの?ーーー何で、頼ってくんないの?」

「っ…イ…」

「俺じゃ役不足か?」

「違…っ違うよっ …」



隆一は首を振って否定の言葉を言うけれど、声は震えてしまって伝えたい事が上手く言えず。

その様子を、イノランは笑みひとつ含まない瞳で見続けている。



「…イノランにいっつも頼ってばっかりで、そんなの駄目だって思ったんだっ…」



「何で?」

「ーーーー…っ …」

「頼って、何が悪いの?」

「ーーー…だっ …て…」


「ーーー…こんな、何が起こるかわかんなかった…もしかしたら、もっと危険な目に遭ってたかもしれない。…そんな時でも頼るのは間違いって?ひとりで全部抱えて、俺には相談も無し?」



「……イノっ …」


「何でもかんでも甘えきって、依存し合ってる訳じゃないだろ。…でも、不安定な時とか、揺らいでる時に、支えたい、支えて欲しいって…それは思って当然で、必要なもんじゃないの?」


「……っ …」


「良い時も悪い時もさ。愛してるヤツの人生に関わりたいって思うのって…駄目な事か?」



「っ …ち…がっ …」


潤み始めた隆一の目からは、いつしか涙が溢れ落ちる。
イノランの揺るぎない言葉が、隆一の脆い部分に、突き刺さる。



「イノランにも…皆んな…にも。迷惑…かけちゃうっ …だから、早くって……それにっ …」

「…………」

「イノランの事、早く全部を、取り戻したいって…俺が…思ってっ…」




隆一が必死に心の内を溢す様子を。イノランは静かに見つめる。
そして、一瞬目を伏せて小さくため息をつくと。背を預けていた壁から離れて、隆一の傍らに歩み寄った。




「隆…」


「…っ」


「…隆……あのさ…」


「……なに…?」



イノランが逡巡している気配に気付いて、隆一は顔を上げる。
反動で涙が散ったけれど、頓着せず2人はしばらく見つめ合って。

そしてイノランが、口を開いた。




「もう、いいよ」


「ーーー…」


「もう、止めよう?隆一」


「ぇ…?」


「思い出そうとするのは…もう…」


「ーーー…っ …」


「もう…止めよう」




イノランの静かな声に。
言葉を失くして、ただ呆然とする隆一。ひと時も動かずに見つめ合う2人の間で、隆一の涙だけがはらはらと落ちて。
あの雨の日の、誓い合ったお互いの姿が。美しかった雨粒に滲むように、消えていった。







「なんで…なんでそんな事…っ …言うの?」


隆一の、絞り出すような悲痛な声が、病室に響く。
その声に心が揺らぎそうになるも、イノランは隆一から視線を離さない。


「ここ最近…つか。…多分、この数年間、隆を見てて。記憶の事で必死になってくれて、嬉しいって思う気持ちはもちろんあるけど。…でも…それ以上に、辛い。俺から見た隆も、俺自身も」


「ーーーーーー」


「俺に出来る事って何かって…考えた。でも俺には…支えるとか、話を聞いてあげるとか、結局サポートしか出来ない。きっと、隆の本当の痛みは…わかってやれない。」


「………」


「だから。俺の関わる事で隆が悩んで、辛い思いしてるなら…。俺の言葉で、終わらせる。それしか出来ない。
ーーーこのままの状態が続いて、良いはずない」



ガクガクと隆一の身体が震えて、止まらない。
シーツの端をぎゅっと握りしめて、噛み締めた唇は、血が滲みそうだ。
イノランはすぐにでも抱きしめてあげたい気持ちを、今はぐっと抑えて。

追い討ちのような言葉を放った。



「隆が欲しいのは、目の前の俺?…それとも、過去の記憶の俺?」




「ーーーーーーー…っ っ …」




重なっていた隆一の瞳が、信じられないものを見るように。
溢れ続ける涙とともに、見開かれた。













「イノランっ…それ…本気で?」


「こんな事、半端な気持ちで言うわけないだろ」


「ーーーーーっ …じゃあ、何でっ ?俺はイノランのためなら、イノランの事思い出せるなら、何だって耐えられるよ!」


「ーーー…っ 」


「俺が迷惑掛けてるなら、これからはもっと気をつける。イノランにちゃんと相談して、勝手に危険な事はしない。ーーーだから」


「いい加減分かれよっ」


「っっ …‼」


「俺の気持ち…全部言わなきゃ分かんないの⁉」


「っ …」


「ーーーっ…目の前の、俺を見ろよ 」




こんなイノラン初めて見て。こんなに声を荒げて心を露呈して、泣きそうに、切なげに瞳を歪めて。

そして、そんな顔をさせてしまったと、隆一は自責の念にも駆られて。
イノランの言葉も。
上手く立ち回れない自身にも。
何もかもが。

悲しくて。
悲しくて…。






「分かんないよ…。〝止めよう〟なんて言うイノランの気持ちなんか。ーーーーー俺には選べない。だって、どっちも大事だもん!」


「ーーーーー」


「イノランを、初めて好きだって思った気持ちとか。イノランの作ってきた曲に、込めた想いとか。初めて、触れた事…とか。出逢ってからの…長い日々を、失くしたままにするなんて。ーーーーーそんなの嫌だっ 」


「りゅう…っ …」


「ーーーーーお願い…。もう…迷惑掛けないから…だから。〝止めよう〟なんて…言わないでよ」


「ーーーーー」


「イノラン…」



縋る隆一の瞳に、流されそうになる。

けれど、ここで変えなければ、きっと何も変わらない。
隆一は囚われたまま、人知れず。揺るがない信念でこれからの日々を過ごすのだろう。
そしてイノランは、それによって歪みそうになる隆一への想いを、いつか抱いてしまいそうで、恐ろしかった。
それほど隆一を、愛していた。



視線を繋いだまま、イノランは首を振る。隆一の瞳が、それを理解して。
悲しみに歪んだ。






「もう、止めて欲しい」





「ーーーーーー…っ…」




「過去と、さよならしよう」





「…っ …ぅ…くっ…」



隆一の堪えられない嗚咽が溢れて、イノランの心は激しく波立って。
そして、涙混じりの、感情を精一杯抑え込んだ隆一の声が、耳に届く。





「出てって…」


「ーーーーー」


「今は…ひとりにして…」





イノランはしばらく隆一を見つめる。俯いた顔と震える肩が、これ以上の介入を許さないと言っているようで。
今は何も言わず立ち去ろうとする、けれど。
もう一度隆一の方を見ると、そっと泣き濡れる頬に左手を添えた。
隆一の潤みきった瞳がイノランを捉えて、視線が重なる。




「でも…隆ちゃん」


「……」


「…無事で、良かった」



そう、呟いた声は優しくて。
微かな笑みを乗せて。

イノランは想いを込めて、触れるだけの、キスをして。




名残惜しげに、静かに病室を出て行った。






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