長いお話 (ひとつめの連載)












ルナシーが終幕して。




あの風の夜の事故があって。




そして。


雨の日の水族館から…

数年。







隆一は依然、失くした記憶が戻る事なく。
今日まで来てしまった。

決して、記憶を取り戻す事を、諦めたわけではない。
この数年、隆一とて。
手探りの中、様々な努力を重ねてきたのだ。


関連の専門書を読んだり。当時の主治医を訪ねて、話を聞いたり。
初心に還って、ルナシー結成当時から終幕に至るまでの。主にイノランに関する膨大な資料に目を通したり…。

そして何より。

水族館のホテルのテラスで感じた、あの不思議な感覚が。
数年経った今でも忘れられなかった。
きっとあれは、重要な手掛かりになるのだと、そう思えて。
忘れないように、何度も心の中で反芻した。




それでも、未だに願いは叶わず。
月日が、過ぎていった。





あの日から、イノランと隆一は。
変わらずに共に在った。

勿論、別々のソロワークを持つのだから、逢えない日々が続く事だってある。

それでも、2人の心は離れる事は無く。
常にお互いを想って、案じて。
寧ろ重ねた年月の分、その愛情は、深くなっていった。


隆一が、人知れず記憶を取り戻す為に奔走している姿を見ると。
イノランはいつも困ったように微笑んで〝無理するな〟〝気にするな〟と隆一に言った。


そんな時、隆一はいつも頷くけれど。
イノランの懇願が、叶えられた事はない。




取り戻したかった。
世界で一番愛しい人の事を。
初めて出逢ってから、一緒に過ごした、長い長い日々の事を。
イノランが生み出した、一曲一曲に込められた想いを。
彼を想い、愛し愛された。以前の記憶を。


隆一には、それを想像すればするほど。大切なものに思えてならなくて。

諦めるなんて、出来なかった。




しかし。

失くした記憶を取り戻すなど、一体どうしたらいいのか。
具体的な方法があるのか。

そもそも、何故こんな事になってしまったのか。

そして時が経てば経つ程、もう取り戻せないのでは…と。そんな事も頭を過ぎってしまう。


解らない事ばかりが、隆一を襲って。
努力だけではどうにもならない現実に、もどかしさと焦りが募っていった。











「隆ちゃん…」

「…っ」

「また、色々考えてんの?」



カフェの向かい側の席で、ティーカップを持ったまま、ぼんやり窓の外に視線を飛ばした隆一に。
イノランは気遣うような面持ちで、ため息をつく。

隆一はハッとして、慌ててイノランに視線を向けた。



「…ごめん」




今日は、久し振りに休みが重なった貴重な逢瀬だった。
デートに行こうと言って、朝から2人で遊びに出た。
海岸や観覧車、買い物を楽しんで。
そして、ひと休みに入ったカフェ。


今日一日、隆一はずっと楽しそうで、嬉しそうだった。
音楽の話で盛り上がっては、溢れるような笑顔を見せて。
イノランが手を繋ぐと、はにかんで握り返して。
人目を避けて、唇を重ねると。
頬を染めて、愛の言葉を溢した。


でも。
ふとした瞬間。
心ここに在らず。…そんな遠い目をしている事を、イノランは知っていた。

それは今日に限った事では無くて。
思い返すと、多分。

あの、数年前の。水族館に行った時からだと、イノランは思っていた。








「謝らなくていいんだよ」

「……うん」

「ーーー…でも隆ちゃん…」

「…ん?」

「せっかくさ、デートしてんだから」

「…ん」

「隆ちゃんが、色んな事考えて、どうしたらいいか…って思ってくれてるって、ちゃんとわかってる」

「……」

「…でも、今は。目の前の俺を、見て欲しいな」



切なげな目と、何処と無く寂しそうな声で、イノランは隆一を真っ直ぐに見て言った。

隆一は、ぎゅっと胸が掴まれたみたいに痛んで。
自分の行動を悔やんだ。


イノランに、こんな顔させたくなんかないのに。
それなのに、特にここ最近、隆一は自覚があった。
隆一があれこれ奔走して、思考の奥に入り込んでいる間。


イノランの気持ちを、置き去りにしてしまっている事を。











「ごめんなさい…」

「だから、謝るなって」

「…だって」

「悪い事、してるんじゃないでしょ?」

「……ん」




「…泣かせたい訳でもないよ」



言われて、いつの間にか。
頬を濡らしている事に気が付いた。

隆一は袖口でゴシゴシと目元を拭うと、イノランの手が伸びて。その腕を掴むと、レジの方へグイグイと引っ張った。
イノランは会計を済ますと、また隆一の腕を乱暴に掴んで、夕暮れ時の外に出た。




「イノラっ…」




グイグイ腕を引いて、イノランはずんずんと進む。
何も言わずに歩くイノランが、怒っているように感じて。
怖さからなのか、悲しさからなのか、よく解らないけれど。
隆一は、また涙が零れだす。


イノランは、人通りの少ない横道に入ると。さらに狭い、店舗の隙間の通路の壁に、隆一を押し付けた。

薄暗い屋外で、壁に肩を押さえ付けられて。イノラン相手に初めて、身を竦ませる。
涙が止まらなくて、ポロポロと落ちていく。
上手く言葉も出せなくて、唇を噛みしめていたら。


隆一に降って来たのは、叩かれる手でもなく。罵倒や非難の声でもなく。


優しい、抱擁だった。









「俺、どうすればいい?」

「ーー……ぇ…?」

「隆ちゃんのために、何ができる?」

「ーーーーー……っ」

「…記憶の事は、隆ちゃんだけの所為じゃないじゃん。俺だって、関わってる。…ひとりで…抱え込むなよ」

「……っ…」



抱擁を緩めて、イノランの左手が隆一の頬を包み込む。
涙で赤くなった隆一の目を、じっと見つめて。もう片方の指先で溢れた涙を、拭っていく。



「…隆…」



イノランは言いかけて。
口を噤んだ。



「ーーー……」



この数年、イノランも考えていた。



時折、思い詰めた様子で駆けずり回る、隆一を見て。
今日の様に、遠い目で思考の奥に入り込む、隆一を見て。

隆一が。
今、目の前にいる自分を、見ていない気がした。

隆一が奔走する理由は、イノランなのに。実際のイノランが、置き去りになる瞬間。
どうしようもなく、寂しかった。


そして、イノランはいつからか。
思うようになってしまった。


思い出す必要があるのか。…と。


こんな事、思ってはいけない事なのだと思う。
数年前の雨の水族館で、隆一が言った事。

絶対に思い出すから待っていて。と。

それにイノランは、いつまでも待つと。隆一と約束をした。


思い出す必要があるのか。
近頃のこの思いが、約束を反故するものだと、自覚もある。



どんなに理解しようとしても、当事者である隆一の気持ちを、100%わかろうなんて無理だって。それもわかっている。

奔走する隆一の想いの根源が、イノランを愛するが故のものだという事も、わかっている。





それでも。
悲しかった。
寂しかった。

どうにもしてあげられない自分が。
もどかしくて、苛だたしかった。









ぐっと、言葉を飲み込んで。
イノランは、涙を拭いていた指先を。
隆一の唇に、そっと這わせて。



「キスしていい?」




「ーーーーー…うん…っ…」



頷いた隆一が目を閉じ切る前に、唇が重なった。
イノランは性急に舌を絡ませて、深く深く求めていく。



「…っん…ン…っ」



「っ…りゅう…」



「…っ …ふっ…ぅ…」



「ーーー…」

「ぅっ…く…」






「…なんで泣くのっ…」




重ねた唇の隙間から、隆一の堪え切れない嗚咽が溢れて。
イノランは堪らない気持ちになって、力いっぱい隆一を抱きしめた。



「隆ちゃんっ…」



ぎゅうぎゅうと、泣き暮れる隆一を抱くと。首を振って、しゃくり上げながらも、声を発した。



「ーーーっ…ンっ…き…」

「っ…」



「イノ…っ…好…」





「隆ちゃん…っ」





〝イノランが好きだから〟




隆一の心にあるのは、それだけで。
その心ひとつが、隆一を突き動かしていた。











月明かりの寝室で、イノランは隆一の寝顔を眺めていた。







あの後。
呼吸が乱れる程泣き崩れた隆一を、イノランは自宅に連れて行った。
帰路の車中でもずっと泣いていた隆一は、着く頃には鼻をぐすぐすさせて、ぼんやりして。
イノランに手を引かれるまま、一緒にシャワーを済ませ、雪崩れ込むようにベッドに沈んだ。


これから抱かれようとする、隆一の濡れた瞳と赤く染めた頬を見下ろしたら。

隆一への庇護欲と愛情が、膨れ上がって。
想いをぶつける様に、イノランは激しく隆一を抱いた。





真夜中に、意識を飛ばして。
ぐっすりと眠ってしまった隆一を、イノランは優しく抱き寄せる。



痛々しいくらいに、目元を赤く泣きはらして。
抱き合う間、喘ぎ混じりに何度も隆一が溢した言葉を、イノランはぽつりと呟いた。





「好きだから…か」



好きだから、苦しい程足掻く。
どんなに小さな事でも、失くしたくなくて。
失くしたら、見つけて掬い上げたいと願う。


でもそれは、イノランだって同じだ。



「好きって言葉だけじゃ、おさまんないよな」



素肌の上に月明かりが反射して、隆一が薄水色に淡く光って見える。
イノランは誘われるように、隆一の前髪を梳いて。その額に唇を寄せる。




どうするのが一番良いのか。
答えは出ない。

でも。

離してはいけない。
離したくない。

それだけは確かな答えだと確信できて。
何度も言う言葉では無いと思っているけれど、言わずにいられなくて。
唇にキスをして。
眠る隆一を抱きしめて、囁いた。





「愛してる」




















……………………



「初めまして、葉山拓亮です」

「こちらこそ初めまして。イノランです。隆から色々聞いて、楽しみにしてました!」





ユニットの話が持ち上がり。
隆一とイノランと、そして葉山と。
多忙な3人のスケジュールを合わせるのは、なかなか大変だったが。
晴れて今夜、3人揃って顔合わせの会食となった。


「あれ?なんか2人共緊張してる?ほら…今日はせっかくのご飯なんだからさ、リラックスしてね!」


ずっとにこにこと、嬉しそうに顔を綻ばせる隆一に、イノランは肘を突つく。



「ちょっと隆ちゃん、俺らの共通の知り合いって隆ちゃんだけなんだから。進めて進めて」

「あ、そっか!そうだよね。えっと…じゃあ葉山っち、こちらイノランね。ルナシーでギター弾いてたんだけど…知ってるよね?」

「当たり前ですっ ‼ 今更なに言ってんですか!」

「隆ちゃん…。そーゆう事じゃなくてね…」

「え~??じゃあ…イノランについては割愛して…」

「ひっど…」

「じゃ、葉山君ね。たまたまゴルフで知り合って、俺のソロでピアノを弾いてくれて、もっと一緒に音楽やりたいなって思って、今回メンバーとして白羽の矢が立った訳ですが…」



「お待たせ致しました、ご注文のお飲み物です!」


「ありがとうございまーす‼お料理の注文もいいですか?えっとねぇ…」



「………」

「………」



紹介そっちのけで、店員と楽しそうに注文のやりとりをする隆一に、葉山は向かいのイノランにコソ…と耳打ちした。


「あの…隆一さんって、昔っからこんな感じなんですか?」

「そう…なんかね。ルナシーの曲作りの時とかさ、すっげぇギスギスする訳よ。地獄のように」

「はぁ…。」

「でも隆ちゃんはお構い無しなの。Jとスギゾーが冷戦状態の時でも、ニコニコしてオヤツ差し出すようなヤツだよ」

「…最強ですね」

「レコーディング漬けでさ。もぅ皆んな何日もロクに寝てねぇドロドロの時もね?隆ちゃんサーフィン行くんだよ。徹夜明けとかに!『あ。今日はいい波来る、ちょっと行ってくんね~』とか言って‼信じられる⁇」

「…タフですね」

「んで、戻ってくると、超キラッキラしてんの。」

「……で、歌入れとかを?」

「そう。…でも、すっげー綺麗な声で歌うんだよ。…隆ちゃんってさ、なんか色んなモノ味方に付けて歌ってる感じがするんだよね」

「…味方?」

「うん。…空気とか水とか、光とか。そうゆうの、身体ん中にいっぱいためて、マイクの前に立つんだと思う。第一声で、意識全部持っていかれる。…楽器隊は、いつもそうだったよ」



ふと、2人が横を見ると。
隆一がじっと会話を聴いていて。そして、悪戯っぽく微笑んだ。



「2人が打ち解けたみたいで良かったぁ」



隆一に言われて、イノランと葉山は顔を見合わせる。
なんだか、まんまと隆一の思惑にはまったようで。可笑しくなって、2人は声を上げて笑った。







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